第5話 遅れてきた白ウサギ

 そっちに行ってみよう、と思ったのは完全に何となくだった。

 部屋にはどうしても戻れない。かといって入り口にトボトボ一人で向かう自分もあんまりに情けなくて、ましてやトイレに一人でこもるなんて。

 考えあぐねた結果、私はほんの思いつきで店の奥の方へと足を向けた。

 パーティールームを右に曲がると、狭い廊下の奥は突き当たりになっている。そこに、スタッフ専用と張り紙のされた小さな赤いドアの姿がある。やや迷った後に、私は鈍く光るドアノブへと手を伸ばした。

 するっと軽い音をたてて、意外なほどドアノブはあっさりと回る。そして、ドアをグイっと押し開けた先にあった姿を見て、私は思わず呆けてしまった。


「あれ? 藍ちゃん?」


 目を瞬かせたきり声の出ない私に、相手はキョトンとした顔で気安げに片手をあげる。そのあんまりにいつも通りの調子に、私はますます何を言っていいのかわからない。

「せんぱ、い」

 そこは、カラオケ店の裏側の小さなスペースだった。

 真横には、フェンスを挟んでアリスの丘の鬱蒼とした森が見える。そしてフェンスと店との間の空間は、小さな物置き場になっていた。居場所に困ったような機材や、袋に詰め込まれたゴミが雑多に放ってあって、そんなうら寂しさをかき立てるように、室外機のファンがカラカラと回っている。

 そして白木先輩は、その室外機に上手に腰掛け、ゆったりと足を組んでいた。ふっと視線を上げると、先輩の片手にある文庫本が手に入る。

 こんな寂しい店裏で、けれど文庫本片手に足を組む先輩の周囲だけは、まるでゆったりとしたカフェが広がっているかのよう。

「あははっ」

 ぷっと吹き出したが最後、堰を切ったように笑いがこみ上げてくる。こらえきれずに私は声をあげて笑い出す。全然止まらない、それはもうお腹が痛いほど。

「なんでそんなに笑ってるの……」

 笑い続ける私をよそに、先輩は釈然としない様子でむくれている。私はようやく、「すみません」と言葉を絞り出した。

「だって、おかしくて。先輩があんまりいつもの通りだから。やっぱり先輩、変な人です」

「なんだよ、みんなして変なヤツ変なヤツって」

 そういう先輩は膨れっ面だ。珍しい、先輩が誰かの意見にこんなに反応するなんて。

「ひょっとして、怒ってます?」

「怒ってるよ。俺だって人間なんだからな、江波は適当なことばっか言うし、藍ちゃんは全然俺と話してくれないし」

 ああ、やっぱりバレてたのか。まあそうだよね。

「すみません」

「今更謝っても遅いよ」

 先輩は本格的にすねている。どうしよう、もう一回謝ってみるか? それとも、いっそ理由を言うべきだろうか。

 ――けど、何を言うっていうんだろう。何となく目を合わせたくなかった、なんて言ってどうする気なんだ。自分でもわからないこの心の、何を説明できるっていうんだろう。

「……すみません」

 結局もう一度同じ言葉を繰り返し、私はそのまま黙り込む。

 気まずい沈黙が淀み、室外機の無機質な音だけがその場をかき回す。その末に、先輩のくすりと笑う声が聞こえた。

「もう、そんなに本気にしないでよ。実はそこまで怒ってない」

 虚を突かれて顔をあげると、先輩のおかしそうに笑う顔がある

「ええ、なんですかそれ」

「いやあ、ちょっと腹が立ったのは事実だから、仕返しにからかってみた。ほら、今日はきれいな三日月だしね」

 先輩が白い人差し指で夜空をさして笑う。つられるように見上げた先に、弧を下向きに描く細い三日月が浮かんでいる。何かに似ている、と思った。そうだ、チェシャ猫のニヤついた口元にそっくりなんだ。

「からかうのと月が、どう関係あるんですか」

「大ありさ。だって、チェシャ猫はアリスをからかうものだろ?」

 一瞬、言われた意味がわからなかった。

 先輩は相変わらずチェシャ猫みたいな三日月を指さしている。その先輩もチェシャ猫みたいなニヤニヤ顔。私をからかった先輩がチェシャ猫だっていうのなら、アリスは、

「……私?」

「そう。今宵は良い月夜ですね、アリス嬢」

「待って、私はアリスなんかじゃ」

「そうだね――少なくとも今のきみの中には、アリスはいないかもね?」

 そう言われて、なぜかドキリとした。先輩のチェシャ猫の瞳は、からかうようで、それでいて見透かすようで。

「カフェできみの話を聞いてから、ずっと気になっていたんだ。きみの好きだったはずのアリスは、どこへ行ってしまったのかな。きみはあの日、アリスの本を抱えたままどこに行ったんだろう」

 そして先輩は、ふっと優しく微笑む。

「アリスの丘へ行ってみようよ、藍ちゃん。きみのアリスを探しに行こう」

 そんなことを言われても、私は全然自分の話だという実感がなかった。探しに行くなんておかしな話だ。そんな必要はない。だって私は夢見る自分の心ごと、とっくの昔にアリスを捨てたのだ。探したところで、もう私の中にも外にもどこにも、アリスなんていないのだ。

「行くって、どうやって……」

 時間稼ぎのようにつぶやいた私に、先輩がいたずらっぽい笑みをのせる。

「簡単さ。幸いここは、アリスの丘の真横。そしてこれが一番大事なことなんだけど、俺から一つ提案だ」

 先輩の細い白い手が、きれいな曲線を描いて私の後ろを指し示す。私はその流れるような動きを、思わず見とれながら追いかける。

「今更というか、ようやくって感じだけど、これから二人でウサギの穴に落ちてみるってのはどうかな?」

 先輩の指指す方向に、カラオケ店の敷地とアリスの丘とを仕切る高いフェンスが立っている。そして彼の指の先、フェンスの下方で一部針金が無残に折れ、大きな穴が空いている。その先には、まるでウサギ穴のように深い暗闇が広がっている。

 先輩が、指さした手を今度は私に向かって差し伸ばす。そして彼は、気取った素振りで恭しくお辞儀をした。

「さあ、アリス。どうか一緒に不思議の旅を」

 さっきまでチェシャ猫だった先輩は、いつの間にか懐中時計を手に道を急ぐ白ウサギに変わっていた。そして白ウサギは誘うのだ。ウサギ穴の先に、ドキドキするような素敵な暗闇の先に。

 不思議な夜のワンダーランドに。


 そして、既に不思議なドアをくぐり抜けた後、お茶会すら終わったその後。大遅刻でやってきた白ウサギの手を、私はそっとつかんだのだった。

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