第7話 アリスの行方

 空が薄く白む。

 いつの間にか月は顔を隠していて、もう木々の上から見下ろすチェシャ猫はいない。笑い声も、惑わす声も、もう聞こえない。星も見えない空白の空だけが、そしらぬ顔で薄ぼんやりと広がっている。

 徐々に淡い光が増し、周囲の森の輪郭が露わになっていく。巨人のように見えた木々たちはただの荒れ果てた森へと戻っていく。そして私は、暗闇の向こうとて、何もない森が続いていただけであったことを知るのだった。

 先輩が無言のまま、頼りない光に惹かれるように出口に向かってゆっくりと歩き出す。私はその後ろを、微妙な距離をあけて声を潜めてついていく。

 風は吹いていない。生き物の声もしない。そんな静かすぎる夜明け前の空の下、私たちの前に無人の小高い丘がそっと姿を現す。

「……誰も、いないね」

 わかりきっていることを、先輩がわざわざ口にする。

 裾野の広い小高い丘は、伸び放題の芝生に覆われ、荒れ果てた光景をさらしていた。そして丘の一番上には、枝葉を大きく広げた背の高い木が一本だけ。丘の上には、ただそれだけ。

「バラ、枯れちゃったんですね」

 私はぽつりとつぶやいた。丘の裾野の一部に、森に寄りつくように、ここには小さなバラ園があった。元々この緑地帯を作った責任者は、この丘を季節の花にあふれる場所にしたかったらしい。結局そうなる前に計画は途切れ、バラ園も手入れすらされずに放置されている。

 それでも私が小さい頃は、六月頃になれば小さな花をつけていた。けれど今は、しおれた茨が折り重なるだけ。例えバラの季節が来たとして、きっともう花はつけないのだろう。

 バラのお庭はない。トランプ兵も女王様も王様も、誰もいない。

「先輩」

 白木先輩は、倒れた垣根の残骸を乗り越え、しおれた茨をよけてバラ園の中を進んでいく。その背に思わず私は呼びかけた。帰りましょうよと、そんなニュアンスを込めて。もう、この先に行く意味なんてないですよと。

 でも先輩は止まらない。私は追いかけることもできず、その場に立ち尽くしたまま途方にくれる。

 その時だった。


「あれ、ウサギ」


 先輩が、ふと驚いた声をあげた。その視線をたどった先で、茨の陰で何かがガサゴソと物音をたてる。

 そして、ふいにそれはヒョッコリと茨から飛び出し、私は「あっ」と小さく叫んだ。

 私たちの前に飛び出したのは、小さな真っ白い毛並みをしたウサギだったのだ。

「一匹だけ……」

 もう何匹か住み着いていたはずだけど、他のウサギの姿はない。

 動けば驚かしそうで、身動きもとれずに突っ立っていると、白ウサギの赤い目が一瞬だけ私を見つめる。そして次の瞬間、

「あ! 待って!」

 ウサギが私たちに背を向け、丘の上に向かって駆け上がっていく。それと同時に先輩の大きな声がして、何を思ったかウサギの後を追いかけ始める。

「先輩、待って」

 慌てて呼び止めたけれど、彼はウサギを追いかけるのに夢中で全然足を緩めない。

 どうしよう、と迷うのも早々に、私は一匹と一人の姿を追って地面を蹴った。

 ウサギを先輩が。先輩を私が。いったい誰が白ウサギで誰がアリスなのかもわからない、おかしな追いかけっこがずっと続く。

 丘の斜面は思ったよりも急で、上へ上へ走り続けるうちにどんどん体が熱くなっていく。鼓動の速さと胸の苦しさが増すにつれ、丘の上の大きな木が目前に迫ってくる。


 ――あれ。私、この景色を知ってる。

 

 唐突にそう思った。現実の景色が記憶とだぶって、輪郭がぼやける。

 あの日の幼い私も、こうして丘の上に向かって走っていた。まるで何かを振り切るように、口を引き結んで必死で駆ける。今よりも随分と大きく見える丘の木が、徐々に徐々に迫ってくる。

 そして小脇に抱えていたのは、図書室からずっと持っていた、アリスの本。

「はあっ、はあっ……」

 もうダメ苦しい。そう思った時、ようやく丘の一番上に着いた。そこには既に、肩を小さく上下させる先輩が立っている。

「ウサギは……」

 私の声に、先輩がそっと木の根元を細い指で指指した。

 ウサギは、木の太い根がうねるそばに寄りそうように立っている。赤い丸い目が私をじっと見上げる。その視線が外れたかと思うと、ふいに前足で穴を掘るように地面をひっかく動作をみせた。わずかな量の土が周囲に飛び散って、地面には少しだけくぼみができる。

