生体認証

脳幹 まこと

生体認証


 郊外にあるマンション「やどかり」の二〇二号室から、青年が元気よく飛び出してきました。

「今日も行ってきますね、大家さん!!」

 大家は穏やかに会釈をしました。ちょっとうるさいのが玉にキズですが、青年のことは好ましく思っていました。

 青年の姿が遠くなっていくのを、彼女は箒を持って、ずっと見つめていました。

 彼が角を曲がって見えなくなったのと同じくらいに、二〇二号室のドアがばたんと閉まりました。

「ああ、やっぱり。建付けが悪いのかねえ」


 大家がぼやいたのと同じ時刻に、二〇二号室を見ていた人物がいました。

 全身黒ずくめで、被り物をしている男です。不審者極まりないですが、それもそのはず、男は腕利きの泥棒でした。

 深めのポケットにはどんな鍵をも開ける魔法の針金、ガラスに穴を開けるカッター、武器用のスタンガンやサバイバルナイフといったものが入っています。

 大家が掃除を終えて何処かへと去るのを確認した男は、さっそく行動を開始しました。

 迅速な動きで、即座に二〇二号室へと向かいます。

「やどかり」には電子ロックはありませんので、正面の扉も簡単に開きます。泥棒はそれを理解していました。下手に外側から侵入するより、正面突破の方が良いと判断したのです。青年が鍵をかけずに出て行ってくれたのは、何より好都合でした。

 泥棒は知っていました。このマンションには生体認証があるということを。どうやら、本来の宿主以外は排除する仕組みになっていたようですが――鍵が開いたままだと分かった以上、部屋には容易く入れそうです。


 果たして、泥棒の推測は当たっていました。

 セキュリティも、当の利用者が怠慢しているようでは、意味がない。

 こうしてあっけなく、男は二〇二号室へと入り込むことが出来ました。

 男は考えました。こうなった以上、黒ずくめというのも怪しまれる。寧ろ素顔は見せた方がいい。服装は――ズボンの方がリバーシブルだ。なんとかなるだろう。

 男は被り物を脱ぎました。青年の部屋は、綺麗に整頓されていました。すべて思惑通りです。こうなれば、貴重品を見つけることは容易いことです。それだけの経験が男にはありました。

 ガサゴソという間に、金目のものを全て探し当ててしまいました。それをポケットに納めます。

 ちょろいものだな。まったく、田舎から出てきた若者というのは、純粋無垢でやりやすい。

 男はしたり顔をして、ズボンを脱ごうとしました。白い裏面にしようとしたのです。しかし、ベルトに手をかけた男は慄きました。


 右手の甲に、何やらぶつぶつが出来ています。忍び込んだ時はそんなものなかったのに。左手の指で触ってみると、それは硬く、押している指の方が痛みを覚える程でした。

 そしてその硬い物質は、手の甲から、前腕、肘へとぽつぽつと出来始めていたのです。

 思わずひいっという声が漏れました。直後に口を塞ぎますが、その時、唇に硬い感触がしました。

 まさかと思い、窓の方を向いた男。唇にもやはり、同じようなぶつぶつが出来ています。

 そして、今度は右手が痛み出しました。慌てて見てみると、そのぶつぶつは大きく成長し、皮膚を突き破ろうとしているようでした。数ミリ程度の灰色の物体でした。悪寒を覚える男。痛みは前腕、肘へと範囲を広げています。

 これはまずい、と思いました。どういう原因かは知らないが、自分の状況が好ましくないことは分かっていました。

 彼は脱ぎかけであることも忘れて、逃げ出そうとしました。そして、前のめりに倒れ込みました。

 男は当たり構わず、ああっと叫んでしまいました。それもそうです。彼の足は床とみっちりくっついていて、びくともしないのですから。

 力任せに引きちぎろうとしますが、腕に力が入りません。思い立ってナイフを取り出そうとしますが、全身に激しい痛みが走り、それどころではありません。

 それは例えるならば、全身を食いちぎられる痛み。身体が自分のものではなくなっていく、そんな感覚を覚えていました。

 血がぼとぼとと流れ落ちます。こうなれば体面など気にしてられません。息が持つ限り叫び続けます。しかし、声は徐々に弱まっていきました。喉の中に何かが出来ている。息が苦しい。男はいよいよ、ひゅーひゅーと喘ぐ事しかできなくなりました。

 ここにきて、男は悟ります。生体認証は働いていて、これから自分は排除されるのだと。

 男は大半が遮られた視界で、ようやく物体の正体を知ることが出来ました。

 体中の体液を吸って成長し続けた灰色の物体。それは、石灰質の殻を持つ――フジツボでした。

 意識はそこで途絶え、二度と戻ることはありませんでした。


 気のいい青年は夜に帰ってきました。

 ドアを開けっぱなしにしていたことに、この時ようやく気付きました。

 何か、悪いことは起こっていないかと不気味がりました。例えば部屋が荒らされただとか、火災になっていないかとか。

 しかし、実際のところは何の問題もありませんでした。部屋は出ていった時のままです。むしろ、プレゼントの分だけ、増えていたと言うべきでしょうか。

 青年は、自室に置かれていたプレゼントを大家へと引き渡しました。

 彼女はそれをいたく喜び、一時金を渡しました。

「ありがとうございます、おやすみなさい!」

 彼女は朝と変わらず、穏やかに会釈をしました。そして、彼の首の後ろに付いている灰色の物体をじいっと見つめていました。

 帰り際、大家は一〇四号室の男にもばったり出会いました。

 男は数か月ぶんの家賃を滞納している不届き物で、温厚な彼女も流石に腹に据えかねていました。

「頼む!あと一か月だけ待ってくれ」

 彼は土下座をします。その際、はだけた背中からちらりと橙色の物体がぶつぶつと出来ているのを見ました。わずかながら血も滲んでいるようです。

 再三の警告を無視した報いです。受けて然るべきでしょう。男の約束が今度履行されなければ――彼は部屋の主である資格を失うのです。

 だから、彼女の対応は変わりません。ただ、穏やかに会釈をするだけです。

 大家は自室に戻り、シャワーを浴びる為に服を脱ぎました。

 灰、橙、黄、赤、青、紫――全身にはびっしりと、色とりどりのフジツボがへばりついています。ちょうど、「やどかり」にある部屋の数と同じだけ。

 ざざあああと流れるシャワーの音の中、彼女はほっと息を吐きます。


「良かった。私の子供達は――きちんと仕事をしているんだねえ」

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