奴らはそんなに甘くない ―教科書に載らない戦争史―

淺羽一

〈掌編小説〉奴らはそんなに甘くない ―教科書に載らない戦争史―

 女子にとってバレンタイン‐デーが戦争なら、モテない男子にとってのそれは冷戦だ。

「バレンタインで騒ぐなんて、馬鹿だけだろ」

「大体さ、チョコレートなんかに頼らないと告白出来ない女って、むしろ哀れじゃね」

「って言うか、この日の為に手作りとか、どんだけ必死なんだよ。逆に冷めるわ」

 なんてことを聞かれもしないのにわざわざ口に出す奴は、言ってみれば逃亡兵、もしくは敗残兵だ。戦うことを早々に放棄しているくせに、決して潔く負けを認めた投降兵じゃない。

「まぁ、良いじゃねぇか。イベントなんて参加して盛り上がった方が楽しいんだからさ。それに、好きな相手の為に手作りチョコを作ってる子ってのも、頑張ってる感じがして、ちょっと可愛いじゃん」

 かといって、そんな風に達観した内容を本当に平然と言える中学生もまた、かなり少数派に属する存在だ。

「正直、義理だって分かってても、やっぱ誰かに貰えたら悪い気はしないだろ」

 朝礼が終わって一限目が始まるまでの時間。午前中に特有の少し控え目な喧噪が漂う教室の片隅で、黙ってしまった負け組に向かって武蔵むさしはのんきに笑いながら言った。

「けどま、だからってあんまり気にしても仕方ないんだけどさ」

 嫌みったらしくふんぞり返っているのでは決してなく、ただ自然と椅子に座っているだけなのに、その姿からはまさしく勝者の余裕と風格を感じられた。そのくせ、当の本人はその事実があまりにも当たり前すぎて、全く価値を自覚していないのだ。

「その点、トシって本当にこんなイベント関係に興味無いもんな」

 と、そこで不意に、武蔵が彼の後ろの席に座って皆の話を聞いていたこちらを振り返ってきた。だから僕は「まぁね」と短く返しながら、心の中だけで叫んでやった。興味が無いんじゃなくて、興味が無い振りをしているだけなんだ、と。モテない、だけどモテたい男子にとって、じっと耐えることもまた作戦の一つなのだ。

 全くもって不公平な世界だ。彼らのごとき特権階級を支えているのは、僕達のような人間なのに。世の中の全男子がチョコレートを貰えて当然の社会ならば、単なるお菓子にこれ程の価値なんてきっと付かないだろう。

「案外、トシの態度が一番、男として格好良いのかもな」

 しかしながら、やはり武蔵に気付いている様子はまるでなく、それどころか浮かべているのはとても素直そうな笑みで。整った顔立ちに加えて、この性格、そりゃ人気もあるはずだと、心から感心した。反対に、それまで黙っていた他の面々が口々に「そう言いながら、実は気にしてるんだろ」「お前みたいな奴が、チョコを貰ったら大喜びするんだよな」「あんまり無理して格好付けんなよ」……などなど。彼らにだって、かつては僕と同じく戦っていた時代があるのだ。だからこそ言い当てられる真実なのだろうけれど、勿論、僕はあっさりと無視をした。

 一年ぶりの期待感、緊張感。僕にとっての第二次大戦は、まだ始まったばかりなのだ。



 重要な局面は、昼休みに突然、訪れた。

「ちょっと、先生が用事あるんだって」

 戦友である平田ひらたと共に食糧を補給しながら、残り時間をどう過ごすべきかと――当然だが、僕達は互いに最重要機密である己の作戦内容を語り合ったりしない――思案していた僕の所へ、いきなり隣のクラスの三島みしまがやって来て、面倒くさそうにそう言った。

「何だよ、用事って」

 問い返した僕に対して、三島は女の子らしい可愛さなど微塵も見せずに「サッカー部のことらしいけど、細かくは知らないわよ。私はとにかくあんたを連れてくるように言われただけなんだから」

 おや、と思った。確かに僕はサッカー部に所属しているが、それは武蔵や他のクラスメイトの男子にしてもそうだし、ましてや武蔵はエースでこちらは万年補欠なのだ。だとすれば、わざわざ呼び出す相手としてならば、むしろ彼の方が相応しいのではないのか。

「何で僕なのさ」

「だって、今いるサッカー部員って、あんただけじゃない」

 即答だった。なるほど、言われてみれば、武蔵はとっくに他の生徒を連れて校庭へ遊びに行ってしまっていた。まだまだ寒い季節なのに元気な話だが、或いは、その辺りの活動力も人気の理由の一つなのだろうか。

「良いからさ、さっさと来てよ。休み時間が終わっちゃうじゃない」

 あまりと言えば素っ気ない言動に、こっちは大切な戦いの真っ最中なのにどうして邪魔をするんだと言ってやりたくなったけれど、結局、僕は素直に「分かったよ」と席を立った。まさか、一時の苛立ちを解消する為だけに、そんな致命的な特攻作戦を断行するほど馬鹿じゃない。

