ウサギの瞳

淺羽一

〈短編小説〉ウサギの瞳

 世の中には嘘泣きでしか泣けない人間が確かにいる。だとすれば、彼らのそれは単なる泣き真似などではないし、ましてや「嘘」なんかでは決してない。そして僕は幼い頃、そんな少女に恋をした。

 岸村きしむらが僕達のクラスに転校してきたのは、小学五年生の秋、夏休み明けからもうじき一月が経とうとしていた頃だった。

 当時の僕は同級生の男子の中でも一番に背が小さくて、しかも小学校の高学年と言えば男子よりもむしろ女子の発育の方が良かったりするものだから、僕はクラスでも一、二を争うチビだった。その上、それでもせめて運動神経が抜群だとか勉強が大得意だとかいっそ喧嘩なら負け無しだとかそう言う特技でもあればまだ救いようもあったのだけれど、現実は運動会の練習中にちょっと転んで擦りむいた程度で思わず泣いてしまうほど見事なくらい期待はずれ――或いは期待通り――の子供だったから、要するにまぁ冴えなかった。ただ、そのおかげで多少なりとからかわれることこそあれど、本格的なイジメなどに発展することは全くと言って良いほどなく、総じて言えば僕の日常はわりと平凡で、平穏なものだった。そしてまたそんなクラスだったからこそ、九月末なんて変な時期の転校生という存在は、僕だけでなく級友みんなの退屈を紛らす格好の的だった。

 朝、クラスでも一番に声が大きくて足の速い大西おおにしが普段以上の勢いで教室に入ってくるやいなや言ったのが、「転校生だってよ」だった。彼曰く、実は昨日の下校時に教師の話をたまたま聞いていて、だから今朝は急いで来たらしい。

 生徒はまだ七割程度しか登校していなかったが、それでも途端に教室中が騒がしくなった。女子は集団で彼に詰め寄って「どんな子? 男子? 女子?」と情報収集にいそしんでいたし、他の男子は「こんな季節に転校なんて、ちょっと怪しいよな~」なんていかにも非日常を期待していそうな声音で豊かな想像力を競い合っていた。そんな中で僕はと言えば、級友らの盛り上がりに後ろ髪を鷲掴みにされつつも、生き物係の仕事である朝のウサギの餌やりの為に仕方なく教室を出た。

 今ではどうか知らないが、あの頃の僕達の小学校では、一年生を除く全学年に於いて各クラス毎に一匹ずつ動物が与えられていて、それを自分達で世話するようになっていた。ちなみに、動物は他にも鶏やハムスターや大きなもので豚などもいて、それらのどれを担当するのかは各クラスの生き物係のじゃんけん勝負に掛かっていた。中でも特に白いウサギは大人気で、それに決まったとみんなに伝えた時がおそらく僕の小学校生活で最も華やかな瞬間だった。と言っても、半年もしない内にクラスの大半(ほぼ男子)は掃除や餌やりに飽きてしまって、夏休み中なんてほとんど僕が一人で午前の世話をしていたけれど。

 不思議なもので、最初は面倒を押しつけられただけの生き物係だったのに、毎朝毎朝ずっと同じ動物に餌をやって、その小屋を箒で掃いたりしていると、いつしかそうすることが当たり前という感覚を通り越して、最早そうしないと落ち着かなくなってくる。それどころか汚いとしか思えなかった糞でさえ、色や形はどうだとか、数はどうだとか、何て言うか少し愛らしく見えてさえくるのだ。だから、最近ちょっと下痢っぽい気がするな、なんて思ったら、水分の多そうなキュウリは控えてキャベツを多めに持ってこようかとか、真っ赤な瞳をくりくりさせて僕が差し出した野菜を一所懸命にかじるウサギを眺めつつ考えてしまう。あぁ、子育てってこんな感じかな、なんてませた想像に頬を緩ませながら。

 餌やりを終えて教室へ戻るとすでに生徒は全員が揃っていて、一層に転校生の話題で盛り上がっていた。だから僕も早速そんな輪に加わろうとして――と、そこでいきなり担任の男性教師がやって来た。

 朝礼の開始時刻よりも三分ほど早い教師の登場に、普段であれば真っ先に文句を言う大西やその仲間の腕白坊主の面々までもが待ってましたとばかりに姿勢を正して前を向いた。あの日の朝の挨拶はもしかしたら五年生になって一番のスムーズさだったかも知れない。

