第8話 夢のあと

 私は〝変な子〟だった。そして、ひどく夢見がちな子どもだった。

 私にとって学校の図書室は、ワープゲートなんて通り越し、もはや異世界そのものだった。私はいつでも向こう側に行けたし、向こうも自分から私の方へ遊びに来た。

 不思議の国だってそうだった。白ウサギも、チェシャ猫も、公爵夫人も帽子屋も女王様も、いつも私のすぐ隣で、私を不思議の国へと誘った。アリス、こっちへおいでよ、って。


 幼い子どもは傲慢だ。私は当然、自分のおかしさをわかってはいなかった。自分の見える世界を、一度だって疑ってみたことはなかった。

 そんな私に、あの女教師は突如としてその事実を突きつけた。深く突き刺さったバラの棘のように、それはあっという間に私の心の奥深くまで入り込む。そして、抜けることを知らなかった。


 幸か不幸か、それでも私は夢見がちな少女のままだった。真っ先に思いついたのは、現実の世界から抜け出して、不思議の国へ逃げ込むことだった。

 だから、いつでも私をワンダーランドへ誘ってくれるアリスの本を持って、私は逃げた。

 否定された直後で図書室に行くほどの図々しさはなかった。それ以外の、私の思う不思議の国――そこまで具体的なことを考えてはいなかっただろうが、さまよう私の足は、いつの間にかアリスの丘に向いていた。

 現実から離れた、特別な空気をまとっていたあの丘へ。


 けれど、そこは決して、永遠の隠れ家になんてなり得なかったのだ。



***



「丘に逃げたはいいけど、当然そこにずっといるわけにもいかないんですよね。日はどんどん落ちていくし、あたりも暗くなっていく。段々、空想の楽しさよりも恐ろしさが勝ち始める」

 丘のてっぺんの木の根元に、私と先輩、二人並んで座っていた。制服からのぞく膝の上に、土まみれの本を抱いて、私はぽつりぽつりと語り始める。先輩は、じっと黙って耳を傾けている。

「どうしようって考えました。学校か、家に帰ろうかって。でも、振り返った現実の世界はそれまでとはひどく違っていました。そこでは私は、〝普通じゃない子〟でした。担任の哀れっぽい顔がどうしても頭から離れなくて、優しい顔のはずなのにすごく怖かったんです。先生は、私のことは見ていませんでした。私の中の、〝普通じゃない子〟を見ていました」

「……」

「でも、結局は帰るしかないんです。その事実に思い当たった時、私はやっと気付きました。不思議の国なんて、本当はないんだって。それは私の、くだらない空想でしかないんだって。……だから今だって、帰る場所は現実しかないんだって」

「……うん」

「普通の現実に普通になって帰るために、私は普通じゃない自分を埋めました。アリスの本ごと、この木の根元に」

 そう言って、私は抱えた本をきゅっと抱きしめる。思い出してしまった、忘れていたはずの記憶。再び日の光を浴びてしまった、幼い日のアリス――今更どこにも行けない、哀れなアリス。

 ふっと顔を上げると、丘の上は鮮やかな光で満ちていた。

 伸び放題の青々とした草が、風に揺られて優しい音をたてる。下方に見える丘の裾野には、草の海が一面に広がっている。

 そのさらに向こうの森の上で、のぼりたての朝日は世界を色鮮やかに照らし出す。

「……どうして、こんなところまで付き合ってくれたんですか」

 白い光をじっと見つめながら、私はふいに問いかける。私の隣の、ただのお節介というにはあまりに行き過ぎな、風変わりな青年に。

 こっちはそれなりに意を決して聞いたのに、対する先輩は、なんだそんなこととでも言うように、キョトンと首をかしげる。

「うーん、本を触る手つき。あとは、俺の興味」

「え?」

 先輩がくすりと笑う。風にそよぐ草木のような、穏やかな笑みだった。

「図書館で、不思議の国のアリスを本棚に戻すきみの手つきは、とっても丁寧で綺麗だった。だからそれは、きっときみにとって大切なものなんだろうと思った。そんなきみがアリスを捨てた理由を、知りたいと思った」

