第4話 鍵のないドア 後編
落ち着かなくソワソワしているうちに、あっという間に金曜日はやってくる。
その日、私たちは放課後になるなり学校を飛び出した。そして制服のチェックのスカートにブレザー姿のまま、デパートのトイレでおめかしにいそしんだ。
化粧の仕方って、それぞれの性格が良く出ると思う。例えば栞奈は、使う種類も色もこだわりがハッキリしていて迷わない。対する菜穂は、終わりから最後まで、なんなら終わった後も、終始グダグダと悩み続ける。
「ねえ~、やっぱりオレンジのチークの方が良かったかなあ」
ほら、こんな感じに。
「いい加減観念しなって、もう直す時間なんてないんだから」
栞奈の呆れ気味の声に、菜穗は可愛くすねてみせる。
「だってえ、ピンクじゃ子どもっぽかったかなって」
「あーだいじょぶだいじょぶ。菜穂は何でもかわいい!」
結局菜穂は、その一言がほしいだけなのだ。その証拠に、栞奈がお決まりのセリフを言うと、すっかりご機嫌を直してルンルンし始める。
わがままでぶりっ子。でもかわいくて憎めない。私はちょっとだけ、彼女がうらやましい。
「ほら、二人とも着いたよ~!」
菜穗がはしゃいだまま先陣を切る。彼女の後ろ頭では、気合いの入った編み込み髪が自慢げに自己主張している。
着いた店の表を見上げると、「カラオケroom」とネオン管で書かれた文字。アリスの丘の隣に位置する一角は、雑然とした歓楽街になっていて、この店もその一つだった。
その中へ菜穂に続いて入っていく。店員に相手の名前を言うと、向こうは先に入っているらしく、自然な流れで部屋へ通された。
狭い廊下を一列になって進んでいく。同じようなドアがいっぱい並んでいて、そのどれも開けようと思えば開くはず。でも、今私たちが必要としてるドアは、その中のたった一つ
「ここだよ~」
先頭を行く菜穂がヒソヒソ声で振り返った。廊下の奥の大きなパーティルーム。そのドアノブに菜穂が手を伸ばす。
私はゴクリと固唾をのんだ。やっぱり少し緊張してる。このドアの先の、私の知らない世界に。
「わー来た! いらっしゃい!」
開いたドアの向こうから、一気に明るい歓声が降ってくる。
「よく来たねー! ささ、座って座って!」
金髪に近い髪色の、いかにもこういう場に慣れてそうな男の子が立ち上がり、自然な仕草で私たちを席へ促す。言われるままに長いソファに座りながら、私はテーブルを挟んで向かいあった三人の青年たちを見渡した。
右端、たった今私たちを案内した、幹事らしき彼。真ん中はアッシュの髪にオシャレな黒縁メガネの人。そしてその隣は――
「あ、れ?」
左端に大人しく収まったその姿を見て、私は思わず二度見した。丁度、相手も驚いたように目をまん丸くしたところだった。
「先輩」
「藍ちゃん」
素っ頓狂な声は二人同時に。そこには、線の細い茶髪の優男が――白木先輩が、キョトンとした顔で私を見ていた。
先輩と私は見つめ合ったまま、二の句が継げずに固まってしまう。そこに、「おいおい!」という元気な声が割り込んできた。
「お二人さんまさかの知り合ーい!? のっけからいい雰囲気作ってんなよ!」
黒縁メガネの彼だった。少し乱暴な口調が、やや気取った風をかもし出す。
その言葉にドッとその場から笑いが起きて、先輩は私からふっと視線を外し、困ったようにヘラヘラ笑った。
――なんか違う。
反射的に、私の中でそんな言葉が反響する。なんか違う。確かに先輩なのに、なんか違う。
私の知る先輩は、いつだって好きなところで好きなように足を組んで、周りのことなんて知ったことないように文庫本を開いていた。こんな風に狭い場所に大人しく座って、いかにも俗っぽい愛想笑いをするような人ではなかった。
