第12話:親愛なるあなたへ

 ほのかな朝の光を感じて、七尾陽は目を開ける。しみのない天井、背中を包む感触、質素な景観。間違いなく、自宅の寝室だった。

 むくりと体を起こす。背中が痛むものの、動けないほどではなかった。カーテンを開き、気づく。なんてことのない、ただの日常。その一片が見える。

「……いつも通りの、朝だ」

 陽は記憶を辿る。“鵺”との戦闘、ヤタの捨て身の攻撃、そして――聞き覚えのある声。それからの記憶はない。夢でも見ていたような気分だった。窓から見える景色はあまりにも安穏としている。通勤中の車、犬の散歩をする老婆、井戸端会議に興じる主婦たち。つい昨日、命懸けの戦いを繰り広げていたことが嘘に思えるほど、平穏な朝だった。

 あれだけの騒ぎになったというのに、世界はなにも変わらない。ただ悠然と、日常を過ごすだけだった。

「……ヤタは?」

 部屋を見回す。きっと弾丸の姿に戻っているだろう。“鵺”との戦闘は、ヤタを大きく疲弊させたはずだ。見れば、枕元に魔憑銃が置いてある。まだ眠っていると推測した。陽は魔憑銃をそっと撫でる。

「……お疲れ様」

 ヤタには伝えなければならないことがある。それは、直接言いたかった。

 ベッドから降り、リビングへ向かう。テーブルに突っ伏して眠る二葉の姿があった。珍しく、酒瓶が転がっていない。陽は安堵の息を漏らした。二葉がここで眠っているということは、大貫との戦いに勝ったということ。殺したか、退けたか、陽は考えないようにした。見知った顔が殺人を犯したとは、考えたくなかったから。

 大貫はどうなったのだろう。どんな意図があったとしても、命の恩人に変わりはない。不幸なことになっていなければいいのだが。そんなことを考えるのも、ヤタの言っていた優しさに通ずるのだろうか。

 ――わからない、わからなくていい。

 誰も不幸になっていなければ、それでいい。二葉は勝った、いまはその事実を素直に喜んでおくだけでいい。

「……そうだ、今日も学校がある」

 日常は動き続ける。何事もなかったように。

 制服に袖を通し、こっそりと家を出る。エレベーターを待っていると、気づく。菜摘の姿がない。あのあと、菜摘はどうなったのだろう。苦喰に駆け寄り、泣いていたことまでは覚える。それから?

 あの神社で戦って、どうやってここまで帰ってきたのかはわからなかった。二葉が連れ帰ったことも考えられるが、そんな余裕があったとも思えない。いったい誰が陽たちを運んだのか。

 ――考えていても仕方がない、そのうちわかることだ。

 エレベーター降り、マンションの入り口の人影に気がついた。真中菜摘がいた。なんの変わりもない、いつもの朝だった。

「おはよう、七尾くん」

 にっこりと笑う菜摘。そう、いつも通りの笑顔。まるで、昨日のことが全部夢だったのではないかと思うほど。

「おはようございます」

 自然を装ったつもりだが、見抜かれただろうか。菜摘からはなんの指摘もない。ごまかせたようだ。二人は並んで歩く。菜摘は九直を待つことはしなかった。なにか事情を知っているのかもしれない。

「あの、九直くんは?」

「あれ? 聞いてないの?」

 菜摘曰く――陽が倒れた直後に和装の女性が現れ、九直を抱えてどこかへ行ってしまったようだ。その際に「彼の休学の手続きは取っておきますので」と言っていたらしい。間違いなく憑魔士の関係者だ。菜摘には詳しく説明しなかったようだが、二葉の方にも情報は届いているだろう。帰ってから聞けばいい。

「……ちゃんと戻ってくるかなあ」

 九直が復学するかはわからない。休学の手続きと言った以上、しばらく戻ってくることはないだろう。それに、“鵺”から解放された際になにかしら体に支障をきたした恐れがある。人間として生きるためには、相応の時間が必要なはずだ。

 仮に目覚めたとしても、堕影からの生還を遂げた貴重な人材として研究材料にされる可能性もある。普通の高

校生として生活ができるかはわからなかった。正直には伝えられない、だから。

「大丈夫ですよ、きっと」

 曖昧に返すしかなかった。菜摘は足を止め、陽を見つめる。その目に疑念は映っていなかった。

「本当に?」

「信じてくれるんでしょう?」

 ふわりと出てきた笑顔。ようやく自然に笑うことができるようになった。太一や悠のおかげでもあるだろう。なにより、菜摘と出会えなければ笑顔を手に入れることもできず孤独に過ごしていたはずだ。

