世界のミカタ

淺羽一

〈短編小説〉世界のミカタ

「お前の世界を変えてやる」

 そう言ってあいつは逝った。まだほんの二週間前に十五歳になったばかりで、将来にやりたいことだって幾つもあると語っていて、しかもそんな時は決まって眩しいくらいの笑みを浮かべていたのに、病室のベッドの上で何本ものチューブに繋がれたまま、あいつは正午のバラエティ番組のオープニングが始まってから終わるまでの間に呆気なく死んだ。急な容態の変化に驚く両親や慌てて駆けつけてきた医師や看護師に苦しそうなくせに馬鹿丁寧に声を掛けた後、最後の最後に何にも言えずに隣のベッドで呆然としていたこっちに向かって笑いやがった。お前の世界を変えてやる。だから、お前は生きろ。そんな遺言を貰うくらいなら、世界なんて相変わらず最低でくそったれなままで良かったのに。実際、あいつがいなくなったせいで、世界はいよいよ最低で最悪で救いようのないものに変わったのに。それなのにどうして、「生きろ」だなんて。今まで以上に苦しいのに。

 あいつには悪いが、生きたいなんてちっとも思えなかった。いや、正確に言うなら、あいつへのさよならが終わってからは、生きたいだなんて思えなかった。あいつをちゃんと見送るまでは、絶対に死にたくないと思っていた。

 俺が言うのも何だけれど、あいつは良い奴だった。生まれた時からほとんど病院暮らしで、学校もろくに行ったことがなくて、足は腕みたいに細くて肌は大理石のタイルみたいで、背もちっちゃいから見た目だって小学生くらいにしか見えなくて、なのにやたらと口が悪くて、何度こっちが年上だって言っても「気にすんなよ」なんて偉そうに笑って、そして何よりこれは絶対に内緒だったけれど俺の初恋の相手だった。だけど多分、あいつはきっとそれに気付いていた。

 誤解しないで欲しいのは、俺は同性愛者じゃない。と言うか、ちょっとばかり事情が複雑なのだ。或いは、ある意味で単純なのだ。

 俺が初めてあいつと出会ったのは病院内にある教室だった。あいつみたいに生まれつきの難病に罹ってる人間とか、俺みたいにそれまで普通だったくせに中学生の終わりになっていきなり難病を発症した人間とか、要するにずっと入院生活を余儀なくされた子供が集められて、ボランティアの「先生」から勉強を教えられたり、はたまた色んな話を聞かされたりする、偽善っぽくて退屈で己の惨めさを実感させられる時間。正直、俺はそんなもの無視していたかったし、現にずっとサボっていたのだけれど、あんまりにも親や担当医が気分転換になるからってしつこいから、どんなものか気になったと言うよりも単に面倒になってたった一度だけの付き合いのつもりで顔を出そうと、磨りガラスをはめられたスライド‐ドアを開けた途端、目の前にあいつが立っていた。

 これは誰にも、あいつにだって、と言うかあいつにこそ秘密だった話だけれど、一目惚れだった。短いのに柔らかそうな黒髪に、華奢な体に、ちょっとつり目気味の大きな瞳に、ぽってりとした唇。服装は病院着で、しかも可愛げなんて欠片もない水色一色のシンプルさだったけれど、関係なかった。「何だお前、新入りか」。あまりと言えば乱暴な言葉遣いも、意識して低い声を出そうとしている風な、大人になりたくて背伸びしているみたいな雰囲気の方が印象的で、まるで気にならなかった。だから、ややあって先生がやって来て、とりあえず自己紹介をさせられて、やがて他の面々の自己紹介を聞いた時は、愕然とした。

「俺、こう見えても、男、だから」

 何人目かの順番で教室の前に立って、ことさら性別を強調するように告げられた時、とりあえずそれは質の悪い冗談だと思って、だけど他の全員がそれをごく当たり前のこととして受け止めているのを目の当たりにしてそれは笑えない冗談であってくれと願って、最後に駄目押しとばかりに先生が「君と彼は歳も近いし、仲良くなれるよ」と俺に向かって言ってきた瞬間は自分のこれまで築き上げてきた世界観が崩壊したと真剣に感じた。

