第9話:宣戦布告
菜摘との一件から二日後。昨日は気持ちが沈んでなにも手につかなかった。今日は登校日。“大百足”のことは学校でも触れるだろう。菜摘の気持ちがまた乱れるようなことがないように祈る陽、制服に袖を通す動きはとても緩慢としていた。
はあ。無意識に零れるため息。ヤタは陽の背中を突いた。
「こら、その顔やめろっつーの。菜摘が見たらまた怒鳴られるぞ」
「わかってる。わかってるけど……やっぱり難しいよ」
「ったく、女々しい奴だなお前さんは。もっとどーんと構えてろっての」
「わかってるってば、うるさいなあもう」
「なんて口の利き方すんだ、この!」
背中が激しく突かれる。ブレザーに穴が空きそうだった。口論になる二人をよそに、二葉はテレビを見ている。いまだ“大百足”に関する報道は熱が冷めない。二人のやり取りに耳を寄せてはいたのだろう、ふっと笑う。
「あんたは気にしすぎ。クラス違うんでしょ? ならいいじゃん」
「二葉ちゃん、簡単に言うよ……結局、二日前はなにをしたの?」
「さあ? すぐにわかるんじゃない」
「はあ……?」
二葉の意味深な笑みに首を傾げる。二日前の夜中に帰ってきたときも、菜摘に対してなにをしたのかは口にしなかった。穏便な方法を取ったかの確認だけはしたが、「菜摘はいい子だね」と。内容こそ教えてくれなかったものの、いつの間にか名前で呼んでいることに驚いた。上手くやってくれたのだと思いたい。
間もなく家を出る時間。ため息と猫背で陰鬱とした空気を隠し切れない。二人の顔を見ることもなく扉を抜けた。重たい足取りで廊下を歩くと、エレベーター前で菜摘が携帯を覗いていた。
「あ……真中さん、おはようございます」
挨拶しないのも失礼だと思い、声をかける。どんな反応があるだろうか。もう関わらないで、などと言われてしまったのだから、挨拶されることすら嫌なのかもしれない。菜摘の視線が陽に向く。心臓が一際大きく跳ねた。不安がる陽とは対照的に、菜摘はにっこりと人懐こい笑顔を見せた。
「おはよう、七尾くん」
「……え? あ、はい……」
まるで予想していない反応に、陽は目を見開いた。いまにも眼球がこぼれてしまいそうな顔に、菜摘は吹き出す。
「あははっ、なにその顔!」
「あ、いえ……その……先日は、申し訳ありませんでした」
頭を下げる陽。謝っても許されないのは二日前にわかっていた。それでも、謝らざるを得なかった。なんと言われるだろうか。早鐘を打つ心臓がうるさい。足音が近づいてくる。陽の前で止まり、後頭部に固いなにかが触れた。携帯の角だった。
「あの……?」
「あたしもごめん。この間は言い過ぎちゃった」
さらに予想外の言葉を受け、陽の頭は加速的に混乱した。いったいなにが起きている? どういう心境の変化だ? 二葉はいったいなにをした? 疑問は際限なく溢れてくる。
顔を上げると、菜摘が申し訳なさそうに俯いていた。
「二葉さんから聞いたんだ。やっぱり詳しくは教えてもらえなかったけど……七尾くんに悪気はなかったってわかったから。あたしからも、ごめん」
「……いえ。その、口下手ですみませんでした。ですから、改めて」
「うん」
陽は胸に手を当て、深呼吸。菜摘の目を真っ直ぐに見つめる。
「――あなたを守らせてください」
「うん、よろしくお願いします」
お互いに頭を下げ、奇妙な沈黙が二人を包み込む。そうして――
「ふふっ」
「あははっ、なにこれ?」
笑い合う。
なんにせよ、二葉のおかげでまた元通りだ。なにをしたかは結局教えてもらえなさそうだが、ありがとうくらい言うべきだろう。
二人はエレベーターに乗り込み、通学路を辿る。菜摘はこれからやりたいことなどの話を嬉々として語った。以前よりも、少しだけ会話することを覚えた陽は相槌を打つだけでなく菜摘の話を拾った上で言葉を返すようになった。そうして、いつもの場所で九直を待つ。しかし、いくら待っても姿が見えない。そろそろ向かわないと遅刻してしまいそうだった。菜摘もおかしいと思ったらしく、携帯を見た。連絡はなかったらしい。
「九直くん、遅いね」
「そうですね、どうしたんでしょう」
