第18話 つかの間の平穏と日常
将軍、足利義輝に謁見するために京へとやって来た信長一行。
御所の近くにある寺、本能寺に宿をとった一行は疲弊した様子で寺へと戻ってきた。
「帰蝶、疲れた」
御所へ入るにあたっての正装を信長は宿の寺に戻ってくるなり早々に脱ぎ捨てる。
それを侍女のように素早く拾い集めながら後ろに続く濃。
その動きは一国の国主の正室とは思えないほど機敏で無駄がなく、信長に付き従う家臣団や寺の者達を驚かせる。
「攻めて部屋に戻られてからお脱ぎください」
「別によいではないか
ここなら気兼ねない」
寺は塀でおおわれていることもあり外からの視線はない。
寺の中には部下と寺の者のみ。
多少だらしのない行動も大して何かに影響があるわけではない。
「それで、無事尾張守護の座に就けたのでしょうか」
「それは問題ない
会ってすぐにその話となり、そのまま尾張守護の座について、それだけで謁見は終わりだ」
「はぁ・・・
そうでしたか
それにしては長いお留守でしたね」
濃が「長いお留守」という時間を表す言葉を口にした瞬間、信長の表情が険しくなる。
見るからに何かに腹を立てていることがわかる。
「ああ、長かったとも
謁見の日取りと刻はあらかじめ決めておった
しかし長かった
待たされている時間がとにかく長かったのだ」
信長はもともと尾張の大うつけと呼ばれるほど不真面目で、その時のその場で最も楽しいことや面白いことを思いつきでするような人生を歩んできた。
きっかけがあって政務に励むようになりそこから一国の国主にまでなった彼だが、三つ子の魂百までという言葉があるように成長してもその根幹は時折見え隠れする。
ややせっかちでことを急ぐ、もしくは早く結果を知りたがる、そういった性格なのだ。
故に長く待たされるのは性に合わず、それどころか普段は着ないような御所での正装に身を包むとなれば、慣れないことに対する心身の疲れもより大きくのしかかる。
「まったく、人を何だと思うておる
あの公家共の様子にも腹が立った
ワシを田舎の小大名だと軽んじておるとしか考えられん」
領内の民衆と分け隔てなく接してきた信長にとって、身分による線引きや差別のようなものは受け入れがたかった。
民の中にも才のある優秀な者もおり、武家よりもはるかに力強い者や、商人にも劣らない頭の良さを見せる者も少なくない。
それを知っているからこそ、生まれてからずっと高貴である自分は偉いと思い込み、そして多くの者達を見下す公家達の言動が信長の怒りの源となっていた。
「それも別に気にせずともよいではありませんか
その尾張の小大名の出仕を受けなければならないほど彼らの現状は芳しくないのです
今まで以上に国を栄えさせてさらに国を豊かにすれば、出仕を受けてやるという立ち位置から出資してもらえないかという立ち位置に変えることもできます」
今は尾張一国の小大名。
しかしこのまま信長が金や力を持ち続ければ公家達もその存在を軽んじることはできなくなる。
それだけの力を持つことが信長にとって公家達を見返すということになるのだ。
「国を豊かにする・・・か」
濃の言葉を素直に受け止め考える信長。
しばらく無言のまま押し黙っていた彼だが、どうやら公家を見返すという目標が定まったのか、いたずらを思いついた子供のような表情が一瞬だけ見えた気がした。
「それと、待たされるのがお嫌だと申されておりましたね」
「当然だろう」
「実は客人が参っております」
「・・・はぁ?」
濃の突然の報告に信長はあっけにとられて立ち尽くしていた。
「しばし休息の後に・・・と、思いましたが待たせるのはいけません
すぐにお会いすることにいたしましょう」
「・・・な、ちょっと待て
ワシは疲れておると言ったはずだが・・・」
「はい
ですがお待たせするのも悪いでしょう
自らがされて嫌なことはなるべく人にはしない
人付き合いを円滑にする鉄則のようなものです」
濃は信長の背後に回り込むとその背中を両手で押す。
「せめて白湯を一杯飲んで一息つくくらい・・・」
「待たせてはいけませんから、お茶としてお客人の分も一緒にお持ちいたします」
信長が何を言おうと濃はそれを全て一蹴し、信長の背中を無理やり押して客人が待つ部屋へと連れて行った。
寺の中の一室で待つのは一人の男性。
その男性は信長も面識があり、客人としか聞かされていなかった信長は緊張から解放されたかのように大きく息をついた。
「なんだ、家宗ではないか
わざわざ京にまで来て何の用だ?」
客人として本能寺に訪れていたのは生駒家宗。
尾張に拠点を置く商人で、城に見間違えられるほどの屋敷や私兵を引き連れて武家のように働くことから織田家の家臣でもある。
そのため商人ではあるがただの商人ではなく、その土地の豪族という意味合いの土豪という呼ばれ方をする。
「行商で美濃、近江、京、堺を訪れた帰りにございます
たまたま御館様がこちらに参られているという話を聞き、ご挨拶をせねばならないと思い参上いたしました」