 性同一性障害。女として生まれてきたのに、男。あんなに可愛い顔をしているのに、格好良いと言われる方が好き。でも、それはよくよく考えてみると、この世界を楽しむ為に生まれてきたのに、狭い病院の中でしか生きられなかったあいつには、まるで変なことじゃないのかも知れなかった。事実、あいつにとってそれは「障害」なんかじゃなくて、一つの「個性」だった。だから俺もあいつを女扱いしなかった。おかしな話だけれど、それが俺にとってあいつを好きでいると言うことだった。あいつは発育不良の自身を呪うよりも、ぺったんこなままでいられる胸を誇らしげに張っていた。それに、あいつが男だったからこそ、俺は最後の二週間をあいつと並んで寝られていた。たった二週間で終わってしまうなんて、知識としてはあったとしても、実感なんて皆無だったけれど。覚悟をしたら認めてしまう気がして、俺はいつもはぐらかしていた。一度も実家に帰りたいと言わなかったあいつにとって、俺は百点満点中、一体何点の態度を返してやれていたのだろう。

 ちゃんとした通夜や葬式はきっと本物の家族や親戚がしたはずだけれど、俺たちみたいな連中の多くは気軽に病院から出られなかったから、あいつが逝った三日後に、院内であいつを見送る為の「卒業式」が行われた。他じゃどうか知らないが、この病院では「お別れ会」とは言わないのだ。あいつを慕っていた子供たちが泣いて、でも、その涙は少しばかり普通の葬式なんかで見られそうなものとは違っていて、一様に寂しそうな微笑みを顔に貼り付ける先生たちよりも、それはよっぽど大人びて見えた。みんながそれぞれ一輪ずつ花を写真の前に飾り、あいつの好きだったちょっと昔のJ‐POPを歌い、やがて最後にあいつと一番に仲の良かった俺が全員を代表して手紙を読んでくれと言われていたけれど、その頃にはもう俺は部屋を出てしまっていた。泣いている姿を見られるのが恥ずかしかったとか、伝えたい言葉を思いつけなかったとかじゃない。逆なのだ。伝えたかった言葉は幾らでも溢れてくるのに、肝心の涙はただの一滴さえこぼれてくれなかった。そんな薄情さを知られてしまうのが怖かった。

 あいつが死んだ翌日から、俺の病室は前の所に戻っていた。

 狭い部屋だと以前なら感じていたのに、久しぶりに一人で寝る部屋はやたらとだだっ広くて、エアコンは四六時中稼働しているのに肌寒くて、無駄に早起きなルームメイトもいないはずなのに目覚めればまだ日も昇っていなかった。

「よぉ」

 だから、とりあえず二度寝しようとシーツを被り直した直後に耳元で聞こえた声には驚いた。ドキンと言うよりズキンと言う感じで跳ねた心臓の勢いそのままに身を起こすと、ベッドのすぐ傍、閉じられたカーテンにもたれるみたいに見知らぬ子供が立っていた。暗さに慣れた視界に映し出される薄闇の中で、短髪に生意気そうな眼差しが印象的な男の子がおかしそうにクスクスと笑っている。それはあたかも学校帰りにちょっと遊びに寄っただけと言う風な格好で、単純に考えれば部屋を間違えている迷子とかそんな辺りなのだろうけれど、小柄な体から発せられる得体の知れない迫力にナースコールを押すのも忘れて息を殺した。どんどん速まっていく胸の鼓動に、欠陥品の心臓が今にも壊れて止まってしまうんじゃないかと思った。どうせなら、それも良いのにとも思った。今だったらまだあいつに追いつけるかも知れない。

「とりあえずさ、電気付けようぜ」

 そう言うやいなや、そいつはいきなりパチンと指を鳴らして部屋を明るくした。俺は目を疑った。だって、この部屋の照明にそんな洒落た機能は付いていなかった。窓際から入り口の扉脇にある昔ながらのスイッチまで、どんな大男だって手を伸ばしたくらいじゃ届きやしない。