 菜摘は嬉しそうに口の端をあげた。肘で陽の脇腹を小突く。

「言うようになったね、この!」

「あはは、みんなのおかげです」

 そんなやり取りを続け、校舎が見えてくる。背後から忙しない足音が聞こえた。誰のものかはわかっている。陽の肩に腕が巻き付いた。

「よう! 朝から見せつけてくれるなあ!」

 勿論、太一だった。後ろから悠がくっくと笑いながら歩み寄ってくる。

「おはよう、七尾、菜摘」

「二人とも、おはよ!」

「おはよう。昨日はごめんね、勝手に帰っちゃって」

 挨拶をそこそこに、四人で玄関を潜る。太一も悠も、九直のことに関しては触れてはこなかった。興味がないのか、それとも察しているのか。説明を求められるとどう答えていいかわらかないため、ありがたかった。

 菜摘とはB組の教室で別れ、陽たちはF組へ。廊下では、相変わらず陽を避けるように道ができた。しばらくは一年生の覇権を握れそうだった。苦笑が漏れてしまう。

「相変わらずすげえなあ」

「俺たちもいい気分だよ。傍目には七尾の子分みたいなものだろうけどね」

「子分なんてやめてよ、友達でしょ?」

 一瞬の沈黙。なにかまずいことを言ってしまっただろうか、陽はしどろもどろしてしまう。

 太一が動いた。陽に体当たりを仕掛け、押し倒す。突然の攻撃に驚いた陽は抵抗もできず、背中を打ちつけ呻く。後頭部だけはしっかり守れた。

「ちょ、滝本くん、なにを……!?」

「七尾! お前俺たちのこと友達だと思っててくれたんだな! 嬉しいわ! 頑張った甲斐があったなあ! なあ、悠!」

「そうだな。だいぶ壁も崩れてきたみたいだし、俺たちは嬉しいよ」

 腕を組んだままの悠。太一は額を胸に押しつけ、感動をこすりつけてくる。この温度差でよく三年も続いたものだと思った。陽はいたずらっぽく笑った。

「志村くんは来ないの?」

「俺はそういうキャラじゃないからね」

「そっか、残念」

「やっぱり七尾ってそっちだったのか!? やっべぇ!」

「やっぱりってどういう意味? そっちってなに?」

「カマトトぶりやがってよぉ!」

「うん……?」

 これが一年生の覇権を握る者の日常。たまたま居合わせた教師が、呆れたように太一を引き剥がした。陽に関しては、なにも言わなかった。

 朝のホームルームでは電波塔の近辺で爆発が起こったことを知った。おそらくは二葉の仕業だろう。そしてその爆発で大貫にとどめを刺したと考えられる。

 ――大貫さんは、生きてはいないだろう。

 爆発が大貫に向けられた以上、いくら憑魔化しているとはいえ耐えられるわけがない。きっと、ただのやけどでは済まない。ばらばらに、跡形もなく、消え去ってしまっただろう。二葉がそれほどの手を打つなにかがあったはずだ。直接聞くのが早いだろう。

 授業は滞りなく進んだ。本当に、何事もなく進む。いまだに夢を見ているかのようだった。放課後が訪れ、太一と悠に連れられてB組へ。菜摘も同じことを考えていたようで、廊下で合流できた。菜摘が意気揚々と拳を突き上げる。

