第11話:差し伸べられた手
体がヤタの力で満たされる。夜を映す黒の体毛、腕は翼となり、腰からは無骨な脚。目元は仮面で覆われる。“八咫烏”との融合は衆目の目を一身に引き寄せた。撮影ではない、なにか奇妙なことが起こっているとわかっただろう。それでもなお、カメラを止めない。逃げない。これからなにが起きるとも知らずに、のんきに非日常を捉え続けている。陽は気にも留めていない。眼前の大貫が、陽の相手だ。
大貫の顔は狼のように変質し、生傷の絶えない体は膨張、逞しい肢体を形成する。禍々しい爪は血のように紅く、太く長い尾は紫電を纏っている。ヤタの声がした。
『ありゃあ……“
「“雷獣”?」
『落雷と共に現れるっつー魔童だ! 気を引き締めろ、あんなナリだが素早さは段違いだ!』
「ガアアアアアアアアアアアアッ!」
苦喰の――“鵺”の人ならざる絶叫が響き渡る。どうやら拘束が解けたらしい。二葉は陽のそばに駆け寄り、煙管を大貫に向けた。
「陽、あっち任せていい?」
「え……?」
大貫の相手は二葉が務めるという。陽にはサポートではなく、“鵺”の相手をしてほしいようだ。二葉一人で大貫の相手が務まるものか、いくら美景家当主と言えど、実戦経験に差があるのは明らか。一対一で敵う相手ではないはずだ。
「二葉ちゃん、僕がサポートするから。一緒に戦おう」
「駄目、あんたはまず菜摘を安全なところに逃がす。そんで“鵺”を倒す。あたしを助けるのはそれからでいい」
「でも」
「でもじゃない」
「お喋りをしている余裕があるのか」
一瞬、なにかが光った。目を覆うほどの強烈な光――気がつけば、大貫が右腕を二葉に振りかざしていた。ほんの瞬きの間だった。速いなんてものじゃない、目で追いきれなかった。
「二葉ちゃんっ!」
「っの野郎!」
二葉は煙管でそれを防ぐと、乱暴に振るって距離を離す。陽も腕を振り、羽根を扇状に飛ばした。“大百足”の甲殻にも傷をつけたのだ、当たればそれなりの威力は出る――が、所詮は当たればの話。大貫はそれを跳んで回避し、電波塔の直下に着地する。陽の攻撃になにかを感じたらしく、大貫はため息を吐いた。
「陽よ、わからんか? 貴様はこの場において足手纏い以外の何者でもないのだ。気概は認めるが美景影二葉の邪魔をしたくなければ、早々に失せるがよい」
「っ……!」
「さっさと行きな、菜摘のことは頼んだ」
足手纏いだと大貫は言う。二葉はどう思っているだろう。彼女の瞳は大貫を捉えたまま。二葉が大貫と戦うというのなら、陽の相手はやはり、そうなのだろう。
「グウウウ……!」
苦喰の体が変質する。肉体が徐々に膨張し、猛獣の肢体を形成する。皮膚を突き破るように生える禍々しい翼、首からは、苦喰本体の上半身が生まれる。堕影――“鵺”にはもはや人の面影など残っていなかった。荒々しい吐息を吐き出し、邪悪な唾液が滴り落ちる。菜摘が短い悲鳴を上げた。クラスメートが異形となって、冷静でいられるはずがない。陽は菜摘の前に立ち、両の翼を広げる。黒い羽根が宙を舞った。
「さあ、始めましょう。きみの相手は、僕です」
「ミカゲ、ヒナタ……!」
「七尾陽ですよ。――真中さん、場所を移します。僕に任せてください」
「……うん、任せる」
陽は三本目の脚で菜摘を掴み、勢いよく羽ばたいた。それと同時、“鵺”も羽ばたく。力強い踏み込みだったのだろう。アスファルトが割れた。
背後から迫る脅威、少しでもスピードを緩めればあっという間に喰らい尽されてしまう。上空で攻撃されればひとたまりもない。菜摘さえどこかへ隠すことができれば対処のしようもある。問題はそこだ。“鵺”と戦闘するにあたって、菜摘をどこへ隠せばいいのか。また、被害を最小限に抑えるためには、どこで戦うべきなのか。
空気を震わせるほどの唸り声が聞こえる。怯んでいる場合ではない。陽は急降下し、咄嗟に右の翼を振るった。羽根が扇状に射出される。“鵺”の前足に命中したものの、気にも留めていないようだった。
「くっ、堅い……!」
『ひとまず場所を移動だ、ヒナタ! ナツミを下ろさねーと本気で戦えねーだろ!』
「わかった!」
陽は地上と“鵺”を交互に見ながら滑空を続ける。どこか広く、人が少ない。そんな場所がどこに――いや、ある。
脳裏を過った、ある場所。陽は旋回し、一直線に滑空した。菜摘を隠すことは難しいだろうが、気兼ねなく戦えるとしたら、もうそこしか思い当たらなかった。“鵺”も当然、追ってくる。それでいい。方角は覚えている。住宅街から少し外れ――山を囲うように敷かれた車道を横切って、急降下。着地した。
