第6話 お前はだあれ?

  「もう年だよ、ウィリアム父さん」若い息子が言いました。

  「頭はまっしろ。

   なのにいつでも逆立ちばかり。

   自分の歳を、考えて!」


 先輩が突然、奇妙なリズムのついた、おかしな文章を口にし始める。

 私はキョトンと呆気にとられた後で、思った通りの言葉を声にのせる。

「なんですか、その変な文章」

「アリスが作中で、青虫に言われてそらんじる、『もう年だよ、ウイリアム父さん』の詩さ」

 そういえばそんな場面があったかもしれない。アリスは森の中でさまよったあげく、キノコに座った青虫に出会うのだ。そして青虫は、アリスついて色々知りたがって質問攻めにする。

「確か、アリスの暗唱した詩は間違えだらけだったんですよね」

 青虫は、長いキセルでタバコをふかしながら、アリスに「お前は誰だ」と尋ねる。けれど、体の大きさが何度も変わって訳がわからなくなっていた彼女は、「自分がわからない」と答える。

「まるでこの森は――」

「〝青虫に出会った森みたい〟ですね」

「……藍ちゃん、俺の心が読めるの?」

「段々先輩のこと、わかってきましたから」

 えへん、と胸を張ってみると、先輩が少し慌てているのがわかる。珍しく一本とってみるのはとてもよい気分。

 実際のところ、先輩の言うこともわかる気がするのだ。

 今私たちが歩いているのは、アリスの丘の外輪にあたる森の中だ。放置されてほとんど手入れのされていない森は、木々も草も伸び放題。木の枝はあらぬ方向へ曲がり、そこにツタがめちゃくちゃに絡みついている。元は遊歩道があったはずだが、草に覆われてさっぱりわからない。

 そんな森の中を、月明りだけを頼りに見上げると、木の陰はまるで巨人のように私たちに覆い被さって見える。まるで縮んだ背丈でアリスがさまよう、何もかもデタラメに大きな森のように。

 そして巨人の木々たちの隙間から、ニヤつくチェシャ猫のような三日月が顔をのぞかせる。チェシャ猫が、木の上から私たちを見下ろしている。

「じゃあ、青虫のようにきみのことを尋ねてみよっか」

「え?」

「藍ちゃんは、担任に呼ばれた後このアリスの丘へ来た。それは、どうしてだと思う?」

 唐突に私への質問が飛んだ。先輩はとてもゆったり私に問う、ちょっと想像しただけで、煙をくゆらせるキセルが見えてきそうなほどに、ゆったりと。

「……多分、私にとっては、この丘は不思議の国みたいなものだったんです」

 だから私も、ゆっくり答えを考える。

「とても空想がちな子どもだったんです。世の中のなにもかもが、不思議な物や奇妙な物に見えていました。車だって生きていて、フロントライトの目でいつも私をじろっと見てた。プールの大きな水たまりの底には人魚が住んでいるのだと思っていた。夕暮れの影法師は、私の見ていない間に動き回ってるって信じてた」

 ぽつぽつと語る私の言葉を、先輩は黙って聞いている。

「そんな私にとって、町から外れたこの薄暗い森は、まるで青虫や白ウサギの住む森そのものでした。町とは別世界の大きな丘は、まるで不思議の国で、バラ園は女王様の庭。丘の上の大きな木には、チェシャ猫が住んでる。……今思い出すとほんとおかしいけど、小さな私はそれを本気で信じていました」

「……」

「だからあの日、ショックを受けた私は、自分の思う不思議の国に逃げ込んだんだと思います」

 幼い私にとって、ここは真実に〝アリスの丘〟だった。

 昔の私にしてみれば、現実世界と本の世界を繋ぐワープゲートは、ちっとも一方通行なんかじゃなかった。果たしてゲートなんていう仕切りがあったのかどうかも怪しい。私はいつだって不思議の国に行けたし、向こうもいつだって本の中からひょっこり顔をのぞかせて、私と一緒に遊んだ。