 その道三十年のベテラン教師は、そんな教室内の様子で早々に事態を把握したのか、ほとんど前置き無しに言った、「このクラスに新しい仲間がやって来た」と。瞬間、それまで静かだった教室中に、ぱんぱんに膨らんでいた風船に針を刺したみたいな歓声が響いた。

 担任が開けた扉の向こうからおずおずと入ってきたのは、端的に言って小さな女の子だった。

 うわ、僕より小さいや。僕は声に出さず、喜んだ。実を言うと、また自分より大柄な級友が増えるのかと内心少し憂鬱だったのだ。

 真新しい制服に身を包み、肩までの黒髪の上に黄色い帽子を被った少女は、ほとんど顔を動かさずに教壇の脇に立った。そして、誰と目を合わせるでもなく真っ直ぐに教室の後ろへと向いた。

 改めて見ても小柄な少女だった。僕達と同じサイズのランドセルのはずなのに、まるで低学年の子供が背負っている風にさえ見えた。でも、そのくせまん丸の顔に並ぶ黒い瞳はぱっちりとしていて、それらは多分、僕のものより大きくて、それが何だかとても女の子らしいと思った。

 緊張していたのか、それとも性格か、或いはその両方かも知れないが、彼女はやや低い声で「岸村 香苗かなえ……です」とだけ言った。

 一瞬、教室全体が戸惑ったのが分かった。僕だってそうだった。いやいやせっかくの挨拶なんだからもっと他にも何かあるだろうと、それまで盛り上がっていた分がっかり度合いも凄かった。

 だけど彼女の最も凄かった点は、自身へと向けられるそんな気配を、おそらく少なからず気付いていたはずなのに、微塵も意に介していなさそうな所だった。

 この子すげー、純粋にそう思った。だって僕なら絶対にそんな態度を取ることは無理だった。それもあんなに小柄な女の子なのに、何て根性のある人なんだろうと感心した。ある意味では、それが僕の彼女に対する想いのきっかけであったのかも知れない。

 担任曰く「家族の都合で引っ越してきた」らしい岸村は、案の定、次の休憩時間から皆に囲まれ、その光景はまるで台風だった。そしてだとすれば、彼女は間違いなく台風の眼だった。

 女子が聞く、「岸村さんってどこから来たの」と。すると岸村はぽそりと県名だけを告げる。

 男子が言う、「なぁ、お前って何で来たんだ」と。すると岸村は冷たい一瞥をくれて無視をする。

 正直、後者への反応に関しては仕方ないかなと思えなくもないし、現にその男子は直後に他の女子連中から「デリカシーがない」と集中攻撃を食らう羽目になったのだけれど、それでもやはり岸村の対応は明らかに当時の僕らの中で異質だった。要するに、彼女からは一向に周囲と打ち解けようとする気配を感じられなかった。

 結果的に、昼休みを迎える頃には午前中の騒ぎも収まり、いざとなったらめげやすい男子のみならずあんなにも岸村へ興味津々だった女子達までもが早くも距離の取り方を探っていた。そうして彼女は孤立した。

 おそらく間違いないことだが、この時点で岸村を真に嫌っていた人間はいなかっただろう。そのあまりと言えばクラスの雰囲気にそぐわない態度に驚き、また意思の疎通の困難さに敬遠していたとしても、だからって簡単に言えば生意気だからイジメてやろうなんて風に考えていた生徒は一人もいなかったはずだ。むしろ、大半はその外見とのギャップやそれまで接したことのないタイプと言う物珍しさに、極端な良い方をすれば新種の動物でも発見した気分になることで落ち着いていたと思う。ただ、言い換えればそんなどちらかと言えばのんきなクラスだったからこそ彼女も余計に目立ってしまったのだけれど。

 言うまでもないことだが、僕もまた彼女を遠巻きに眺めている人間の一人だった。あの大西でさえ、何度か特攻を試みた末に、やがて撃沈することに疲れて、と言うよりも飽きて絡まなくなったくらいだ。

