第10話:陽の世界
「おはよ、七尾くん」
翌日、昨日の豪雨が嘘に思えるほどの快晴だった。エレベーター前で待っていた菜摘に微笑みかける。
「おはようございます、真中さん」
菜摘は知る由もないだろう。そう遠くない未来、命の危険に晒されることを。想像できないだろう、クラスメートに襲われることを。だからこんなにも無邪気な笑顔を見せられる。
陽が抱える危機感は絶対に悟られてはいけない。だから陽も、不自然な笑顔で応えるしかなかった。菜摘はそれを咎めない。陽の笑顔がぎこちないのはわかっているからだ。
九直との待ち合わせ場所でしばらく待つが、やはり彼は来ない。携帯の画面に目を移すが、一人で行くとの連絡はない。菜摘はため息を吐いた。
「連絡できるって言ったのになあ」
「彼、普通の人とは時間の流れが違いますから……おそらく記憶の彼方に飛んでしまったんだと思います」
陽の言葉は的外れでもなかった。九直は陽が五歳の頃――美景家から逃亡した日と容姿が変わっていない。“鵺”を宿す影響なのだろうが、陽が十年分成長しても、九直はまったく成長していない。ただの人間とは本当に時間の流れが違うのだ。
そんなことなど露とも知らず、菜摘は「もう!」と地団太を踏んだ。
「言ったことを守らない人は嫌い!」
「あはは、気をつけます」
「七尾くん、行こ! あたしは九直くんに怒らなければならない!」
九直がただの人間であれば同情した。入学式のときに怒られたことを思い出し、ぞわりと背中が粟立つ。あの日から、菜摘にはもう二度と怒られないようにしようと心に誓った。
――守れなかったら、二度と怒られないだろうけど。
物騒なことを考え、すぐに振り払う。怒られる可能性があったとしても、菜摘を失うわけにはいかない。なにがあっても必ず守る。危機の裏に、命の恩人がいたとしても。
校門前まで歩くと、見慣れた顔が二つ。太一と悠が待っていた。ひらりと手を振る太一。
「よっ。なんだよ、また二人きりで登校しやがってよう、見せつけてくれるぜ」
「そんなに九直に取られるのが嫌なのか? 嫉妬は醜いものだぞ」
「そういうのじゃないよ、九直くんとは連絡がつかなかったから二人で来ただけ。ね、真中さん?」
「そうだよ、もう! 九直くんのバカ!」
再び地団太を踏む菜摘。特に言うこともなく、苦笑で返した。
菜摘とはB組の前で別れ、陽は二人と一緒にF組へ向かった。廊下ではテレビや芸能人の話が飛び交っている。太一は退屈そうに天井を見上げた。
「なんだかなあ、幸せそうな話してるよなあ」
「太一が言うか?」
「なんかさあ、スリルがねーんだよ。話題によ。ほら、こないだの。地震があった日みたいなさあ、スリリングな話がねーよなって」
ぎくり。陽の肩が跳ねる。目敏く察知した悠が意地の悪い笑みを浮かべた。
「どうしたんだ、七尾。表情が固いけど」
悠は気づいている。口の端が震えていた。笑いを堪えている。直接話したわけではないが、察しがいいのだろう。それだけに、いまは彼の顔がひどく邪悪なものに見えた。たまらず気味の悪い笑みを作ってしまう。
「え、あ……はは。いえ、そうですね。スリリングな話題、欲しいですね」
「敬語に戻ってる。もう少しうまく嘘が吐けるようになるといいな」
「あはは……うん、そうする」
「なんだよ。悠は七尾の秘密、知ってんだな。俺には教えてくれねーくせに」
口を尖らせる太一。悠は呆れたように笑った。
「俺は勘付いてるだけ。太一が鈍いのが悪い」
「俺、結構鋭い方だぞ? 女の子の顔色窺うのは超上手い」
「それはそれで大事なスキルだと思うよ、うん」
教室に到着し、自分の席に腰を下ろす。携帯が震えた。見れば、菜摘からのメッセージだった。何事かと思えば、九直についてだった。彼はまだ登校していないらしい。遅刻か、あるいは欠席か。
――いや、今日は休むはずだ。