 アリスだけじゃない、どの物語も行き来自由なのだと信じて疑わなかった。大きな竜の上でちっちゃなネズミたちが遊んでいたし、人間と妖精だって仲良しだった。きっとその頃なら、ホームズとポアロだって二人仲良く難事件に立ち向かったに違いないのだ。

 ――それがいつから、ワープゲートという仕切りを作って、一方通行にしてしまったのだろう。

「今の藍ちゃんにとって、ここは不思議の国の森? それとも、荒れ果てたただの公園?」

「……」

 私は答えられない。質問ばっかりずるいですよ、と場を取り繕う軽口も出てこない。

 立ち止まって黙り込んでいると、先輩がくすりと笑った。

「じゃあ、決めちゃおう。ここはたった今から不思議の国の森の中だ。白ウサギがいて、アリスかもしれない女の子がいる。となればやることは一つ!」

「え、え?」

「決まってるよ、ウサギを追いかけなきゃ!」

 いつになく強い口調で言った瞬間、先輩は突然薄暗い森の中を走り始める。実に器用に、足下に絡みつく雑草や木の根を避けて、細い背中が遠ざかっていく。

 木々の間から射し込む白い月明かりに照らされて、先輩の明るめの茶髪も白っぽく浮かび上がる。白ウサギの毛並みのようだ、本当は彼はウサギなんじゃないか、そんなおかしな考えが私の頭に浮かんだきり離れない。

 そして、私の足を動かすにはそれだけで十分だった。



***



 白ウサギが、白木先輩が走る。そして私が追いかける。

 大変大変、遅刻だ遅刻! ウサギの背中が言っている。

 遅刻だなんて、この真夜中にいったいどこに? でもまあいいか、細かいことは気にしない。だって不思議の国では、何もかもがあべこべでデタラメなんだから。

「そんなに急いでどこに行くんですかー!?」

「女王様のクロッケーに遅れてしまう! でもその前に、忘れた扇子と革手袋を取りに帰らなきゃ」

 おかしな会話。そう思うけど口は止まらない。大体、そんなことは些細な問題だ。だってここはおかしいことが普通の国。〝普通じゃない〟ことが〝普通〟の不思議の国。

 月はチェシャ猫、曲がった枝はフラミンゴの首に見える。暗闇にたたずむ大きな石は海ガメもどきの甲羅みたい、どこかで帽子屋と三月ウサギもお茶会をしているのかもしれない。

「その忘れ物、私が取ってきてあげましょうか!」

「それは嬉しいけど、家はわかるの?」

「家なんて、どこにだってありますよ。想像してみたら、ほら!」

 走りながらの興奮で、つい私はとってもはしゃいだ声で返した。

 ここは不思議の国なんだから、きっとなんだってありなのだ。森の中にある白ウサギの家だって、どこにあったって構わないのだ。

 家は先輩の向かうこの先にあるのかもしれない。そうではなくひょっとすると、木の間に見え隠れする暗闇の中にたたずんでいるのかもしれない。もしかすると――木のウロは別の場所への入り口で、その先に家があるのかもしれない。それとも、もしくは――


「きゃっ!」


 前しか見ていなかった私は突然、せり出した木の根に足をとられる。前のめりに思いっきり地面に体を打ち付ける。とっさに地面に突き出した手の平にも、かばいきれずに擦れた膝小僧にも、遅れて鈍い痛みがやってくる。