「挨拶くらい尾張に帰ってからでもよかろうに・・・」
信長は疲れているところに客人としてやって来た生駒家宗の訪問理由にため息が漏れる。
「なに、私は商人の身ではございますが織田家家臣としてお仕えもさせていただいております
主君がおられるとあらばどこであろうとも馳せ参じるものでございましょう」
生駒家宗は深々と頭を下げる。
その様子を見て信長は今日何度目となるかわからないため息を漏らす。
「家宗、そこまでせねば気が休まらぬか?」
信長の言葉で二人の間に緊張が走る。
生駒家宗は織田家に仕える土豪であることに間違いはなく、今も信長の家臣であることに変わりはない。
しかし少し前までは織田家家臣ではあったが、信長の家臣ではなかった。
彼は織田家の織田信清に仕えており、信長が尾張統一と時をほぼ同じくして織田信清を追放した。
それにより生駒家胸の主君は自動的に織田信長となったのだが、もともとは信長に敵対する方についていた。
よってこのように事あるごとに信長の元を訪問しては、このようにご機嫌取りにも近い忠義の表し方をするのだった。
「信勝の派についた者も、信賢に従っていた者も、信清に忠を誓っていた者も、今ではワシの家臣だと思っている
それはお前もだ、家宗」
「ありがたきお言葉にございます」
信長の言葉に生駒家宗の武人としての一面で心が震える。
「殿への忠義はよくわかりました
ですがそれよりも生駒殿
以前お伺いした時にはお体を悪くされていたとお聞きしましたが、もうよろしいのですか?」
「生死をさまようほどの病でございましたが、生駒の商いと御館様への忠義、この二つが死に損なってしまった理由でございます
せっかく遺書まで書いていたというのに、無駄になってしまいました
はっはっはっ・・・」
「わ・・・笑い事ではないような・・・」
生駒家宗はちょうど信長が兄弟で家督争いをする直前頃に大病にかかり死にかけた。
そのため生駒の者達は尾張の家督争いに参戦しない、どちらの派にもつかない者達となった。
そしてその後の信賢との一戦にも加わらず、仕えていた信清の追放を期に信長に完全に忠誠を誓うことになった。
その時期はちょうど生駒家宗が死に損なってしまった頃であり、信長と敵対していたが最後には信長に従ったという立ち位置ではない。
しかし自らの病が原因で生駒の者達は信長に敵対こそしなかったが、信長に命を預けるということもしなかったことになってしまった。
その微妙な現状を改善すべく、生駒家の当主であり商いの長をも務める生駒家宗は信長にこのような姿勢を取り続けるのだった。
「それで、此度は何故ワシのもとを訪ねてきた?」
世間話ではないが、彼の身の回りに関する話を一通りしたのち、信長は生駒家宗がこの場所を訪れた理由を問う。
「堺からの帰りということは先ほど申しました
その堺で面白い者達と出会いましてな」
生駒家宗はそう言いながら傍らに置いてあった荷物からいくつか物を取り出した。
「南蛮より来訪した南蛮商人にございます
その土産話と今後の相談が急ぎ必要なのではないかと思い、失礼ながら参った次第でございます」
生駒家宗が信長の前に並べたものは、戦国時代の日本に流通し始めた南蛮商品。
時計やガラス細工といった調度品、菓子や豆といった食料品、さらに異国の言葉で書かれた書物などが並ぶ。
「これらの物は今より先、わが国では数多く出回ることとなりましょう
つまり商いに用いることができるということにございます
そしてそれらの商品を買うと南蛮商人と多く接触することとなり、鉄砲や火薬なども買うことが容易くなると思われます」
「ほぅ、それは面白い話だな」
「はい、ですが買ってばかりでは財が尽きてしまいます
よってこちらからも南蛮商人に売る物が必要になってまいります」
「なるほど
それで急ぎワシのもとを訪ねたわけか」
「はい
今、南蛮商人は多くの堺の商人と接触している最中でございます
今堺へ取って返せば再びこれらの物を買った南蛮商人と会うこともできましょう」
生駒家宗の商人として嗅覚が、商人達だけでなく信長にも十分な利益がある話だとして持ち込んだ。
信長に忠節を誓いつつ、商人として成功する。
後に武家商人と呼ばれる彼の生き方であった。
「それで、南蛮商人には何が売れるのだ?」
「はい
売れる物は少なくはございませんが、主に茶道具、掛け軸、刀剣甲冑などであれば織田家としても用意が容易いかと思われます
容易く用意できるものであれば南蛮商人が買い付けに来るたびにこちらも商品を用意できる目算が立つということ
商いを途絶えさせないためにもこの辺りがよろしいかと」
「ふむ、なるほど・・・」
信長と生駒家宗が話をしている最中、言葉を一切挟まない濃は南蛮商品の中の書物を手に取って中を見ていた。
本として綴られたものの中に目を通す。
(ポルトガル語ですね
この本に書かれている内容は兵法書に近い軍記ですか