ヤタが大貫から聞いたという計画。それを実行するためにはもう、九直日影――苦喰に余計な動きはさせないだろう。来たるべきときに備えているはずだ。計画の実行日をいつかは聞いていなかったが、先手を打てるなら打つべき。陽はこっそり返信する。
『九直くんから連絡があったら、僕にも伝えてください』
陽の推測ではあるが、一人で出歩くところを襲いはしない。菜摘の警戒心が高まっている中、一人ではまず出歩かない。陽と二葉が目を光らせているからだ。となれば、九直日影という人間を装って二人で会い、そこで正体を現し、喰らう方がまだ油断させられる。
菜摘にメッセージが届いたときが、計画実行の合図。陽はそう解釈していた。菜摘がその意図を汲んだかはわからない。返事は間を置かずに返ってくる。
『わかった。すぐに連絡するね』
信用はしてくれているようだった。安堵のため息を吐き、携帯を内ポケットにしまう。担任が姿を現し、ホームルームが始まる。
束の間の日常になるだろう。ひとまずは穏やかに過ごすことに意識を向けた。
結局その日は九直から連絡はないようだった。放課後は四人で下校した。太一がどこかへ遊びに行こうと提案し、菜摘はそれに応じる。菜摘が行くのであれば、目が届くところにいた方がいい。悠が陽の肩を小さく叩いた。
「太一と二人は気になるか?」
小声で問いかけてくる悠。やはり嫉妬だと思われたらしい。陽は苦笑をこぼした。
「ふふ、そうだね。ちょっと放っておけないかな」
「まあ、的確な判断だと思うよ。俺も行くから安心してくれ」
「ありがとう、志村くん」
悠がいるなら安心だ。彼は太一のブレーキだと言っていた。役目を果たしているかはわからないが。いくら軽薄な太一でも、他の目があれば下手に手出しはできないだろう。ある意味、九直と同等に警戒が必要かもしれない。
太一と菜摘がこちらに目を向ける。
「なに二人でこそこそしてんだあ?」
「七尾くん、男の子とばっかり仲良くして! あたしも混ぜて!」
「悪いな。七尾とちょっと密談してただけ。七尾は男が大好きだからな、仕方ない」
「誤解を招く言い方はやめてくれる? ちょっとした男の子の会話だよ、気にしないで」
ごまかしきれたかはわからないが、二人は諦めたように顔を見合わせた。陽は内心胸を撫で下ろし、太一と菜摘の率先の元、街へ繰り出した。
電車の中では三人が他愛もない世間話をしていた。陽はというと、二葉と連絡を取っている。大貫がなにか企んでいることを知ってからは、九直の一挙手一投足が不審に思える。動き出す前触れ、嵐の前の静けさとはこのことだ。
二葉からのメッセージは短かった。「菜摘から目を離さないで」。これだけだ。陽も重々承知の上である。九直や大貫が真っ先に狙うとしたら、膨大な魔力を持つ菜摘だ。飢えた“鵺”を満たすのは、もはや菜摘のブレスレットだけだから。
――あれ? でも、待って。
陽は失念していた。学校に行くだけだと思っていたのだ、魔憑銃を持っているはずがない。ヤタも、魔憑銃も、家に置きっぱなしだ。これではいざというときに菜摘を守れない。頭を抱える陽の肩を、菜摘が叩いた。
「なに浮かない顔してるの?」
「ああ、はは……いえ、その、真中さんは命に代えても守りますので、ご安心を」
「お前さあ! そういうのは秘め事にしといてくれねえかなあ!」
噛みつく太一のことも、驚く菜摘のことも、目に入っていなかった。悠はただ静かに笑っていた。
やがて電車が停まり、四人で降りる。四人が向かったのはゲームセンターだ。陽と菜摘はクレーンゲーム、太一と悠はアーケードゲームの筐体に向かった。菜摘はじっと獲物を見定め、コインを投入。普段の快活な表情とは一転、真剣な眼差しで獲物を見据えていた。普段は子犬のようなのに、いまは猟犬のようだった。もう幾らつぎ込んだかわからない。そうして――。
「やった! 獲れたー!」