おそらくは、“鵺”としての弊害が体に出ているのだろう。“大百足”と戦った日以来、姿を見ていない。あのとき九直の相手をした二葉はなにか知っているのだろうか。九直についてなにも語らないのは、いまになって思えば不気味だった。
二人は仕方なく学校へと向かう。道中も菜摘はいろいろな話をする。陽も嬉しそうにそれを聞いていた。陽の知る真中菜摘が戻ってきたと思うと笑みがこぼれる。
校門を潜ると、生徒たちの声が聞こえてくる。やはり“大百足”の話で持ち切りだった。菜摘の表情に影が差す。なにかフォローするべきかと迷う陽だが、菜摘はすぐに笑顔を見せた。作り物だとしても、ずいぶんと精巧な笑顔だった。
「大丈夫ですか?」
たまらず聞いてしまう陽。菜摘は力強く頷いた。
「うん、大丈夫。七尾くんがいるから」
「あはは……誠心誠意、尽くさせていただきます」
ここまで信頼されるのもかえって重圧になるが、口には出さなかった。
背後から駆け足が迫ってくる。反射で警戒心が働き、鋭い眼差しを向けた。足音が急停止する。怯えた顔の太一と、朗らかに笑う悠がいた。
「滝本くん? 志村くんも、おはよう」
「お、おはよう……びっくりしたぜ、いきなり怖い顔するから……」
「太一の足音が危機感を煽るからだろ。おはよう、七尾」
「はじめまして、七尾くんの友達?」
菜摘が二人をまじまじと見つめる。太一と悠は姿勢を正し、菜摘に向き直る。
「滝本太一っての。七尾の友達、よろしくな!」
「俺は志村悠。同じく、七尾の友達だよ」
「よかったー! 七尾くんにもちゃんと友達いたんだね! あたし、真中菜摘っていうの、よろしくね!」
あっという間に打ち解けてしまう三人。陽はずいぶん時間がかかったというのに、高校生のコミュニケーションはこんなものなのだろうか。少しだけ、寂しくもある。
玄関に向かって歩きながら他愛もない雑談をしていると、悠が唐突に切り出す。
「真中さんは七尾の彼女なのか?」
「は、え?」
「違うよ?」
戸惑う陽をよそに、一刀両断の菜摘。太一が退屈そうに頭の後ろで腕を組んだ。
「なんだ、違ったのかよ。てっきり菜摘と付き合ってんのかと思ったぜ」
「でも、あたしのことを守らせてって言ってくれたんだ。ね、七尾くん」
「え、あ、はい」
気のない返事をした陽とは対照的に、太一と悠の表情が一変した。太一はぽかんと口を開けたまま動かず、悠は面白がるように口の端をあげた。
「へえ、ずいぶん進んだな、七尾?」
「おま、お前……! それは、高校生の言葉じゃねえぞ……!」
「そうかな?」
陽としては、魔童の脅威から必ず守るというニュアンスだったのだが、二人は異なる意味で捉えていたようだった。他の捉え方が陽にはわからず、首を傾げるばかり。菜摘に目配せしてみるが、彼女も様子がおかしい。どうやら太一や悠の捉え方を理解したようだった。敢えて聞く必要もないだろうと判断し、一人でそそくさと玄関へ向かう。
靴を履き替えていると、視線の先に不揃いな白髪が見えた。間違いない、九直だ。声をかけるべきか考えたが、様子がおかしい。足元が覚束ない。普通なら風邪でも引いていると見るだろう。だが、陽にはわかる。“鵺”を抑えられていないようだった。
あのまま菜摘と会わせるのは危険。そうなれば、釘だけでも刺しておくべきか。
「九直くん、おはようございます」
背中に声をかけても反応がない。いつ倒れてもおかしくない足取りだ。肩に手を置き、再度声をかける。
「九直くん――」
ぐるりと顔が陽の方に向く。目は虚ろで、焦点が合っていない。ゆっくりと口を開いた。
「お前は、美景、陽」
「七尾陽です。大丈夫ですか?」
「なんの、話だ」
声が小さい。それに、つかえている。以前よりも人間から離れているように見えた。やはり危険だ。菜摘に会わせるのはよくない。陽は肩に置いた手に力を込める。
「……具合が優れないように見えます。今日は早退することをお勧めします」
「大丈夫だ」
「ですが――」
「あれ、九直くんだ」
しまった、と唇を噛む。菜摘たちが来てしまった。太一と悠も、九直を珍しそうに見ている。金髪の太一が珍しがるのも奇妙なものだが、白髪の九直も相当目立つ。なにより、陽が自分たち以外に話ができる者がいるとは思わなかったのだろう。