私の知っている時代と多少文法や言葉遣いが異なるのは何百年という時間経過によるものなので致し方ありませんが、読めいないほどではないのが救いですね)
未来よりやって来た彼女は未来でたくさんの言語を習得している。
彼女が習得した言語がこの時代に来ても無駄にはならず、むしろ役に立ちそうなのはありがたい。
(この時代の西洋文化を考えると確か美術品や芸術品が好まれる傾向にあったはず・・・
しかしあまり高価なものを用意するのは織田家の財政では長続きはしませんし、かといって安価なものばかりでは利益は多く望めません
なら、芸術的かつ安価なものを高く南蛮商人に買わせるのが得策ですね)
濃は自らの閃きに一瞬ニヤリと頬を緩める。
そしてどのような商品が良いか、どのように調達すればよいかなどを長々と会議のように話を続ける信長と生駒家宗の二人の会話に割って入っていく。
「衣類を売りましょう」
二人の間に割って入った濃の言葉に信長と生駒家宗の会話が止まり、二人の視線が濃に向けられる。
そして一瞬の沈黙の後、生駒家宗が濃の意見を否定するように反論を述べる。
「お方様、衣類は難しいかと
南蛮人は我々とは全く異なるものを着ております
彼らにとって我々の衣類は高くは売れぬかと・・・」
「そこです
高く売れないものを高く売るのが商人の腕の見せ所です」
「これはまた難しいことを申されますな」
生駒家宗は濃の言葉に表情をやや曇らせる。
彼は無理難題を押し付けられている気分のようだが、濃には確かな勝算があってのことだ。
「衣類と言ってもあり溢れたものではありません
このようなものを売るのです」
濃がそう言って見せたのは、今自分が来ている着物。
ちょうど柄や刺繍が細緻に施されている上物。
京へ来るにあたり持っている衣類の中でも品質が高いものを選んで持ってきた。
その着物を生駒家宗に見せている。
「南蛮商人が着ている衣類が広くこの国で普及するようになるには百年以上かかることでしょう
逆に異国で我々の衣類が普及するのはそれと同等以上、我々はこちらから売りには行けませんのでそれ以上の時間がかかります」
戦国時代の日本の船舶や操舵技術は南蛮と呼ばれるヨーロッパの主要国とは大きく差を開けられている。
彼らの技術の前では日本の船は子供のおもちゃや遊び道具レベル。
よってこちらから南蛮に乗り込んで売り込むということができない以上、向こうで自発的に普及する物を選別して売っていかなければ南蛮商人達は日本の品々に興味を持ってくれないことになる。
「よってまずは衣類を衣類としてではなく、調度品に用いることができる布として売り込むのです
茶器や掛け軸も異国での普及はまず難しい
刀剣も我が国と異国では扱いも違えば作り方も異なります
壊れたものを修繕できない、そんな大きな欠点を抱えたものが普及するとは思えません
ですが衣類となれば話は別です
切って、縫って、貼って、飾って・・・布の質が違うだけで異国でも十分使い道があります」
濃が見ているのはヨーロッパに商品が持ち込まれたときに入手したいと思う顧客が多いか少ないかである。
刀剣のような武具はそもそも世界中のどの国ともつくりや使い方が異なる日本の物では戦場などで普及することは考えにくい。
日本のはものが引いて切るのに対し、世界の主流は押して切るという真逆だからだ。
どれだけ軍人がいようと普及の可能性はなく、さらに時代は鉄砲へと移り変わる時期である。
刀剣の時代はもう長くはなく、行きつく先は貴族などが飾る芸術品としての扱い以上にならない。
茶器なども食文化が違えば見栄えの良し悪しに対する気遣いの感覚が大いに異なる。
現在の日本の物が広くヨーロッパで普及するには多少時間がかかって当然。
それが何年後になるかはわからない。
そして現在日本にやって来ている南蛮商人は男性ばかりで、中世のヨーロッパでも家の財布を握っているのはほとんどが男性となる。
その男性が女性への贈り物などの感覚で買いやすい衣類や布類は販路拡大が可能と濃は考えていた。
無論、刀剣や茶器なども売るのだがそれは他の商人達も売ることだろう。
他の商人と比べて違いがあること、つまり差別化が図られることにより、よりよい取引が南蛮商人との間でできることが期待される。
「なるほど・・・
さすがはお方様でございます
では衣類も仕入れて南蛮商人へ多く売ると致しましょう」
生駒家宗は勝機があるとわかれば決断は早かった。
即座に衣類を商品として扱うことに決め、織田家の財政を潤わせることができるかについての話に入った。
その話は商人として利益を出す話に加え、武家として織田家の財政を潤わせる話も多分に含まれており、少々難しく長い話となった。
途中から話について行きづらくなった信長はしばらく沈黙を守りながら話を聞いていたのだが、あまりにも長い話に一つ大きな息をつく。
「ずいぶんと話が込み入るな
一息つかぬか?
ワシは喉が渇いた」
将軍、足利義輝への謁見の後すぐにこの場にやって来た信長。
当然喉を潤すものを口にはしていない。
「おや?