「さあ、遊びに行こう!」

「おいおい昨日行ったばっかじゃねーか。ウェルカムって感じだけどな!」

「どうせ太一、月末になって金がないとか言うんだろ。もう貸さないからな」

「慈悲はないのか!」

「慈悲は施し尽したよ」

「あはは……いい関係だね、本当に」

 靴を履き替え、校門を出る。校門には、一台の車。陽には見覚えがあった。クラクションが鳴る。びくりと肩を跳ねさせる太一。意外と臆病なようだ。

 窓から手が伸びてくる。人差し指と中指の間から、煙を放つ短い棒が握られていた。陽は車に駆け寄る。背後から太一の声が届いた。

「な、七尾! 危ないぞ!」

「大丈夫、姉の車だから」

「へえ、姉? 七尾に姉がいたのか」

 一番に反応を示したのは悠だった。太一も驚きはしたようだったが、それよりも菜摘はにんまりと笑顔を見せる。

「そうなんだよ! あたしの友達でもあって、お姉さんなの!」

「な、なるほど……って、おい! 乗るのかよ! 遊びに行くんじゃなかったのか!?」

「ごめんね、今日は勘弁して。それじゃあね」

 三人に別れを告げて、陽は助手席に乗り込む。運転席には二葉がいた。煙草を灰皿に押し付ける。気を利かせてくれてはいるようだった。

「おっす、陽」

「おはよう、二葉ちゃん」

「あの金髪、めっちゃビビってたな」

 おかしそうに笑う二葉。確かに、太一の怖がり方は尋常ではなかった。あれだけ派手ななりをしているのに、ずいぶんと可愛らしい一面を持つものだ。陽もつられてしまう。

「そうだね、彼は普通の男の子だよ」

「ハッ、そりゃ普通の高校生は知らない車がいきなりクラクション鳴らしたら危ない奴だと思うわな」

 自分のやり方に問題があった自覚もあるようだ。それよりも――

「どうして二葉ちゃんが学校に?」

「あんたを迎えに来た。ちょっとドライブしよ」

 二葉の意図は読めないが、陽は頷くしかない。車は走り出し、自宅からは遠ざかっている。街中へ向かっているわけでもなかった。どころか、街からどんどん離れている。次第に木々が見えてくる。郊外を走り続けて、数時間。そろそろ夕日が沈む頃だった。

 特に会話もなく、沈黙が続く。二葉の方を見やるが、悪い感情があるようには見えなかった。

「二葉ちゃん、どこに向かってるの?」

 問いには答えず、ようやく車が止まる。森の中に備えられた駐車場だった。高く伸びた石段の上に、なにか厳かな建物が見える。それは一つではなく、石段の上には広い空間が拓かれているようだった。

 ――あれ?

 見覚えがある光景だった。おかしな話だ。大貫に匿われてからはあの街を出たことがないのに。戸惑う陽をよそに、二葉は歩き出す。慌てて追いかける陽を見ず、二葉は問いかける。

「今日、なんの日か覚えてる?」

「今日……?」

 記憶にある限り、なにか催し事がある日ではなかった。十年間、ずっと。何事もない春の一日だった。思い当たる節がない。二葉は陽気に笑う。

「そりゃそっか。言われなきゃわからないよな」

 二葉は足を止めない。迷うこともなく歩き続ける。見知った場所の足取りだった。二葉となにかしら縁のある場所なのだろう、陽は黙ってついていく。

 そうして案内されたのは、墓地だった。どこか不思議な空気をしている。湿っぽいとか乾燥しているとか、そういった話ではなく、奇妙な力が漂っているように感じた。二葉は一つの墓石の前で立ち止まり、ようやく陽の方を見る。

「ほら、挨拶しな」

「挨拶? ……あっ」

 墓石に刻まれた名を見る。

 ――美景一哉。

 そこでようやく気がつく。ここは憑魔士本部の敷地だ。陽の鼓動が早まる。いまさらなにを言えばいい。目の前で殺されて、なにもできず、逃げ出した。そんな薄情な自分を、一哉は許してくれないだろう。沈黙する陽を見て、二葉は肩を叩いた。

「今日は、あんたの誕生日。“美景陽”が生まれた日だよ」

「あ……」

 ――そうだ、すっかり忘れていた。

 一哉に拾われたのは、そう。夜風が気持ちいい、花の香りのする夜だった。十年間、頭からすっぽりと抜けていた。そんなことを考えている余裕はなかったし、祝ってくれる人もいなかったから。ヤタだって知らなかったはずだ。

 二葉は陽の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でる。

「誕生日おめでとう、陽。ははっ、やっと言えた」

「……あはは、初めて言われた。ありがとう、二葉ちゃん」

 生まれたことを祝われたのは、記憶を辿っても今日が初めてだった。どうしてか、不思議な気持ちだった。嬉しくないわけではない。けれど、心の底から感動したかと言われるとそうでもない。違和感というのが適切な表現かもしれない。

 二葉は胸ポケットから煙草の箱を取り出す。口に咥え、陽に背を向けた。

「あたしは席を外しとく。その間に、言いたいこと全部言っておきな」

「え、ちょっと、二葉ちゃん……!」

 陽の制止も聞かず、木々の中に消えていく二葉。陽は困った。なにを話せばいいのか。考えても出てこない。だから、深々と頭を下げた。

「……ご無沙汰しております、一哉様」

 挨拶をしろと二葉は言った。口を開けば出てくるかもしれない。そう思えば、言葉が湧いてくる。

「あなたの死を前にして、僕はなにもできなかった。逃げることしかできませんでした。本当に心苦しく思います」

 いくら五歳だったといはいえ、なにかできることはあったはずだ。一哉を想うなら、なにかできたはずなのだ。だが実際、陽は逃亡した。己が一番大事だったのだ。一哉や二葉から貰った、美景陽という存在が。