 呆然とするこちらに対して、そいつはやはり愉快そうに笑っていた。

 少し、カチンと来た。

 怖いとか怪しいとか言うよりも、その見るからに年下のくせに人を小馬鹿にした態度が無性に腹立たしかった。

 気付けば自然と言っていた。「お前、誰だよ」。

「俺だよ」

 拍子抜けするくらいあっさりと答えられた。「もう忘れたか? 薄情だな」。

 「はぁ?」。何を言っているんだと呆れてしまった。だから素直に「お前みたいなガキなんて知ら」ねぇよ、と言いかけて、しかし唐突に舌が固まった。そいつはそんなこちらを挑発するように眺めていた。

 いやいやそんなことあり得ないと分かっていた。悪い夢を見ているか、そうでなければ肉体よりも早く遂に精神の方がイカれてしまったんだと思った。むしろ、そうであって欲しかった。そんなふざけた現象なんて起きっこないのだから。

「……まさか、お前、か」

 だからそれは決して期待じゃなかった。単なる確認のつもりだった、そんなわけないと言うことの。そのはずだった。

「そうだよ」

 あっけらかんと頷いたそいつの喋り方は、声変わり前の甲高い響きと相まって、目を閉じて聞いていたらまさしくあいつそのものだった。膝から始まった震えが全身にまで広がったけれど、一体どうしてそれを止められないのか、自分でも分からなかった。

「俺たちの世界を観に行こうぜ」

 事態の重大さとか深刻さとかまるで気にした風もなく、そいつは本当にいつも通りこっちの返事も待たずにさっさと窓を離れて入り口へと歩き出した。そしてそんなあいつに俺はいつも「お前なぁ」なんてぼやきながらも結局は素直に従ってしまっていた。

 気付いたらベッドから降りて上着を羽織りスリッパも履いていた。朝方は決まって足が痺れて胸の調子も悪いのに、苦しさや怠さなんて微塵も感じられなかった。

 リノリウム張りの廊下はまだ薄暗く、非常灯の明かりにぼんやりと染まっていた。人影はなく、普段であればそろそろ朝の仕事に取りかかっているはずの看護師らの気配も全く存在していなかった。もしも誰かに見られたらどうしようなんて心配をしているのは俺だけで、あいつは膝がぴんと伸びるくらいの大股で廊下の真ん中を歩いていた。窓の外はガラスに紺色のフィルムを貼られているみたいだった。

 何処に連れて行かれるのか、何度か尋ねようと思ったのに、実際は何も言えなかった。全然見慣れない後ろ姿であったのに一度も目を離せなかった。

 あいつはエレベーターの前に着くと〈△〉のボタンを押した。いつもならなかなかやって来ないエレベーターはすんなりと扉を開け、俺は白っぽく照らされた箱の中に足を踏み入れた。不安がっているなんて思われたくなくて、やがて扉が閉じた時も平然とした表情を装っていた。あいつは軽く背伸びをして一番上のボタンを押した。

 ノンストップでたどり着いた屋上は、けれどこの時間帯ならジュースの自動販売機があるエレベーター乗り場から屋外へ出られないはずだったのに、あいつは当然という感じでガラス張りの扉に手を掛け、それもまたすんなりと押し開かれた。季節はもうじき春であっても、深夜と早朝の境目を渡る孤独な風はそれに相応しい温度だった。真っ平らな空に太陽は無かったが、月や星も消えていた。もう少し時間が経てば、おそらく今日は昨日よりよく晴れるのだろうと思った。

 四方を鉄製のフェンスに囲まれた屋上で、あいつは東側のフェンスにもたれるように立っていて、俺は薄闇に紛れたあいつの表情が見えるか見えないかくらいの位置で止まっていた。病院の周りに広がる街はまだ眠っていて、街灯の明かりさえ息を潜めていた。

 しばらく沈黙が続いた。布越しに伝わる空気の冷たさに早く室内へ戻りたい気もしたけれど、あいつが動かない限り俺もまた動けないんだろうなと自覚していた。

 「俺さ」とあいつが口火を切ったのは唐突だった。「自分が普通じゃないって本気で思ったの、これくらいの時だったんだ。それまでは、どれだけ体が悪くたって全然平気だったのに」。

