獣の友達
淺羽一
〈掌編小説〉獣の友達
森があった。緑の葉の茂る木がたくさんあって、一つ一つ形や味の違ういくつもの果実があって、いろんな種類の柔らかい草もあった。季節が変わるたびに甘い花、鮮やかな花、穏やかな花、そしてまた真っ白い雪の華が咲きもした。
生き物もいた。地を駆けたり、空を飛んだり、土に潜ったり、木に登ったり、中にはずっと枝からぶら下がったままでいるものもいた。
そこで暮らす動物や虫たちは、昔から変わることなく、森に生まれてはやがて次の命をはぐくむ糧となり、森の一部へと戻っていった。
平和だった。綺麗に晴れた日は青く広がる空の下で森全体が緑に光り、曇って風の強い日は無数の木の葉が一斉に歌う合唱が響き、冷たい雨の日は森に生きるもの同士が身を寄せ合って眠る姿を見ることが出来た。
しかし、そんな穏やかな世界でも、いや、そんな世界だからこそ、うまくとけ込めずにいるものもいた。
その獣はいつも一匹でいた。真っ黒い毛むくじゃらの体に乱暴そうな四肢の爪。剛毛に埋もれてしまって簡単に消えてしまう小さな目と対照的に、不揃いの牙が並ぶ口は顔の半分くらいを占めるほどに大きかった。
獣は、本当は寂しかった。だから、何とか森の皆と仲良くしたいと考えていた。だが、獣の力はとても強くて、ちょっとした仕草ですら小さな動物たちの恐怖を誘い、またいつでも風邪を引いているみたいにしわがれて聞き取りづらい声は、ただの挨拶や呼びかけでさえ威嚇しているようにしか思われなかった。
ある日も、獣は森の外れで集まって笑っている動物たちを見つけた。獣はしばらく、木陰からその様子を覗いていたが、やがて意を決して声をかけた。
「……お、俺も、一緒に話して良いか」
だが、ただでさえ恐ろしげな重低音は、さらに緊張のせいで変に震えていて。それを聞いた動物たちは、一瞬だけ顔を見合わせたと思ったら、一目散に逃げていった。呆然と残された獣が「待ってくれ」と言う暇さえなかった。
しばらくの間、そこで立ちつくしていた獣は、やがて諦めたのか肩を落として歩き出した。空は良い天気なのに、獣は薄暗い地面ばかりを見つめていた。
と、苛立ちを誤魔化すように、獣が近くにあった木の幹を叩いた。
直後、激しい勢いで揺らされた枝から、小さなリスがぽとりと草の上に落ちてきた。
まさか、そんなところに誰かがいるなんて思っていなかった獣が、驚いて駆け寄ろうとすると、リスは悲鳴を上げながら慌てて森の奥へと消えていった。「助けて、助けて。またあいつに乱暴されたよ」
獣はもう、悲しむどころか笑うしかなかった。なんて間抜けなんだろうと、情けない自分が惨めすぎて、口から勝手に声が漏れた。
すると、森のあちらこちらからひそひそと会話が聞こえてきた。
「ほら、またあいつが誰かをいじめていたよ」
「それなのに、あんなに嬉しそうに笑っているよ」
「なんて酷い奴だろう」
「早く森から出て行ってくれないかなぁ」
……獣は足早に歩き続けた。
気が付くと、獣は森の外まで来てしまっていた。傍に川があって、獣はそこに架かる橋の上に立った。
ぼんやりと欄干から顔を出して、さらさらと流れていく水を見つめた。川面は明るい陽光を受けて、きらきらと輝いていた。
その時だった。獣は目を丸くした。いつからいたのか、まるで見慣れぬ動物がじっと獣を見つめていた。
獣は、急いで声をかけようとした。だが、口をぱくぱくと開閉させるばかりで、何も言えなかった。また逃げられたらどうしようかと、不安だった。
しかし、その彼は一向に逃げる気配を見せなかった。それどころか、ゆらゆらとした水の中で大きな口を開けて、まるで楽しげに笑っているようにさえ見えた。
「あ、あの」
獣がようやく声を発した。
果たして、彼は逃げなかった。
獣は嬉しくなって、さらに言葉を紡いだ。おずおずと、期待する風に。
魚とも蛙とも虫とも違う、不思議な彼は、そうやって語られる話をずっと黙って聞いていた。