 そう、言うなれば僕と岸村は同じ小屋に住みながらも、それぞれの部屋を金網で仕切られた小動物みたいなものだった。敢えて意識をせずとも姿は見える。話しかけられるし声も聞こえる。互いにその気になれば軽く触れ合うことだって出来る。でも、だからといってどちらかの領域へ足を踏み入れることはない、誰か別の人間に理由を用意されない限りは。

 最初、教師からそれを告げられた時、僕は皆の手前「えー」と少しだけ困ったそぶりを見せつつも、頭の中ではやっぱりそう来たかと考えていた。岸村が転校してきた週の土曜日、三時間目のホームルームの議題は三週間後の運動会へ向けた各競技の出場選手決めだった。ちなみにあの頃の僕らにいずれ土曜日も休日になるなんて発想は皆無だった。

鈴木すずきは岸村とペアを組め」

 提案でなく問答無用の命令に、一瞬、教室全体がざわついた。ちらりと斜め後ろの席に座っていた彼女を窺えば、思った通りその眼差しは僕でなく黒板の脇に立つ担任教師を見つめていた。ただ、ほんのかすかにその目がいつもより丸くなっていたように見えたのは、単なる僕の気のせいであったのだろうか。

「小さいもの同士ちょうど良いだろ。歩幅は小さいがその分気合いで頑張れ」

 時代が違えば問題発言にもなりそうな激励を飛ばしてから、担任は反論も待たずに板書係の女生徒へ「二人三脚はとりあえず鈴木と岸村で一組だ」と言った。クラスでも有数の真面目な女子である松井(まつい)さんは、大人顔負けの文字で〈二人三脚×2……〉の下に〈鈴木・岸村〉と書き、そのままチョークを白から赤に持ち替えて両名を丸で囲んだ。「おぉ~」と言う声がちらほらと上がった。反対意見は当人達を含め誰からも出なかった。もう一組は推薦と多数決の結果、クラスで最も背の高い男女に決まった。どちらも運動神経の良い二人で、僕達のペアは色んな意味で見劣りしそうだった。

 練習は週明けすぐ、月曜日の体育の時間から早速始まった。

「それじゃあ、授業の前半はそれぞれの練習をしろ。後半は組み体操の練習だ」

 担任の声を合図に生徒達はばらばらと運動場へ広がっていく。だけど真剣なのは半分ほどで、徒競走とかリレーに選ばれるような連中はさっさと談笑を始めて、大西やその仲間なんて「走る練習です」とか言いながら明らかに鬼ごっこらしき遊びに興じていた。確かに、感心してしまうほどの速度で駆け回る姿は、十二分に好意的な見方をすれば練習っぽくもあったけれど。

 とは言え、いずれにせよとにかく僕に許された選択肢なんて一つしかなかった。僕は勇気を出して岸村へ近づいた。右手には授業の開始直後から赤いはちまきを握りしめていた。

「あの、やろっか」

 ほんの二メートルを歩いただけで、心臓は早くも痛いくらいになっていた。両手ではちまきを胸に抱くように持っていた岸村は、ちらりと僕を見上げ「よろしく」と言った。慌てて僕も「よろしく」と返した。彼女の体操服は一人だけデザインが違って、はちまきの向こうに張り付けられたゼッケンの縫い目の荒さと、そこへやけに丸っこい文字で控えめに書かれた赤い〈岸村〉の二文字が、何だかとても印象的だった。

 「二人三脚、やったことある?」。僕は真っ直ぐに彼女の顔を見ることが出来なくて、つるんとしたおでこに話しかけるように聞いた。はちまきが似合いそうだと思った。彼女はふるふると顔を横に振った。

「やったことないの? 一回も?」

 自分で質問しておきながら勝手だと呆れるが、僕は予想外の反応に思わず重ねて聞いた。すると岸村は、今度は首を横に動かさず、代わりにちょっとだけ顎を上げてこちらを見ると、「一回もない」。

 「……あ、そうなんだ」。何となくその視線が気まずく感じられて、僕は顔を逸らした。もしかしたら失礼な聞き方をしてしまったのかも知れないと、直感的に思った。

「ごめん」

 気付けばそう言っていた。行き場を無くして俯いた目線の先に、やけに古びた運動靴の小さなつま先があった。

 しばらくの間、沈黙が流れた。練習なんてまだ何もしていないのに、僕はすでにくじけそうになっていた。

「教えてくれる?」

 だからこそ、不意に投げかけられた問いかけに驚いた。

 反射的に顔を上げると、「あんな風にするんでしょ」と岸村がもう一組の二人三脚ペアを指さしていた。はちまきで結んだ長い足をタイミング良く蹴り上げて運動場を駆けていく彼らの姿は、あたかも踊っているみたいで格好良かった。