 あいつが両腕を広げて肩をすくめた。どんな表情をしているのかはっきりと見えていなかったのに、どうしてか自然と理解出来た。きっと、あいつもまたそれを知っていたから、その場から動こうとしなかった。

「変な話だけど、ほら、こういう所にずっといると周りから言われない限りあんまり男とか女って意識しなくなるだろ。だからさ、正直ちょっと新鮮な気もしたんだ。ただ、それ以上に戸惑ったけど」

「きっかけとか、あったのかよ」

 それは前から聞いてみたかった質問で、だけど絶対に聞けなかった内容だった。

 あいつは、数秒ほど黙ってから、「今はもういないけど」と話し始めた。

「昔さ、三枝さえぐさ先生って人がいてさ。優しくて、いつも笑ってて、マジで素敵な人だった。でも、その人が結婚して病院を辞めるって知って、何て言うか、ショックだったんだ、自分でも信じられないくらい」

 聞きながら、聞かなければ良かったと思った。だってそれはまるで、いや間違いなく、初恋の思い出話だったからだ。頭の中にとびきり美形の男と、むちゃくちゃ綺麗な女が浮かんできて、そのどちらが「三枝先生」であったとしても嫌だった。何より、ショックだったなんて言いながら何処か楽しそうなあいつの話しぶりに苛立った。俺だったらお前を置いてどっかに行ったりしないのにと、言える勇気のない自分に一番腹が立った。

「でも、最初は嘘だろって思ったんだけど、自覚したら本当にすっきりしてさ。それまで何となくちぐはぐだった自分の中が、急にぴたりと整理されたみたいだった」

 卑屈になるどころか誇らしそうに語るあいつに、ふと、じゃあ三枝先生と会う前に俺と出会っていたらどうだったかな、なんて聞いてみたくなった。勿論、聞けるはずなかったんだけれど、もしもほんの僅かでも今と違っていた可能性があったのか、あいつの口から答えて欲しかった。多分、実際のあいつなら、馬鹿じゃねぇのなんて笑って終わりだったんだろうけれど。

「で、今更そんな話をする為に、わざわざ会いにきたのかよ」

 胸にある想いと裏腹に、むしろそれを隠そうとするみたいに、口が冷たい言葉を吐く。自分で尋ねておきながら勝手な言い分だと情けなくなる。

 でも、あいつの反応は対照的に余裕たっぷりな感じがして、「お前にだけは知ってて欲しくてさ」。

 ……ずるい奴だと思った。そんなことを言われたら、こっちは何も言えなくなるじゃないか。本当に、嫌な奴だと思った、お互いに。

「楽しかったよな」

 と、唐突にあいつがそんなことを言い出した。

 「何が?」。俺にはあいつが今度は何について話し出したのか分からなかった。

「何もかもが」

 返ってきた答えはシンプルだった。

 嘘吐け、と思わず言いそうになった。だってそんなはず無いじゃないか。人並みの暮らしも出来なくて、やりたい夢も叶えられなくて、挙げ句の果てには簡単に死んで、それも俺の目の前で。

 「宇宙に行きたかったんだろ」。気付いたら俺はそんなことを口走っていた。

「ロケットに乗って月に行きたかったんだよ」

 果たして、あいつはあっさりと、だけど子供らしい夢の内容や外見からは考えられそうにないくらい落ち着いた口調で応えてきた。そしてさらに、こちらを指さして「あんな風にさ」。

 突然の光と轟音に驚いたのは直後だった。振り返った俺の視界に、暗い空を斜めに上っていく光の軌跡が伸びていた。それはあたかも地球に落ちた巨大な流星が宇宙へと帰って行っているようだった。

 綺麗だった、素直に感じた。明らかに理解しがたい現象であったものの、それを言うならすでにあいつが目の前にいる時点でそうだったから、自然と受け入れられた。ただ、大気を振るわせる音量に皆が起きてきやしないかと、それだけが心配だった。

「お前が代わりに行ってくれても良いんだけどな」

 いきなり耳元で聞こえた声にはっとすると、いつの間にかあいつが隣に並んでいた。「地球の入りを見てみたかったんだ」。そう語るあいつはかすかに誇らしそうで、確かに嬉しそうだった。