そう、先輩はいつでも〝きれいに浮いて〟いた。彼が作り出す彼だけの空間は、誰も邪魔できない、でも入ってしまえば誰一人として拒まない。浮いているのに、その空間ごと彼はその場になじむ。当たり前のように。
「なあなあ後輩ちゃん? だったらわかってると思うけど、こいつ変なヤツでさあ」
メガネの彼はなおも私たちに絡んでくる。
「いっつも本読んでてさ、すげえ空気読めない場面でも読んでるし。飲み会もあんま来ないし、浮いた話もないし、心配になって今日はムリヤリ連れてきたんだよね。こんなイケメンなのにもったいないだろ? な?」
「そうなの~? いがーい!」と、菜穂の可愛らしい声がする。メガネさんがじっと私を見て、「で、ご関係は?」と面白そうに笑う。
「私、高校の部活の後輩で」
「部活一緒!? めっさ知り合いじゃん、結構仲良かったりー? こいつ、高校の時からこんなんなの?」
「おい、江波」と先輩の少し困ったような声がする。先輩から続きの言葉が出る前に、私はとっさに口を開いていた。
「えっと、一緒っていっても半年くらいしか一緒に活動してなくて」
そんな言い訳めいた言葉は、なぜか喉の奥をひりつかせる。
「特に仲良しってこともなかったから、あんまり先輩のこと知らなくて。半年ぶりに会えて嬉しいです。今日は先輩とも、もっと仲良くなりたいな!」
私はニコリと笑う。人のことなんて言えない、実に俗っぽい笑顔で。
その間私は先輩の方に一度も目を向けなかった。だから、彼が本当はどんな顔をしていたのかはわからない。
見たくない。こんな先輩を見ていたくない。私の知ってる先輩は、こんな風に歪に浮いた人じゃない。こんなに悪目立ちする変人なんかじゃ、ないはずなのに。
なんだか今は、ただの変な人で――ちょっと、気持ち悪い。
「よし! 自己紹介! 何はともあれ自己紹介だ!」
幹事の彼がパンパンと手を叩いた。「じゃあ俺から!」と元気な口調が続く。
「東江大学工学部一年、神垣哲也っす! 俺の弟が菜穂ちゃんと知り合いで、今日この会を開かせてもらうことになりましたー! みんな来てくれてありがとう!」
哲也さんが言い終わるのを待って、隣の黒縁眼鏡さんが、眼鏡の奥のすっとした目を私たちに向ける。
「同じく一年、江波
「白木誠也です。さっきの話の通り、藍ちゃんとは高校の部活が一緒でした。よろしくお願いします」
最後は、先輩らしい丁寧な挨拶だった。それすら、私は反応もしなかった。
「じゃあ次、女子のみんな自己紹介お願い!」
テンションの高い声に促されて、今度は私たちが順番に名乗る。入念に考えてきたらしい思い思いの自己紹介が終わり、直後に丁度運ばれてきたジュースで乾杯する。
その間ずっと、やっぱり私は先輩の方を見なかった。
***
「藍ちゃん、弓道部なのー?」
「そうなんですよー、真さんは何かやってるんですか?」
「俺サッカー! 弓道部ってことは、的バンバンあててんだ」
「いやあ、私そんなに上手くないですけど」
「ゆーてでしょ? ついでに、俺のハートも射ぬいちゃってよ」
……寒すぎる。思わず喉元まで出かけた言葉を、私は慌てて飲み込んだ。かわりに「ええ~どうしよっかな」と愛想笑いを貼り付けると、彼は気を良くしたようにコップに口をつける。
ちらりと部屋の隅を見ると、菜穂と栞奈と哲也さんが、カラオケのタッチパネルを囲んでわいわい騒いでいた。合コンも後半戦にさしかかった今になって、ようやく歌い始めるつもりなんだろうか。
――早く、終わらないかな。心の奥でそんなつぶやきがよぎる。適当に話を合わせるのにも疲れた、早く帰りたい。
私はいつも、少しの興味と義務感だけで二人についてきて、そして大体後悔する。どうして、息をするように笑ってしまえないんだろう。二人みたいに、何も考えずに楽しめないんだろう。
ざわつく心は私の視線を泳がせて、つい先輩が座っていたはずの方角を見てしまう。先輩は、あれ――?