「恥ずかしいです。こうしてあなたの前に立つことが。あなたに顔向けできるような人間には、まだなれていません。それでも――」

 陽はようやく顔を上げた。墓石に刻まれた美景一哉の名を、真っ直ぐ見詰めて。

「いつか、また。あなたの前に立ちます。そのときには……あなたの願い通り、影の中のひかりになってみせます。それまでお待ちください。あのとき……十年前の今日、僕に二度目の生を与えてくれて、本当にありがとうございました」

 再度、深く礼をして背を向ける。二葉が戻ってきていた。煙草を咥え、火を点ける。確認した限りで三本目だった。

「言いたいことは言えた?」

「うん、僕は大丈夫。それじゃあ、僕も席を外すね。車に戻ってるから」

「はいよ、いってらっしゃい」

 陽はたどたどしい足取りで駐車場まで戻った。二葉は一哉になにを言うのだろう。想像もつかない。

 ――見ていますか、一哉様? 二葉ちゃんは、美景の名に恥じない立派な当主になりましたよ。

 届くはずのない言伝ことづて。それでも、言わずにはいられなかった。


 姿が見えなくなるまで小さな背中を追っていた。そうして、完全に見えなくなってから、一哉の墓石に向き直る。

 いまは物言わぬ兄。相変わらずお転婆で意地っ張りな妹に、なにを言うこともない。二葉は煙を吐き出した。携帯灰皿に灰を落とし、再び咥える。

「……仇は取ったよ、兄さん」

 一哉を殺した犯人が大貫であることは陽に報せていない。少なからずショックを受けるだろう。その上、また思い詰めてしまうかもしれない。一哉を殺した人間の援助を受け、生活していたなど美景家に面目が立たないなどと言い出しそうだったからだ。

 二葉は笑ってしまう。陽は考えすぎるきらいがあった。昔から、そう。二葉を支えようとしているのは伝わっていた。けれど臆病さと不器用さが相俟って、常におどおどしていて頼りない弟に見えていたことを本人は知らないだろう。

「陽は強い子になったよ。あたしたちの知ってる気弱で、情けなくて、弱っちい“美景陽”はいなくなっちゃった。びっくりしたよ、世話のし甲斐がなくなった。むしろあたしが助けられてるくらいなんだよ」

 一哉は想像もしなかっただろう。二葉も陽も、可愛い家族ぐらいにしか思っていなかったはずなのだ。いまは二人とも、立派な憑魔士として、己影と共に戦っている。特に陽は、一哉の“八咫烏”を使っているのだ。一哉でさえ武装化しなければ手に余る力。それを自身に宿して扱う陽を見たら、どんな顔をするだろうか。驚くか、喜ぶか。きっと悪い感情は抱かないはずだ。

「悔しいな」くらいの嫉妬はこぼしてしまうだろうが、影の世のひかりとなるよう名付けた少年が立派に戦う姿を見れば、きっと微笑んでくれる。二葉はそう確信していた。陽はよくやった。二葉はそう思っている。

 ――じゃあ、あたしは?

「……ねえ、兄さん。あたし、どうだった?」

 つい、縋ってしまう。

 かつての優しい兄に。十年前に口を閉ざした兄に。ずっと、頑張るのが当たり前だったから。当たり前のことをどれだけこなしたって、二葉の欲しい言葉は貰えなかった。煙草を持つ手を下げる。煙がもくもくと茜の空に溶けていく。

「あたし、頑張ったんだ。兄さんが大好きだった美景家を守るために、文句も言わず、ずっと。頑張ってきたんだ」

 いま、墓石の前に立つのは美景家当主の二葉ではなかった。

「……なんか、さ。頑張るのが当たり前でさ。兄さんがしてくれたみたいに、してもらえなかったんだ……」

 手が震え、煙草を落とす。声も震えていた。ここにいるのは――

「……兄さん、なんで、死んじゃったの……?」

 ――かつての美景二葉だった。

 墓石の前に跪き、泣き喚く。十年前の、強がりで、無力な二葉だった。大粒の涙をこぼし、嗚咽を漏らす。

「うっ、ううううう……! あたし、頑張ったよ……! 頑張ったからぁ……! 仇、討ったからぁ! 陽も無事だから! もう、安心して、いいからぁぁぁ……! ゆっくり、休んで! ふぐっ、ううう! うあああああ……!」

 誰かに見られることなんて考えていない。亡き兄に、褒めてほしかった。頑張ったね、と。頭を撫でてほしかった。美景家当主、二葉が望むのはそれだけだった。

「なんでっ、死んじゃったの……! 兄さん、なんでっ! 寂しいよ……! なんでっ、なんでなんでなんでっ! うあっ、あああああ……! また、笑ってほしいのにっ! 頭! 撫でてほしいのにっ! なんでなのっ! ああっ、うわああああん……!」