狙っていたのは、大きなクッションだった。とあるキャラクターをモチーフにしたものだと思う。陽には知識がなかったが、なかなか可愛らしいデザインだ。嬉しそうに抱きしめる菜摘を見て、陽も笑顔を誘われる。
「おめでとうございます」
「ありがと! 七尾くんはやらないの?」
「あはは、ゲームセンターに回すお金がなくて」
「そっかー、一人暮らしだもんね。結構ぎりぎりなの?」
「ええ、まあ」
実際は家賃、光熱費を賄える程度の資金はある。大貫からの支援があるからだ。それに加えてアルバイトもしているので、余裕はそこそこある。ただ、こういった娯楽に手を出す気がなかった。溺れてしまうのが怖いから。
太一と悠はなにをしているのか。探してみると、太一の叫び声が聞こえた。
「あーっ! 致死! あいつ致死持ってる! 悠、助けて!」
「ステージのほぼ真逆にいるから無理、逃げ切って」
「無理無理無理無理あーっ! 落ちた!」
「骨は拾ってあげるよ」
「そんな暇ねえだろ! クソッ、やり返してやるからな! あいつは任せとけ!」
「手伝うよ」
ずいぶんと白熱しているようだった。声をかけるのも悪い。そう思わせる熱気だ。騒いでるのは太一だけだが。まったく知識のないゲームだったが、二人のプレイングを見るのは面白かった。太一は周りが見えていないのか、一人を集中的に追いかけ、悠はその近辺で牽制している。太一の隙を狙った相手を的確に捉える悠。ゲームでも二人はいいコンビのようだった。
そうして、最後の一撃が決まる。悠の攻撃だった。太一がコントローラーから手を放し、諸手を上げて喜びを表現する。
「おっしゃー! ナイスだ、俺!」
「とどめ刺したのは俺なんだけどな。……あれ、二人とも後ろにいたのか」
「見てたよ。二人ともすごかった」
「あたしはよくわからなかったけど、流石って感じだね!」
太一は嬉しそうに笑い、悠は眼鏡の位置を直した。二人のプレイングをもう少し眺めていたが、やはり太一を悠がうまくフォローしている。太一の使っているキャラクターは近接戦闘が得意なようで、最前線で戦っている。悠は逆に遠距離攻撃が得意なキャラクターで、太一とはつかず離れずの距離を保ちながら牽制を続けていた。もう一人のプレイヤーは他の店舗でプレイしているようだったが、うまく二人に合わせて動いているようだった。
「……チームプレイって、すごいな」
「ね。あたしも見習わないと」
そういえば菜摘はバスケットボール部に所属していたことを思い出す。“鬼童”と呼ばれていたことから、あまりチームプレイは得意ではなかったのかもしれない。
「真中さんは、バスケットボールを続けるんですか?」
「えっ?」
目を丸くする菜摘。なにかまずいことを言ってしまっただろうか。
「あ、すみません。触れられたくなければ、別に……」
「続けたいとは思う。でも、周りが見えないから。チームプレイは向いてないのかなとも思う。……だから、高校では別なことがしたいな」
「そうですか。それなら、そのときは――」
「おーっし! 次行くかあ!」
太一の言葉に遮られる。陽は敢えて口を閉ざし、「いずれ」と笑った。
四人で向かったのはファミリーレストラン。各々食べたいものを注文し、品物が届くのを待つ。話題はやはり学校のこと。それと、“大百足”のことだ。
「あれ、藤原秀郷の子孫が倒したとか言ってたみたいだね」
陽はびくりと肩を跳ねさせる。“大百足”を倒したのはなにを隠そう陽なのだが、下手なことは言わない方がいいだろう。悠は淡々と考察を続けた。
「あんなの、いままで見たことがない。きっと誰かがあんなのとずっと戦っていて、それがたまたまこの世界に現れたんじゃないかって思う」
「だとしたら、いままでよく隠し通せてたよな? 隠せないくらい、あの化け物の勢力が強くなったってことか?」
「というより、あの化け物がこちらに引き寄せられた可能性の方が大きいんじゃないか?」
「じゃあなにか? こっちに餌があるって?」