陽はそこで菜摘を下ろし、“鵺”の到着を待つ。そこは以前、“髪切り”と戦闘した神社であった。そして“鵺”と邂逅した場所でもある。罰当たりだとは思っても、被害を抑えるならばここしかなかったのだ。
“鵺”が降り立った。ずん、と地面が揺れる。獰猛な息を吐き、いまにも襲い掛かろうとしている。菜摘を庇うように立ち、戦闘に備える。人間であることを捨てた魔物。それでも――“彼”もまた、陽の恩人だった。
「もう……言葉は届かないでしょうか」
返事はない。人間として扱うには、あまりにも道を外しすぎた。それでも、伝えなければいけないと思った。
「きみがいなければ、僕は生きていなかった。大貫さんや、二葉ちゃん、ヤタ、そして、真中さんと同じなんです。きみだって僕の恩人で、返しきれない恩があります。だから――」
陽は翼を広げた。黒い羽根が舞い、空中で停止する。
「きみを止めます。これ以上、化け物に堕ちないように!」
陽は翼を“鵺”に向けた。停止していた羽根が一斉に“鵺”に襲い掛かる。“鵺”もまた翼を広げた。翼は関節が多いのか、飛来する羽根を一枚ずつ丁寧に叩き落す。夜を切り裂く咆哮の後、“鵺”が地面を蹴った。
『迎え撃つぞ! “斬翼”!』
ヤタの言葉に呼応して、翼が硬質化。疑似的な二刀流で“鵺”の爪を防ぐ。たくましい肢体から繰り出される一撃は、小柄な陽では到底受けきれなかった。
「七尾くん!」
「っ……! あああっ!」
なんとか隙を見て上空に飛び上がる。空中で回転し、羽根をばら撒く。“重”による質量増加。羽根を束ね、一つの大きな矢を作る。両の翼を振り上げ、一息の後――
「“衝星”!」
放った。“鵺”はそれを回避するものの地面に突き刺さった矢は突風を伴って舞い散った。その羽根もまた己影の力。“鵺”の後ろ足に軽傷を負わせるものの、その程度で止まるはずもなく。
咆哮の後、陽を追いかける。空中戦なら地上よりは戦いやすいはずだ。陽は滑空しながら回転し、羽根を撒いていく。“鵺”を攻撃はしていなかった。全て空中で停止させている。“鵺”は陽を追いかけるばかりで、羽根のことなどどうでもよさそうだった。
――それでいい。
陽の狙いに気づいていないなら好都合だ。“鵺”は時折、急激な加速からの突進や爪での攻撃を仕掛けてくる。その都度、“斬翼”で迎撃するものの、陽から攻撃を仕掛けることはしない。まだ。ヤタは狙いに気がついているようだった。
『……やれるのか?』
滑空を続ける陽に問いかける。神妙な声音だった。陽は羽根をばら撒きつつ。
「やる」と、短く答えた。ここまで来て、躊躇はいらない。それがきっと“鵺”の――苦喰のためでもある。ヤタはそれ以上、なにも言わなかった。
陽と“鵺”が戦闘を開始する、少し前。
電波塔では二葉と大貫が対峙していた。お互い、攻撃を仕掛けてはいない。ただ、真っ直ぐにお互いを見据えていた。大貫は、嘲るように鼻を鳴らす。
「貴様一人で私に勝てると思うのかね」
「んなこと考えてるほど余裕がねえんだよ」
「愚かだな。それで一族の長とは笑わせる」
「ハッ、時期が悪かったな」
二葉は煙管を突きつける。喋る時間は、もう要らない。戦う準備は整っている。大貫は一つ、ため息を吐いた。両手を地面に着き、獣のような姿勢を取る。すぐにでも、地面を蹴って、二葉の首を飛ばしてやろうという意志表示だ。
――上等だ、かかってこい。
二葉は不敵に笑った。死んでやるもんか、すぐに負けを思い知らせてやる。根拠のない自信だけがいま、二葉をこの戦場に立たせていた。
大貫は雷を纏う尾を高く掲げた。直後、目を覆うほどの閃光が迸り――気がつけば、肩がえぐり取られていた。煙管から煙が立ち上る。野次馬たちはようやくただ事ではないと察したのだろう。蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。エンカンが声を上げる。
『二葉!』
「大丈夫だって、かすり傷だ!」
『“雷獣”の力はなんだ……? あまりにも情報がなさすぎる!』
取り乱したエンカンは初めて見た。どうやら大貫の――“雷獣”の力は魔童の間でも知られていないようだった。エンカンいわく、雷光と共に現れるという。ただそれだけの魔童だった。それがどうしてこれだけ強力な力を発揮できるのか。いったいどんな仕組みがある?