「なんだ、七尾の友達?」
「菜摘ちゃんも知ってんだな、B組の奴?」
「そうなの。もう、なんで一人で行っちゃってたの? 待ってたのに!」
九直の元に駆け寄る菜摘。咄嗟に手で遮ってしまう。菜摘は驚いたような顔を見せた。太一と悠はいやらしい笑みを浮かべている。
「はは、青春だね」
「可愛いとこあんじゃんか」
「七尾くん、どうしたの?」
不思議そうに尋ねる菜摘に、うろたえてしまう。なんと説明すればいい。仮に二葉が少し説明していたとして、九直のことには触れていないはずだ。九直の異変は陽にしか感じられていない。どうすればいい。悩む陽よりも早く、九直がぎこちなく笑う。
「ああ、悪い。一人で、行きたい気分、だった」
「次からは連絡してね、できる?」
「できる」
「ならよし、行こ! 七尾くん、太一くん、悠くん、またね!」
九直を連れて階段を上っていく菜摘。陽はその背中を不安そうに見つめる。両肩に手が置かれた。
「ヤキモチはみっともねえぞ」
「クラスが違うから好感度維持は忘れないようにな。寝取られ属性はないだろう?」
なんの話をしているのかがわからなかったが、気にかけていた方がよさそうだ。
階段を上り、F組の教室に到着する。太一と悠はすぐに鞄を置いて談笑するが、陽はトイレに向かった。二葉に連絡するためだ。九直の様子がおかしいこと、また、九直と戦闘したときになにがあったかの確認だ。メッセージを送り、返信を待つ。始業のベルが鳴ったところで教室に戻る。
既に担任が到着しており、クラスメートの奇異な視線が陽に注がれる。担任はもはや呆れたような顔で肩を竦めた。陽も申し訳なさそうに頭を下げ、自分の席へ戻る。
そのとき、携帯が震えた。二葉からのメッセージだった。
「え――」
息が詰まる。メッセージには、こうあった。
『大貫賢三が姿を見せた』
なぜ、陽の前には姿を見せないのに。九直日影――苦喰とは密に連絡を取り合っているというのに。どうして自分の前には姿を見せない? それどころか、喋ることすらしない?
動悸が早まる。どうして――どうして?
放課後、陽は菜摘と九直、三人で帰路についていた。太一と悠は電車を使って登校しているため、校門で別れた。すっかり打ち解けた様子の菜摘たちを見て少しだけ気が楽になった。そもそも心配など欠片もしていなかった。彼らが人と関わるのが得意なことは、充分知っていたから。
九直の様子はおかしいまま。危うい歩みで、なんとか菜摘の隣を歩いている。菜摘は九直の異変に気づいてはいるようだが、なにも言わなかった。教室でそれとなく触れてみたのだろう、九直も大丈夫と返したはずだ。陽はそれが不安で仕方がなかった。なにが大丈夫なものか、絶対になにかある。そう確信していた。
菜摘が陽の顔を覗き込む。心配そうな面持ちに、苦笑する。
「大丈夫? 七尾くん、ずっと怖い顔してる」
「あ、はは……よくないですね、真中さんを見習わないと。笑顔、笑顔」
無理矢理笑顔を作るものの、なにかと考えがちな陽にはまだ難しかった。菜摘は可笑しそうに吹き出す。なんとか場を和ませられたならいい。
マンションの前まで来たところで、菜摘がくるりと振り返る。
「それじゃ、九直くんとはここでお別れだね。また明日ね!」
「ああ、またな」
「行こ、七尾くん!」
「あ、僕は……」
九直を一人で動かせるのは危険だと判断してしまう。菜摘と距離が離れれば、問題はなさそうか? 菜摘を守るために、自分がすべきことは? 陽は逡巡し、困ったような笑みを作る。
「ごめんなさい、今日は九直くんと遊ぶ約束をしていて」
「え、そうなの? なんであたしは誘ってくれないのー!?」
「あはは、男同士で語らいたいときもあるんです。ね、九直くん?」
反応は求めていなかった。ただ、拒絶さえされなければいい。九直はやはりぼんやりと立ち尽くしていた。しかし、顔の向きだけはしっかりと菜摘を見ていた。やはりブレスレットに惹かれているのだろう。いますぐにでも喰らい尽くしてしまいたい、とでも言いたげな獰猛な空気を放っていた。
九直からの返事がないものの、菜摘は興味深そうに頷いた。