 特別な日の昼休み、前後とは言え女子と二人で並んで廊下を歩いているのに、此処まで注目を浴びない訳は何なのか。平田にしたって、少しも興味を抱いていなさそうだった。

 だけど、だけど、僕は確かに、途中から気付いていたのだ。だって、三島の向かう先は、明らかに職員室でも、部室でも、そもそも他の人間が集まっていそうな場所でもなく。それどころかいっそ、北校舎の隅の隅、非常階段の裏にある小さな空き地で――

「あの、実は、ちょっと話があって」

 数分前までとうって変わってしおらしくなった彼女に、僕は何も言わなかった。いや、実際は何かを言える心境でなかっただけなのだけれど、とにかく外見は取り繕っていた、いかにも「ちゃんと分かっているよ」と告げるみたいに。

 彼女は、さらにしばらくの間、迷っている風に「あの」とか「その」を繰り返した後、遂に、遂に、スカートのポケットからそれを取り出した。それは、男子からすれば無いも同然に思える小さなそこに収まる程度の、控え目な、だけどとても可愛らしく包装されたものだった。衝撃に痺れかけた意識を、「此処が正念場だぞ」と本能が叱咤激励した。

「……あの、これ」

 静かに差し出される、それ。何であるかなど、聞くまでもない。なぜなら、今日は一年で一度、〈女子から告白しても恥ずかしくない日〉なのだから。

 僕は、そっと頷き、やがてそれに手を伸ばした。あまりと言えば呆気ない幕切れだったけれど、存外、大勝利というものは後々になってから初めてそれがいかに劇的なものであったのか実感出来るもので――

「武蔵くんにさ、渡してくれないかな」

 スパイだっ! スパイがいるぞっ!

「お願い! この通り!」

「…………」

 急転直下の展開に、本当に心臓が痛くなった。まずは相手の懐に潜り込み、油断させた後で急所を一刺しなんて、まさしくプロの仕業じゃないか。

「私から渡しても、きっと受け取ってくれるんだろうけど。でも、正直、そんな子って他にも沢山いるはずだしさ」

「………まぁ、だろうね」

「でさ、あんたって武蔵くんと仲が良いじゃない。だから、手伝ってよ。あんたがちょっと私のことを上手く伝えてくれたらさ、何て言うか、印象も良くなるかもでしょ」

 大げさでなく心底から女と言う生き物を恐ろしいと感じた経験は、もしかしなくても生まれて初めてだった。しかも、何より凶悪なのは、当人にそれを自覚している様子が微塵もないことだ。恋は盲目と言うが、こんなにも情熱的でかつ冷酷な作戦を練れるなんて、間違いなく状況をしっかりと見据えていなければ出来なさそうだった。

 ……僕は結局、チョコレートを受け取った。断る勇気が無かったのだ。

「とにかくさ、しっかり頼んだわよ。絶対に、変なこととか言わないでよね」

 去り際、三島は晴れやかな笑みを浮かべていた。何となく、それは成功を確信していると言うよりも、自分が行動出来た事実に満足している風にも見えた。とは言え、僕には所詮、中身を知ることなど出来ないのだけれど。

「マジで? 俺にくれるって? やった、これで四つも貰っちゃったよ。三島にも御礼を言わないとなぁ」

 にこやかな表情で、だけどあくまでも普段通りの反応を見せた校庭帰りの武蔵の本心もまた、僕にとってはまるで見当の付かないものだった。



 午後の授業中は、とにかく憂鬱だった。と言うよりも、一体どうやって楽しい気分になれるのだ。辛うじて戦場から逃げ出さずにいるだけで精一杯だった。実際、終礼が終わった今となっては、戦況が好転する機会に巡り会う可能性も急速に失われつつあった。幸か不幸か――不真面目な部員として考えれば前者だが、一人の男として考えれば果たしてどちらなのだろう――今日の部活動は中止だった。

 帰り支度をいつもより少なからず時間を掛けて終え、ことさらゆっくりと教室から出る際、ちらりと窺えば平田も自身の机の傍で似たような行動を取っていた。それだけで、十分だった。

 廊下を行き交う人影はまばらで、浅薄な作戦が裏目に出たらしいと早々に理解した。これでは、むしろさっさと校庭や校門辺りに向かっていた方が、まだマシだったかも知れない。女子から声を掛けられない原因が、自らの失敗にこそあるのだと、そう考えることで逆にプライドを保っていた。

 最早、ちんたらと歩く価値は皆無だった。すると、あっという間に下駄箱の前に到着してしまった。思わず牛歩戦術を採りそうになってしまったけれど、数分前の自分が脳裏に浮かび、前轍を踏む事態は避けられた。おかげで、いよいよ手は下駄箱の蓋に指をかけていた。丁度、目の高さにある木製のつまみは、やけに冷たかった。

 これを開けて、靴を履き替えれば、本当に終わってしまう。不意に、そんな気がした。まだ一日が終わるには早かったけれど、精神的にはそうでなかった。だけど、僕は躊躇わなかった。背後から、平田が追いついてきた気配があった。

