梅香抄

美夕

第1話

三味線の手を止めると、琴は庭の方へ視線を注いだ。

丁度 梅の花が見頃を迎え、梅の香りが庭じゅうに立ち込めていた。

梅の花をじっと見つめながら、琴は時折ため息を吐く…。

そうしながら、彼女はふと歳三の事を思い起こした。

琴にとって、歳三との思い出は甘くも切ないものだった。

初めて出会ったのはいつの頃だったろうか…。

あれは確か、歳三の長兄である為次郎が三味線屋を尋ねて来たのが始まりだった。

元々為次郎は、長唄を好み、三味線を嗜んでいた。

そのため、琴の父が営む三味線屋に出入りしてからというもの、調律や修理一切を依頼する様になった。

そんな為次郎が琴を知ったのは、たまたま、

琴が父親の代わりに店番をしていた時だった。

店を訪ね来た時、琴の奏でる三味線と、長唄を聴いた為次郎は、たちまち彼女に惚れ込んてしまった。依頼、為次郎は時々、琴を土方家に招き入れ、彼女の三味線を楽しんだ。

琴が歳三と出会ったのもこの頃だ。

試衛館から戻って来た歳三は、為次郎の部屋から艶やな三味線の音色と、その音色に合わせて唄う、美しい声に、しばらく立ち止まったまま、聴き惚れてしまったのだ。

『…一体誰が弾いているんだろう。』


歳三は誰が弾いているのか、そして声の主が気になり始めた。

そして、その三味線の音色が止まると同時に、

部屋の中から為次郎の声が…。


『…歳三、そんな所で突っ立ってないで、中に入ったらどうなんだ?』



目の不自由な分だけ耳の感覚は人並み以上の為次郎だった。

歳三が外にいることなど、お見通しだった。

歳三ははっと我に返り、少し気まずいと思いながらも、渋々と為次郎の部屋に入って行った。

そして歳三はそこで初めて琴を知ることになる。

仏頂面をしながら歳三は琴を見つめた。

聞く所に拠ると、琴はまだ十四だと言う。けれども、まだ幼さの残るこの少女の三味線の腕前が余りに見事だった。

それが歳三には少し気に食わなかった。何故なら、歳三もまた、この為次郎の影響で三味線を少しだけだが嗜むようになっていたのだ。

自分では三味線の腕は一人前のつもりだった。

しかし、目の前に居る少女の三味線の腕前を目の当たりにして、歳三は自惚れていたことを痛いほど思い知る。

だから尚更、気に食わなかったのだ。

それ以来、歳三はなるべく琴には関わらないと決めた。琴の三味線の腕前を認めたくなかったからだ。

しかし、どうしても琴の奏でる三味線の音色に

耳を傾けてしまう。

次第に心を惹かれて行く、そんな自分を認めたくもなかった。


そんな歳三の様子を感じていた為次郎は、歳三と琴の縁談まで考える様になった。

そして、歳三の知らぬところで、縁談は進んで行った。

いよいよ、祝言を目前にしたある日。

自分の知らぬところで、琴との縁談が進んでいた事を知った歳三は、この縁談を断った。

自分には武士になると言う大志があるから、

それまでしばらく放って置いて欲しい…。

そこまで言われてしまっては無理強いする訳にも行かず、結局、琴は許嫁という形になってしまった。

彼女は何度か歳三に逢ううちに、次第に歳三に心を惹かれる様になっていったのだ。

けれども許嫁と言う形になってしまい、少し落胆してしまう。

そして…


歳三は武士になる夢を叶えるために、京へと上ってしまった。

それが歳三と琴との別れだった。


あれから何年経つのだろう。

新選組の副長としての噂は何度か耳にしていた。

そして鳥羽伏見の戦いに敗れ、京を離れた歳三達が甲陽鎮撫隊という新しい組織を率いていることも。

だがしかし…

それ以上の事は何一つ分からなかった。噂も何も伝わっては来なかった。


「…歳三さま。」


琴がそう、小さな声で呟いた時だった。


「 琴、居るかい?お前にどうしても来て欲しいと言う人が居てね。」


縁側に座っている琴に、父親の月廼屋仲助が声を掛けた。


「…お父様、一体どなたですか?」


琴のその問いに、仲助はにこりと笑った。


「 佐藤家のおのぶ様だよ。宴があるとかで、

どうしても、お前の三味線と唄を演奏して欲しいそうだ。」



佐藤家のおのぶ…。

彦五郎に嫁いだ、歳三の姉だった。

おのぶの依頼なら断る理由はなかった。

琴は黙ったまま頷いた。


「…分かりました。急いで支度をします。」


そう答えると、琴は手にしていた三味線を絹の袋に丁寧に入れると、身支度を始めた。 鏡に向かい、髪を整えた。

それを終えるとゆっくりと立ち上がる。


「…お父様。行ってまいります。」


大事そうに三味線を抱え、琴は部屋を出た。



佐藤家のある日野宿に向かい甲州街道を、琴は足早に歩き続けた。

時折、琴は大きなため息を吐く。

脳裡にふと歳三の面影が浮かんでは消えていった。


「…馬鹿ね。歳三さまはもうあたしのことなど忘れてしまったに違いないのに…。」


そう自分に言い聞かせる様に、琴はそっと呟いた。

思えば淡くも切ない初恋だった。忘れようとしても、どうしても忘れる事が出来なかった。

そんな思いを巡らせながら、琴は日野宿へ向かう足を急がせるのだった。











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