エンカンはぶつぶつと考察を吐き出す。待っているだけではなにもわからない。ならば――こちらから攻めて、情報を探るしかない。二葉は煙管を振るって、煙を放つ。大貫の牽制が狙いだ、拘束できるとは思っていない。大貫は、それを横に跳んで回避した。瞬間移動、ではない。瞬間移動にはなにか条件がある? まだ不鮮明だ。もっと探る必要がある。
――考えろ。思考を止めるな。戦場で考えない奴は死ぬ。
この教えは美景銀次郎のものだ。爺と呼ばれながらも、最前線で戦い続けている美景家の戦士の教え。戦闘の経験が圧倒的に少ない二葉は、いつでもその言葉を思い出していた。
大貫は深く息を吐いた。二葉の狙いが見えたのだろう、呆れたようだった。
「私の――“雷獣”の力を看破しようとしているのか。哀れだな、美景二葉。見破れたとて、貴様では私には勝てない、なぜわからんのだ」
「理解して、どうなるよ? てめぇに殺されるのを良しとしろって? 冗談はもっと笑えるように言いな」
「冗談を吐いている場合ではなかろう」
「ハッ、ユーモアがねえな。キャバクラでもモテねえタイプだ」
挑発が利くとは思っていない。これは虚勢だ。折れてはいけない。亀裂も入ってはいけない。金剛石のような、確固とした強さを示さなければならない。
大貫は思いついたように、「そうだ」と呟く。
「一つ、面白い話をしてやろう」
「付き合ってられっかよ」
「聞いて損になる話ではない。――美景一哉のことだ」
ぴくり。二葉の眉が動いた。大貫の口が歪む。
「美景一哉を殺したのは、誰だ?」
「……陽はやってない。あたしがそう判断した」
「ああ、そうとも。陽はやっていない」
「じゃあ誰が――」
「わからんか」
大貫は笑った。愚か、愚かとでも言いたげに。なにが言いたいかわからない二葉、苛立ちが募る。
「まどろっこしいな、さっさと言え!」
「くくくっ……! そうだ、取り乱せ。もっと、もっとだ。怒りで心を満たせ!」
「そうだな、まずは――不愉快な口を黙らせるっ!」
煙管が黒い光を放つ。そして、アスファルトに叩きつけた。爆発にも似た衝撃が発生し、大量の粉塵が舞う。ただの目眩ましだ。少しでも大貫の動きを抑制し――叩き潰す。
「粉々になれェッ!」
大貫の頭上に跳んだ二葉。落下の勢いに乗せて、煙管を振り下ろす。硬質ななにかが砕けた。アスファルトだ。回避されたらしく、大貫の姿はない。今度は目眩ましが仇となった。
『二葉、粉塵を払え!』
「わかってる! ッラァ!」
煙管から煙が立ち上り、黒い光を纏う。横一線に薙ぐと、突風が巻き起こった。粉塵は風に攫われて消えたが、大貫はいない。
――まさか、“鵺”の助太刀か?
あれだけの速さだ。陽がどこに移動したかさえわかれば、二葉じゃ到底追いつけない。“鵺”と大貫を相手にして、陽が勝てるはずがない。二葉は陽が飛び去った方へと駆け出した。
「陽が危ない!」
「いいや、危機に瀕しているのは貴様の方だ」
まただ。刹那の瞬き、目の前に大貫。いったいなにが起こっている?
完全には防がない。敢えて、傷を作る。薙ぐように振るわれた爪は、腹部を浅く裂いた。煙管の煙が一層濃くなる。二葉は煙管を下から掬い上げるが、大貫には掠りもしない。
“大煙管”が持つ特性、“
――勝算はある。
二葉の目に炎が灯る。その炎は、強く、強く燃え上がる。焚きつけているのは、怒りだ。図らずも大貫の思惑通りとなったが、それでもいい。最後に立っていればいい。勝った者が正義、戦場とはそういうところだ。
「いい目をしている」
ふと、大貫が呟いた。
「あ?」
「怒りで焚きつけた、強い炎が灯っている。ああ、それでいい」
「……てめぇはなにを企んでる?」
大貫は笑う。心底愉快そうに。邪悪な感情を抑えきれないというように。なにか――二葉の心を揺さぶるほどのなにかを、大貫は持っている。そう確信するには充分だった。呼吸を整える大貫、そして、語りだす。
「貴様の炎を、もっと焚きつけたくてな。その身を焦がすほど熱く、貴様を溶かしてしまうほどに」
「気色悪い言葉選びはやめな。狙いはなんだ」
「美景一哉を殺害した者の話を、しようと思ってな」
揺らいではいけない。わかっているのに、知りたい気持ちが胸をかきむしる。
なぜ大貫が知っている? まさか、大貫家の仕業なのか? 固く結びつけた集中力が、僅かに解けた。大貫は禍々しく口元を歪ませる。
「ああ、貴様の想像通り。美景家を憑魔士一族の頂点から引きずり下ろすためには、奴が邪魔だった。幼い陽に罪を着せ、全てが計画通りに進んだよ。貴様と陽の接触も、陽が犯人ではないと推測することも、私にとっては想像の範疇だった」
「……つまり、一哉兄さんを殺したのは」
「無論、大貫家の者だ。そしてその犯人は――何食わぬ顔をして、陽の逃亡を手伝った」
どくん、と心臓が跳ねる。
大貫の言いたいことがわかった。呼吸が乱れる。どんどん早まる鼓動に、集中力はさらに解かれる。大貫は、ついに。真相を告げる。
「美景一哉を殺したのは――私だ」
二葉は言葉を失った。刹那の虚無感。次いで、全身が、血液が、熱を帯びる。煮えたぎるほど、このまま蒸発してしまうほど。熱く、熱く、燃え上がる。二葉はその感情の名を知らない。
――こいつが、兄さんを。家族を。奪った。
二葉の口元が歪む。煙管を握る手に力が入る。もう、抑えきれなかった。
「……てめぇがァッ!」
駆け出す二葉。煙が力強く立ち上り、煙管の光もかつてないほど強かった。渾身の一撃を、全身全霊の殺意を。大貫に叩き込まなければ気が済まない。感情の獣になった二葉をエンカンが制する。
『二葉! 挑発に乗っては――』