「俺はそう思う」
太一が言う餌とは、まさに菜摘のことだ。本人が気づく由はないが、太一も悠も、鋭い。憑魔士のことなど知るはずもないのに、そういう一族がいるという可能性を見出している。あまり口数が減ると怪しまれるが、どう会話に参加していいのかはわからない。菜摘も同様だった。
聡い悠が陽に問いかける。
「七尾はどう思う? 俺たちの知らないところで、化け物と戦う者がいると思うか?」
「えっ、あ……そうだね。陰陽師みたいなものじゃないかな。僕、そういうオカルトめいた話って苦手なんだ」
「へえ、七尾って案外ビビりなんだな。入学式でクラスメートを半殺しにしたとは思えねえぜ」
「そ、その話はもう忘れてくれるかな……?」
「鮮烈な高校デビューだったと思うよ」
悠はくっくと喉を鳴らして笑う。絶対に忘れてやるもんか、とでも言いたげだった。太一もだろう。菜摘に関しては現場に居合わせたわけではないが、もう二度とやらないでね? と笑っていた。今回は苦笑が漏れる。
「あれ?」
「あ? どーした、菜摘」
「カラスがじっとこっち見てる」
「カラス……?」
ハッとして見やれば、確かにカラスがいた。カラスは不自然に片方の翼を上げた。人間が挨拶しているような振る舞い、間違いなくヤタだ。三本目の脚は隠している。しかし目立つ。背中に小さな包みが括られていた。まるで伝書鳩だ。なにを持ってきたかはわかる。魔憑銃だろう。二葉が気づいて飛ばしたのだと推測した。陽はすくっと立ち上がる。
「七尾くん?」
「少し具合が悪くなったので、先に帰らせてもらいますね。お金は置いておくので」
「なんだあ、急に?」
「ま、止めないよ。お大事にな、七尾」
「ありがとう、それじゃ」
一足先に店を出て、ヤタと合流する。レストランの裏、駐車場にヤタはいた。他のカラスと戯れている。陽の接近を確認すると、カラスはどこかへ飛び去ってしまった。
「おー、ヒナタ。迎えに来てよかったぜ。こいつを渡してこいって、フタバから」
ヤタの背中には、やはり魔憑銃が括られていた。人目に触れる前に手早く鞄に詰め込む。
「さすが二葉ちゃん。これがないと戦えない」
「あと、オレがいないとな。これからは学校行くときも魔憑銃を持て。オレも一緒に行く」
「余計なことしないでよね?」
「当たり前だっての、オレのことなんだと思ってんだァ?」
「カラスよりおつむが弱い子」、本音はこれだがいま騒ぎを起こすのも面倒だ。カラスに襲われる男子高校生など、注目を浴びないはずがない。なんて答えるのが適切か。考えていると、ヤタに突かれる。
「考えるなよ! パッと出せよ! 薄情な奴め!」
「いたっ、いたたっ! ごめんってば! 人目につくからもうやめて!」
勘弁してくれたのか、ヤタが離れる。こんなやり取りができるのも、いまだけなのかもしれない。緊張感がないと言われればそれまでだが、少しでも束の間の平穏を味わっておきたかった。
「それじゃあ、僕は帰るね。ヤタはどうするの?」
「少し情報収集してくる。カラスのコミュニティって結構頼りになるんだぜ」
「夕飯までには帰ってきてね」
「お前はオレの母ちゃんカァ? ま、ほどほどにしとくって。そんじゃな」
ヤタはぴょんぴょんと跳ねながらどこかへ行ってしまう。用件はそれだけだったらしい。菜摘たちに帰ると言った手前、ふらふらしているわけにもいかない。ひとまずは駅に向かうことにした。
「七尾の奴、なんか怪しいよなあ」
陽が帰った直後、太一がぼやく。悠はコーヒーを啜りながら携帯を眺めている。リアルタイムで更新され続けるくだらない発言をだらだらと眺めていた。菜摘は困ったように眉を動かす。
陽がなにをしているのか、菜摘にも詳しくはわかっていない。ただ、空想染みた脅威から自分を守ってくれるということだけはわかっている。それを話したところで、二人は信じるのだろうか。いや、そもそも陽は自ら語ろうとはしなかった。つまり、話したくない、知られたくないことの可能性がある。そうなると、黙るしかなかった。