おかしいですね
先ほど白湯か茶を持ってくるように伝えたのですが・・・」
話に夢中になっていた濃だったが、いまだに注文したものが届いていないことに首をかしげる。
すると生駒家宗が一つ大きくため息を漏らした。
「お方様、もしや部屋の外にいた女子に申し付けられましたか?」
「あ、はい
そうですが」
「・・・申し訳ございません
あの女子、一応は我が生駒家のものではあるのですが・・・
十年ほど前に堺で拾った女子で、養女と侍女の間のどちらともつかぬ者にございます
生まれについては口を閉ざしているため詳細はわからぬのですが、侍女としては役に立たず、養女として嫁に出すにも出自がわからず・・・」
「それで行商の付き人を?」
「その通りにございます
なぜかこう、人を不思議と寄せ付けましてな
商いの席にいるだけで相手方の商人に良い印象があるようで・・・」
生まれ持った人を引き付ける何か、そういうものを持って生まれた人は少なからず存在する。
生駒家宗の話を聞く限り、彼女はそのような資質を持った人のようだ。
「それがなければ生駒家で面倒を見ていたかどうか・・・」
そう言いながら席を立とうとする生駒家宗。
その動きを濃が手で制する。
「私が参ります
話は一度やめ、一息つきましょう」
濃はスッと立ち上がると、信長と生駒家宗に一礼して部屋を出る。
そして寺の者に炊事場の場所を聞き、そこへと向かう。
すると何やら騒がしい声と音が聞こえてくる。
「おやめください
我々がいたしますので」
「私が仰せつかった役目にござります」
「ですがこのままでは炊事場が使い物にならなくなってしまいます」
「私が請け負ったのですから私がやらなければなりません」
ガシャーン!
「あぁっ!
その器は・・・」
騒がしい声と音。
それを聞いていた濃が何事かと炊事場を覗く。
するとそこでは先ほど濃が白湯かお茶を持ってきてほしいと頼んだ女性と、寺の若い僧侶たちが大いにもめていた。
寺の者達は自分達の寺に宿泊する客に出すものは自分達で用意すると言い、女性は申し付けられたからには自分がやると頑なに譲らない。
それが騒動と長い時間がかかった原因のようだ。
「失礼します!」
騒がしい空間を切り裂いて踏み入るかのような濃の大きな声。
それに騒然となっていた炊事場はようやく静寂を取り戻した。
「白湯でもお茶でもどちらでも構いませんが・・・
お待ちしているのですがまだなのでしょうか?」
「も、申し訳ございません
今すぐお持ちいたしますので」
「私がすぐに用意いたします!」
「あなたがすると器がいくつあっても足りませんから!」
「私の役目です!」
頑なに譲らない女性と寺の若い僧侶達。
揉め事が一向に収まる気配がないと見た濃はため息を一つつき、炊事場にずかずかと踏み込んでいく。
そして揉め事をしている僧侶らと女性を完全に無視して炊事場に立つと、驚くほど無駄のない素早い手際でお茶とお茶菓子を用意する。
その洗練された動きの速さと手際の良さに、敵対するかのようにもめていた女性と若い僧侶達はしばらく目を奪われていた。
「ひとまず、先ほど頼んだものはもう結構です」
そう言った濃の手にはお盆と完璧な綺麗さで用意されたお茶とお茶菓子。
その腕前は日頃客人を相手に炊事場に立っている若い僧侶達も舌を巻くほどだった。
濃は自ら用意したお茶とお茶菓子を手に炊事場を後にして、信長と生駒家宗が待つ部屋へと足早に戻って行く。
「ま、待ってください!」
その濃を背後から駆けてきた女性が呼び止める。
「はい?」
呼び止められた濃は一度足を止めて振り返る。
するとそこには何やら悔しそうな悲しそうな、それでいて安堵したような複雑な表情を見せる女性がいた。
「ぶ、武家の奥方様でございますか!」
「はい、そうです」
「一国の姫でございますか!」
「一応、そうなりますか」
「なぜそこまで見事な炊事ができるのでしょうか!」
「何故と言われましても・・・」
戦国時代ではない時代からやって来てその時代で徹底的に仕込まれたから、などと言うわけにはいかない。
返答に困っている濃に歩み寄る女性。
その女性の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「何故私にはできないのでしょうか?」
先ほどまでの鉄砲玉のような勢いは陰りを見せ、落ち着いたやや低いトーンでの言葉だった。
「・・・はい?」
その言葉を濃は即座に理解できない・・・と言うよりも、重要な情報が抜け落ちすぎていて理解することがそもそも不可能だ。
「えっと・・・人にはみんな、得手不得手がありますから・・・」
情報が足りなさ過ぎた濃。
返答は当たり障りのないことしか言えなかった。
「私には向いていないのですか」
「そうかもしれませんね」
「うぅ・・・
私は・・・
何の役にも立てません」
うっすらと浮かんでいた涙が次第に溢れていき、女性の頬を伝って落ちていく。
悔しさが滲み出ているのがよくわかる。
「行商に出ても・・・
何も話さず家宗様の後ろに控えているだけ
お世話もお手伝いもさせてもらえません」
生駒家宗は彼女がいるだけで意味があるようなことを言っていた。
しかし当人からしてみればその場所にいるだけというのは役に立っていないという認識だったようだ。
「かつて姫と呼ばれた時代もありました
それを捨ててまで好いた殿方のもとへと向かった若き日の私は受け入れてもらえませんでした
私が好いたのは、姫と呼ばれていた私に対する態度だったのです
その方は姫でなくなった私に価値はないと放り出され、行く宛ての無い私を家宗様が拾ってくださいました
その後恩に報いたいのです!