 地平線が夕日を飲み込む。完全に闇が訪れるまで、二葉はずっと泣いていた。木陰から見守る小さな影に気づかずに。


「――ただいま」

 二葉の車に乗せられ、自宅へ帰り着く。迎えはなかった。二葉はこれから憑魔士本部に報告があると言い、陽を送り届けてからとんぼ返りで車を走らせた。目の周りが腫れていたことと、声が枯れていたことに関しては触れなかった。きっと、触れられたくないところだったから。

 迎えてくれる人間がいないだけで、ずいぶんと静かになったものだと驚く。ヤタはいまだ眠っているだろうか。リビングにも、やかましいカラスはいない。どうやらまだ眠りに就いているらしい。それでいい、魔力も底を尽きかけているはずだ。

 ――あのとき、力を貸してくれた声がなければ。きっと僕も、二葉ちゃんも生きていない。

 あの声が誰のものなのか、陽には想像がついていた。陽に力を貸してくれる人物など、一人しか思い当たらない。そして、菜摘のブレスレットを誰が作ったのかもわかった。陽は安心した。確かに、心強いお守りだったことだろう。

 寝室に戻れば、いまだ魔憑銃が枕元に転がっている。姿を見せる様子はなかった。本当に久し振りの、一人の時間。陽はテレビを見ることにした。

 ニュース番組では、電波塔の爆発事件について触れられていた。砕かれ陥没した地面、熱風で焼かれた草木。戦争の傷跡のような有様に、陽は震える。こんな戦い方をして、憑魔士の存在が知られたらどうするつもりだったのだろう。一般人を守るためとはいえ、憑魔士は世界の影なのだ。あまり目立ったことをしてはいけない。影は光を侵してはならないのだ。

 ――その辺りの隠蔽は、きっと本部の方でなんとかするだろう。僕が心配しても仕方がないことだ。

 陽がなにかしたって、変えられるものはごくわずか。自分の手の届く範囲だけでいい。

 そのとき、寝室の扉に固いなにかがぶつかった。こつ、こつ。ノックのようだった。扉を開けると、ヤタが眠たそうにまぶたをこすっている。毎度、器用に動く翼だと思った。

「おはよう、ヤタ」

「おー、おはようさん。くわあ……あーっ、ねみィ」

 カラスのあくびをこんなにも間近で見られるのは、日本中探しても陽くらいのものだろう。おかしくなって、吹き出してしまう。

「己影も眠くなることってあるんだね」

「わかりやすく言ってるだけだよ。正確に言えば、概念の姿でいることが安定しねーってだけだ」

 それほどまでに魔力を削った戦いだったということだ。いまはゆっくりと休み、調子を整える時期なのだろう。ならばどうして顕現したのか。ヤタは飛び跳ねながら、テーブルの上に乗る。陽と目線を合わせ、ニカッと笑った。カラスの笑顔もまた、陽だけが見られる貴重な顔だった。翼を伸ばして、陽の頭上に乗せる。

「昨日はよく頑張ったな、おつかれさん」

「……ありがとう」

 嬉しくて、迂闊にも目が潤む。涙なんて、ずっと流していなかったのに。

「カッカッカァ。お前、本当に強くなったなァ。出会った頃はただの根暗な弱虫だったのになァ」

「……ヤタがいてくれたからだよ。ヤタのおかげで、いまの僕が在るんだから」

「オレだけじゃねーよ。わかってんだろ」

 ――そう。わかってる。僕を支えてくれたのは、ヤタだけじゃない。

 それでも、一番の感謝を伝えたいのはヤタだった。十年間、ずっと傍にいてくれた。ヤタがいたから乗り越えられたのだ。少なくとも、陽はそう思っている。

「ま、感謝の気持ちはありがたく受け取っとくわ。素直ないい子だな、お前はよ」

「あはは、初めて言われたかも」

 中学時代は風景の一部で、高校生活では素行不良の代名詞のような扱いを受けているだけに、素直ないい子だなんて言われるのは記憶にある限り初めてだった。なんとなく嬉しくて、つい笑みがこぼれる。

 ヤタは左の翼を枕にして、テレビに向き直った。だらしない父親がテレビの前に寝転がる姿、そのままだった。本当にカラスなのかと、これが美景の己影“八咫烏”なのかと、疑ってしまいたくなる。