――七尾くん、こんな気持ちだったんだな。
彼は、一般人を巻き込むわけにはいかないという思いがあっただろう。菜摘としては、話すに話せない。新しい友人は好奇心がたくましく育っている。もし危ないことに首を突っ込んだりしたら? そう考えると、やはり説明することは難しかった。
「まあ、あいつから話してくれるのを待った方がいいと思う。俺たちが詮索することじゃないさ。そうだろ、菜摘」
悠の声に、菜摘ははっと顔を上げる。悠は相変わらず携帯を眺め続けていた。あまり暗い顔をしていては心配されるかもしれない。ひとまず、笑ってみる。
「うん、そうだね。いつか話してくれるよ、友達だもん」
「だといいんだけどなあ? ま、気長に待つか。あーっ、俺らに黙って面白いことに巻き込まれてたりしたらとっちめてやる」
「……それが命懸けのことだとしても、同じこと言える?」
つい、諭すような声になってしまう。菜摘の異変に気づいたのか、太一は目を丸くした。命懸けのなにか、なんて想像もしていなかったのだろう。悠は察しているようではあったが、なにも言わなかった。
「七尾くんは、あたしだけじゃない。太一くんも、悠くんも、守ろうとしてるんだよ」
彼の言う守りたいものは、菜摘だけじゃない。彼にとっては太一も、悠も、特別な存在なのだと思う。なにがどう特別なのかまではわからない。けれどきっと、失いたくないもののはずだ。
神妙な面持ちの菜摘に圧されたのか、太一はバツが悪そうな表情を見せた。
「そっか、そうなのか……そりゃ軽薄なこと言っちまったな……わりぃ」
「軽薄なのは昔っからだろ。いまさら変わるもんか」
「お前さあ、なんでそういうこと言うわけ? 反省してるのにさあ」
「事実だし、察してないのはお前だけだからさ」
「クソッ、勘のいい奴らだ。女の子のことならすぐわかるんだけどなあ」
「七尾は可愛い系だし、守備範囲じゃないのか?」
「ギリギリでファールかな」
「ギリギリなんだ」
「俺の心の線審次第だと思う」
「あたし、真面目な話してるんだけどな……?」
なんだかどうでもよくなってしまった。重たく捉えているのは菜摘だけで、なにも知らない太一はともかく、悠は一歩引いて陽を見ているようだった。なにをしているか察してはいる、それでも、深く干渉する気はないといった様子だ。それでいいのだろう。陽が違う世界の住人ならば、不用意にそちらに踏み込む必要はない。
――そう、あたしにできることは、ない。
そのとき、菜摘の携帯が震えた。通話の呼び出し音だった。発信者は――
「……九直くん?」
悠が僅かに目を細めた。
「菜摘、スピーカーで応答して」
「え?」
「俺たちは黙ってるから、一人でいる体を装ってくれ」
「おいおい、悠。なんだってそんなこと……」
「黙れ。頼んだ、菜摘」
「う、うん」
悠の気迫に負けてしまい、スピーカーでの再生に応じる。
「もしもし、九直くん? どうしかした?」
『話が、ある。電波塔に、来てくれ』
「話ってなに?」
『待ってる』
「え、ちょ――」
通話が切れてしまう。会話が成立していなかった。もともと九直は会話に乗り気ではなかったが、あまりにも不自然だった。こっちの話を聞く気がないのか――あるいは、話を聞くことを忘れてしまったのか。なんにせよ、普通の状態ではなかった。気づいたのは悠も同じだろう。太一も、どこかおかしいことには気づいたようだった。
「九直って、菜摘のクラスメートだよな? なんか変じゃなかったか……?」
「太一ですら気づくんだ、明らかにおかしい。行かない方がいいと思う」
「さらっと馬鹿にしやがったな、お前?」
「……ううん、行く。なんか怖いし」
――もし、応じなければ。なにをするかわからない。もしかすると、酷い目に遭わされるかもしれない。私のやることは、なに?