獣は、時間が経つのも忘れて彼に喋りかけていた。彼は何も言わなかったけれど、それでも楽しげに聞いてくれていた。
いつしか太陽も空から降りてきて、辺りはだんだんと暗くなってきた。すると、彼もまた帰る時間を思い出したみたいに、色をなくしつつある川底に消えていこうとした。
獣は呼び止めようとしたが、叶わなかった。だから獣は代わりに、最後に大きな声でこう尋ねた。
「俺と、友達に、俺と友達になってくれるか」
風が吹いた。彼はやっぱり何も答えなかった。しかし、最後にその顔に浮かんでいた表情は、確かに笑っているように見えた。
やがて日が完全に暮れて、橋の上を滑っていく風も幾分か冷たいものへと変わってしまっても、獣は長い間そこから動こうとしなかった。
生まれて初めて出来た友達の顔を、ずっと思い返しているみたいな獣の顔は、とても満足そうなものだった。
そうして、次の日も、またその次の日も、毎日欠かすことなく、獣は日が昇ると同時に橋に行って彼と過ごした。獣が会いに行くたびに、彼はそこに現れてくれた。相変わらず彼から話しかけてくれる事は無かったものの、獣にとっては十分に幸せだった。
そんなある日、久しぶりに森に激しい雨が降った。それでも獣は川に行った。だが、普段と比べものにならないほど激しくなった流れの中に、彼の姿を見つけることは出来ず。結局、その日は彼に会えないまま、獣は濁流に揺れる橋の上でひたすら体を濡らしていた。
翌日は、昨夜の豪雨が嘘みたいに快晴だった。
獣は目を覚ますと、すぐさま川へと駆けていった。
そして、驚いた。昨日まであんなに澄んでいた水の色が、一転して赤茶けた泥で染まっていたからだ。
ただ、それでも彼は、そこにいた。不安そうに欄干から顔を出した獣に向かって、彼はずいぶんと汚れてしまった自身の姿に悲しむ様子を見せることもせず、穏やかに微笑んでくれていた。
獣は思った。川が住処である彼にとって、そこが濁ってしまうのは、きっと辛いことだろうと。そして何より、そんな時でさえ己の為に笑ってくれる友の姿に、心を打たれた。
「今度は、俺がお前を助けてやる」
そう言うやいなや、獣は橋から川辺へと下り、さらにそのまま水の中に入った。泥でぬかるんだ足下の不快さと、想像以上に冷たかった水温に、思わず身を震わせてしまいながらも、獣は「よし」と気合いを入れて掃除に取りかかった。目指すのは、外からでも川底に転がる小石の色さえ確かめられそうな、美しく透明な川だった。
水中をさらい、汚い泥を捨て、雨で流されてきたのか辺りに散らばっていた幾つものゴミも一つ残らず拾っていく。時に滑って転び、頭から冷たい水をかぶり、硬い金属のゴミに爪を痛めてしまっても、獣は諦めることなく延々と川の清掃を続けた。
たった一日で終えるなんて到底無理だった。獣は次の日も朝から川に入って泥をすくった。その次の日も夜になるまで重たいゴミを力一杯に引き上げた。さらにその次の次の日も綺麗な水になるようにと一日中を川で過ごした。
そんな獣の働きを、じっと眺めているものがいた。森の動物たちだった。
動物たちは、少しずつ、しかし着実に美しくなっていく川の様子に、驚いていた。それ以上に、それが他の誰でもなく獣の頑張りの成果であることに、驚いていた。
最初の頃は、誰もが、どうせまた獣が何か悪戯を思いついただけだろうと考えていた。そうでなければ、腹を空かして魚を捕ろうとしているのだろうと決めつけていた。だが、徐々に、川の色が澄んでいくに従って、本当に少しずつではあったものの、そんな動物たちの中からもそれまでの先入観が取り払われていった。
もしかして、獣は本当に川を綺麗にしようとしているのだろうか。いやいや、どうせきっと何かあくどい仕掛けでも作っているだけだ。だけど、あんなに必死になって泣き言も言わずに体を動かしているぞ。それが罠なんだよ、気を許して近付けば食われるぞ。でも、獣は食事をする暇さえ惜しんでひたすら掃除をしているぞ……。