なのに・・・なのにっ!」
女性は自らの力の無さに嘆き、悔しさを感じている。
それ故に彼女は頑なに自らに与えられた役目を全うしようとしていたのだろう。
それが寺の僧侶達とぶつかることになろうとも、与えられた役目をこなすことが彼女にとって自らの存在意義だったのだ。
「・・・そうでしたか」
女性の話を聞いていた濃は、女性が心の中に抱いている感情を察して優しく声をかける。
そしてしばらくの沈黙の中、女性が吐露した自らの半生を振り返り、どう言葉をかけるのが適切かと考えていた時、ふと過去に会話したことの無る話を思い出した。
「・・・えっと、名は何というのですか?」
「あ、これは申し遅れました
私は『お蝶』と申します」
「え・・・お蝶・・・」
彼女の半生を聞いた時、思い出したのは濃が帰蝶として斎藤道三の養女となることになったいきさつの時に聞いた話だった。
斎藤道三の娘はお蝶という名で突如姿を消した。
行き先もわからず、しかたなくお蝶の代わりに濃が帰蝶という名で斎藤家の娘となった。
「もしかして・・・生まれは・・・」
「あ、美濃でございます」
お蝶の正体を知って濃は本物に出会った偽物の気分を一瞬だけ味わった気がした。
「えーっと、斎藤家の斎藤道三様の娘ですか?」
「え・・・はい、そうですが・・・
お詳しいのですね」
お蝶がキョトンとした表情で濃を見ている。
濃がお蝶のことに関して詳しく知っていることに首をかしげている。
「詳しいも何も・・・
私はあなたがいなくなった後に斎藤道三様の養女となった帰蝶です」
「・・・えぇっ!」
一瞬の沈黙の後、お蝶の驚く声が寺中に響き渡った。
「私のせいで・・・すか?」
お蝶が申し訳なさそうな表情で濃を見ている。
彼女はおそらく、自らがいなくなった後を埋めるために濃が帰蝶となったと思っている。
しかしそれとは真逆で、むしろ斎藤家の娘という地位が空いていたおかげで濃は楽に斎藤道三と接することができたのだ。
むしろお蝶の身勝手な行動に感謝したいくらいだ。
「そんなことはありません
私はあなたのおかげで姫になれたようなものですから
むしろ感謝していますよ」
濃は笑顔でそう答える。
何一つ嘘はない。
濃にとって最初の壁はいかにして武家と接触を図るかというもの。
それが想像以上にうまくいったのは斎藤道三の娘であるお蝶が姿を消したことに始まる。
「そうですか
なら・・・よかった・・・のでしょうか?」
「結果論ではありますが、私にとっては良かったと言えます」
濃の返答を聞いてお蝶の表情はどこか柔らかくなった気がした。
今まで気を張り、何とか役に立たなければならないという思いから多くのことに挑戦するものの常に空回り。
そんな精神的苦痛と隣り合わせの生活が続く中、彼女の行動を肯定する言葉をほぼ初めて耳にしたからだ。
「尾張に戻った後、もし行く場所に悩むのであれば清洲城へ来ませんか?」
「え?」
「入れ替わりではありますが、私達は同一人物のようなものですからね
放ってはおけません」
濃の申し出にお蝶はまた泣きそうになる。
しかし必死で涙をこらえつつ、元姫とは思えない腰の低さを見せるかのようにぺこりと頭を下げた。
「いついらしても構いませんよ
歓迎します
では、お茶が少々冷めてしまいましたが・・・まぁいいでしょう」
完璧を求める濃は手に持ったお盆のお茶の湯気が少なくなっていることが少し気にはなったが、今から作り直すほど冷めたわけではないと湯気の量から判断し、そのまま部屋へとお茶とお茶菓子を運んでいく。
その背中をお蝶は無言のまま、ただ見つめていた。
本能寺での生駒家宗との話で商売に手国の財政を潤わせるだいたいの話がついた。
織田家としても多くの金が欲しいこともあり、尾張国内で作れるものは作っていくことで雇用を生み出し、民衆に金が渡るようにしてそこから税を徴収するという形で国の財政的な成長と民衆の景気を同時に引き上げることで話がまとまった。
尾張に帰った信長はさっそく生駒家宗との話を念頭に置いた政務を行うため、再び書物や各地からの報告の書簡に目を通す。
濃もその傍らで政務を補佐し、時には意見を言って尾張の内政をよくしていく。
いかに強い軍隊を持っていても、それだけでは国力にはならない。
尾張の織田家に居を構えている以上、濃は尾張の織田家を中心に国力の増大を図っていかなければならないのだ。
「やはり国力の増大となると・・・
農民を兵として使役するのは非効率だと思います」
「ではどうするのだ?