「男同士で語り合う……そっか、そういうこともあるんだよね、きっと。あーもう、なんであたし女なんだろう?」
「そうがっかりしないでください。真中さんは女性である方が真中さんらしいですよ、きっと」
「適当なこと言って! この!」
菜摘に肩を殴られる。じゃれているようなものなのだろう。陽も明るく笑って謝る。
「あはは、すみません。またの機会に」
「絶対だからね!」
「はい、それでは。行きましょう、九直くん」
九直の手を引いて、少しでも菜摘から遠ざける。いまにも転びそうな九直を半ば引きずるように歩いていると、ふいに手が振り解かれる。九直の視点はいまだ定まらない。いったいなにがあったのか。大貫と接触していたなら、彼がなにかを施した可能性はある。それを問い詰めて、答えられるだろうか。陽はもう表情を繕うこともせず、語りかける。
「お話しましょう、九直くん」
「話すことなど、ない」
「大貫さんになにをされたんですか?」
「話すことなど、ない」
一点張りで話が進まない。二葉から話を聞いた方がいいだろうか。ならばこのまま解放してしまってもいいのか。しかし、九直を一人にするのも不安だ。なにをしするかわかったものではない。
――どうするべきか。
悩む陽をよそに九直は歩き出す。どうやら話はここまでらしい。そもそも彼がどこに住んでいるのかはわからないが、陽の家とは逆方向のようだった。陽は走る。すぐに帰って二葉に話を聞くべきだ。
走っている最中、メッセージが届く。悠からだった。
『七尾、ちょっといいか?』
「……志村くん? どうしたんだろう」
返事をするのは後にしよう。いまは帰宅することが先決だ。既読のマークだけつけて、再び走る。
自宅の扉には鍵がかかっていた。いつもなら開け放しているのだが、なぜ? 鍵を差し込み、回す。勢いよく扉を開くものの、部屋には誰もいなかった。
「ヤタ? 二葉ちゃん? 二人ともいないなんて珍しいな……そうだ、志村くん」
後回しにしていた返信を送る。なんの用かの確認だ。悠からはすぐに返事が来た。
『菜摘と同じクラスの彼、クジキって言ったっけ。なにか変だったと思って。七尾の知り合いなんだろう? 大丈夫か? 普通じゃないように思えた』
また口を閉ざさなければならないのか、と頭を抱えた。憑魔士関連の話はできない、となればやはりごまかすしかない。菜摘のときと同じ過ちを繰り返してはいけない。そう考えると、言葉選びには慎重になる。あまり長い時間放置していくとかえって怪しまれる。
「……ひとまず、これで」
『彼は昔から、夜更かしする人なんだ。たぶん徹夜だったんじゃないかな?』
当たり障りない回答ではあると思う。悠は怪しむだろうか。既読のマークがつくものの、返信がなかなか来ない。いまは待つしかなさそうだ。二葉もヤタも、そのうち帰ってくるだろう。落ち着かない気持ちもあるが、ひとまずテレビの電源を点けてみる。
“大百足”に関する報道も落ち着きはしたものの、報道番組では“大百足”についての考察コーナーが設けられていた。やはり藤原秀郷と関連付けられている。驚いたのは、戦っている小さな影が彼の遣いではないかと考察されていた。ここまで非現実的な出来事だと、考察もやはり現実味のない話になるようだ。
彼の言う遣いはここにいる。陽は苦笑した。そのとき、携帯が鳴る。メッセージ受信の通知音だった。悠からだ。
『七尾は隠し事が多いな』
息が詰まる。見抜かれていた。深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着ける。悠から続けてメッセージが届いた。
『詳しく教えろとは言わない。危ないことだろうとは思ってるけど。だから、無茶だけはしないでくれ。俺も太一も、同じこと思ってるから』
陽が危ないことに関わっていると確信した上で、悠は慮ったような言葉をかける。素直に嬉しいと思った。いままでこうして、心配して言葉をかけてくれる存在がいなかったから。ずっと一人で、人目を忍んで生きてきたから。迂闊にも泣いてしまいそうになる。涙がこぼれる前に袖で拭い、改めて画面に向き直る。