獣は毎日毎日、川に来た。森の動物たちも毎日毎日、川を窺った。
助けようと、手をさしのべるものはいなかった。馬鹿馬鹿しいと背を向けるものもいつしかいなくなっていた。
そうして日々は過ぎた。綺麗に晴れた日も、曇って風の強い日も、冷たい雨の日も、獣と森の動物たちはそこにいた。
遂に、川がかつての、いや、それまで誰も見たこともないくらいの美しさを取り戻す日がやってきた。川底の模様まで簡単に見通せるほどに澄んだ水は、不思議と良い香りがして、風が吹くたびに明るい太陽をちりばめられたみたいに金色に光っていた。
嬉しそうに元気よく泳ぐ魚の脇を通り、獣は意気揚々と橋へ向かった。
彼に会うのは久しぶりだった。どんな顔をしてくれているのだろうと、獣は胸を躍らせた。喜んでくれていたらいいな、いや、きっと喜んでくれているはずだと、橋に一歩近付くたびに、期待は確信へと変わっていった。
その時だった。突然、不躾な音が響き、大きな何かが真っ黒い煙を吐きながら走ってきた。
獣は足を止めて、様子を窺った。少し離れた場所で停まったそれは、濁った煙をそのままに、続いて数人の人間を吐き出した。
人間たちは、僅かな間、美しい川の姿を楽しむように辺りを眺めた後、急に周囲を確かめる風にきょろきょろと顔を回らせて、それから自分たちが乗ってきた乗り物から幾つもの荷物を下ろし始めた。ゴミだった。
壊れた機械、変色したゴム、どす黒くさびた金属、所々が色あせたりはげたりしたビニール、腐っているのか遠目でも害だと分かる鈍色の液体、他にも数え切れないくらいのゴミが、次から次へと下ろされ、そして――
気付いたときにはもう、獣は飛び出していた。
今まさに、ゴミを平然と川の中へ投げ込もうとしていた人間は、いきなり襲いかかってきた獣に度肝を抜かれたみたいだった。
しかし、人間は逃げ出さなかった。
こんな状況に慣れているのか、素早くゴミを草の上に置いた人間たちは、すぐさま代わりに細長い筒状のものを取り出した。
「危ないっ」と叫んだのは、森の動物たちの中にいた一羽の鳥だった。直後に、乾いた銃声が森の木々を揺らして消えた。
無数の鉛の雨を浴びて、獣は空気の壁に激突でもしたみたいに大きく大きく弾き飛ばされた。雨は鮮やかな紅に色を変えて、緑の草に斑を描いた。
森の中にいた誰もが恐怖した。そして同時に、憤った。それはまるで、大切な家族を傷つけられたかのごとく。
だが、そんな感情はすぐさま別のものに取って代わられた。喜びと、安堵だ。
獣は、ふらつきながらも、しっかりと立ち上がった。
動物たちは皆、早く逃げなければと思った。急いでこの場を離れれば、人間がわざわざ森の中にまで追ってくることもない。
しかし、それなのに、動物たちはただの一匹として、逃げ出そうとしなかった。
獣が、立っているだけですらやっとという感じの傷を負いながら、それでも再び人間へと向かって進み始めていた。
動物たちは見た。真っ黒い毛を逆立てて、小さな目を怒りで彩って、剥き出しの牙で威嚇するように一歩、また一歩と、獣が人間の方へと近付いていく。
またしても、人間が筒を構えた。躊躇なく、無慈悲な銃声が響き渡る。
獣は目に見えない巨大な槌で思い切り横腹を殴られたみたいに、呆気なく宙を舞った。しかし、すぐさま立ち上がり、また前を睨む。血の混じった涎をうなり声と共に吐き出して、爪を地面に食い込ませる。
明らかに、人間たちは動揺していた。いっそ怯えているとさえ言えそうな気配が、森の中にまで伝わってきた。ただ、それでも人間たちは逃げることなく、三度、まだうっすらと煙の立ち上っている筒の先端を獣へと向けた。獣はやはり、一瞬たりとも足を止めようとしなかった。
最初に森から飛び出したのは、動物たちの中でも特に小さくて臆病なはずのリスだった。
「止めろっ、止めろっ」と、手に持っていた木の実を投げながら、リスは人間たちへと懸命に向かっていった。きっと恐ろしいのだろう、つぶらな瞳からは涙が溢れていたが、リスは小柄な体に似合わぬ声を張り上げて、己よりも何倍も巨大な人間へと駆けていった。