が、遅い。
「やはり無力な女だよ、貴様は」
大貫は二葉の背後から、爪を振り下ろした。スーツが裂け、血が溢れる。沸騰していた体が一気に冷めていく。
――こんな、ところで。
二葉の意識は、そこで、途切れた。
空中戦を繰り広げる陽と“鵺”。
羽根を設置し続けて、いくらか経った。“鵺”の攻撃を間一髪でかわし、ときに掠めながらも、着々と布石を打っていく。鵺を葬るための、文字通り、必殺の一撃のための。
攻撃の気配がない陽に苛立ちが募っただろう、“鵺”が一際高く鳴いた。突如、速度を上げて体当たりを仕掛けてきた。
『かわせ!』
ヤタの指示通りには、動かなかった。陽は咄嗟に“斬翼”でそれを防ぎ、“鵺”と距離を取る。冷静であることに努めていてよかった。“鵺”がその場に滞空し、叫ぶ。早く喰わせろ、とでも言いたげに。
陽は空中で体勢を立て直し、息を吐いた。どこか、寂しげだった。
「終わらせましょう、この一撃で」
“鵺”は気づいただろうか。陽が打った布石は、“鵺”を囲うように設置されている。それはさながら、“鵺”を閉じ込める監獄のようで。頭上には、“重”によって作られた巨大な矢。これだけ包囲されているのだ、もはや逃げ場はない。陽は両の翼を交差させ、叫んだ。
「“
陽の声を引き金に、羽根たちは一斉に“鵺”に襲い掛かる。全方位からの射撃は“鵺”を黒と紅に染め上げ、巨大な矢は“鵺”の胴を貫いた。降り積もった雪に指を刺すように、容易く。
断末魔にも似た絶叫が闇夜に響く。これには陽も、菜摘も耳を覆った。落下する“鵺”、動きはない。陽はそこでようやく地面に降り立ち、菜摘のそばへ駆け寄った。菜摘は恐る恐る“鵺”を見やる。痙攣してはいるものの、もう動くことも困難だろう。
「……終わったの?」
「ええ、これで終わりです」
「九直くんは……?」
口を閉ざしてしまう。菜摘にとって、“鵺”は九直日影であり、クラスメートなのだ。いま、異形と化したクラスメートが、目の前で死に体になっている。菜摘としてはなにか思うところがあるのだろう。だが、陽にとっては、そうではない。菜摘に忍び寄った脅威。いまは、それでしかなかった。
なにも言わない陽を見て、菜摘の頬が震える。続けて、涙が頬を伝った。
「噓でしょ……なんで、なんで?」
「……真中さん」
なにか言葉をかけるべきなのに、なにも思い浮かばない。戸惑う陽の背後に――荒い吐息が迫った。
『ヒナタッ!』
「え――っ、ぐう……!?」
背中に激痛が走る。“鵺”の爪だった。あれだけの傷を負いながら、まだ動けるとは。“鵺”に苦喰の意識は介在していない。いま“鵺”を動かしているのは、魔力への飢え。生物としての本能だろう。
背中から溢れる熱に苦悶の表情を浮かべる。菜摘が悲鳴を上げた。この場における最高級の食事――憑魔化した陽が狙われるのは当然のこと。無警戒に背中を晒したのが仇となった。普通の生き物ならば即死する攻撃でも、魔童――ひいては堕影においては致命傷にすらならないのだ。
“鵺”の頭部が笑う。ようやくだ、ようやく飢えを満たせる。そんな幸福感に満ちていた。
――いまここで、僕が倒れたら。真中さんは、どうなる?
朦朧とする意識の中で、そんなことを考える。当然、ブレスレットを奪われるだろう。その後、さらなる満足感を得るために、二葉の元へ戻り、襲うかもしれない。そうなったとき――誰が菜摘を守るのか。二葉の敗北は美景家を、さらには憑魔士一族のなにもかもがひっくり返ることを意味する。そうなれば、実権を握るのは大貫家。憑魔士や魔童について知りすぎた菜摘は、真っ先に始末されるだろう。
――そんなこと、絶対にさせちゃいけない。
陽は立ち上がる。足元は覚束ない、視界には靄。戦うことは困難を極めた。それでも陽を立ち上がらせるのは、かけがえのない日常を守るため。そのためならば、ここで死んでいいはずがない。
「……僕は、戦う……死ぬもんか、絶対、守ってみせる……!」
立っているのもやっと。菜摘はその場に座り込み、泣いていた。そんな顔は、見たくなかった。なんとしてでも、全てを捨ててでも、守る。そう誓ったのだ、背中で泣き崩れる少女に。
『――なあ、ヒナタ』
ふと、ヤタが呟いた。
『この状況を打開できる方法があるっつたら、やるか?』
思いもよらない提案だった。堕影の対策も心得ているのかと驚く陽。対してヤタは、至極冷静だった。陽の答えは、聞くまでもない。「やる」と、強い決意を見せる。ヤタは小さく笑った。
――その声に、なぜか胸がざわめいた。
『お前ならそう言うと思ったぜ』
直後、陽の体からなにかが抜けていった。黒い羽根は風に攫われて消え去り、仮面も剥がれる。腕も人間のそれに戻った。憑魔化が、強制的に解除された。制服姿の陽の手に、魔憑銃が握られる。ヤタは弾丸の姿に戻っているようだった。わけがわからなかった。憑魔化なしで堕影を退けることができるのか。ただの人間と、弾丸に。陽には想像もつかない。ヤタはまた、落ち着いた声音で指示を出す。
『“鵺”にオレを撃ち込みな。そうすりゃ、あとは魔童のときと同じ。魔力を喰うだけだ』
「……ちょっと待って、彼はまだ瀕死じゃない」
『そーだな。だから、こっからはオレと“鵺”の勝負。魔力の喰らい合いだ。オレが勝てば、“鵺”の力を吸収した上で苦喰を人間に戻せる。堕影も本来は魔童だからな。魔童の力がなけりゃ、ただの人間。いまのお前さんみてーにな』
嫌な予感がした。ヤタが勝てばいい、勝てば、苦喰はただの人間に戻れる。菜摘も、泣かずに済む。また、普通の高校生として生活できる。
――もし、ヤタが負けたら?