「しっかし、最後の展開は白熱だったなァ、ドラマみたいで超熱かったぜ」

「呑気に言うよね、命懸けだったのに。……あんな気取った台詞まで吐いてさ」

「気取った台詞ゥ? あーっ、と……」

 思い出したのか、なんなのか。ヤタは翼で両目を覆った。いくらなんでも、ドラマに影響されすぎだと思ったのだろう。そんな台詞を吐いたカラスが、怠惰な父親のような格好でテレビを見ているのだ。落差が大きすぎる。

「……オレ、もしかして、めちゃくちゃ恥ずかしいこと言ってたんじゃねーカァ……?」

 ようやく気付いたか、と陽は吹き出した、盛大に。

「なに笑ってんだ、この! オレの渾身の雰囲気作りを! てめぇ!」

「あはっ、あははははっ! ごめん、ごめんってば! 痛いからっ、突っつかないで! あははっ!」

 しばらくヤタの報復を受け、ようやく気が晴れたのか解放される。ふてくされたようなヤタの背中に、なんと声をかけようかと考える陽。

「ま、なんだ」

 陽より早く、ヤタが口を開いた。なにか言いたそうな素振りを見せるヤタに首を傾げていると、観念したらしく話し始めた。

「出会った頃からずーっと、お前を笑わせようといろいろやってきたつもりだよ。落語も勉強したし、大喜利もできるよーになったし。でも、お前はそんなもんで笑わされるのを嫌がった。要らないっつって、突っぱねてた。可愛くねーガキだなって思ったこともあったよ、正直な」

 酷い言われようである。あの頃は人間が信じられず、ただひっそりと暮らしたい気持ちが強かった。笑顔は要らない、幸せなんて掴めない、掴んではいけないと、本気で思い込んでいたから。

 言い訳しようとする陽だが、ヤタは「けどよ」と続けた。

「いまのお前を見たら、全部吹っ飛んだわ。いい顔してるぜ、ヒナタ。男前になったなァ」

「……!」

 ヤタはとてもいい表情を見せる。満面の笑み、という表現以外見当たらない。陽もつられて、同じくらいの笑顔を見せる。そうして、二人で笑い合う。

「ありがと、ヤタ。これからもよろしく」

「おーよ、これからも世話してやっからな」

 翼を差し出すヤタ。陽はその翼を優しく握った。カラスと握手するなんて、滅多にできるものではない。

 ――僕は幸運だ、間違いない。

 これからもきっと、助けられていく。大切な人たちに支えられて。支えられるだけじゃなく、支えたい。今度は自分も、誰かの支えになりたい。そう強く思った。

 それから遅めの夕食を摂ったものの、二葉は帰ってこなかった。憑魔士本部での仕事が溜まっているのだろう。連絡もなかったので、きっともう眠っているはずだ。ヤタも一足早く休んだ。

 陽は一人、携帯を眺めていた。テレビではヤタがよく見るバラエティ番組が流れている。テーマに沿って芸人が体験談やテーマに対する愛情、熱を披露するものだ。陽はそれを右から左に聞き流しつつ、真剣に画面と向き合っている。

 夜も更け――気がつけば。

「……あっ、え?」

 空が白んでいた。


 二葉が憑魔士本部に帰ってから一週間が経過した。二葉からの連絡は一度だけ。「しばらく帰れない」だけだった。陽としても、頑張ってねとしか言えない。憑魔士のことは、憑魔士がなんとかする。

 いま陽にやれることは、大事なものを作ることだ。授業も終わり、ふらふらとした足取りで教室を出る。背後から足音が迫る。大方、太一のものだろう。直後、背中が叩かれる。

「七尾! 一人で帰ってんじゃねーよって、ええっ!?」

 太一が驚くのも当然だった。太一としては軽く肩を叩いたつもりだったはずだ。だが、陽は叩かれた衝撃で前のめりに倒れてしまう、受け身も取らずに。顔面を廊下に叩きつける結果となってしまった。あまりにも無力に倒れる陽を見て慌てふためく太一。彼の背後から悠がひょっこりと顔を出す。倒れたまま動かない陽の、首筋に手を当てる。

 深刻な表情の悠、そして低く呟く。

「し、死んでる……」

「うわーっ! 学校で人殺しって! 犯人俺って!」

「だいじょぶ、いきてる……」

 陽はぐらりと立ち上がる。顔の痛みがようやく来たのか、うずくまってしまう。太一と悠が立たせてくれて、歩き出す。菜摘はB組の教室から出てきたところだった。覚束ない足取りの陽を見て、心配そうに肩を叩く。