菜摘たちは会計を済ませ、太一と悠は帰路に着く。「身の危険を感じたらすぐに大声をあげるように」とアドバイスを貰い、菜摘は電波塔へと向かった。
その背後で、三つ脚のカラスが勢いよく羽ばたいた。
地平線に飲まれる夕日を背中に浴び、帰宅した陽を迎えたのは二葉だった。二葉は携帯をまじまじと見つめており、陽には気づいていないようだった。
「ただいま、二葉ちゃん」
その一言でようやく気がついたらしい、二葉がくたびれた顔で無理やり笑う。
「おかえり、陽」
「憑魔士本部からなにか連絡はあった?」
二葉は携帯を机に放る。なにかしらの調査を頼んではいたようだが、表情から察するに実りはなかったようだった。調査の内容として考えられるのは、大貫家と九直日影の関係だろう。
二葉は煙草を咥えて窓際へ向かう。
「大貫家の動きを探ってたのと、九直日影のルーツについて調査を依頼してた」
「……実りはなかった?」
「どうだかね。大貫家はいま、当主不在ってこと。そのことから考えられるのは、今回の件は大貫健三の独断だってこと。そして九直日影のルーツに関しては……なにもわからなかった」
「そうなんだ……でも、そこからわかることもあるね」
美景家が調べてもなにもわからなかった。つまり、九直日影という存在は大貫家の間でも秘匿されていたと考えられる。さらに言えば、大貫賢三がなんらかの目的――憑魔士一族への反逆のために秘密裏に育成した兵士である可能性が高い。
だとしたら、大貫はいつから憑魔士への反逆を企てていた? あるいは、“鵺”自体はもっと昔から管理しており、ずっとその機を窺っていた? だとしたら、何世代前から? 調べれば調べるだけ膨らむ謎。その点に関しては、大貫と対峙した際に問い詰められればいいだろう。それほどの余裕があるとは、陽には思えなかったが。
「……二葉ちゃん」
「ん?」
「僕、ね。決心がついたよ」
「そう」
二葉は窓の外を見たまま、煙を吐き出した。陽を見てはいない。なにも期待していない、とでも言いたげだった。それでいい。陽の戦う理由は、もう決まっている。揺らぎはしない。
「ま、そのときまで楽しみにしとくわ」
「そう。じゃあ、待ってて」
「はいよ。……ん?」
二葉がなにかに気づく。ふい、と顔を逸らすと、ヤタがすごい速度で部屋に入ってきた。気づくのが遅ければ、二葉の額は貫かれていたかもしれない。よくもまあ涼しい顔をしていられるものだと驚く陽。それにしても、ヤタがこんなに慌てて帰ってくるのも珍しい。なにかあったと考えるのが妥当だろう。
「なにかあったの?」
「のんびりしてんな! ついてこい!」
「チッ、動いたか!」
灰皿に煙草を押し付ける二葉。焦るヤタなんて見たことがない、二葉も同様だ。こうなれば、陽にもわかる。
大貫が、動き出したのだ。そして、彼らが接触する最初の人物は――真中菜摘。先に帰る、など言わなければよかった。歯噛みする陽だが、後悔している暇などない。
「行こう! ヤタ、憑魔化を――」
「しなくていい! ここから飛び降りろ!」
「えっ?」
スタントマンでもない陽がマンションから飛び降りれば、間違いなく転落死。血の気の引いた陽をよそに、ヤタは先に窓から飛び出した。このままでは置いていかれてしまう。不安で体が動かない陽を、二葉は体の前に抱える。お姫様のように抱えられ、混乱が加速する陽。
「ほら、行くぞ! 舌噛むから口閉じな!」
「え――えええっ!?」
陽を抱えたまま、二葉は窓から身を乗り出した。そして――跳んだ。ふわり、と体が宙に浮く。そして、落下。“大百足”と対峙したときと同じだ。無力に落ちていく感覚。ぎゅっと目を瞑り、着地に備える。二人は隣家の屋根に着地した。ずん、と重たい衝撃が走る。どうやら無事なようだった。
「さっさと立つ! もうお姫様抱っこはできない!」
「わ、わかってる! でも、なんで僕たち無事なの……?」
「前に言ったろーが、憑魔士は常人の身体能力の比じゃねーってよ!」
待機していたヤタが諭す。だとしてもだ、特撮ヒーローじゃあるまいし。まだ理解が追い付かないが、のんびり納得している暇もない。二葉はスタントマンのように屋根から屋根へと飛び移る。陽も意を決して追いかける。躊躇するだけ無駄だ、全力で屋根を蹴る。
「うわっ――」
体が軽い。陸上選手も真っ青の跳躍力だ。隣の屋根に足はついたものの、上手く着地はできず、もつれてしまう。だが、立ち止まれない。再び助走をつけて跳躍。二葉はずいぶん先に行ってしまっている。ヤタが先導しているのだろう。追いつかなければ話にならない。二葉の背中を見失わないようになんとか追いかける。