「あれ~? 白木さん、いなくなーい?」
突然、菜穂の声が響き渡った。あまりのタイミングに、私は思わずビクリとして彼女の方を見る。
「あれ、確かにー?」
「さっきトイレ行かれましたけど、帰ってきませんね」
真さんと栞奈が同調する。私は慌てて、不思議そうに首をかしげる。
「どうしたのかな、調子でも悪いとか? 探してきましょうか?」
私の言葉に、哲也さんはどこか冷たい様子でフンと鼻を鳴らした。
「いや、別によくね? アイツ、どうせこういうのニガテなんだって。やっぱ変なヤツだよなあ」
「変っつーか……空気読めなさすぎ? もはや読む気がない?」
「あはは、そうかも」
真さんが笑えない茶々を入れ始める。メガネの奥で、いかにも自信家な目がニヤニヤ笑っている。
「一年で飲んだ時もいまいち輪に入れてなかったよなー、人当たりはいいのに、さすがにマイペースすぎ」
「休憩時間もすぐ本開き始めるし。ちょっとは会話しろって」
どうしよう、とても嫌な空気。すうっと息を潜める私の隣で、よせばいいのに菜穂が無邪気な声をあげた。
「なにそれ、根暗~?」
「可愛い顔して、ひっでー菜穂ちゃん」
「だって、菜穂そういうのきらーい。楽しくおしゃべりした方が楽しいもん! 真さんは違うんですかあ?」
「いやー俺もそう思う。気があうねえ、菜穂ちゃん」
こういう他人をバカにし始めた時の菜穂は好きじゃない。黙ってくれないかな、と隣をのぞき見たけど、調子に乗った彼女のおしゃべりは全然止まらない。
「ですよねーわかんないですよね、そういう人! ていうか菜穂、本嫌いだし。頭痛くなるもん。菜穂だけじゃなくて、藍も活字アレルギーって言ってましたよ~!」
いきなり話題を振られてぎょっとする。慌てて手をヒラヒラ振った。
「う、うん。そういうの全然ダメ! マンガが限界でーす」
ざわり、と胸元からモヤモヤした感情が走る。
妙に息苦しい。変なの。こんな嘘、いつもはいくらついても平気なのに。
「文字にかじりついて楽しいのかなあ~? 現実に面白いこといっぱいあるのに、ソンしてる」
栞奈まで話に乗り始める。ねえ? と同意を求められて、私はとっさに口角を上げる。
「それそれ! 全部架空のお話なのにねえ」
そして私は曖昧にヘラヘラ笑った。
笑った、はずだった。
「藍? なんか変な顔してるよ?」
「え……」
栞奈が不思議そうな顔を向けてくる。私は、「変な顔ってなに、どうせ地で変な顔だもん」なんて適当にやり過ごすセリフを頭の中で組み立てる。
あとは言えばいいだけだ。俗っぽい作り笑いで、いつものように適当なことを言えばいい。
ガタン
私の膝とテーブルがぶつかり、乱暴な音をたてた。安っぽいセリフでごまかすかわりに、無言で突然立ち上がった私へ、一斉にみんなの視線が刺さる。
品定めされているような粘つく視線。気持ち悪さをこらえて、私は精一杯ニコリと笑う。
「実はトイレがまんしてて! もう限界! ごめん、すぐ戻ってくるね!」
そうして、誰の反応も待たずに、私は部屋のドアを押し開ける。
***
「やっちゃったかな……」
カラオケ店の廊下の壁に背中をつけて、私は力なくつぶやいた。
どうしよう、変に思われただろうか。さっきのはどう考えても不自然だった。
「戻れば、きっと大丈夫」
そう。まだ、全部が全部終わったわけじゃない。五分くらいして、ごめんもう大丈夫~なんて笑って部屋に戻れば、みんな何事もなかったかのような顔をするだけだ。
わかっているのに、足はどこにも進まない。あの部屋のドアを、どうやっても開けられる気がしない。
――君のいない日々なんて~♪
私たちの部屋から、菜穂のかわいらしい歌声が聞こえてくる。どうやら本格的にカラオケを始めたらしかった。
同じように、他の部屋からも多種多様なミュージックと人々の歌声が、うっすらと耳に届く。
廊下にはたくさんのドアが並んでいて、その数だけ部屋の住人たちがいて、その人たちの小さな空間がある。
――でも、そのどれにも私は入れない。廊下から動けない私はどのドアにも弾かれて、その先のどんな景色も見ることはできないんだ。
だって、私はアリスじゃない。だからドアの鍵も、ドアに合う背丈になるためのクッキーも持っていない。自分の仲間の部屋でさえ、同じこと。
「もう、やだな」
雑音に紛れて、そんな言葉がこぼれ落ちる。
私は上手くやっている。そう思っていた。上手に普通の女の子になれていると思っていた。
――でも、本当は違うんじゃないかって、時々とても不安になる。本当の本当に普通の女の子は、隠れてコソコソ図書館通いなんてしない。こんな風に、息苦しさを感じて逃げ出したりしない。私みたいに、嘘ばっかりついて生きなくてもいい。
普通の日常に惹かれながら、空想の世界にも手を伸ばしたくなる。ここじゃない世界に憧れながら、けれどそんな普通じゃない自分を否定する。
自分がすごく滑稽で、思わず乾いた笑いが漏れる。それは誰もいない廊下に響いて、うっすらと漂う雑音の中に溶けていった。
私はアリスじゃない。
日常へのドアの鍵も、不思議の国へのドアの鍵も持たない私は、どこに行けばいいんだろう。
私は、いったいどこに生きているんだろう。
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