宗教戦争

淺羽一

〈掌編小説〉宗教戦争

「一番はやっぱ醤油だろ」

 酒の席で出鱈目に飛び交う単語の、一体どれがその話題を呼び寄せていたのか定かでないが、少なくともその一言がきっかけになったのは間違いなかった。事実、座敷席の真ん中であぐらをかいていた男が自信満々にそう語った直後、安い居酒屋ながら気の置けない旧友同士今夜は朝まで盛り上がろうとばかりに笑っていた男達の表情に、ほんの刹那、ぴりりとしたものが走った。

「いや、醤油も確かに美味いけどさ。でも一番ってなったら豚骨だろ~」

 かすかに互いを牽制しあっているような数瞬の間を経た後、表情は穏やかに、口調も軽やかに、けれどその眼差しにはうっすらと真剣みを宿して、先ほどの男の正面に座していた男がそう言った。

「おいおい、冗談だろ」

「いやいや、マジでさ」

 即座に反応する最初の醤油派と、すかさず再び返す豚骨派。座敷に居並ぶ他の面々は成り行きを見守るかのごとく二人の会話を聞いていた。

「そりゃ、俺も豚骨は嫌いじゃないぞ。だけど、もしもこの世から他のラーメンが全部消えるってなった時、唯一の味にそれはないだろ」

「何でないんだよ」

「あのな、良いか。元々、ラーメンってのは醤油味なんだよ。元祖中華そばって店で、豚骨や味噌が出てくるなんて聞いたことないだろ。と言うことは、本来、ラーメンってのは醤油が王道で、後のもんは言ってみれば物真似なんだよ。お笑いだって何だってそうさ、ご本人さんがいなけりゃそっくりさんに価値なんてないだろ」

 なるほど、それはあたかも正論じみて聞こえる話だった。

 しかし、だからといってそれを本心から正しいと感じる者はどうやら少ないようだった。

「その理屈で行くと、醤油ラーメンがすでに中華料理の真似じゃねぇか」

 突如として参戦したのは、テーブルの端でグラス片手に様子を窺っていた男だった。

「知ってるか。俺も聞いた話だけど、向こうじゃもっと汁っ気の少ない担々麺みたいなのが主流らしいぜ」

 そこまで言うと、彼は手元に三割ほど残ったビールをくいと飲み干し、それから「けどまぁ、ラーメンはもう日本の国民食だしな。そう考えたら、中華料理とは別もんだけど。でも、だとしたら元祖中華そばって看板にそれほど意味ってあるのかな」。

 「それは」と反論しかけた醤油派を遮って嬉しそうな声を上げたのは、つい先ほどまで幾分か押され気味だった豚骨派の男だった。「その通りだな。って言うか、古いから正しいなんて理屈が間違ってるんだよ。むしろ、職人が工夫を凝らして新しい味を求めるからこそ、こんだけ美味い食い物になったんだから」。豚骨派は改めてグラスにビールをつぎ直し、さながらラーメン界を代表する口ぶりで言った。

 だが、しかし、またしても空気が変わったのは彼が愉快そうにグラスの縁へと唇を付ける、まさに寸前だった。

「個人的には、俺は醤油よりも豚骨よりも味噌が好きだけどな」

 豚骨派の動きが止まり、醤油派の眼差しが鋭くなった。だめ押しはさらに続けられた「世間の意見を聞いたって、そりゃ醤油も多いだろうけど、味噌好きも結構いるだろ」だった。