『大丈夫、ありがとう。九直くんのことは僕がなんとかするから』
『わかった。力になれることがあったらいつでも言ってくれ。法に触れない程度のことなら手を貸すよ』
『ありがとう。それじゃあ、また明日』
一区切りつけたところで、扉がガチャガチャと音を立てる。何事かと思えば、二葉が帰宅したようだった。部屋に入るなり、陽にひらりと手を振った。
「おかえり、陽」
「二葉ちゃんもおかえり。どこに行ってたの?」
「美景家と連絡取ってた。主に、銀次郎さんと」
「銀次郎様と?」
美景銀次郎は一哉が当主になる以前から美景家を支えている、忠臣とも言える人だった。一哉に拾われた陽の教育係でもあり、厳かな髭が特徴的な壮年の男性だ。厳しいこともいくらか言われたことがあるが、褒めることも忘れない。飴と鞭が上手な人だった。周りの人には「
あれから十年経ったいま、銀次郎は本当に「爺」になっただろう。もう受け入れているのだろうか。二葉は思い出して、笑みをこぼす。
「銀次郎さんにはしこたましごかれたもんな、陽」
「うん、何度も泣いたよ。元気そうだった?」
「年寄りのくせにいつまで経っても角が取れねえなあって思ってる。……ああ、それと。あんたのことも言ってたよ」
跳ねる心臓。銀次郎にはずいぶん世話になった。だというのに、美景家では陽が一哉を殺したと認識しているはずだ。なんと言われるかわかったものではない。それでも、つい。
「なにか言ってた……?」
聞いてしまう。二葉は窓を開け、煙草を咥えた。
「生きてるならそれでいいってさ」
予想外の言葉に面食らってしまう。どれだけ罵声を浴びせられたのかと覚悟していた。言葉少なとはいえ、陽の身を案じていたとは思いもしなかった。体の力が抜ける。たまらず尻もちをついてしまった。二葉は煙草に火を点け、煙を外に吐き出す。直後、けらけらと愉快そうに笑った。
「まあ、そうなるわな。言ってなかったけど、あんたのことは定期的に美景家に報告してたんだよ」
「な、なんで……」
「あんたの潔白を証明するために」
二葉がそこまでする理由がわからなかった。まだ一哉を殺していない証拠は出していない。だというのに、どうして陽がやっていないと確信した行動を取れるのか。二葉の信頼を取り戻せるようなことなど、ただの一つもしていないのに。
陽の心情を読み取ったらしい、二葉は灰皿に煙草を押し付けた。
「あんたと一緒に生活して、戦って、わかった。一哉兄さんを殺した奴は他にいる。あんたじゃない」
「でも、証拠を提示してないのに……」
「じゃあ、これが最後の確認。正直に答えて。――あんたが一哉兄さんを殺したの?」
真摯な眼差しに、陽はうっかり目を逸らしてしまいそうになる。ここで逸らしてはいけないとわかっていた。二葉から逃げる真似はしたくない。向けられる視線から逃げず、真っ直ぐに見つめて。
「僕じゃない」と告げた。
二葉は笑った。わかっていた、とでも言いたげに。彼女の中ではもう、陽への疑いはとっくに晴れているようだった。自分のなにがそう確信させたのかはわからない。けれど、嬉しかった。話を聞いてくれて、守ってくれて、その上で害がないと判断してくれた。いくらか心が救われたような気がした。
炊飯器を開ける二葉。もうもうと煙が立ち、甘い匂いが鼻孔をくすぐった。
「さ、飯にすっか。ヤタもそのうち帰ってくるでしょ」
「うん、そうしよう。野菜炒め作るね」
――今日は腕を奮って作ろう。これくらいでしか、恩返しできないけど。
陽は冷蔵庫から野菜を取り出し、台所へ向かった。ふと、窓の外を見やる。夕日はいつもより赤く見えた。
日も沈み、暗闇が街を覆う頃。月が隠れる夜だった。暗雲が立ち込め、いまにも降り出しそうな空の下。
大貫賢三は街を見下ろしていた。背後には、やはり焦点の定まらない九直日影――苦喰がいる。胸を押さえ、荒い呼吸で大貫になにかを乞っていた。振り返ることはない。懐からブロック状のなにかを取り出し、苦喰に放り投げる。苦喰はそれに飛びつき、貪った。二葉と戦闘の際にはそれで落ち着いていたが、もうそれでは凌げないようだった。限界が来ている、大貫は空を見上げて呟いた。
「頃合いのようだな」