陽の脳裏を過る不安。それを感じ取ったヤタは、あっけらかんと笑った。
『オレが負けたら、“鵺”はパワーアップってわけ。ま、ざっくり言うと憑魔士の負けが決まる』
「……そんなこと」
できるわけがない。そう言いかけて。
『やるっつったのはお前だぞ』
ヤタが遮る。そう、やるつもりだった。ヤタを犠牲にしない方法なら、喜んでその手を打った。けれど――十年間、そばにいてくれたヤタを、文字通り鉄砲玉のような扱いをすることになるなんて、考えていなかった。
引き金を引けずにいる陽。“鵺”ももう、我慢できないといった様子だ。手始めに魔憑銃――そして、ブレスレット。良質なご馳走を前にして、我慢できていたことが奇跡だ。
『カッカッカァ』
ヤタが笑う。突拍子もなく、そんな状況でもないのに、だ。
「ヤタ……?」
『お前は優しい奴だよ、ほんと。オレがどんだけ部屋汚しても、どんだけ騒いでも、どんだけ言いつけを守らなくても、放り出したりしなかった。こんなのと十年も住んでたお前は、オレが知る人間の中でもダントツで優しい奴だよ』
なにを言い出すかと思えば、突然の褒め言葉に動揺してしまう。そして、知っている。こういう台詞を吐くとき、ヤタが見ていた映画やドラマだと、どうなるか。
「やめて、ヤタ……」
声が震える。ヤタは止まらない。いつも通りの調子で、軽妙に続けた。
『少しでもお前の助けになれば、って思ってたけどよ。実際、迷惑かけっぱなしだったわな。カッコワリー話だぜ、カッカッカァ』
「ヤタ! それ以上、言わ、ないで……!」
陽も泣いていた。別れが怖いと、寂しいと思ったのは初めてだった。ヤタだって大切な存在なのだ。二葉や菜摘、太一や悠のように。
ヤタは一頻り笑った後、深く息を吐いた。
『――たまにはカッコつけさせてくれよ』
「ガアアアアアッ!」
“鵺”が鳴く。もう迷っている暇はない。やると決めたのは、他でもない。陽自身なのだから。陽は震える手で、銃口を“鵺”に向ける。
飢餓感に苛まれた牙が迫る。魔憑銃を、陽を、喰い散らかしてやろうと、狂暴な意思を伴って。ヤタが叫んだ。
『撃てっ!』
「――あああああっ!」
陽は、引き金を引いた。
「二葉、大丈夫かい?」
誰かの声がした。聞き覚えはある、が、思い出せない。遠い昔に聞いたような声だった。それは男性のもので、優しく、温かい声音だった。聞いているととても落ち着く。声質だけの問題ではない、二葉の心に訴えるなにかを持っていた。
「二葉ちゃん、大丈夫……?」
続いて、違う声が語り掛けてくる。それは幼くて、儚い。少年と少女の境にあるような声だった。気遣ったような、困ったような、どうしていいかわからない声音だ。なんとなく聞き覚えはあるが、顔が浮かばなかった。
「大丈夫だもん! あたしはお姉さんなんだから!」
最後に聞こえてきたのは、快活そうな少女の声だった。やはり聞き覚えはある。が、顔は思い出せない。誰のものだったかと、靄のかかった頭で考える。続いたのは不安そうな呟きと愉快そうな笑い声。
「頑張らなくていいんだよ? 二葉ちゃんは、僕のお姉ちゃんじゃないもん」
「ははっ、そうだな。二葉は俺の妹だ。お姉ちゃんには、まだなれないよ」
「なれるもん! 陽はあたしより年下だし、弱っちい、から! あたしが、守ってあげな、い、と……いけないんだもん……!」
震える少女の声。そこで二葉はようやく気付く。これが記憶だということに。毎日が幸せで、特別なことなんてなにもなかった、ありふれた日常の記憶だ。空回りする二葉と、心配性な陽、そして――どれだけ失敗しても、泣いても、温かく見守ってくれていた一哉。二葉にとって、最も満ち足りていた頃の記憶。
どうして、いま。こんなことを思い出しているのだろう。考えられるとすれば、これが走馬灯なのだということ。ああ、もうすぐ自分は死んでしまうのか。そうなれば、どうなる? 二葉は考える。
大貫家が憑魔士一族を支配し、なにかしらの形で世界に混乱を招く。そうなったとき、誰が陽を守れるのか。美景家も動けない。菜摘や友人たちでは力不足。ヤタだって、もしかしたら今回の戦いでいなくなってしまうかもしれない。
突如、三点の光が差した。照らされているのは、当時の一哉と、陽、そして――自分自身。彼らは皆、いまの二葉を見つめている。最初に口を開いたのは、幼い陽だった。
「二葉ちゃん、もう頑張らなくていいんだよ。僕は大丈夫だから」
頑張らなくていい? 大丈夫? どの口が言うんだと呆れた。憑魔士の影に怯えながら、たった独りで十年も生きてきた陽。頑張っていたのは知っている。でも、大丈夫じゃなかったことも知っている。
次は、一哉が二葉に呼びかけた。
「俺のことは心配しないで、二葉。安心して、ゆっくり眠りなさい」
心配なんてしたことがなかった。いつだって笑みを絶やさず、皆を惹きつける兄を見て抱いたのは、心配ではなく憧れだった。言われなくても安心してたよ、と。伝えられたらどれだけよかっただろう。
そして――十年前の自分が駆け寄ってくる。
「あたし、頑張ったよね。頑張ってるよね。もう、いいよね。……泣いても、いいよね」
――頑張った? 頑張ってる? 泣いてもいい?