驚いたのは、獣の方だった。突如として現れた小さな味方に、彼はほんの刹那だけ、怒りを忘れて目を見開いた。そして、「助けに来てくれたんだ」と理解した途端、傷だらけの体に収まりきらないほどの勇気が湧いてくるのを実感した。
獣が吼えた、力強く。すると、どうだろう、森の中にいた他の動物たちまでもが、一斉に叫び声を上げながら飛び出してきた。あるものは地を蹴り、あるものは空を滑り、あるものは土煙を巻き起こし、あるものは高い枝から飛び降り、身動きのとれない幼い子供までもが応援に喉を震わせた。混乱したのか、人間が危うい表情で筒の先を行ったり来たりさせても、背を向ける動物はいなかった。
遂に悲鳴を上げたのは、凶器を構えていたはずの人間だった。
人間は持っていた筒を放り出すと、我先にと乗り物へ飛びついた。そうして最早、ろくに周囲を確かめることもしないまま、真っ黒い煙を勢いよく吐き出させて振り返りもせずに逃げていった。
獣を含めた動物たちは、あっという間に彼方へと消えていった人間たちを、しばらく無言で睨み付けていた。そして、完全に人間たちが去ったのだと理解すると同時に、誰からともなく歓声を上げた。
誰かが獣に言った。「お前は凄いなっ」
誰かが獣に言った。「早く傷の手当てをしないと」
誰もが口々に獣に声をかけた。
「お前が川を守ったんだ」
「格好良かったぞ」
「大丈夫か」
「怖かったなぁ」
「今までごめんな」
獣は何故だか泣きそうになりながらも、満面の笑みを浮かべて言った。「ありがとう」と。言葉は、とても自然に口から生まれた。
それから獣は、歩き出した。
全員が驚いて止めようとした。
「もう動くな、俺たちが運んでやるから」
「ゴミなら、みんなで片づけてやるから」
しかし獣は立ち止まることなく、首を横に振った。「ありがとう。でも、俺は行かないと」
獣は知っていた。自身の体に深く刻まれた傷は、もう間もなく命の糸まで達するだろうと。そうすれば、心と体を繋ぐしなやかながらも儚い糸は、とても容易く切れてしまうだろうと。
だから獣は最期に一目、どうしても友の顔を見たかった。自らが命を賭してまで守り抜こうとした友情の価値を確かめたかった。
もう誰も、獣を止めようとはしなかった。獣は、左右に並んだ動物たちに見守られて、ゆっくりと己の足で橋の上へと歩いていった。
風はいつしか止んでいた。空は普段と変わらず晴れていた。川面は果てしなく純粋で、穏やかだった。
獣が欄干から顔を覗かせた。
果たして、彼はそこにいた。いつもみたいに曖昧に揺れることなく、明るい日の光を一身に受けて毛を艶やかに輝かせながら、とても誇らしそうに笑っていた。
薄ぼんやりと霞んできた視界を、必死で保ちながら、獣は考えた。おそらく、話しかけられる言葉は、後たった一言だ。だとすれば、一体、彼になんと言えば良いのかと。
答えは、すぐに浮かんできた。と言うよりも、勝手に生まれていた。
「ありがとう」
獣は、幸せそうな顔でそう告げた。同時に、彼が「ありがとう」と言ってくれたのを見た。
もう痛みは感じなかった。心を満たしていたのは、ただただ幸福感だった。
そして獣は、眠りにつくように穏やかに瞼を閉じていった。真っ黒の毛に埋もれてしまった瞳を、森の動物たちは皆、ちゃんと見つめていた。
と、誰かが空に向かって遠吠えをした。続けて他の動物たちも頭上を仰いで高く高く吠えた。いつまでも、いつまでも。透明な空の、まだその上へ届けとばかりに、だんだんと沈みつつある太陽の下で、その身を赤々と溶かしながら喉を震わせた。
かけがえのない友への感謝を表すように、夕日を浴びた川面はまばゆいばかりの金色に染まっていた。
〈了〉
獣の友達 淺羽一 @Kotoba-Asobi_Com
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