「大貫様、もっと、もっとください」
「それではもはや満たされんだろう」
“鵺”としての本能、魔力に飢えているのは明白。大貫はようやく苦喰に振り向いた。
「苦喰、私が許可する。あの娘を喰らうがいい」
「あの、娘?」
「真中菜摘と言ったか。あれが持つブレスレットを奪え、その後は好きにすればいい」
「はあ、はは、あははははははは」
苦喰は笑う。いままで散々焦らされたのだ、口からは大量の唾液が溢れていた。そのとき、夜を切り裂く翼の音がした。大貫の前に降り立ったのは、闇に溶けるような色をした鳥――カラスだった。奇妙なことに、脚が三本ある。大貫は気づく。美景家の己影、“八咫烏”だった。
「貴様は……」
「よー、こうして面と向かって話すのは初めてだな? お前さんが大貫だろ」
“八咫烏”は軽妙な口調で尋ねる。大貫はいかにも、と頷く。
「ヒナタが世話になったな。その節はどーも」
「ふん、己影の分際で父親面か。奇妙な関係を築くものだ」
「いやあ、お前さんには感謝してんだぜ? 戦いばっかの日々から解放されたわけだしな」
「戦うことに飽くような己影がいたとなれば、美景家はさぞかし呆れることだろう」
カッカッカ、と笑う“八咫烏”。戦うために人間と契約した己影が戦いに飽き飽きしているなどとは誰も思わないだろう。大貫は尋ねる。
「偵察のつもりかね?」
「そーだな。ククイをしばらく尾けさせてもらってた。そしたらお前さんに辿り着いた。……で? よく聞こえなかったんだけどよ、ナツミをどうするって?」
声音の低い“八咫烏”。確かめるような、探るような声音だった。大貫はさして気にも留めずに、淡々と語る。
「苦喰はそろそろ限界だ。我々が作った魔力補給のブロックでは満たされぬほどに。ここで一つ、巨大な魔力を喰らわせてやらんと壊れてしまう。ただそれだけのことだ」
「へー、“鵺”の管理は大変だな?」
「貴様らには計り知れんよ。私の悲願の達成を考えれば些細な手間ではあるがね」
「悲願ねェ……お前さん、“鵺”を使ってなにしよーってんだ?」
“八咫烏”は問いかける。大貫の背後では苦喰が歯をがちがちと打ち鳴らしていた。眼前の“八咫烏”は概念の存在であり、魔力が形作ったものだ。魔童ほどではないにしろ、大貫が与えるブロック以上の魔力が秘められている。だらりと唾液が溢れる苦喰。もはや拭うこともできないほどに壊れているようだった。
危機感を感じているだろう、それでも“八咫烏”は退かない。大貫は夜空を見上げる。ぽつりと、足元になにかが滴った。降り出したようだった。
「――美景家を長の座から引きずり下ろす。そして大貫家が憑魔士の頂点に立つ。それが私の望みだ」
「ホォ、大それた計画だぜ。教えちゃってよかったのカァ?」
知られればなにかしらの対策はされるだろう。“八咫烏”だって無能ではない。すぐに契約者に連絡するはずだ。大貫賢三がなにかを企んでいる、その情報さえ伝われば憑魔士本部への報告も入るに違いない。それでも大貫が告白できた理由は、たった一つ。
「知られたところで誰にも止められん。無論、美景家の長であるあの女にも」
“八咫烏”は、ニィと笑った。
「無理かどうかはわかんねーし、一つ、大事なこと忘れてるぜ」
「ほう、私の計画に穴があると? 聞かせてみるがよい」
大貫はあらゆる要素を考えた。“鵺”の力も、自身の力も、過信などしていない。冷静に分析した結果、成功は揺るぎないもののはずだった。“八咫烏”になにが見えているか。大貫にはわからない。
“八咫烏”も天を仰ぐ。雨は本降りになりそうだった。
「あいつの存在、忘れてんだろ。お前が助けた、あいつがよ」
「――ふっ、はっはっはっはっはっは!」
雨を凌ぐこともせず、大貫は高く笑った。まとわりつくような笑い声に、“八咫烏”も一瞬怯む。
「美景陽――いや、いまは七尾陽だったか。あの小僧になにができる? 私の計画を邪魔する要素になるとでもいうのか? ありえんな」
「おいおい、決め打ちはよくねーよ。あいつはジョーカーだ。フタバにとっての切り札ってとこカァ?」
「それだけのことを言う根拠が、貴様にはあるのか? “八咫烏”よ」
“八咫烏”は口の端を吊り上げた。