二葉の胸がざわつく。その言葉は、求めていなかった。幼い二葉は、頬に滴を這わせながら続ける。
「一哉兄さんもいなくなって、陽もいなくなって、美景家のみんなも、なんだかイライラしてて、すごく息苦しかったんだもん。でも、“大煙管”と契約して、みんなに認めてもらって、当主になって。あたし、すっごく頑張ったよね。もう、いいよね。頑張らなくて、いいよね?」
「……はあ?」
つい、口をついて出てきた声。二葉は気づく、苛立っている。かつての自分の言葉に。なぜ、苛立つ? 考えて、ようやく気付いた。
――まだ、頑張り足りねえんだよ。
ぐらりと立ち上がる。暗闇の中に照らされる三人は皆、驚いたような顔をした。幼い二葉は、どうして? と呟いた。
「もういいんだよ? なんで痛い思いをするの? 頑張ったじゃん、もういいよ。目を瞑って、楽になろう?」
幼い二葉はいまの二葉を甘やかす。ここで倒れてしまえば、死んでしまえば、きっと楽だろう。痛みのない世界が待ってる。――最愛の兄も待ってる。
けれど、まだ早い。まだ、守らなければならない人がいる。小さな体で、独り。いまも戦う陽を残して先立てるはずがない。
「ざっけんなよ、まだなにも終わってねえ」
幼い陽も駆け寄ってきた。やはり心配そうな、記憶のままの、気弱な面持ちで。
「二葉ちゃん、僕なら大丈夫だから。心配しないで」
「心配しないではあたしの台詞だ、馬鹿野郎。いっちょまえに他人の心配してんじゃねえよ。それに、
首を傾げる幼い陽。二葉は、陽の頭に手を置いて、笑う。十年前となにも変わらず、無根拠な自信に満ちた笑顔で。
「――あんたは弱っちいから、あたしが守ってやらないといけないもんね」
言葉を失うかつての自分、陽も同様。一哉はなにも言わなかった。ただ、目を瞑って頷いた。
「一哉兄さん……」
「まったく、お転婆で意地っ張りなところは変わっていないね。むしろ余計に酷くなった」
呆れたように笑う一哉に、二葉もつい笑みをこぼす。
「余計にってなんだよ、あたしだって頑張ってんのに」
「ふふ、ごめんね。それじゃあ――こんなところで倒れている場合じゃないね?」
「当たり前……!」
手を頭上にかざす。煙が立ち上り、大きな煙管が握られた。焚きつく心、戦う意志はまだ消えない。一哉は優しく、手を振った。
「いってらっしゃい、二葉」
「……!」
不覚にも、泣いてしまいそうになる。そんな情けない姿は見せられない。二葉は口の端を上げた。
「……行ってくる!」
――そして二葉は立ち上がる。血の匂いと、痛みに呼び戻されて。
二葉に気づいたのか、大貫は振り向いた。驚いた様子はない、むしろ鬱陶しそうに肩を竦める。
「まだ立つのか。くだらん意地に動かされることの愚かさも知らず」
「るっせえな……愚かでいいんだよ。あたしにも守るもんがある。だから死ねねえ、てめぇを倒すまで」
「ならば、その意地を折って見せよう。これで終わりだ――」
光が瞬く。二葉は咄嗟に“煙乞”の力を使い、煙管で周囲を薙ぎ払う。大貫からは二葉の背後、遠くにいた。直撃はまずいと判断したのだろう。戦場で戦ってきた者の直感が働いたか。
そして――二葉は薄く笑う。“雷獣”の力、その断片を掴めたのだ。
「まずは尻尾を叩き潰すのが先決か」
大貫の尾。雷を纏い、閃光を吐き出すそれが瞬間移動のからくりだと、二葉は推測する。瞬間移動の直前、必ず尾が光っていた。ただの目暗ましではない。“雷獣”は雷と共に現れる魔童だ。雷――光がなにかしら関係していることは確か。それらの情報から考えられるのは、光が発生した瞬間にしか力は使えない。そして、光を放つ尾こそが、力を使う引き金になるということ。となれば、それを断つのが最善手。
大貫は感心したように息を漏らした。
「看破したか。だが、言っただろう。貴様では私には勝てん」
「どうだか? 大それた計画を立てた割には調査不足だと思ったよ」
「ほう……?」
「ま、誰が教えてやるかって話だな。てめぇが“雷獣”の情報を出し渋ったお返しだと思っとけ」
そして二葉は煙管を握りなおす。頭上に掲げ、硬直。隙を晒す動きだ。だが、それでいい。攻撃を受けても“煙乞”で二葉に力が蓄えられるだけだからだ。狙いは一撃必殺。それは大貫にも言えることだろう。二葉がなにかを企んでいるのは伝わっている、ならば、四の五の言わずとどめを刺しに来るはずだ。
大貫が前傾姿勢を取り、尾が光を放つ。
「――そこだ」
二葉は煙管を構え直し、水平に振るった。途端、高く掲げられた尾が宙を舞い、落ちた。なにが起こったのか、大貫にはわからない。不可視の刃を飛ばしたと考えただろう。だが、そうじゃない。“八咫烏”のような遠隔攻撃は持ち合わせていない。大貫は再び二葉に視線を向ける。一瞬の隙を突き、二葉が肉薄している。煙管が黒い光を発していた。