「月の地平線に青い地球が沈んでいくんだってさ。地球ってさ、マジで丸いんだって」

 あいつは飛んでいくロケットを、首を回して追いかけながら、まさしく夢見るように語った。そんな後頭部を見下ろしているこっちになんて気付いてもいなくて、一人ではしゃいでは以前にテレビで得たらしい知識を披露して「な、すげぇだろ」と繰り返していた。

「嫌だよ」

 自制する間もなく発せられた声の冷たさに、我ながら酷い奴だと呆れた。びっくりした風にあいつがこちらを見上げてくる。「だって、成功するなんて限らないだろ」。それにも関わらず、さらに続けた性根の醜さに、心底から自分を嫌いになった。

 一瞬後、俺の言葉が原因なのか、それともあいつ自身が諦めたのか、真っ直ぐに伸びていた光の軌跡が突如として膨らみ、爆発した。

 まさかそんなことになるなんて予想していなかった俺は動揺したが、あいつは背後の惨劇を振り返りもせずにこっちを見つめたまま、「それもその通りだけどさ」と妙に悟った口調で言ってきた。刹那の逆光が隠しきれなかったあいつの表情は、苦笑めいていたけれど怒っている風ではなかった。「悲しい失敗も、辛い経験も、次に繋がるなら無駄じゃないだろ」。むしろ、そう続けたあいつに俺の方こそどんな顔を向けていたのだろう。そんなものは屁理屈だし、理想論だし、客観的に見たら正しいかも知れないけれどその悲しみや辛さの中心にいる人間に取ったらそれが全てじゃないか。そんな考えと、あいつの夢を潰してしまったんじゃないかって罪悪感が、胃の裏側辺りでぐるぐるぐるぐる内臓を吸い込むように渦を巻いていた。いつしか俺はあいつの顔をまともに見られなくなっていた。

「もうじき、だったよな」

 と、不意にあいつがそんなことを言った。「え?」と顔を上げたら、あいつはフェンスの方へ歩き出していた。その背中はまるで「こっち来いよ」と言っていた。

 俺は軽く戸惑いつつも、「何の話をして」るんだ、と聞こうとした。それを最後まで言えなかったのは、思わず言葉を失ってしまうくらい驚いたからだ。それは、俺があいつに追いついた直後の出来事だった。

 何の前触れもなく明るくなった空に反射的に目を瞑った。そしてそれを開いた時、真新しい視界に飛び込んできたのは、勝ち誇ったようなあいつの顔と、フェンスの向こうに広がる光景だった。

 真昼同然に澄み切った青空の下で、病院の敷地内や周囲に植えられた桜の木が一斉に咲き誇っていた。

「つぼみが開いたら、また花見をしたいなって言ってたよな」

 あんなにもひ弱そうだった枝々の隙間は柔らかな桜色で満たされていた。今なら木の真下で誰かが空へと間抜け面を晒していたって分かりそうにない。例えばそれが去年の俺やあいつだったとしても。

「お前も桜、好きだもんな」

 好きじゃない。俺はただ、あいつが好きだったから一緒に楽しんでいただけだ。だって、花なんてどうせ散るんだから虚しいだけだ。俺は叶うなら、いつまでも永遠にあいつと並んで口をぽかんと開けていたかった。

 「散るから、綺麗なんだよ」と、いきなりあいつが発した言葉は、さながらこちらの心を読んだ結果めいていた。

 ぎょっとして視線を向けると、あいつはやっぱり得意気な笑みを浮かべていた。あたかも「お前の考えなんてお見通しだ」とでも言わんばかりに。

「いつか散るから、咲いている瞬間を楽しめるんだよ」

 あいつは訳知り顔でそう語った。腹が立つくらいに見慣れた唇と眉毛の傾け具合だった。

「つぼみがあるから、もう咲いたかなって近くを通るたびに見上げてしまう。いつまでも散らずに咲いている花なら、わざわざ足を止めよう顔を上げようなんてしなくなるよ」

 急に強い風が吹いてきて、反射的に腕で顔をかばった。そして直後に目を疑った。

 通常ならあり得ない。突然のつむじ風に巻き上げられた桜の花びらが、一転して穏やかになった世界へひらひらと粉雪さながらに降っていた。俺の足元に、あいつの黒髪に、華奢な肩に、この病院全体を祝福するように、ハートの形をした小さな花弁が音もなく積もる。そして色を失った桜の枝には、けれどまた新しいつぼみが付いていた。「あ、失敗。葉桜を飛ばしちゃった」。思い出した風に笑ったあいつは、少し照れくさそうだった。