 どん、と豚骨派の持っていたグラスの底が木製テーブルを叩き、辺りに漂う緊張感が一気に増した。

「それってつまり、世間の連中は豚骨なんて興味ないってことか」

「そうは言ってないだろ。俺だって豚骨も嫌いじゃないよ。ただ、醤油や味噌に比べれば、どうしたって絶対数は少なくなるだろ」

 口調こそ冷静になれと促している風であったが、言っている内容は少なくとも豚骨派にとって到底受け入れがたいであろうものだった。

 瞬間、「てめぇ」と豚骨派が腰を浮かせ、あわや殴り合いかと言う気配がざわついた店の一角を満たした。だが、それを救ったのは皮肉にも火種を生んだ醤油派の男だった。

「分かった」

 彼はいきなりそう宣言すると、全員を見渡して「もうさ、こうなったら簡単に決められる方法しかないだろ」。

「どうするんだよ」

 興味を持ったと言うよりも、むしろとにかく現状を変えようとしている風な口調で四人目の男がそう尋ねた。

 果たして、全員の視線を一心に浴びた醤油派はやはり自信ありげに「今から駅前の『○○○』に行って、そこにいる客にアンケートでも採ろうぜ。こんな時間にラーメン屋にいるやつなんて根っからのラーメン好きだろ」

「あそこは醤油ラーメンの店だろうがっ」

「そんなもん出来レースじゃねぇかっ」

 綺麗に同じタイミングで豚骨派と味噌派の怒声が重なり、四人目の男さえも裏切られたかのような顔で「お前いい加減にしろよ」と苛立ちを見せた。

「まぁまぁ、お前ら落ち着けって」

「良いじゃねぇか、人の好みなんてそれぞれだろ」

 それらとは対照的に、四人をなだめようと声を上げたのは残っていた五人目と六人目の男だった。彼らは他の四人と比較すると少なからずのんきそうな顔つきをしていて、だからこそ一見すればどの意見にも流れそうに思えた。

 だが、結果として、彼らの仲裁はその場を収められはしなかった。

「じゃあ、お前らの好みは何だよ。醤油か、豚骨か、味噌か」

 そう言ったのは味噌派だったが、醤油派も豚骨派もその返答次第ではどうなるか分からないぞとでも言う風な目つきで五人目と六人目を注視していた。

 曖昧な返事でお茶を濁せそうな状況ではない。かといって誰の味方をしても誰かが敵になる。いつしか中立そうに見えていた四人目も興奮している。

 数秒後、困った風に顔を見合わせていた五人目と六人目は、やがておずおずと己の意見を口にした。その顔には、諦めたような、或いは腹をくくったような表情が浮かんでいた。

「……俺は、美味けりゃ何でも良いけど、強いて言うなら醤油が多い、かな」

「俺は、昔から塩ラーメン」

 一瞬、勝負は決したかに思えた。しかし直後に発せられた四種類目の登場で現場はいよいよ混乱した。その上、「だってさ、何だかんだ言ってもスーパーとかで一番多いのって醤油ラーメンじゃん」と五人目が続けた途端、「子供でも作れるインスタントと一緒にすんじゃねぇよ」と怒声を飛ばしたのはまさかの最初の醤油派だった。

 戦争は、激化した。

 「インスタントで人気ってことは、世間が好きだってことだろ」とまるで背中から撃たれた兵士みたいな顔で五人目が言い返せば、「だから本物と偽物じゃ全然違うって言ってんだろ」と最初の醤油派が散弾銃を振り回すように怒鳴り、「でもインスタントで値段の高いのって豚骨ベースの味が多いよな」と豚骨派が内紛に乗じて敵地に侵入しようと企むスパイじみた笑みを浮かべれば、「日本人のくせに味噌の深みが分からないとか子供と同じじゃねぇか」と味噌派が戦闘機の上から敵を狙うパイロットさながらに言い、「本当に味を追求するんなら誤魔化しの効かない塩ラーメンに決まってるだろ」と六人目が小国ながらも勢いのある新興国軍幹部のごとき態度で語れば、「あのな、はっきり言うけど本当に麺の味を誤魔化さずに楽しむんなら単純なラーメンよりつけ麺の方が上なんだよ」と中立かと思われていた四人目の声に「あんなもん邪道だ」と他の五人が異口同音の集中砲火。