「余所見してんじゃねえよっ!」
煙管を振り下ろす二葉。大貫はそれを横に転がって回避した。アスファルトは粉々に砕ける。大貫は目を細める。二葉の言葉の意味がわかったのだろう。計画を立てる上で障害となる者のことは徹底的に調べ上げたはずだ。だから、無力な女のことは調べていなかった。それだけの話。
「くくくっ……! なるほど! 確かに貴様の対策を怠ったのは間違っていたようだ!」
「ようやくわかったか、ざまあみやがれ!」
二葉は大きく跳躍し――空中を蹴ってさらに上空へ。“雷獣”に翼はない。空中に出てしまえば、二葉に攻撃する術はないはずだ。そして、空中で停止する。まるで地面に立っているかのように。
「さて、てめぇはここまで来れるか?」
「ああ、行けるとも。尾が潰れたとしても――光は生み出せる!」
儚い光が瞬いた。瞬間、大貫が迫ってくる。左手には、細く小さい懐中電灯のようなものが握られている。尾を潰されたときの保険だろう。だが、先ほどよりも速度が――正確には、距離がない。閃光ほどの強さがない以上、距離にも限度があるようだった。腕を伸ばせば爪が届く。その程度の距離しか出せていない。
「ぬうっ……!」
爪で攻撃しようと腕を振るう大貫に、二葉は煙管を振り上げる。腕を弾き、体勢を崩した。二葉は視えない足場を蹴り、“煙乞”で溜めた力を全て身体能力に転換する。煙管が激しい光を放った。思い切り振り被り――
「死に腐れ、老害がァ!」
叩きつけた。渾身の一撃は腕に防がれたものの、衝撃は緩和できない。さながら流星のように落下する大貫。もうもうと立ち込めるアスファルトの塵に視界が遮られる。だが、二葉も全ての力を使い果たしたはず、追撃はできない。そう思っただろう。
二葉はまだ、空中に立っていた。呼吸は荒く、上半身が不安定に揺れている。もう限界だった。
「く、くくく……! 無力な女がてこずらせてくれる! だが、もう終わ、り……!?」
体が動かないことに気がついたのだろう。塵に紛れて拘束の煙が放たれていたことに気がついていなかったようだ。二葉は視えない足場に腰を下ろし、大貫に語りだす。
「“大煙管”が煙を操る魔童だと思ってたんだろ。ワリィけど、煙の形を取ってるのはただの演出。“大煙管”の趣味なんだわ」
エンカンは煙管を咥えている。本当の煙草ではないのだが、そういった魔童の嗜好が憑魔化した際に反映されることがある。今回はそれが功を奏し、“大煙管”は煙を使う己影であると誤認させられた。二葉は胸ポケットから小さな箱を取り出す。勿論、煙草だ。
「“大煙管”の本当の力は、大気を操ること。尻尾を切り落としたのも、超圧縮した大気を煙管で打っただけだ。野球のノックみてえなもんだよ。この足場だってそう。人間一人が乗れるくらいの箱を作っただけ」
大貫の目が見開かれる。戦闘中に“煙乞”を使っていたこともあり、煙の印象を強く植えつけられていたことに気づいたのだろう。無力な女と侮った、それが仇となったことをようやく自覚したようだ。
二葉は煙草を咥え、火を点ける。もう勝負は決まったものだから。
「騙された、なんて思うなよ。てめぇが誤解したのが運の尽きだ。それともう一つ。あたしは一発逆転の布石を打ってたのさ。派手に巻き上げたアスファルトの塵と……なんだと思う?」
大気を操る力。“大煙管”の力は圧縮だけに留まらず濃度も調整できる。そして、打った布石は二つ。粉塵と――。
理解したのだろう、二葉の最後の一手を。大貫は息を漏らした。
「ああ、そうだ」
思い出したように呟く二葉。煙草を空中で揺らし、灰を落とす。風に運ばれ、どこかへ消えた。
「最期に一つ、いいこと教えてやるよ。冥土の土産に持ってきな」
二葉は、吸いかけの煙草を放る。喫煙者として褒められた行為ではない。落下する煙草は、一直線に大貫の元へ。
「てめぇの敗因は――」
「おのれ……!」
吐き捨てた瞬間、閃光、轟音、熱風。それらが同時に巻き起こった。二葉が打った最後の一手――粉塵爆発だった。電波塔が倒壊するほどではなかったにしろ、甚大な被害を与えた爆発。中心にいた大貫が、生きているはずがない。
二葉は再度、煙草に火を点ける。そして。
「――相手があたしだったことさ」
ようやく顔を見せた月に向かって、そっと煙を吐き出した。
放たれた
“鵺”が地獄の唸りのような声を上げる。魔力を喰らうだけではない、喰らわれているのだから。お互いが牙を向け、喰らおうとしている。どちらかが倒れるまで続く。どちらの牙が先に折れるか、いつ終わるかもわからない。
――最後まで見届ける! ヤタが、僕が、世界がどうなったとしても!