雑兵や寡兵、物の輸送の人手となる小者もいなければ話にならんぞ」
「はい
先々を考えれば武家でその全てを賄えるようにいたしたいと思います
ですがその場合、移行期間が必要になりますし、その間は実に脆弱な国となってしまいます
行う場合は時期と機会を見誤らないようにしなければなりません」
「武家で全てを賄うのは難しくはないか?」
「ですが農民を戦で失えばそれだけ石高が減ることになります
兵士と農民、この二つはいずれ分離しなければならないと考えます
どちらもその仕事に特化した者達で構成する方が良いはずですから」
「ふむ・・・」
濃の意見に信長は頷き、納得したのか後半には否定的な発言は特にない。
信長が納得し、濃が推し進める兵士と農民を分け隔てる政策。
これは濃がいた時代の歴史における戦争ではもはや常識だ。
戦争に特化した者達だけで戦争をすべて請け負うことで、不測の事態にも対応しやすいしすべての兵士が少数精鋭にも成り得る。
その結末を知っているだけに濃は強気で推すことができ、信長は説明を受ければその利点に容易に気付くことができる。
そんな政務の話をしている最中、部屋に報せが飛び込んでくる。
「失礼いたします
客人が参っておりますが・・・」
「客人?
ワシにか?
いったい誰だ?」
「いえ、御館様にではなく・・・帰蝶様にでございます」
清洲城まではるばるやって来た人は信長を訪ねてきたのではなく、その妻である濃に会いにやって来たのだった。
その報せを聞いて濃はすぐに合点がいく。
昨日の今日というわけではないが、予想ではそれなりに早く来るだろうと思っていた。
その人物が予想通り早い段階で訪ねてきたのだ。
「わかりました
お会いします」
政務を休止して濃は席を立つ。
それと同時に信長も政務の手を止めた。
「心当たりがあるのか?」
「はい
生駒家宗殿の屋敷に厄介になっている者です
京の本能寺で知り合った者で、いつでも訪ねてきていいと言っておいたのです」
「そうか、家宗の・・・
ならばその者に家宗宛ての書状を届けてもらおうか
急いで試算した衣類、武具、茶器ですぐに用意でき、なおかつ商いで売れそうなものを数え挙げた
これを伝えておきたい」
「それは良いかと思います
ですがあのものは生駒家へ帰るかどうかわかりませんよ」
「・・・なに?
どういうことだ?」
「清州に住まわせることになるかもしれない、ということです」
「・・・ふむ
帰蝶が目を付けたのであれば相当な人物か
ならば書状はまた後日使いを出すとしよう」
信長はそう言いながらも政務を続けようとはせず、濃と同じように席を立った。
「・・・殿?」
「なに、帰蝶が目を付けたほどのものを一目見ておこうと思うてな」
目を付けたわけではないのだが、実際引き抜きやスカウトに近い形状になるため否定もしにくい。
さらに斎藤道三の娘として嫁いできている濃にとって、斎藤道三の本当の娘であるお蝶と共にの信長のいる席に同席するのはなるべく避けたい。
「では私の話が終わった後にお呼び致しますので、それまでは生駒殿への書状をお願いします」
先に斎藤道三の本当の娘であることを口外しないようにしておかなければならない。
その話はさすがに信長に聞かれるわけにもいかず、何とかその時間だけでも稼がなければならなかった。
「む、確かにそうだな
ではそうしよう」
信長はあっさりと濃の言うことを聞くと再び腰を下ろし、書簡や書物や書状に目を通していた。
濃はその信長のいる部屋出て、お蝶が待っている部屋へと向かう。
「ご無沙汰しております」
濃が部屋に入るなり、元姫らしくない深々と下げられた頭から挨拶の言葉が飛び出した。
立場というものがあることをよく理解している彼女の頭は悪くないようで、斎藤道三の娘という存在について口外しないという約束も守ってもらえそうだと少し安堵する。
「よくいらしてくださいました」
濃は突然訪ねて来たお蝶に笑顔で接しする。
「それで、今後はどうするかお決めになられたのですか?」
「はい
それなのですが・・・」
お蝶はこのまま生駒家に住むか、濃の計らいで清洲城に住むか。
その選択肢を与えられていた。
「ここ、清洲城に住まわせていただければ・・・」
お蝶の心は決まっていた。
これ以上生駒家に迷惑をかけることはできない。
しかし大した力を持たない彼女が一人で生きていくのは難しい。
他所のどこへ行っても厄介者となってしまう。
ならばせめて事情を知っている濃のところであれば、そういう思いであった。
「そう言ってくるだろうと思っていました