 そしてウサギは、もう一度だけ私を見上げる。

 次の瞬間、後ろ足で大きく地面を蹴り上げたかと思うと、勢いよく跳躍して、あっという間に木の背後に姿を消した。

「あっ……!」

 声を上げたときには遅かった。もうウサギは疾風の速さで駆け去って行った後で、木の裏をのぞいてみても、どこにも白い姿は見当たらない。

 「残念ですね」と言おうとして先輩の方を振り返ると、彼は不思議そうに首をかしげているところだった。

「うーん」

「どうしたんですか?」

「この、ウサギが掘ったところ、なんか草の生え方がまばらで」

 指指す方を見下ろして、彼の言った意味がわかった。丘全体は伸びすぎた芝生に覆われているのだが、ウサギが掘ったごく小さな穴の周囲は、草がまばらに生えるだけで土の地面が露わになっている。

 ウサギが掘ったせいだけとは思えなかった。まるで、昔誰かが掘り返したことがあるみたい。

「よしっ!」

 先輩が妙に元気な声を出す。しゃがみこんでゴソゴソ何かを探し始めたその姿を、私はやや呆気にとられて眺めていた。そして先輩が、「これでどうだ」と勢いよく掲げたその両手には、大きな石が乗っている。

「……? 何をする気ですか?」

「何って、掘るんだよこの地面を」

「はっ?」

「だって、いかにも掘ってくれって言ってない? この様子は」

「いや、私には全然そんな風には思えないですけど……」

 呆れる私に、先輩は気にした風もなく、どこかワクワクした目で見上げてくる。

「だって、白ウサギが掘っていったじゃない。だからそうするべきなんだよ」

「なんですかそれ……」

「だって」

 先輩が楽しそうに笑う。今の先輩は――いったい何だろう、もう彼という人がよくわからない。

「不思議の国にアリスを導くのは、白ウサギの役目だろ? きっとアリスの居場所は、彼が一番よく知ってるさ」




 先輩が一生懸命、その辺の何でもない石で地面を掘る。それを私は最初、何やってんだろという軽くバカにした目で遠巻きに眺めていた。でも先輩は全然やめないし、あんまりに一生懸命だから、次第にわけもなく申し訳なくなってくる。そして気付けば私も、手頃な石を手に取っていた。

 どこか適当なところでストップをかければいいだろう。なんていう冷静な考えは途中で消えた。

 夢中で泥遊びをした昔みたいに、私たちは必死で土をかきわける。何を探しているのかもわからない、おかしな穴掘りが続く。

 そして、腕が半分入るくらいになった頃――


 コツン


「え?」

 私は思わず間抜けな声をあげる。手元の石に、ふいに堅い感触が触れた。鈍い微かな音が、確かに私の耳に届いた。

「なにか、ある……」

 語尾は弱々しく尻すぼみになる。どうすればいいのか頭が真っ白になる。本当に何かあるなんて、ちっとも思っていなかったのに。

「藍ちゃん――大丈夫」

 突然、耳元で先輩の声がした。驚いて顔を上げると、すぐそこにふわりと微笑んだ人の良い笑顔がある。

 誰一人として拒まない、不思議な笑顔。それにわけもなくほっとする。彼の言葉に背中を押されるように、私は穴の底に手を伸ばす。


「本――……」


 つぶやきは、二人ともほぼ同時だった。私が土の中から拾い上げたそれは、一冊の古ぼけた本だった。薄手の冊子に硬い表紙。土にまみれて文字はかすれ、夜明け前のおぼつかない光だけでは、何と書いてあるのかもわからない。

 ――それはまさに、その瞬間だった。はかったかのように、丘の向こうの地平から黄金色の朝日が顔を出す。丘に漂う薄ぼんやりとした空気は瞬く間に、まばゆい日の光に塗り替えられていく。

 同時に、閉じていた帳が上がるように、本の上にも朝の光がこぼれ落ちる。まぶしさに目を細めながら、かろうじてそこにある文字を口にする。


『不思議の国のアリス』


 あまりに馴染んだ響き。忘れたくても、決して忘れられなかったその名前。

 そうして私は、震える声で小さくつぶやく。


 そうか、こんなところにいたんだね。小さな小さな、私のアリス。

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