魔力の喰らい合いは拮抗していた。“鵺”に残された魔力と、ヤタが持つ魔力が同程度なのだろう。奪い、奪われ、一向に均衡が乱れる様子はない。長い戦いになりそうだった。
陽の背に隠れる菜摘は、どうしていいかもわかっていない。ただ、苦喰を――九直日影を助けようとしていることは伝わっているのだろう。陽の肩越しに声をかける。
「抵抗しないで、九直くん!」
「アアアアア!」
菜摘の言葉が届いているとは思っていない。陽はただ、ヤタの雄姿を見届けることだけに集中した。
『ホォ……! 結構やるなあ、おい! けどよ、こんなもんじゃねーだろォ!?』
ヤタの声が届く。やはり瀕死の魔童を相手にするのとはわけが違う。どうなるかはわからない。自分にも、なにかできることはないのか。ただ見守るだけということが、いまはとてももどかしかった。
「ヤタ……! 頑張って!」
『言われなくても頑張ってらァ! ……ああっ!?』
不吉な音が聞こえた。うっすらとだが、弾丸に亀裂が走っている。“鵺”の勢いが勝っているということだろう。陽はそう直感した。このままではヤタの魔力が一方的に貪られるだけだ。
――どうして僕はなにもできない。ヤタが頑張ってるのに、どうして。
このままではヤタの言う通り、“鵺”がヤタの魔力を吸収し、力を蓄えた上で二葉の元へ飛ぶだろう。そうなれば、憑魔士一族の負けが決定する。なにか、自分にできることはないのか。必死に思考を巡らせるも、ただの人間の陽では力不足にもほどがある。
そのとき、菜摘が声をかけてきた。
「七尾くん、これ、どうなってるの!?」
「九直くんから化け物を引き剝がそうとしています! ですが、このままでは……!」
「なにかできることはない!?」
言葉に迷った。ただの人間が助力できるような状態ではない。それもまた無知が故の言葉なのもわかっている。
陽は考える。ヤタを手伝うには、なにが必要なのか。根性論は意味をなさない、かといって直接的になにかができるわけでもない。
魔力という言葉を使っても理解ができないだろう、陽は言葉を選んで現状を伝える。
「……弾丸に力が不足していて、このままでは押し切られてしまいます! どうにかして力を高めないと……!」
「力を……? あっ!」
菜摘が声を上げる。何事かと思えば、背後からなにかが差し出された。
「これは……」
菜摘が大切にしているブレスレットだった。魔童を除けるためのお守り。いまは魔童を引き寄せるだけの代物。そう、これには憑魔士の魔力がこもっている。それも、相当強く。確かにこれがあれば、ヤタの魔力に上乗せできるだろう。だが、素直に受け取れなかった。
「真中さんが大切にしているものでしょう……?」
「関係ない! これがなくても、壊れても、七尾くんが守ってくれる!」
――ああ、そうか。
自分のやるべきことを忘れかけていた。大切なのはヤタを見守ることじゃない。ありふれた日常を、陽の世界を、守ること。そのために力を貸してくれるというのだ。躊躇う必要がない。
それに、菜摘は言った。「信じてるから」と。
意地を張って気持ちを裏切ることよりも、大切なものを守ることの方が大事だ。
「お借りします!」
菜摘からブレスレットを受け取り、魔憑銃に添える。どうすればヤタに魔力を送れるかはわからなかったが、陽にはこうするしかなかった。
――届け、ヤタに! そして苦喰を! 九直日影を助けて!
弾丸の亀裂が僅かに消えた。“鵺”の頭部が仰け反る。魔力は送られている。だが、足りない。あと少し。
――陽。
その声がどこから聞こえてきたかはわからなかった。優しく、温かい声。誰のものか、わからなかった。ただ、聞き覚えがある。
肩になにかが触れた気がした。見やれば、手があった。菜摘のものではないことはわかった。透けていたから。
「あなたは……?」
――俺の力を少しだけあげる。だからあと少し、一緒に頑張ろう。
「……っ!」
直後、手は消え、声も聞こえなくなった。代わりに、体に力が満ちる。大切な人の力が。あとは、ヤタに魔力を送り込むだけ。
「ヤタッ!」
『おおっ!? こいつは……!』
陽の変化にはヤタも気がついたようだった。弾丸の亀裂は完全に埋まり、“鵺”の頭部を徐々に押していく。このままなら、押し切れる。当然、“鵺”も食い下がる。押し返そうとはしているが、弾丸の勢いには勝てずにいた。魔力が底を尽きかけているのだろう、全身から黒い粒子を放っている。あれは魔童が消えるときと同じ現象だ。
『……カッカッカァ! やっぱお前さん、男前だなァおい!』
遂に――弾丸が“鵺”の頭部にめり込んだ。夜を切り裂く“鵺”の断末魔。空気が震え、枝葉もざわめく。陽も菜摘も、動けずにいた。そして――“鵺”の体は完全に粒子化し、残されたのは苦喰の体だけだった。菜摘が慌てて駆け寄る。
「九直くん! しっかり! 立てる? 息は……してる!」
どうやら死んではいないようだった。陽は安堵から、つい倒れてしまう。すう、と目の前が暗くなる。意識が闇に引っ張られる。菜摘の声が聞こえた。泣いているようだった。
「……よかった、本当、に――」
徐々に遠く、離れていく音。閉ざされていく五感。最後に感じたのは。
――よく頑張ったね、陽。
大切な人の声だった。
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