「あれが咲いたら、綺麗だろうな」

 それは独り言か、それともこちらへ同意を求めたのか、俺には分からなかった。

「その頃には、きっとお前も元気になってるさ」

 だけど、やがて紡がれたその言葉の意味は間違えようがなかった。あいつは要するに、手術を受けろと言っていた。他人の臓器を奪ってまで成功するかどうかも分からない賭に望む価値が俺にはまるで感じられなかったのに。

「世界は広いんだ」

 と、あいつがそう言った瞬間、柔らかいプリンを揺らしたみたいに、病院を中心に建ち並ぶ建物や電柱や木々が次々に震えたかと思ったら、病院だけを残していきなり全てぺしゃんこになった。

 フェンスの編み目越しに、潰れたと言うよりも三次元の世界が二次元になったように、真上からの空撮写真めいたものが広がっている。あらゆるものが高さを失った世界では、三百六十度どちらを向いても地平線が繋がっている。「ほら、見ろよ」。ややあってその声をきっかけに世界が暗転したかと思ったら、東の地平線が金色の糸を通されたみたいに光り出した。ゆっくりと、世界が朝を迎えていく。

「なんか、気持ち良いな」

 朝食用のトーストやコーヒーのCMでもやっているかのごとく、爽やかな口調のあいつが朝日に向かって三文芝居さながらの伸びをする。

 だから俺は、内心でふざけんなと思った。あまりと言えばわざとらしすぎる演出にあいつを睨んだ。

 だけど伸びを終えて再びこちらへ向き直ったあいつは、そんな俺以上に真剣な眼差しを浮かべていた。

「五割の失敗に震えるくらいなら、五割の成功を信じろよ」

 次に偉そうなことを告げてきたらすぐさま言い返してやろうと準備していた皮肉や文句の数々は、しかし一つとして口にすることが出来なかった。

 「……何の為に、だよ」。代わりに舌が紡ぎ出したのは、紛れもなく俺の本音で、絶対にあいつに知られたくなかった俺自身の嫌な部分だった。

「今更、こんな世界で生きていて何になるんだよ。学校なんか行ってたって楽しいことなんてほとんど無かった。友達だとか言って、ずっと見舞いに来続けるよとか言ってた連中も、とっくに来なくなった。病気が治ったからって体が特別丈夫になるわけじゃないし、外にいる奴らにとって普通なことでも満足に出来ない方が多いのに」

 止めたかった。こんなこと言いたくなかった。それなのに、一度壊れた心のダムは、今までの全てを吐き出そうとしているみたいだった。

「俺にとっては、ここに来てからの毎日が一番、幸せだったんだ」

 それはつまり、あいつと一緒にいられた時間が。

 だけど、それは所詮、俺だけの独りよがりだったのか。あいつは、たった一人で逝ったあいつは、それなのにどうしてそんなに平然と笑っていられるのだ。一言で良いのに。あいつが「お前も来いよ」と誘ってくれたなら、俺はいつも通り「仕方ないなぁ」なんて照れ隠しをしながらその背中に素直に付いていくのに。

 なのにあいつは、やっぱりあっさりと、いっそ冷徹なくらいはっきり言いやがった。「確かにさ、世界全部を変えることは難しいかも知れないけど。お前が少し見方を変えるだけで、お前にとっての世界は簡単に変わるんだ」と。子供そのものの外見から、妙に大人じみたことを言いやがった。

