消沈揚々大団円
ボクと和泉さんは大学中央図書館の自習エリアにいた。正面に座っている和泉さんは元気がない。最後の説話を終えて今日までの四日間、別人かと思うくらい和泉さんはふさぎ込んでいた。
「変わらない、どの本の記述も変わらない、ずっと元のまま……」
テーブルには本が山積みになっている。全て赤穂浪士に関する本だ。この四日間、和泉さんは暇さえあれば本を開いていた。歴史は書き換えられない、それは分かっている。分かってはいても確かめずにはいられないのが人間という生き物の性である。
涓泉さんが自刃を思い留まったのではないか、父親の言い付けに従って大島家に仕官したのではないか、そんな記述が見付からないかと和泉さんは本を読み漁っていたのだ。
「和泉さん、お願いだよ。読むなとは言わないけど、もっと優しく本に触れて読んでくれないかな」
「ごめんなさい。どうしても力が入ってしまって……」
和泉さんが読んでいるのは赤穂浪士関係の本だけではなかった。この四日間、ボクの尻は毎晩撫でられていた。和泉さんが御伽物語を読んでいるせいだ。
和泉さんにとって、赤穂浪士関係の記述が変わらないことは、さほどのショックではなかった。それに対する覚悟は十分できていたからだ。和泉さんを憔悴させた最大の原因は小町さんとの永遠の別れだ。
和泉さんだけでなくボクも、他の『客』の皆も、そして小町さん自身でさえ予想していなかった突然の出来事。和泉さんが受けた衝撃は並大抵のものではなかったはずだ。
「小町さんと、もう一度話がしたかった……」
永遠の別れ、それは死別と同じ重みを持つ。失われた小町さんの姿を求めて、和泉さんは毎晩御伽物語のページをめくり続けているのだ。
「涓泉さんが自刃するのは一月十四日。私たちの暦より三日早いから、こちらでは一月十一日。この日が過ぎれば本の記述が変わるかもしれない」
そう言われたのが昨日の夕方。日付が変わる十二日零時ちょうど、涓泉さんに関する記述をネットで調べてみた。が、結果は相変わらずだった。本を調べていた和泉さんも同じだ。
「もしかしたら清右君が本の持ち主だから記述が変わらないのかも。今日の夕方、満月が昇れば、清右君は御役御免となって本から切り離される。そうすれば記述が変わるかもしれない」
そう言われたのが今朝、一限目の講義が始まる前だ。都合のいいことに今日は四時限目がない。そこで三時限目終了後、中央図書館自習エリアのテーブルを本で山積みにして、月の出の時刻である午後四時四十五分を待っているのだ。
「悪いわね、付き合わせて。これで駄目なら私も潔く諦めるから」
「ボクは全然構わないよ。和泉さんの気の済むまでやればいいよ」
本の記述が変わる、そんな非現実的な出来事にこれほど固執するのは、和泉さんが御伽物語の書き換えを見ているからだ。一時間かけて誰かが書いているように綴られていく文章。余りに非現実な現象を五度も見てきたのだ。他の本でも起こりうるかもしれない、そんな考えに囚われるのも無理からぬことだろう。
「そろそろ満月が昇るわ」
和泉さんが本を取り出した。一カ月ぶりに見るボクの本、月暦仏滅御伽物語の写本だ。裏表紙にはボクの署名もある。
「時間だ」
月の出の時刻になった。かき消すようにボクの署名が消えた。同時に何かから切り離されるような喪失感に襲われた。御役御免、自由と寂しさが入り混じった言葉だ。
「戻る時は一瞬なのね」
和泉さんがページをめくっている。ボクが演じた説話五編は既に元の文章に書き換わっているようだ。それはまた説話の中に書かれていた小町さんも消えてしまったことを意味する。もう小町さんはボクらの思い出の中にしか存在しない、そう思うとボクも少し辛くなった。
「清右君も手伝って」
和泉さんが赤穂浪士関係の本を調べ始めた。ボクも山積みになった本を一冊ずつ開いていく。結果は予想通りだった。印刷されてしまった文字が消え、新しい文字に書き換わる、そんな非科学的な現象が起きるはずがないのだ。
「……みっともないわね、未練がましくて。でも、これで諦めがついたわ。四日間、付き合ってくれてありがとう」
最後の本を閉じて和泉さんが言った。言葉とは裏腹に表情は暗い。
「いや、人間なんて理屈で割り切れる生き物じゃないからね。和泉さんは
ボクの精一杯の毒舌だ。いつもの和泉さんなら無視か、あるいは罵倒が返ってくるはず。が、
「そう、よかったわね」
まるで覇気のない返事だ。やはりまだ立ち直れていないのだろう。しばらく一人にしておいた方がよさそうだ。
「本、書架に返してくるよ」
テーブルに積まれた本を台車に乗せてボクは席を離れた。和泉さんはスマホを取り出して画面を見ている。ネット上に散在する赤穂浪士の記述を調べているのだろう。
「随分と落ち込んでいるなあ。でも和泉さんのことだし、時間が経てば元気になるだろう」