「――もし、仮にだがよ。“鵺”を無力化する術があるとしたら? お前さんの計画はおじゃんだ、いまの気持ちはどーよ?」
「そんなものは存在しない。堕影については理解してる、貴様以上にな」
「いやあどうだカァ? お前さんが膝ついて頭を垂れる姿を想像しただけでゾクゾクするぜ」
くっくと愉快そうに笑う“八咫烏”。はったりで言っているわけではない、大貫はそう直感したはずだ。計画には大きな問題が生じないのは事実。これから“鵺”に更なる力を与え、憑魔士へ反旗を翻す。後には退けない段階まで来ているのだろう。大貫は不敵に微笑んだ。
「貴様がなにを企んでいてももはや関係ない。私は私の望みを叶えるだけだ」
「お前さんがなにを企んでても関係ねーよ。オレたちゃオレたちにできることをやるだけだ」
「ガッ、アア……ガアアアアアッ!」
大貫の背後から苦喰が飛びかかる。狙いは“八咫烏”。我慢の限界ということだ。“八咫烏”は大きく飛び上がり、闇に消えていった。
荒い呼吸で“八咫烏”を探す苦喰。追わせるだけ無駄だと判断した大貫はブロックを再び放る。苦喰は魔力に引き寄せられ、ブロックにかじりつく。それでも正気は保てていないようだった。
「……明日だ。明日、お前は完成する。そして憑魔士に牙を剥き、我々大貫家が頂点に立つのだ」
苦喰にはもう、言葉は届かなかった。
ヤタはいつまで経っても帰ってこない。雨も降り始め、遠くで稲光が走っているのが見えた。いつまでも窓は開けておけない。陽は初めてヤタの身を案じた。
「こんな時間までなにしてるんだろう……」
さすがに心配になってくる。陽がそんな状態なのだ、二葉も酒を飲もうとは思わなかったようだ。テレビをぼんやりと眺めたまま、ヤタの帰りを待っている。表情もどこか固くなっていた。
雨は本降り。窓を開けていられないと判断した陽、そのときだった。闇の中でなにかが迫ってくる。反射で身構えてしまうが、すぐにそれがヤタだと気がついた。滑り込むように窓に飛び込んでくる。
「ヤタ! おかえり、心配したんだよ?」
「おー、ただいまヒナタ。悪いな、なにも言わずに出てってよ」
ぶるぶると体を振るって水を払うヤタ。床は濡れ、羽根も舞った。帰りを待ち望んでいたのは事実だが、早々に部屋を汚されげんなりしてしまう。
――いや、これでこそヤタか。
あれだけ心配させておいてこの仕打ち。いつも通りといえばその通りであった。つい笑ってしまう。陽はバスタオルを持ってきて、ヤタに被せた。
「じっとしてて、いま拭くから」
「おー、苦しゅうねェぞ」
「どこ目線なの、まったく」
あらかた水気を拭き取ったところで、今度はごみ袋に羽根を放り込む作業が始まる。ヤタは二葉の隣でテレビを見ていた。どこに出掛けていたかは知らないが気楽なものだ。
二葉が語りかける。目線はテレビに向いたまま。
「ところで、あんたどこ行ってたの? こんな時間まで、ただの散歩じゃないでしょ?」
ヤタは黙る。言えないようなことなのだろうか。あー、だの、えー、だの。言いづらそうにしているのはすぐにわかった。二葉の視線は動かない。陽は言いよどむヤタをじっと見つめていた。
やがて観念したらしい、ヤタが口を開いた。
「ククイを尾けてた。そしたら、大貫がいた」
「え……大貫さん? どうして苦喰と……“鵺”と一緒に? そうだ、二葉ちゃん。あのとき、大貫さんと会ったのはどうして?」
二葉は視線を落とす。なにがあったのか、陽は知りたかった。大貫に対しては言いたいことがたくさんある。ほとんどが感謝の言葉だが、どうして“鵺”と一緒にいるのか、どうして陽を始末しようとしたのか。知らなければならないのだ。
陽の真摯な眼差しに耐えられなかったようだ、二葉は深く息を吐いた。
「……“鵺”は大貫の管理下にあった。あいつは“鵺”を使ってなにかを企んでる」
「んじゃオレが補足するわ。大貫の目的は“鵺”を使って、憑魔士に反抗する気みてーだ。そしてその前準備として――菜摘を襲わせようとしてる」
「そ、そんな……」