「七尾くん、大丈夫? 寝不足?」

「え、ああ、はは……そうなんです。ちょっと、夜更かししなければいけない理由が……」

「理由って?」

 好奇心からの質問なのだろう。陽は答えに迷った。菜摘にはまだ、言いづらいことだから。すると太一は大きな声を上げた。見れば、魔童に勝るとも劣らない邪悪な表情。

「わーかった。夜な夜なアレだろ、わかる、わかるぞ!」

「えっ、わ、わかるの?」 

「男なら誰だってそれくらいするって! まあ恥ずかしいのもわかるわ、女子の前だとなあ?」

 にやにやと含みのある笑みを浮かべる太一。気づかれているかもと思った。菜摘に明かされる前に口を封じるべきかと迷った。悠もまた気づいたか、陽の肩に手を置いた。

「女子の前じゃあ言いづらいだろうな、でもみんな通る道だから。七尾は誰の世話になってるんだ?」

「えっと、世話ってなに? 女子の前っていうか、真中さんにはまだ言えないことで……」

「あたしに言えないってなんなのー!? 七尾くん隠し事ばっか! もう知らない、嫌いっ!」

「あ、ちょっ、真中さん……!」

 詳しく説明することもできず、誤解も解けず。菜摘は一人で帰ってしまう。両肩が叩かれた。太一と悠が、可哀想だと言わんばかりに俯いている。陽は知っていた。同情なんてこれっぽっちもしていない。ただ、笑いをこらえるのに必死なだけだ。

「二人とも……」

「悪い、ふっ、触れちゃいけないこ、ふふっ、こと、だったな」

「デリカシーなかっ、ぶふっ、なかったっ、く、悪かった」

 案の定。他人を振り回すのが相当愉快らしい。陽は笑う。それこそ、魔童に匹敵する邪悪さで。

「ブレーキが利かない、排気ガスばかり出すぽんこつ車は車検に出さないとね?」

 ようやく顔を上げた二人は陽の異変に気づいたようだった。じりじりと後退りする二人の袖を、がっちりと掴む。憑魔士の力だ、並みの人間では振り解けるはずがない。二人の頬を冷や汗が伝う。陽はにっこりと笑った。彼の背後に修羅が見えたことは、太一と悠しか知らない。

「僕がぽんこつ車きみたちをしっかり診てあげる。下手なことができないくらい、しっかり綺麗に矯正してあげる。――さあこっちへ来て」

「お、おい冗談だろ? 七尾、おい! 七尾!?」

「俺たちが悪かった、悪かったって、ちょ、え? だ、誰か……」

「あはは、寝不足の僕ってすごく機嫌悪いみたい。初めて知ったよ、ありがとう」

「放せえええええ……!」

 二人の悲哀の叫びも届かず、陽は体育館裏へとぽんこつ車を運んでいった。


 その夜。陽は菜摘の部屋を訪れた。インターホンを押し、反応を待つ。

「はーい」

 声がした。どことなく警戒心を孕んだ声。普段、来客がないのだろうか。陽はぎこちないながらも挨拶をする。

「あ、えっと、七尾です。こんばんは」

「あれ、七尾くん? こんばんは、ちょっと待っててね」

 少しして、扉が開けられる。やはり驚いたような顔を見せていた。陽から用事があるとは思っていなかっただろう。陽としても、緊張してしまって不自然な笑顔を見せるしかなかった。

「こ、こんばんは」

「こんばんは。どうしたの?」

「あはは、ちょっと用事があったんです。ただ、物を渡すだけなのですが……」

 陽のポケットは膨らんでいる。正方形の箱だった。菜摘がそれに気づいた様子はない。これを手渡せばいいだけなのに、どうしてか言葉が出てこなかった。

 なにか言いたげな陽を見つめていた菜摘だが、やがてしびれを切らしたのか困ったように笑う。

「とりあえず、入って? 立たせとくのも悪いし」

「あ、はい……お邪魔します」

 通されたものの、やはり両親は不在のようだった。テレビの音がやけに大きい。耳が遠いのだろうかと考える。背の高い食器棚の下を開ける菜摘、手にしているのはお菓子だった。深めの皿を取り出し、そこにあける。

「一緒に食べよ、一人じゃ食べきれなかったから」

「それじゃあ、お言葉に甘えて。いただきます」

 皿にあけられたお菓子を一つつまむ。甘くて、しょっぱい。くせになりそうな味だった。菜摘もどこか嬉しそうにそれを食べている。陽はしばし沈黙し、話を切り出す。

「ご両親はお仕事ですか?」

 本題ではなかったが、ずっと気になっていたことだった。“大百足”との一戦を終え、菜摘を家まで運んだときに感じた違和感。十五歳の少女が一人で暮らしているのは、少々特殊な事情があると考える。陽も特殊な少年であるため、あまり深くは探らない方がいいのだろう。わかっていた。