本を返し終わってテーブルに戻る。和泉さんはまだスマホを見ている。心なしか肩が震えているように見える。
「ねえ、清右君、あなたウィキペディア知っているわよね」
「うん。いつもお世話になっているよ」
「記事を編集したことはある?」
「いや、それができるほどの知識はないよ。調べるのが専門」
「……見て」
ボクの顔の前に和泉さんのスマホが突き出された。画面に表示されているのは話に出たウィキペディアのページ。穴が開くほど何度も見た萱野重実の項目だ。
「これが、何か……」
言い掛けてボクは口を閉ざした。何度も見た項目、そのたびに落胆させられていた項目、けれども今は違っていた。次の一文が追加されていたのだ。
――自刃の三日前、大島家の娘まちを娶り一子を儲ける。わずか三日で寡婦となったまちは、子の成人後出家し、生涯重実の菩提を弔ったと伝えられている……
「和泉さんっ!」
和泉さんは顔を伏せている。小刻みに震える肩、黒髪がかかる横顔、その目尻に光っているのは、ボクが初めて見た、そしてきっと二度と見ることはないであろう、和泉さんの涙に違いなかった。
* * *
年が明ければ期末試験がすぐやって来る。ボクらの生活は試験対策一色に染まった。そうして一月末から始まる試験期間が終わればもう春休みだ。
「次の歓迎の儀はいつにしましょうね」
試験期間最終日、ようやく地獄から解放されたボクと和泉さんは厚生会館の喫茶コーナーで、いつもの安いカップコーヒーを飲んでいた。
「三月頃がいいんじゃないかな。暖かいし」
「現世の気候と説話の中の気候は関係ないでしょう」
和泉さんは明るさを取り戻していた。立ち直りの切っ掛けとなったウィキペディアに追加された文章、しかしそれは数時間で削除されてしまった。信頼できる出典がないという理由で、審議も無しに即時削除されたのだ。
もちろん誰かのイタズラなのかもしれない。真実ではないのかもしれない。けれどもボクも和泉さんもそうは考えなかった。あの追加記事を書いたのは紛れもなく前代未聞の不思議奇書、月暦仏滅御伽物語。書かれた説話を消し新たな説話を綴れる能力をネット上でも発揮して、ボクらの歴史書に書かれなかった小町さんと涓泉さんの説話をわざわざ綴ってくれた、それがボクら二人の一致した見解だった。
「ねえ、清右君。私が新しい持ち主になって次の歓迎の儀を済ませたら、その後はどうするつもり」
「時間がかかってもいいからボクが写本を作るか、それとも信頼できる人を仲間にするか、かな」
「そのどちらもしないで、持ち主になったまましばらく様子を見ない」
和泉さんの質問の意図が分からなかった。一番再会したかった小町さんにはもう会えない、だから説話の中に行きたいという気持ちも失せてしまったのだろうか。
「梵天さんやお横さんはボクらに会いたがっていると思うんだけどなあ」
「そんな意味で言っているのではないわ。説話の中に引き込まれるのはいいのよ。ただ、私たちのための歓迎の儀として引き込まれるのが嫌なの」
「……どういう意味?」
「清右君も私も年を取ったり、あるいは寿命が尽きてしまったりしたら、必ずあの本を手放す時が来る。そうして誰かの手に渡り、新しい持ち主となったら歓迎の儀が開かれる。その時『客』として招かれるのは誰だと思う?」
「……ボクたち!」
「そうよ。小町さんや梵天さん、お横さんの役割を今度は私たちが担うのよ。私たちより後の世から来た新しい持ち主のためにね。それはもしかしたら明日かもしれない。一年後かもしれない。いつかは分からないけれど、その時のために私たち自身の歓迎の儀はしばらくお休みにした方がいいと思うのよ」
本の持ち主ならば誰でも説話に引き込まれる資格がある。ただしそれはまだ引き込まれていない説話が存在する場合だけだ。二十三編全てを演じてしまったら、説話の中には二度と入れない。未来の『客』と会うために、説話の中へ入る機会は少なくしておいた方がよい。
「次の持ち主かあ。一番あり得るのはボクの子供だよね。つまりそれは和泉さんの子供でもあるわけで」
「何を自惚れているのかしら。清右君の子を産んであげるなんて言った覚えはありませんけど」
相変わらず手厳しい。しばらく雑談した後、ボクらは外に出た。夕暮れの風が冷たく吹き付ける。けれどももう立春は過ぎた。暦の上では春なのだ。
茜色に染まる西の空にふたりの姿が見えた。並んで歩いていく涓泉さんと小町さんだ。遠ざかっていく二人の後姿、その向こうから誰かがこちらに歩いてくる。それはボクの次に本の持ち主となる、未来から招かれた未だ見ぬ『客』のように思われた。
いざ給へ! 御伽物語 沢田和早 @123456789
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