「つけ麺とか、ぽっと出の新人がしゃしゃり出てくんじゃねぇよ」

「お前の豚骨だって新しい味を追求した結果なんだろうが。なら一緒じゃねぇか」

「って言うか、つけ麺って結局、ラーメンと素麺のぱくりだろ。本物に敵うかよ」

「だからそれを言うなら『中華そば』の時点で中華料理と蕎のぱくりなんだよ。だったら日本の伝統の味噌を使ってる方が良いだろ」

「でも味噌って結局どれも似たような味になるよな。それになんか粉っぽいし」

「粉っぽいって、それインスタントの話だろ。まぁ、あんなもんを喜んでる味音痴じゃ塩ラーメンの繊細さは分からないか。そんなんだから、美味けりゃ何でも良いとか平気な顔で言っちまうんだよ」

 最早、誰も彼もが手当たり次第だった。敵の敵は味方どころか自分以外は皆敵だ。いっそ敵の敵を倒す振りをして他の敵まで攻撃する。そんな状態だから大人しく譲歩するなんて判断も価値がない。むしろ一人でも退いた途端、残りの面々が空いたその地を奪い合う。共存など謳おうものなら全員揃って潰しに掛かる。そしてだからこそ、きりがない。

 遂にアルバイトらしき男性店員が彼らの下へ向かうが、当然ながら酔った男達がその程度で鎮まるはずもなく、いよいよ店の隅で「もう警察に……」「いやもう少し……」なんて会話も交わされる。それも仕方ない、意見の交換に端を発した口論はすでに口喧嘩となり、今ではもういつ本気の喧嘩に発展してもおかしくない。それにより被害を受けるのは、店であり、店員であり、また私のように罪のない他の客なのだから。

「すいませんね、お客さん」

 と、こちらの心中を察したのか、顔なじみの店主がカウンター越しにとっくりを一本、差し出してきた。初老の口元に刻まれた深い笑い皺に、この商売の気苦労が窺えた。

「いや、むしろ楽しんでるよ」

 そう答えつつもありがたく人肌のとっくりに手を伸ばす。お猪口に注いだ純な香りを口に含んでようやく知れる辺り、自分もそろそろ帰り時なのだろうと自覚した。そこで私は最後にどうしても聞いておきたいことを店主に尋ねてみた。

「ちなみに、一つ選ぶとしたら、どれ」

 案の定、ほんの束の間きょとんとした店主だったが、しかしすぐに意味を把握したのか彼は先ほどよりもさらに分かりやすく苦笑した。とは言え、客を無視するわけにもいかないと諦めたのか、やがて「お客さんは、何派なんです」。

 なるほど、面白い回答ではなかったが、予想していた返答の一つではあった。そこで私は店主が改めて答えやすいように、けれど決して嘘でない気持ちを口にした。

「正直に言うと、ラーメンよりも普通のうどんの方が好きでね。半熟卵にたっぷりのネギと天かすがあれば最高かな」

 果たして店主は「それは良いですね」と、やっと穏やかな笑みを浮かべてくれた。

「で、そっちは」

 私は再びそう問うた。

 店主はちらりと座敷の方を見やってから、僅かにこちらへ顔を近付け「こないだ和歌山で食べた醤油豚骨スープってのが美味かったんですけどねぇ」と三度、頬を持ち上げた。

「和歌山ラーメンか。うん、あれは私も好きだなぁ」

 思いがけず聞けた答えに、何故だか真理めいたものを感じて少しばかり嬉しかった。

 座敷では相変わらずの光景が繰り広げられていて、それを二人の店員が迷惑そうな困り顔でなだめている。

 もしも、今の意見を撃ち込んでみたらどうなるのか。

 なんて益体のない妄想を味わいつつ、私は塩辛をつついた割り箸の先をちゅっと吸って、ぬるい日本酒に舌を浸けた。


〈了〉

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