第2話

佐藤家の長屋門をくぐり抜け、玄関先まで来た時、琴はふと足を止めた。 家の中から賑やかな歓声が聞こえて来たからだ。

一体何の宴なのだろう。

そう思った時だ。


「 お琴さん!待っていたのよ!さあ、中へ入ってちょうだい!」


おのぶが玄関先に現れ、琴の姿を見ると声を掛けてきた。


「…おのぶ様。一体何の宴なのでしょう?」

少し戸惑いながら琴は訊ねる。

戸惑う琴に、おのぶは笑みを浮かべた。


「…中へ入ったら分かるわ、お琴さん。皆さん

あなたのいらっしゃるのをお待ちかねよ。

戸塚村一、いえ…。江戸一番の三味線の名手のあなたの唄と、演奏を聴きたいと…。」


おのぶは琴を促した。

尚も琴は戸惑いを隠しきれなかった。

それでも三味線の弾き手として役目を果たさねはならない。

そう琴は自分に言い聞かせ、おのぶに案内され

座敷へと進んだ。

そして座敷の前まで来ると、琴は静かに俯いたまま障子を開けた。

琴が現れた瞬間、今までざわついていた座敷はいっぺんに静まり返った。

琴のその余りにも艶やかで美しい姿に、その場に居合わせた者達は皆、息を呑んだ。


「…近藤局長。あの方が、土方副長の許嫁だった

女人の…」


そんな声が琴の耳に入って来た。

その瞬間、琴は体を動かすことが出来なくなってしまった…。


(…近藤様…?)


琴は恐る恐る顔を上げる…。

そしてゆっくりとその場を見渡した。

そこには見知らぬ男達が一斉に琴に視線を注いでいた。そしてその中に近藤勇の姿を見出した時、

琴は初めてその場に居た男達が甲陽鎮撫隊の面々ということに気づいた。

更に琴は座敷の端の方に視線を移した。

その瞬間…

琴の視界に歳三の姿が飛び込んで来た。

彼女の瞳に映った歳三は見慣れぬ格好をしていた。

髪は断髪。フランス式の洋装に身を包んだ、その姿に琴は歳三が遠い存在にさえ感じてならなかった。

それでも面差しは昔の歳三のままだった。

驚いた様子の琴とは裏腹に、歳三は素知らぬ顔をしたまま、盃の酒を飲み干していた。

決して視線を合わさぬ歳三に、琴ははっきりと悟った。

もはや自分は歳三にとって許嫁でも何でもない…。あの縁談すら歳三は最初から乗り気ではなかったのだ。

胸を締め付けられる想いを抑え、琴は三味線の音合わせを始める。

姿勢を直し、三味線を弾き始めた。そしてその音色に合わせ、唄った…。


黒髪の 結ぼうれたる思いには

溶けて寝た夜の枕とて ひとり寝る夜の仇枕

袖は片敷く妻じゃというて

愚痴な女子の心も知らず しんと更けたる鐘の声

昨夜の夢のけさ覚めて 床し懐かしやるせなや

積もると知らで 積もる白雪


それは切ない女心を唄った黒髪という長唄だった。

今の自分の心情を、琴はこの歌に込めて切々と唄ったのだ。

その琴の弾く三味線の音と、彼女の鈴を転がす様な清らかな声に、その場に居合わせた者達は皆、

しんと静まり返り、ただ琴の音曲に耳を傾けていた。誰もが琴の弾く三味線の音と、歌声に聞き惚れてしまっていた。

ただ一人歳三だけは顔色一つ変えていなかった。

そんな歳三を気に留めながらも、琴は気丈にも歌い上げた。

演奏を終えると、琴は深々とお辞儀をした。

誰もが琴の見事な音曲に拍手を送った。



宴の座敷を後にし、琴は早々に玄関先へと向かった。そんな琴の後ろからおのぶが声を掛けてきた。


「…お琴さん。本当にごめんなさい。影から見ていたけれど、歳三ったらずっと、あなたの顔さえ見ることはなかったわね。若しかしたらこんな事になるって思っていたのよ。だからあたしはあなたを呼ぶことを躊躇っていたの。けれども、どうしても、うちの人が、お琴さんを歳三に引き合わせたいって…。」


おのぶは申し訳なさそうに、そう琴に伝える。

そんなおのぶに、琴は微笑みながら答えた。


「…おのぶ様。お気遣いありがとう存じ上げます。例え言葉は交わさぬとも、あたしは歳三さまのお姿を見れらたことだけで十分幸せです。

何一つ便りがなく、歳三さまのことを心から気に留めていましたが、こうしてお元気そうな姿を見ることが出来たのですもの…。胸の支えも取れたと言うものです。」


翳りのない、その琴の笑みに、のぶはかえって複雑な思いを感じずにはいられなかった。

琴の心情を、おのぶは知っていた。

為次郎のたっての願いで土方家に出入りするようになってから、琴が次第に歳三に惹かれていくのを、おのぶは薄々気づいていた。

そして歳三もまた、同じように琴に惹かれていた事も…。

けれども武士になる夢のためにその恋さえ、封印し、縁談さえ断ってしまったのだ。

あの日、縁談がなくなってしまった時の琴の心情を思うと、今でもおのぶは胸が締め付けられる思いがしてならなかった。

京へと上り、一人残された琴はどんな思いで歳三を待ち続けたのだろうか…。


「….おのぶ様。歳三さまにどうぞお伝え下さい。お体にお気を付けてと。そして、ご武運をお祈りしていると…」


琴はそう言って深々とお辞儀をすると、静かに佐藤家を後にした。

おのぶはしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。心なしか琴の後ろ姿が震えているように思えてならなかった。


台所に戻った時、そこには歳三が瓶の水を柄杓ですくい、一気に飲み干していた。

のぶは歳三の姿を見かけると大きなため息を吐いた。

「…歳三。あなたったら何て薄情者なの?

久しぶりにお琴さんに逢えたと言うのに、それなのに素知らぬ顔をするなんて…。仮にもあなたの許嫁なんですよ!それにお琴さんの気持ちを考えた事があるの?お琴さんはずっとあなたのことを待ち続けていた…。やっとこうして逢える事が出来たのに。」


姉のそんな小言に、歳三は思わず苦笑いを浮かべた。歳三はおのぶには頭が上がらかった。


「…姉さん。さっきも近藤さんに同じような事を言われたよ。」


ふふふと笑いながら、歳三はため息を吐く。

そんな歳三を見つめ、のぶもまたため息を吐いた。もうそれ以上、のぶは何も言えず、言葉を詰まらせてしまった。

歳三は何かを思い詰めた様な表情を浮かべていた。

「…ところで、姉さん。お琴は…?」


そう歳三が訊ねてきたので、のぶは少し驚いた顔をして思わず歳三を見つめた。


「…少しは気に掛けているのね?歳三。

お琴さんはただ、あなたに伝えて欲しいと告げて

帰ってしまったわ。

…ご武運をお祈りしていると、そうあなたに…。」



のぶがそう言い終わらぬうちに、歳三はその場から姿を消していた。

一体どこに姿を消してしまったのか、のぶは最初

不審に思ったが、もしや、琴の後を追ったのではないかと思った。


「 歳三…あなたは…」


歳三と琴の二人の失った月日と時間を取り戻して欲しい…。

そう、のぶは祈らずにはいられなかった。








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梅香抄 美夕 @miyou0420

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