「世界は広いんだ。そんで、色んな出会いでお前の世界はもっと広くなる」

「出会いなんて欲しくねぇよ」

 新しい出会いなんて要らない。懐かしい再会こそが欲しい。だから、「俺たちだって出会えただろ。だったらさ、きっとまた」なんて他人事じみた正論は聞きたくない。

 気付けば俺は耳を塞ぐ代わりに怒鳴っていた。

「だけど結局お前は先に死んだじゃねぇか」

 瞬間、言ってしまったことを後悔するより早く、あいつの黙った姿に傷つけたと悟った。でも、その事実が余計に怖くて、沈黙に耐えられる自信もなくて、続けて叫んだ。「前だけを向いて生きられたお前には分からないんだよ」。

 世界はいよいよ日が昇っていく。いつの間にか桜の花びらも消えていて、建物の高さも戻っている。そしてあいつは、こっちを向いて、笑っていた。

「分かるよ」

 あいつはさらっと答えると、さらに「自分を否定したくなって、世界を否定したくなる気持ちは、俺にも分かるよ」。ほんの刹那、あいつの姿が二つ重なって見えた。

 はっとした。否応なく思い出させられて、思い知らされた。茨を巻き付けたような言葉を飲み込んだ痛みのせいか、それとも別の理由からか、涙が溢れそうになって、目を逸らした。「……お前は、強いんだよ」。苦し紛れに呟いた言葉は情けないくらい震えていた。

 「お前も強くなれるよ」。あいつはのんきにそう言った。

 買いかぶりだと思った。一人じゃ無理だと思った。だけど否定の言葉が出てこなかった。しばらくの間、俺は涙を堪えるのに必死だった。

「そう言やさ」

 すると、ややあってからあいつは不意にこんなことを言い出しやがった。「お前、俺が死んだ時に泣かなかったろ」。

 「それは……」。後ろめたさに抗うように顔を上げると、あいつは冷ややかな視線を向けてきていた。ただし、その口元と眉毛の角度はよく知っていた。

 果たして、あいつは愉快そうな口調で「良いさ。俺もそっちの方が良かったし」。

「……どういう意味だよ」

「笑ってくれよ」

「え?」

 ぽかんとする俺の前で、あいつは楽しげに、だけどかすかに寂しげに、「最後くらいさ、笑って見送ってくれよ」と言った。

「……嫌だよ」

 それは、一体どんなつもりの拒否だったのか。自分でも判然としないまま、改めてもう一度「嫌だ」と首を横に振った。

 その途端、あいつは心底から嫌らしそうな目つきになって、「お前さ、そんなに俺のことが好きだったのかよ」。

 ドキン、と心臓が跳ねた。「何言ってんだよ。別に、そんなんじゃなくて」と内心の動揺を悟られまいと早口に並べる言葉は、しかしろくに聞き入れてもらえなかった。

 そしてあいつはいきなり言った、「ごめんな」と。

 唐突すぎる謝罪に、言葉を失った。きっと、おかしな顔であいつを見つめていたはずだ。だってその証拠に、あいつは軽く吹き出した後で、「もしも俺が女だったら、きっとお前を好きになってたよ」。

「…………」

 やっぱり、どうしてあいつが謝ったのか、それがどんな意味合いのものだったのか、俺には正解なんて分からなかった。

 だけど、それでも唯一、あいつが謝るなんて間違っていると確信出来たから、俺は間違いなく答えなければならないんだって理解した。気休めとか、誤魔化しとかじゃなくて、もっと大切な、あいつに謝る必要なんて無いんだって分かってもらえる言葉で。

 それは自然に生まれてくれた。

「俺、お前と馬鹿やれて楽しかったよ。お前がいてくれて良かったよ。本当にさ、マジでお前と出会えて嬉しかったよ」

 言葉は自然に止まらなかった。それを止めるのはどうやら自分の意志しかないらしかった。あいつは優しい奴だから、どんなに愚かな行為だとしても、俺が話し続けている限りそこで待っていてくれるはずだった。