陽にとっての大貫の像がことごとく崩れた。いったいなんのために自分を生かしたのか。それだけはわからなかったが、憑魔士に仇を為す――つまり、魔童を討つ力を減退させる気なのだろう。大貫はなにを企てている? 陽には到底理解が及ばない考えがあるのだろう。
――いや、理解したくない。
命の恩人とも言える大貫が敵になるなど考えたくはない。表情に出ていたのだろう。二葉は煙草を咥えた。
「どうするの」
「え、どうする、って……」
「大貫と戦えるの、あんた」
窓が開けられないため、換気扇の下で煙草の火を点ける二葉。陽は悩んだ。
果たして大貫と戦えるのか。大貫に牙を剥けるのか。命の恩人を相手に、どう戦えばいい。不都合となれば始末しろ、と苦喰に命令していた。つまり、益となるなら生かされるということ。
命が惜しいとは思う。けれど、大貫のやろうとしていることは確実に混沌を招く。それを善しとしていいのか。その場合、ヤタは協力してくれるのだろうか。そして、そうなれば――二葉との戦闘は避けられない。大貫、苦喰、陽の三人を相手取るのは不可能だ。
――どうしよう。
思い悩む陽を見て、二葉は煙を吐いた。
「ま、好きにしな。ただ、大貫に与するなら容赦はしない。それだけ覚えておいて」
「……うん」
「それじゃ、あたしは寝る。しばらく酒も控えねえとなあ。おやすみ、陽」
陽の部屋へ戻る二葉。それまで沈黙を喫していたヤタが陽のそばに寄った。
「ま、どんな道を選ぼうがオレはお前さんの味方だ。そこだけは覚えといてくれや」
「ヤタ……」
「んじゃ、オレも一休みするかな。しばらくぶりに散歩した気がするから、疲れちまったよ」
「わかったよ、おやすみ」
ヤタの姿が掻き消える。魔憑銃の中に戻ったのだろう。
陽は椅子に腰かけ、天井を見た。時計の針の音がいやに鮮明に聞こえる。時間の流れがひどく遅く感じた。
――僕は、どうすればいい?
誰も教えてはくれない。わかっている。背中を押してくれる者など、いない。陽が一人で考えなければならない問題だ。憑魔士の側につくか、大貫の側につくか。憑魔士とは長らく関係を絶っている。情けはない。大貫には借りがある。命を救ってくれた、大きな借りが。
「……誰か、助けてほしいよ」
そのとき、太一と悠のグループに書き込みがあった。見てみると、菜摘がグループに参加したという通知だった。
『こんばんは! 招待されたよー!』
『こっちでもよろしくな、菜摘!』
『七尾は起きてるかな? 菜摘が来たよ』
非日常な思考から日常の思考に引き戻される。挨拶もそこそこに返し、陽は画面を見つめる。三人は愉快な掛け合いを展開しており、時折笑顔を釣られてしまう。こんなときだというのに。
――いや、こんなときで、よかった。なにがしたいか、なにをすべきか。忘れかけてた。
陽は守りたいのだ。特別なことなんてなにもない、ただの日常を。菜摘も、太一も、悠も。陽の日常には欠かせなくなってしまった。彼らが危険な目に遭えば、陽の世界が壊れてしまう。それは、嫌だった。
陽の指が画面を叩く。
『僕は』
すぐに既読がついた。みんな返事を待っていた。陽は考えながら、ゆっくりと画面を叩いた。
『初めて、守りたいと思った』
なんのことか、わからないと思う。太一と悠は菜摘のことだとは思うだろう。菜摘だって自分のことだと思うはずだ。ただ、それだけじゃない。太一も、悠も、守りたい。陽の意図がどれだけ伝わったかなどわからない。それでも、言葉にしたい。決心を固めるためにも。
『ありがとう、みんな』
既読がつき、しばしの沈黙。まずいことを言ってしまったかと思ったが、すぐに返事が返ってきた。菜摘だった。
『信じてるからね』
『おーおー、お熱いこった』
『まったく愛の告白は秘め事にしてほしいな』
どうやら本当に菜摘のことだと思っていたらしい。もうそれでいいか、と笑った。陽は恥ずかしそうな意味合いのスタンプを送って会話を終わらせる。グループの通知を切って、陽も眠りに就く。
――近いうちに、戦いがある。彼らを絶対巻き込みはしない。僕の大切なものは、僕が守る。
暗闇の中、陽は拳を握った。手にしたものを放さないとでも言うように。
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