そしてそのことに関してお願いがあります」
「はい、なんでしょうか」
「あなたが斎藤道三の本当の娘だと口外しないこと
これをお願いしたのです」
濃が斎藤道三の娘ではないということが知られれば、この戦国時代ではそれほど大きな問題は起こらないにしても、小さな問題がいくつも噴出する可能性は否定できない。
それは濃が目指す未来へ進むための足枷になるかもしれない。
その不安をあらかじめ取り除いておきたいと考えてのことだ。
「もとよりそのつもりです
私は斎藤家の姫の座を自ら捨てた身でございます
一人の女として扱ってください」
濃の願いもお蝶にとっては覚悟の上のこと。
自ら捨てた斎藤家の姫という座を自らの都合で取り戻そうという考えは毛頭ない。
その辺りはさすが蝮の道三と言われる男を親に持つ娘だと感心してしまう。
「ではそれに伴い名を変えましょう」
「名を・・・ですか?」
「はい
私はあなたの『蝶』を勝手ながらもらってしまった身です
ですので入れ替わりにふさわしい、私の名を使うのがよろしいかと」
濃は斎藤道三直々に名付けられた『帰蝶』を名乗っている。
しかしこの名も元々はお蝶がいての名である。
よって濃のもともとの名前から彼女の新しい呼び名を作るのがいいと考えた。
「私は吉野濃と申します
濃という呼び名は私が振り向いてしまいそうで困りますし、かといって吉野というのもほぼ同じ理由でそのままではいけません
全く同じ名前というわけにもいきませんので少し変えさせていただきますね」
濃はそういうと紙と筆を用意し、そこに大きく二つの文字を書く。
そしてその紙をもって彼女に見せる。
「今日からあなたの名前は『吉乃きつの』です」
濃は自らの名付けに自信があったのか、堂々とその紙をお蝶に見せていた。
しかしその名前を見たお蝶はぽかんとした表情でこれといった反応が特になかった。
「あ、あれ?
えっと・・・お気に召しませんでしたか?」
自らの名付けのセンスに少し自信があった濃だが、お蝶の反応を見て徐々に何かまずい名前を付けてしまったのではないかと不安に陥る。
しかしそれは杞憂で、お蝶はぽかんとした表情から頬を引き締めると、深く頭を下げた。
「かしこまりました
これより吉乃と名乗らせていただきます」
ぽかんとした無反応の間に少し恐ろしさすら感じた濃だったが、一転して受け入れてくれたことに安堵するも、あの恐ろしい一瞬の間が何だったのかが気になってしまう。
「先ほどの無言の一時は・・・何だったのですか?」
「あ、いえ・・・
長くともにいた名を変えることになるので、少し複雑な思いがありました
ですが私はもう斎藤家の姫という座を捨てた身にございます
名を変えることも受け入れなければならないと、心を決めておりました」
名前を変えるというのはいわば人生の分岐点を意味する。
武家の男子であれば元服と同時に幼名から名を改める。
女子にはその機会が極めて少ないが、それを行うことになった複雑な心境を納得して受け入れるための一瞬の間であった。
「ふふ、ではこれからよろしくお願いします
吉乃殿」
「はい、帰蝶様」
少し変わったお互いの名を呼び合い、なんとなくこそばゆいような感覚が二人を包み込む。
だがその感覚も互いのことを必要以上に知っているという感覚からか、親近感さえ生まれるという変わった気分が二人の共通意識の中にあった。
「帰蝶、話は終わったか?」
二人して笑っていたところに信長が突如、障子を開け放ってずかずかと入って来た。
「あ、殿
つい今しがた終わったところでございます」
「そうか
それでその者か?」
濃の頷く顔を見て信長はお蝶改め吉乃へと名を変えた女性に目を向ける。
「ほぅ、どことなく育ちは良さそうだな
濃が目を付けたというのもわかる
どこか不思議な感覚だ」
斎藤家の姫という立場にありながらその全てを投げ捨て恋に走るも、受け入れることなく人生のどん底を味わい、拾われた先の生駒家で無力を感じさせられ続けたという数奇な運命ともいえる人生を歩んできた。
武家は武家、農民は農民、生まれが人生の大半を当たり前のように決めてしまう時代において、彼女のような生き方をしたものはそう多くはないだろう。
故に信長もそのような人と出会う機会などあるはずもなく、初めて見るタイプの人に今まで見たことの無い斬新さを感じるのは当然のことであった。
「殿・・・ということは・・・信長様でしょうか?」
吉乃は濃が信長のことを殿と呼んだことで、現れた男性の正体をすぐに掴んだ。
「そうだが?