 そして僕は、下駄箱を開けた。

 直後に閉めた。

「…………」

 一度だけ深呼吸。己の行動に思考が数秒ほど遅れて重なった。

 心臓が、鼓動を実感出来るくらいに激しく高鳴り、情けなくも手足が震えてきた。

「……マジで?」

 数メートル向こうの平田を除けば誰もいないのに、誰にも聞こえないように、呟いた。俯くどころか這いつくばりかけていた心が、大和魂でも吹き込まれたみたいに跳ね起きた。口の中だけでなく、喉の奥まで乾いて痛くなった。入学から、もうじき丸二年。数え切れないほど繰り返してきた靴を履き替える動作。そんな中で、今ほど真剣に下駄箱を凝視したことなど、おそらく無かった。

 ゆっくりと、いっそ勢いよく蓋を開けた際に生じる風圧でそれが飛んでしまうかも知れないなんて馬鹿げた妄想さえも抱いて、再び、僕は手を動かした。

 果たして、履き古されて黄ばんだスニーカーの上に、それはちょこんと置かれていた。淡い黄色の紙で包装された、長方形の薄い箱。十字に走る水色のリボン。そして、箱とリボンの間に挟まれる形で差し込まれた、二つ折りの小さなメッセージ‐カード。いかにも女の子が使いそうな、桃色のカードだった。

 冷静に考えれば、さっさと取り出せば良い話だった。

 だけど気付けば、僕はあろう事か、下駄箱の中に顔を突っ込んでいた。

 途端に、鼻の粘膜に単なる汗臭さとも異なる刺激臭が突き刺さってきた。でも、残り香さえも無駄にしてはならないと思ったら、そのままの姿勢での深呼吸すら苦でなかった。

 それは、確かに、紛れもない現実として、そこにあった。僕がその意味を理解し、本心から信じ、ようやく受け入れ、とりあえず抜き取ったカードだけを丸めた体の陰でこっそりと開くまで、おそらくは二分以上の時間を要していただろう。

〈ずっと、あなたの事を見ています。千代子〉

 ………勝ったと、思った。

 今度こそ、正真正銘の大勝利だと思った。正直に告白すれば、この場が自分の部屋の中であればまず間違いなく、CDプレイヤーの音量を最大にして、ベッドの上で頭から布団を被り、枕を口に押し当てて腹の底から叫んでいた。或いは、涙の数粒くらいこぼしてしまっていたかも知れない。

 ただ、同時に、遂に終わったのかと、かすかに寂しさめいた気持ちも湧いてきた。達成感が心を満たしてくれた分、反対に心の隙間が失われて、それは喜ばしいことであったはずなのに、どうしてなのか不思議な感覚だった。けれど、決して悪い気分じゃなかった。

 千代子。何て良い名前なのだろう。まるで心当たりは無かったものの、きっと、とても素敵な女子に違いなかった。それに、戦利品……いや、そんなつまらない言い方は止そう、大切な「贈り物」の雰囲気や、カードに綴られた文字の丁寧さからも、その人柄が伝わってくるようだった。つい、五回もメッセージを読み返してしまった。

 そうして僕は、いよいよ、肝心のものに手を伸ばし――

「おい! トシっ!」

 と、そこで唐突に背後から声を掛けられ、反射的にカードごと両手をポケットに突っ込んだ。直後、それがしわくちゃになってしまうと焦り、すぐに取り出そうとしたものの、それよりも数瞬だけ早く、平田が「これ見ろっ」と僕の肩を掴んで振り向かせた。

「何を」するんだよ、と怒鳴り返そうとした僕は、しかし途中で声を失い、そのまま固まった。

「こ、これ。これがさ、俺の下駄箱に入ってたんだよ」

 淡い黄色の紙で包装された、長方形の薄い箱。十字に走る水色のリボン。そして、箱とリボンの間に挟まれる形で差し込まれる代わりに、平田の手に掴まれた二つ折りの小さなメッセージ‐カード。いかにも女の子が使いそうな、桃色のカードだった。

「これって、やっぱり本命だよな。な、絶対にそうだよな」

 眼前に、小さな紙が広げられる。文字の縁が小刻みに揺れている。だけど、それでも僕は完璧に内容を読みとった。読みとれてしまった。

「で、でも、俺達の同級生に千代子なんて名前の女子って、いたっけ」

 感激のあまりまともに思考出来ていなさそうな平田を眺めながら、知らぬ内に僕もまた震えていた。自分が今、どんな間抜け面を晒しているのか、どうか誰にも見られていませんようにと願った。

「くそ、女子の下の名前なんかほとんど知らねぇよ。学年名簿とか見たら分かるかな。あ、でも、後輩とかだと載ってないか。なぁ、お前はどう思う?」

「…………」

「おい、聞いてんのかよ。おいってば」

 ふざけた級友達の悪質な冗談なのか、それとも単なる手違いか、或いは堂々とした二股宣言か、はたまた本当に単なる別人同士の偶然なのか。真相はまだ分からない。何一つとして、確証は無いのだけれど。

「……なるほど。千代子ちよこ、ね」

 二〇××年、二月十四日、晴れ。

 どうやら、僕達の戦いは、まだまだ終わりそうにないらしい。

〈了〉


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