線路が見えたところで、二葉が屋根から飛び降りる。陽も追って飛び降りた。着地は相変わらず上手くいかないが、二葉は待っていてくれた。陽の手を掴んで無理やり起き上がらせる。ヤタもそばに寄ってくれた。
「大丈夫か、ヒナタ!」
「走れる?」
「大丈夫、急ごう!」
二葉と並んで、今度は地上を走る。ヤタの背中が見える距離は幾らか安心した。
ヤタがどこに向かっているかはわからなかったが、線路沿いに走っているということは街の中央部へ向かっているはずだ。菜摘はまだ帰っていないのか? 苦喰から連絡が来たらすぐ連絡をするように言っていたが、連絡がないということはもう接触している可能性がある。焦燥感が胸をかきむしる。
手遅れになる前に――
「ヤタ、まだつかないの!?」
「あそこだ!」
ヤタが示したのは、広い公園の中にそびえる街のシンボル――電波塔だ。ヤタいわく、大貫たちは菜摘をそこに呼び出したらしい。菜摘が到着する前に向かわなければならない。二人は風を切るように走る。
公園が見えてくる。電波塔の下には――大貫賢三と苦喰。そして、二人に近づく少女。
「真中さんっ!」
叫ぶ陽。振り向く菜摘。なにも知らない人々の視線が集中する。苦喰がゆらりと動いた。隣で銃声。凶悪な牙を剥く苦喰の動きが止まった。二葉が“大煙管”の力で拘束したようだった。
なにが起こっているのかわからない様子の菜摘だが、陽と二葉が来たことで理解したのだろう。陽の後ろに隠れる。大貫が肩を竦めた。
「どこまでも邪魔をしてくれる、無力な女の分際で」
「生憎、こっちの世界を守るのが憑魔士の本分なんだよ。どんな理由があろうが、一般人を襲う奴は見過ごせねえな」
“大煙管”の拘束を解こうと暴れる苦喰。大貫の視線は、陽を見据えた。
「久しいな、陽」
「ご無沙しています、大貫さん」
「私の目的については聞いているだろう。――お前は、どうするのだ?」
試すような、確かめるような声音。大貫は疑っていない。陽の答えを。それを以て、憑魔士へ反旗を翻すきっかけとする気だろう。わかっている。
陽は俯き、拳を握る。深呼吸を一つ、気持ちを落ち着けて。
「僕には――」
語りだす。
「僕には、たくさんの恩人がいます」
ある人は、命を救ってくれた。
ある人は、無知が故に関わってくれた。
ある人は、罪を犯した僕を信じてくれた。
ある人は、偶然の出会いから十年間そばに居続けてくれた。
そしてある人は――名前をくれた。
これまでの出会いを、偶然を、運命を、手繰り寄せるように思い出す。
「僕の世界は、貰い物ばかりです。それでも全部大切で、僕だけのものなんです」
この命も、繋がりも、受動的に得たものだ。陽が望んで得たものではない。けれど、いまでは全てかけがえのない宝物になった。
「あなたがなにを企んでいるかは聞き及んでいます。憑魔士の頂点なんて、勝手に奪えばいい」
二葉の表情に驚きが映る。大貫は動かない。苦喰の拘束はほどなくして解けそうだった。時間に余裕などない。
「けれど」
それでも、これだけは伝えたい。
「――
絶対に守ってみせる。陽の決意は、大貫に届いただろうか。彼の表情に変化はない。二葉は安心したのか笑みをこぼした。大貫はやがて、俯いた。肩が竦む。
「残念だよ、陽」
「残念ながら、あなたの道具にはなれません。僕はあなたと戦う。そして、守ります」
「くっ……はっはっはっはっはっは!」
大貫は笑う。人々は徐々にざわめきだした。なにかの撮影かと思ったのか、カメラを起動する者まで現れる。陽も二葉も、気にしている余裕はなかった。大貫は一頻り笑い、天を仰ぐ。そして、懐から銃を取り出した。魔憑銃だ。戦う準備はできている、ということ。
「ならば始末しよう。私の邪魔をするならば大人も子供も、男も女もない。ただの敵だ」
九直を捕らえる二葉が叫ぶ。
「陽! わかってんな!?」
「勿論」
ちらりと、背後の菜摘を見やる。不安そうな表情をしていたものの、力強く頷いた。
「信じてるから」
「裏切りません、絶対に」
陽は魔憑銃を取り出し、こめかみに突きつける。
「行くよ、ヤタ!」
『おーよ! 待ちくたびれたぜ!』
大貫もまた、同様の仕草を見せる。そして――どよめきを切り裂くように、撃鉄の音が重なった。
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