そなたは何者だ?」
「はい
私は生駒様の下でお世話になっておりました吉乃と申します
それであの・・・実は・・・」
自己紹介が終わった吉乃は何故か言葉を選び考えながら、何かの言葉をさらに続けようとしている。
「私、信長様に以前お会いしております」
「え?」
「なに?」
吉乃のいきなりの言葉に信長も濃も驚く。
「信長様がまだ吉法師様だったころなのですが・・・
尾張丹羽郡にいた頃です
お使いができずに落ち込んで道を歩いていた時に馬で現れ助けていただきました」
吉乃の昔語りを聞いて信長はしばらく考え込む。
そして何かを思い出したのか、数度頷いて晴れた表情を見せた。
「・・・ああ、もしやあの時の娘か
野菜を買いに行って猿に奪われて泣いておったな
ワシが馬に乗せて近隣の農家へ向かい、そこで野菜を分けてもらったな」
信長が自分のことを覚えていてくれたことが嬉しかったのか、吉乃の表情もとても晴れたものとなる。
まるで久しぶりに再会した幼馴染みのようで、妻という立場の濃が完全に蚊帳の外に追いやられてしまっていた。
(なにやら楽しげですね
なんというか、私よりも先に殿と出会っていたというのはまるで運命のようですが、そもそも私はこの時代の人間ではないのでそのようなことを気にする必要も気にする意味もないのですが・・・
なんでしょう、この言い表せない気分は・・・まさかこれが嫉妬?)
信長と吉乃が短いひと時だがその短い時間を楽しそうに語らっている。
その時間を知らない濃は、今まで自分無しでは成り立たなかった信長が一時とはいえ自分以上に親しくしている女性がいることに少なからず嫉妬心を抱いているのだった。
(落ち着いてください
これ以上の考えは無用です
お二人はこの時代の人間であり、彼女が斎藤家を抜け出さなければ私の代わりに婚姻していたのか彼女でした
ですからむしろこれは何もおかしなことではないはずです
はい、なにもおかしくはないのです!)
心の中で自分に言い聞かせるように何度も問題ないやおかしくないと念仏のように唱え続ける。
そして無理矢理自分を納得させて大きく一つ息をつき、心が鎮める。
「あっ、そうです
実は信長様に書状を預かってまいりました」
「なに?
家宗からか?」
「はい」
吉乃は自らの荷物の中から一通の手紙を取り出すと、信長に差し出す。
信長はその手紙を手に取ると急いで中身に目を通した。
「・・・殿、生駒殿は何と?」
濃も手紙の中身が気になる。
信長がある程度目を通したところで問うと、信長はその問いにすぐ答えた。
「家宗が病で倒れた」
「え?
それは一大事です」
「いや、それはそうなのだが・・・
家宗はそのことに労力を割くなと言ってきている」
信長は書状を濃に渡し、濃は書状に目を通す。
生駒家宗から届いた書状、その中身は要約すると二つのことが書かれていた。
一つは生駒家宗自身が病に倒れて先が長くないこと。
しかしそのことには労力を割かず、見舞いも何も必要はないと言っている。
生駒家の中で先日の商いの話はすでに引き継ぎも終わっている旨も書かれており、織田家には生駒家宗がいなくなっても損失が出ないように手はずを整えている。
そして彼がそのように病身でありながらも各地で骨を折った理由が二つ目に書かれていた。
「三河に入った生駒家とつながりのある行商が、三河で大量に武具を買い求める松平家の者達を見たらしい
おそらく戦の準備だと家宗は見ているようだ」
「戦の・・・準備・・・」
濃の表情が強張る。
それもそのはず。
この時、三河を支配しているのは三河土着の武家である松平家ではなく、その松平家が臣従している今川家である。
そしてその今川家は国境を隔てている武田家と北条家の両家と三国同盟を締結している。
そのため今川家は武田家と北条家へ攻め入ることはまず考えられない。
ならば臣従している松平家のある三河を通り、尾張へと向かう以外に道はない。
それはつまり、濃が戦国時代にやって来た理由である今川義元の上洛作戦が始まろうとしていることを意味する。
濃にとってその上洛作戦を止められなければ戦国時代に来た意味などないに等しい。
最大にして最強の敵との戦いの時が迫っているという事実が、濃の表情をどうしても強張らせてしまう。
「以前にも幾度か国境で小競り合いがあったな
その規模よりは大きくなるかもしれぬが・・・」
「殿!」
信長が今までの小競り合いから今回もそう大きな戦いにはならないだろうと踏んで考えていた時、濃がその信長を一喝するかのように大きな声を挙げた。
「大至急、たった今から国を守る準備に取り掛かってください」
「今から?
戦の準備が始まったかもしれぬが、そうではないかもしれぬではないか」
「悠長なことを言っている余裕がありません!
即座に諸将を集め、いつ戦が始まってもいいように万全を期すのです!」
いつになく強く、いつになく厳しく、いつになく大きな濃の言葉。
そこにあるただならぬ雰囲気は事情を知らないものさえも有無を言わさず従わせてしまう魔力のようなものがあった。
「・・・わ、わかった」
信長は濃の言葉の圧力に屈するかのように、そう返答するだけで精いっぱいだった。
先ほどまでの幼馴染み同士が語らい合う和やかな雰囲気は一瞬にして消え去り、戦時の非常事態のような雰囲気が部屋を支配する。
その戦時のような非常事態の雰囲気を作り出していた張本人の濃の表情は、書状に目をとうしてからというもの一時も緩むことはなく、信長や吉乃が見えていないどこか遠くをただ一人で見ているかのようだった。
濃姫の野望 猫乃手借太 @nekonote-karita
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。濃姫の野望の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます