第25話 エピローグ 2
壊れ残った市壁の上から刈り入れを待つばかりの春植えの小麦畑が見える。私はここから見る景色が好き。麦畑の向こうには牧草地がある。不毛の土漠だったのを十七年かけてここまでもって来たのだ。まだ市壁の周りのわずかな範囲だけだが、私たちは自分の土地を取り戻し始めている。十七年でノウハウを積み重ねたからこれからも利用できる土地が増えていくだろう。
十七年前のあの日、“敵”が市の中に溢れていて、翼獣や巨大獣に乗って我が物顔に闊歩していた。それが私たちの目の前でいきなり、文字通り消えてしまったのだ。もちろん信じなかった。何かの罠だとしか思えなかった。でも、わずかに生き残った大人たちが市の中を調べても、“敵”が駐留していた(だろうとおもわれる)場所を調べても何も出てこなかった。多数の人間が(人間に限らず生き物が)長く一カ所に留まれば何らかの痕跡が残るものだ。食べて、排泄して、動いて、寝る、その度に痕跡を残す。それなのにそこには何もなかった。草でも生えていたら踏み荒らされた後があったかもしれない。でもそこは元々草も生えない土漠だった。ほかの場所より多少は踏み固められていたかもしれない。それだけだった。奇跡だと大人たちが言っていたのを覚えている。
“敵”が消えたとき、ドン、ドン、ドドンという何かが崩落するような音を聞いたと言う人たちがいた。実を言うと私もその一人だ。たくさんの建物が焼け落ちていたからその音だという人もいたが、そんな軽いものではなかった。もっと大きな、重いものが続け様に落ちた音のように思えた。でも結局、本当に音がしたのかどうかも、その音がどんな意味を持っていたのかも分からなかった。
市の人口は“敵”が市の中に侵攻してくる前の五分の一に減っていた。老人と子供が多く、大人は負傷して後送されていた兵士と、市を維持するための要員の生き残りだけだった。どうせ奇跡が起こるならもっと早く起こってくれたらよかったのにとよく思ったものだ。そうすればもっとたくさんの人が生き残っただろうし、タギ兄ちゃんが残ったかもしれなかったのだから。
生き残ったほかの市と連絡することもできるようになった。“敵”がいるときには雑音だらけでしょっちゅう途切れていた無線がクリアーに使えるようになっていた。無線で情報交換すると、ほかの市でも同様だった。包囲していた、あるいは戦闘状態にあった“敵”がいきなり消えたという。私たちほど切羽詰まった状態にいた市はないようだったが。人的交流はまだ無理だった。遠く離れているのに交通手段が残ってなかったから。でも少しずつ余裕ができてきている、食料にも、エネルギー事情にも。だから遠からず交流できるようになるだろうというのが、今の市長のクラークの意見だ。
あと何日かすれば麦の取り入れが始まる。今日は忙しくなる前の暫しののんびりだった。ベンチの上にお弁当を出す。黒くて固いパンにチーズとキャベツを挟んだだけの簡素すぎるお弁当だ。飲み物は水だけ。でも量は十分だ。やっとこんなことをする余裕ができた。
「お母さ~ん」
「ルキア~」
私を呼ぶ声がする。息子のアレックスと乳母車を押したランだ。こっちに向かって手を振っているから私も手を振り返した。乳母車を市壁の上に上げることができるスロープはかなり離れている。だから階段を上ってきた私はあの二人よりずいぶん早くここに着いた。アレックスも乳母車に手をかけている。きっと自分も押しているつもりなのだろう。ランがうまくその気にさせている。ナギが生まれたとき、アレックスは弟が生まれたように喜んだ。それからしょっちゅうくっついて世話をしている(つもりになっている)。まだ四歳では危なくて一人で抱かせることもできないのだけれど。
ランがこの市に来てから一年半になる。市の門のすぐそばに倒れているのを見つけたのは私だ。慌てて人を呼んで私の家に運んだ。私のベッドで目を覚ましたランは周囲を見回して、私には分からない言葉で何かを言っていた。その中にタギと言う言葉が何度も出てきた。繰り返されるたびにその言葉に悲しみの色が濃くなることに気づいた。涙が盛り上がってきて、頬に涙の筋がいくつもできた。やがて手で顔を覆って泣き始めた。嗚咽がいつまでも続いた。
どこからどうやってランがこの市に来たのか分からなかったが、ちゃんと働ける人間は人が少ない市で歓迎された。最初は身振り手振りで意思を通じ合って、ランにできることをやってもらった。ランは骨惜しみせずに働いたが、口数も少なく、笑顔を見せることもなかった。
ランが初めて笑顔を見せたのは、自分が妊娠していることが分かったときだった。本当にうれしそうな顔で笑って見せた。左腕のブレスレットと指輪を大事そうになでていた。何ヶ月かたって、ランが言葉を少しずつ覚えて意思の疎通ができるようになったとき、最初に言ったのは、自分はタギの妻だということだった。遺伝子操作を受けた『戦士』は生殖能力を失うというのが定説だった。だから、ランのお腹の子がタギの子だというのは疑問だという声があったが、ランは笑って聞き流していた。ナギが生まれて遺伝子検査をし、市に残されていたタギの情報とつきあわせれば、タギの子であることに疑問を持つ人はいなくなった。遺伝子検査なんかしなくても、ナギの顔を見ればタギの子であることは一目瞭然だった。だってそっくりなんだもの。タギが特殊だったのか状況が特殊だったのか、タギ以外の『戦士』で子をなした人はいない。ナギというのはタギの祖父の名前だった。タギから聞いたことがあったらしくランは迷いもせずにその名をつけた。でもナギが間違いなくタギの子供ということであれば、ランの不思議な話も本当だということだ。こことは違う世界があるなんて・・・。でも考えてみれば私たちの話だって信じられない話だ。お互い様ということだろう。タギはどうなったのと訊くとランは悲しそうな顔をする。そして分からないと口籠もる。死んでも手を離さないと思っていたのに気を失って、気がついたら一人だったと。私と同じだ、私も懸命にタギ兄ちゃんにしがみついていたのに、いつの間にか一人残されていたのだから。
「おーい、ルキア」
市壁の下から私を呼ぶ声がした。夫のゲオルグだ。会議が早く終わったらしい。市壁から乗り出して手を振った。
「はーい、ここよ」
ゲオルグは“敵”の侵攻時、病院で生死の境をさまよっていた。“敵”が消えるのが五分遅ければ病院も制圧されていただろう。右足は付け根からない。義足でひょこひょこと階段を上がってきた。ゲオルグが階段を上りきるのと、ランとアレックスが着くのがほぼ同時だった。ランがゲオルグにぺこりと頭を下げて挨拶した。乳母車のなかでナギが手を上げている。まるでゲオルグに挨拶しているようだ。ナギに会うたびに、ゲオルグは早くアレックスの弟か妹を作ろうと言うのだ。もちろん私もやぶさかではないがこればかりは思い通りにはいかない。
ナギがむずかり始めた。ランがナギを乳母車から抱き上げた。唇に当てられたランの指を吸っている。ランが母乳を与え始めた。ゲオルグが慌てて回れ右をする。アレックスは興味深そうに母乳を吸っているナギを見ている。
髪をなぶっていく風が優しい。日差しも心地よい。平和だ。私たち自身の力で勝ち得た平和ではないけれど、もう十七年平和が続いている。人も少しずつ増えている。奇跡で与えられた平和なら、それが続くように祈るしかない。だから私たちは祈る。この平和が続きますように。そしてこの子たちが戦わないですみますように。
― 了 ―
深淵のタギ 真木 @mk_hs025
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