「……」

 思いもかけない言葉に、私は視線を膝元に落とす。土まみれの、汚らしい本。その中で、捨てたはずの昔の私が見え隠れしている。

 ――大切、だろうか。不要なものだと、そう言って置き去りにしたはずなのに。

「ねえ、藍ちゃん。俺は思うんだ」

 先輩の優しい声が言葉を紡ぐ。風のようにどこにでも入り込む彼の声は、私の頑なな心の隙間すら、すうっと通り抜けていくようだった。

「『不思議の国のアリス』の最後は、アリスが夢から目覚めて物語が終わる。結局、アリスの見た不思議の国は、彼女の夢でしかなかった。――なら、彼女が目覚めたら不思議の国は消えてしまうのかな。それはすべて意味のないもので、目覚めたアリスはもう、夢見る少女ではないのかな」

「……」

「俺は、そうは思わないよ」

 返事はできなかった。

 顔を上げられない。本をぎゅっと握りしめた手は、微かに震えていた。

 この本をもういらないものだと、過去に置き捨ててきたものだと、そう言ってしまえるのなら、ここにもう一度埋めていけばいい。

 そうすれば今度こそ人知れず朽ち果てて、不思議の国は跡形もなく土に還る。だから、再びここに捨てていけばいいのだ。たったそれだけなのだ。


 ――でもできない。きっと私はそれをできない。わかっているんだ。



***



「良かったら、これからも時々会ってほしいな」

 先輩がいきなりそんなことを言い出したのは、二人で丘を下り、森を抜け、町との境まで戻ってきた時だった。

 すっかり明るくなった朝の町。土曜早朝のけだるい空気が、そこかしこに漂っている。

 そんな中、私たちはのんびりと信号待ちをしていた。それだけのはずだった。

「え……?」

「藍ちゃんさえ、嫌じゃなければだけど」

 彼にしては珍しい、ためらいがちな歯切れの悪い言葉だった。

 私はなんて答えていいのかもわからなかった。そもそも、いったい何を聞かれている? どう解釈したらいい?

 ぐるぐる考え続けて、私は黙ってしまったきり二の句が継げない。その間に信号は青になったけど、私も先輩も一向に前に踏み出す気配がない。

「えっと」

 やがて先輩が、困ったように自分の頭に手をやる。

「これ、一応意味、なんだけど」

 息をのむ――すべての音が、止まった気がした。ゆるくガソリン音をふかせる車の音も、徐々に活動し始める人々のざわめきも、一瞬にして私の周りから消えた。残ったのは、鼓膜の奥で響き続ける、「そういう意味」と控えめに微笑む先輩の声だけだった。

 音と一緒に私の声もどこかに行ってしまったようで、喉は閉じたきりなんの言葉も生み出さない。まるで、震え方すら忘れてしまったかのように。

「……どうして?」

 結局、なんとか言葉にできたのはそれだけだった。

 呆然としている私に対して、先輩はこともなげに笑う。けれど、その瞳の奥では逡巡の色が揺れている。

「僕はもうきみの一部を知ってしまった。知る前の僕には戻れない。だから」

 優しいふんわりとした、けれど迷いの見え隠れする、純朴すぎる笑顔で彼は言う。

「きみのこと、もっと知りたいなあって。――できれば、きみの中の、アリスと一緒に」

「……っ」

「それともきみは、こんな普通でない俺は嫌かい」

 ――そっか、こんな顔もするんだ。そう、まるで普通の男の子みたいにぎこちなく微笑む彼を、私は驚くほどすんなりと受け入れていた。

 本当は、こんなにも不器用な人だったのかもしれない。ふとそう思った。妙に他人との距離が近くて、近づいてくる相手にはいくらでもずけずけと入り込んでいく。その癖、常に自分の世界を守って崩さなかった彼。その中には、自分の本心すら言うのにためらう、不器用な少年がいたのかもしれない、と。