 陽から視線を外す菜摘。視線を追えば、そこには写真があった。夫婦と思しき男女と、幼い少女。菜摘は言いづらそうに口を開いた。

「……死んじゃったんだ。あたしが五歳のときに」

 触れてはいけないところだった。俯く陽。菜摘は語り続ける。

「その日は、あたしが初めて化け物に襲われた日だったの。そのとき、パパもママも死んじゃって。あたしだけが生き残った。助けてくれたのは、大きな弓を持った男の人だった。その人がくれたんだ、あのブレスレット」

 ――やっぱり、そうだったんだ。

 弓を使う憑魔士は、陽の知る限り一人しかいない。ブレスレットが強い力を秘めていたのも当然だ。ほんのわずかな間だが、十年前に憑魔士の頂点にいた者の品なのだから。

 菜摘は懐かしむように目を細めた。父と遊んだこと、母と買い物に出掛けたこと。いまでも彼女の中で褪せない記憶になっているはずだ。なんと声をかけていいかわからずにいる陽に、菜摘は微笑みかける。

「でも、もう大丈夫。いまはおじいちゃんとおばあちゃんのお世話になってるから生活もなんとかなってる。それにね。ブレスレットがなくたって、七尾くんが守ってくれるもん」

 純粋に、信じてくれている。詳しく素性を明かしたわけでもないのに。二葉のときと同じだ。絶対に裏切れない。裏切るつもりなんて、毛頭ない。

 菜摘の笑みが嬉しくもあり、重圧でもある。想いがどちらに傾いても、陽のやるべきことはたった一つ。

「……必ず、お守りします」

 陽も笑顔で返した。この流れなら、言えそうだった。陽はポケットに手を入れる。取り出したのは、小さな箱。菜摘はきょとんと目を丸くした。

「これ……粗末なものですが」

 箱を開ける陽。そこには、小さなリングがはまっていた。陽が夜更かしして地道に作っていた代物。鎖で繋がれており、首に下げることを前提に作られている。

「あのブレスレットと違い、本当になんの力もありません。ただの指輪です」

 陽には魔力の込め方などわからない。それに、戦った期間が短いのだ。陽自身には大した魔力がない。だからこそ、魔力以外のものを込めたつもりだった。代わりにはならなくても――

「……それでも、僕がいなくても、真中さんを守ってくれるようにと、願いを込めて作りました」

 菜摘はやはり驚いたように目を見開いた。当然と言えば当然の反応だった。沈黙する菜摘だったが、陽の話はまだ終わりではない。最後の言葉を告げなければなんのために家に来たのかわからない。

 陽は箱を差し出す。目を逸らさず、真っ直ぐに見つめて。

「気休め程度の品ですが……受け取って、いただけますか?」

 気まずい沈黙が流れる。陽はつい顔を伏せてしまうが、菜摘は小さく息を漏らした。呆れられただろうか。恐る恐る顔を上げると、口の端が上がっていた。恥ずかしそうな、嬉しそうな。そんな表情だった。

「あの……?」

「ありがとう、七尾くん。大事にするよ。なんだろう。えへへ……すごく、嬉しいな」

 ――喜んでくれた、よかった。

 陽も嬉しくて、笑顔をつられる。なんの力もない、ただのアクセサリー。それでも、喜んでくれた。それだけで胸がいっぱいだった。陽はこの感情の名前を知らない。知らなくてもよかった。ただ、幸せだから。この感情に名前は要らなかった。

「あっ、そうだ」

 思い出したように声をあげる菜摘。陽を見詰めて、小さく。

「――おかえりなさい、七尾くん」

 ヤタや二葉に言われるものとは、違う気がした。二人は純粋に陽の帰りを迎えた。けれど菜摘のものは、違和感を覚えた。ただ帰りを迎えたわけではない。それなら、なんだ?

 陽は考える。思い当たる節は――

「あ……」

 ――そうか。そう、なんだ。

 “鵺”との戦いは非日常。穏やかさの欠片もない、殺伐とした影の世の出来事。そこから生きて帰った陽は、日常へとまた戻った。なんの刺激もない、のんきで退屈な生活。

 ――僕の帰るべき場所は、日常ここだったんだ。

 また笑みが浮かぶ。ようやく日常に、普通の世界に。陽の世に認められた気がした。

 これからもきっと、影の世に身を投じるだろう。けれど、そこから帰る場所ができた。なんてことのない陽の世。かけがえのない小さな日溜まり。

それさえあれば――もう、他にはなにも要らなかった。

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影陽―カゲヒナタ― 杉野冬馬 @st_uchan

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