「だからさ、頼むからさ、そんなに急ぐ必要なんて無いだろ。せめてさ、もうちょっとだけ待っててくれよ。大丈夫、分かるんだ。そうしたらさ、俺たちまた一緒に――」

「駄目だ」

 でも、俺の勝手な想いとは裏腹に、あいつは優しくも明確な否定でこっちの言葉を止めやがった。しかもその上、「お前はさ、俺の分まで生きるんだ」などと。

 「何だよ、それ……」。とんだ裏切りだと思った。この場でこの状況でそんなことを言えるなんてどこまで酷い奴なんだと呆れた。

「俺さ、もっと一杯、色んな所に行きたかったんだ。だから、お前がこっちに来るのはそれを見てからだよ。でないと、俺が話を聞きたくても聞けないだろ」

 本当に、心の底からふざけんなと腹が立った。どうしてお前はいつもいつもいつもいつもそんなに勝手なことばかり言って、こっちの気持ちなんかまるで考えてなくて、いい加減にそうそう我が儘が通るとか思うなよマジで大体こちとら階段を上がるだけでもものすげぇ辛いのにそんなあっちこっち行ったりするなんて出来っこないだろって両手で頭を掴んで耳の穴に向かって思いっきり言ってやりたかった。

 なのに、そのはずだったのに。

「な、約束だからな」

 あいつがあんまりにも嬉しそうに言ってくるもんだから、結局は何も言えずに仕方ないなぁなんて気持ちで受け入れてしまったのは、要するに惚れた方の負けだったって話だった。



 目覚めると病室で、傍らでは母親が椅子に腰掛けて眠っていた。

 明るい天井を眺めながら、ぼんやりと手術は成功したんだなと悟った。頭のすぐ脇にあるテーブルにはあいつの遺したドナーカードが載っていた。

 残念ながら、これは感動的かつご都合主義に満ちたお話じゃないから、あいつの臓器が俺に移植されたりなんてしていなければ、そもそもあいつに提供出来た臓器なんて眼球とかそんな限られたものだけだった。ただ、あんなにも世界を見たいと言っていたから、それはそれであいつらしかった気もした。

 点滴の針が鬱陶しくてちょっと億劫ではあったものの、わざわざ母親を起こすのも気が引けて、と言うより本音はこんな場面を親に見られたくなくて、何とか手を伸ばしてカードを手に取った。

 薄い一枚のカードを持っただけなのに、ほんのりと体内が温かくなった。それは、あいつの一部がこの世界に生きる誰かの日々をそっと支えていることの証拠だった。

 世界そのものは変えられないとしても、その見方を変えて、感じ方を変えるだけで、自分にとっての世界が変わる。

 それは今となってもやっぱり理想論で、世の中そんなに単純に割り切れるものじゃないと思っているけれど、とは言え、なるほど現実にそれを実践していた奴がいるんだからあながち間違いじゃないんだろう。だとすれば、あいつの想いが俺だけじゃなくて、まるで見知らぬ誰かの世界まで変えられていたのなら何て言うかまぁ素敵なんじゃないかなと少しは認めてやっても良いと思った。その反面、何となく嫉妬じみた気分にもなってしまうんだけれど、それはこの先一生、誰にも言うことは無いだろう。

 おそらくあまり眩しくないようにと気を利かせてくれたのだろうが、窓のカーテンは三分の二ほどが引かれていて、ベッドに寝転がったままじゃ外の景色は青い空くらいしか見えなかった。

 だから仕方なく、試しにそれで確かめてみることにした。

 今までなら、脳天気に晴れやがってそれがどうしたと冷めた見方をしていたけれど、今回はちょっと角度を変えて、今この瞬間に外に出て深呼吸でもしたら気持ち良さそうだと言えないことも無いと言えば無いな、なんて風に考えてみた。それはいかにもとってつけた感があって、我ながら背中がかゆくなりそうな思考だったけれど、しかし何となくなるほどあいつなら言いそうだと思ったら、いつの間にか徐々に一度くらいはそれを実践してみても良いかなって気に本当になってきたから驚いた。

 仕方ないなぁと、自然と苦笑が浮かんできて、そのまま一つため息を吐いた。自由に起き上がれるようになったら、今日みたいに快晴の日に外に出てやろう。そしてあいつが屋上でそうしたみたいにわざとらしい伸びや深呼吸でもしてやろう。そしてそして、その後で多分、自分は照れ隠しに「いや、だから何?」とか口にするんだろう。きっとその頃には満開の桜の下で、全くもってそれは何ともかんとも俺たちらしいやりとりじゃないか。


〈了〉

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