「痛い……」

 響く痛みが、私の中の熱をするすると下げていく。

 痛い、と思うと同時に、何やってるんだろう、という冷めた言葉がこだまする。年甲斐もなくはしゃいで、転けて、みっともない。

 幼い子どもじゃあるまいし。

「藍ちゃん、大丈夫!?」

 異変に気付いた先輩がすっ飛んでくる。道を戻ってくるなんて、相手を労るなんて、なんて親切な白ウサギだろうか。

 ――いや、そもそもこの人は白ウサギなんかじゃない。

「もう……帰りましょうよ」

 ぽつりと、そんな言葉が漏れた。膝が痛くて、情けなくてみっともない。なんで私は、みんなの輪を乱して合コンを抜け出してまで、こんなところにいるのだろう。

「藍ちゃん」

「先輩は、白ウサギなんかじゃないですよ」

 とっさにぶつけた言葉に、彼は虚を突かれたように言葉をなくす。

「先輩は白ウサギじゃない。私だってアリスじゃない。ここだって、不思議の国なんかじゃない。

 アリスなんて探しに行ったって無駄なんだ。だってもうどこにもいない。とっくに私が、置いてきたんだから」

 じゃあ帰ろうか。本当は、いつも通りの口調でそう言ってほしかった。でも先輩は何も言ってくれないから、うつむいたまま私の言葉は止まらない。何を言っているのかも段々わからなくなりながら、それでも口は止まることを知らない。

「私はもう知っているの。現実には本のようなことは何一つ起こらない。本の上にあるのはただの文字でしかなくて、ワープゲートは一方通行。……それなのに不思議の国を夢見続けるのは、普通じゃないことなんだ、変な子なんだ。私は、普通でいたい――皆と同じ私でいたい」

 だから普通でいようと思った。皆と同じ物を見て同じように息を吸って、もう二度と「普通じゃない子」と思われないようにしたかった。そうやって、普通に埋もれて生きていたかったのに。

 相変わらず何も言わないままの先輩の手が突然、うつむいた私の垂れ下がった前髪に触れる。びくりと肩を震わせた次の瞬間、前髪が一気にかきあげられた。驚いて顔をあげた私と、先輩の深い瞳が合う。

「それは、すべて本心? きみの、本当の気持ち?」

「……っ」

 なぜか、即答できなかった。

 これだけ騒いでおいて、それでも私は何一つ答えられない。

 そんな私に、青虫に戻った先輩の、無言の瞳がずっと問いかけている。

 「Who are you?お前はだあれ?」――お前の心はどこにあるのと。

「私は……」

 普通でいたい。ずっとそう思っていた。そう信じていた。

 なら、どうして私は人目を避けてまで図書館通いをやめられないんだろう。どうして、いちいち先輩の言葉にのせられて不思議の国を垣間見るんだろう。どうして――「普通でありたい」と思う度に、こんなにも胸が苦しくなるんだろう。

 幼い頃、特別な世界を何度も何度も夢に見た。手に届かないものを、届くと信じて疑わなかった。

 でも結局そんな私が生きるのは、特別なものなんて何一つないこの日常なのだ。

 空想は空想でしかない。不思議の国なんて存在しない。その事実は、担任に〝普通じゃない子〟の烙印を押されたあの日から、私の中に焼き付いたまま離れない。そして時とともに、服についた古いシミのように薄くかき消えて、いつしか私と同化していく。

 ――夜が明ければ、私はまた日常に帰るだろう。不思議の国は消えて、普通の日常が当たり前のように待っている。

 そこにアリスはいないし、日常の中で幼い日のアリスはどんどん遠くなる。そうして私は大人になって、何でもない日常に埋もれていく。

 そうすれば、この感傷も胸の苦しさも、全部その中に溶かして消してしまえるのだろうか。そうやっていつか、当たり前のように普通に生きられる日が来るのだろうか。

 そうなってしまった私は、果たして私自身だろうか。



 それきり先輩さえ何も言わず、暗い森の重い沈黙だけが私たちの周りを取り囲む。

 うつむいたまま立ち尽くし、どれだけ時間が経ったのかも分からなくなった頃、ふと先輩が顔を上げる。つられるように視線を追いかけると、少し進んだ森の先に、うっすらとした光が浮かんでいるのが目に入る。

 それは、微かに白んできた空が透ける、森の出口だった。

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