 私がどこか特別なものに感じていた彼だけの世界はなりを潜め、今私の目の前に立っているのは、戸惑いがちに思いを告げるなんでもない平凡な青年だった。

 けれど私は今度こそ、視線をそらすことなく先輩の目を見つめ返す。

 同じように、先輩も私を見ている。チェシャ猫でも、帽子屋でも、青虫でも、白ウサギでも――決してそのどれでもない、一人の青年が私を見ている。

 先輩は先輩以外の何者でもありはしないのだ。自分だけの世界で文庫本を開く先輩も、チェシャ猫みたいに余裕たっぷりに笑う彼も、周囲に合わせて合コンなんかに来る俗っぽい彼も、こうして戸惑いがちに告白する彼も。きっとすべて、彼自身でしかなかった。

 そして私は、答えを告げる。


「私も……先輩を知りたい、です」


 先輩がまぶたを瞬かせた。

 私は顔を上げたまま、胸元に抱えた古びた本をぎゅっと抱きしめる。行き場のない、捨てたはずだった過去のアリス。けれど――、


「できれば、私の中のアリスと一緒に」


 ――きっとアリスは消えないだろう。

 だって、それはもう一人の私だ。いつまでも背中合わせの、私自身だ。

 きっと私はいつまでたっても不思議の国を夢に見るし、小さなアリスは私の中に住み着き続ける。いくら普通に焦がれようと、この先平凡な現実に埋もれようとも、きっと私は何度でも、この丘と薄汚れたアリスの本を思い出す。

 先輩が先輩であるのと変わらない。皆と同じでいたい自分も、夢見る幼いアリスも、すべて私自身なのだから。

「先輩、私は――」

 私は思うのだ。

 本では、アリスが夢から目覚めて物語は終わる。でも、不思議の国が幼いアリスの夢であったのなら、その夢さえもアリスの一部。不思議の国さえも彼女の生きる世界げんじつの欠片であり、すべて愛すべき、アリスわたしの世界なのだと。

 だからきっと、何を夢見ようと私はここに生きている。少し普通で少しおかしい、確かな私の世界に。

「私は……普通じゃない先輩も、普通の先輩も、嫌いじゃないです」

 その言葉に、先輩の両目が見開かれる。私はその深い深淵を、見通すように見つめ返した。

 先輩がどこか人とずれているように、私がいつまでも幼いアリスを垣間見るように、人は誰しも内面に、隠しておきたい小さなアリスとワンダーランドを抱えているのかもしれない。

 それは甘い優しいだけの世界ではなくて、少女の胸を躍らせることもあれば、トランプ兵の槍のように鋭く胸を刺すことだってある。拠り所となることもあれば、居場所のない生きづらさを生むことだってある。けれど、それでもすべては今の私に地続きに繋がる、決して捨てることなどできない、自分の一部なのだった。

 もう、自分を置き去りになんてしたくない。向き合いたいと初めて思う。先輩とも――私自身とも。

「そろそろ行こうか、藍ちゃん」

 先輩が、そっと左手を差し出してくる。その手を取ることを、一瞬私はためらった。見上げると、先輩の穏やかな顔が優しく私を見下ろしている。

 ――きっと私はこれからも、何度だって迷うだろう。不思議の国と現実の狭間で、やりきれない自分に泣くんだろう。

 普通であるために吐き続けた嘘の鎧はあまりに厚く、そう簡単に突き破ることなどできはしない。二つの私の深い溝を埋めることなんて、可能なのかもわからない。

 けれどあなたは、そんな私を知りたいと言った。

 だから私もあなたを知りたいと思う。

 私は生身の自分のまま、この小さなアリスを抱いて、あなたとあなたの中の不思議の国へと手を伸ばす。

 自らの手で。


 差し出された先輩の手を、私はぎゅっと握りしめる。

 そして私たちは、黄金色の夏の名残日の中へ、二人並んで溶け込んでいく。


 視界の隅に、風変わりな白ウサギとそれを追いかける幼い少女が、ちらりと見えたような気がした。


(終)

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アリスの丘に三日月は笑んで 井槻世菜 @sena_ituki

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