 「それで結ぶの?」。小枝のような岸村の指が、こちらの右手へと向けられた。

「え、あ、うん、そう」

 我ながら情けない話だが、僕の返事は見事にしどろもどろだった。でも、それなのに岸村は笑ったりせず、じっとこちらを見ていた。

 僕は再び俯いた。けれど、それは先ほどまでの理由とは少し違った。心臓の動きがどくんどくんと鳴るくらいになった。

「……あ、じゃあ、結ぶね」

 やっとの思いでそう言った僕は、ようやく出番の回ってきたはちまきを使おうと右手を開いた。そして、声を失った。歴代の生徒に使われて色の褪せた赤いはちまきは、手の平に当たっていた部分が汗で変色して黒くなっていた。こんなの巻いたら嫌がられるに決まってる。僕は咄嗟に右手を握ってそれを背後に回した。

「どうしたの」

「あのさ、そっちのやつ、使おうよ」

 右手を半ズボンのポケットに押し込みながら、左手で岸村のはちまきを指さした。彼女は僅かにいぶかしげな表情をしたものの断りはしなかった。彼女のそれは、担任から配られた時とまるで変わっていなかった。僕はさりげなく背中で手の平を拭いてから、それを受け取った。

 「じゃあ、左が良い? それとも右?」。結ぶ足を決める為にそう尋ねると、岸村は「よく分かんない」と答えた。正直、僕だって同じ気持ちだったけれど、先ほど変に経験者ぶった聞き方をした手前そうも言えずに、「じゃあ、僕は右足を使うから、あの、岸村……さんは左足を貸して」と言った。実は初めて名前を呼ぶ瞬間、それなりに勇気を出したのだけれど、当の本人はまるで気にした風もなく、それどころか「はい」と頷くやいなや僕の右足に己の左足を寄せてきた。こちらの心の準備を待たず、僕の運動靴の外側と彼女の運動靴の外側がぴたりとくっついた。

「あ、じゃあ、結ぶから」

 自分ばかりが変に意識をしていると悟られたくなくて、僕は努めて平静を装いつつ、でも真実は予想外に近づいた女子の横顔からとにかく逃げたくて、さっさとしゃがんで彼女の足にはちまきを回した。

 僕は、ぎゅっと結べなかった。

「はい、出来たよ」

 そう言って立ち上がったけれど、本当はもっとちゃんと、お互いの足首をぴったりと触れ合わせるくらいに強くはちまきを巻いて結ばなければならなかった。そうしないと、いざ走り出した時に緩んだはちまきに足を取られて転んでしまう。

 それなのに、僕はそうしなかった。挙げ句の果てに、肩を組むことも腰に手を回すことも出来ずに、さながら徒競走のスタートの時よろしく両手を前後に構えてしまった。

 果たして岸村はそのまま僕の真似をした。視界の向こうでは長身のペアが楕円に引かれた白線のトラックをまるで一人の人間みたいに回っていた。「じゃあ、よーい、スタートで繋いだ足から出すからね」。そう言って岸村を見ると、少しだけ緊張しているらしい彼女は真っ直ぐ前を向きながらこくりと頷いてきた。

 そして僕は大きく息を吸い、やがて「よーい――」

 ……先に言ってしまえば、僕達は満足に五歩も進めなかった。スタートの瞬間だけは辛うじて成功した。でも、そのすぐ後にバランスを崩し、最後には文字通り思い切り互いの足を引っ張り合って勢いよく地面に転がった。咄嗟に両手をつくことさえままならなかった。

「おい、大丈夫かよ」

 すぐさま近くにいた男子に続いて数名の生徒が駆け寄ってくる。気の利く女子が僕達の足からすでに緩んでいたはちまきを外してくれる。いつの間にか傍らにいた担任が「もっときつく縛らないからだ」と呆れた声で言っていた。けれど僕にはもうそれに反発する余裕もなかった。

 両手が痛かった。手の平には小石や砂が食い込んでいて、特に右手の小指の外側は擦りむけて血がにじんでいた。むき出しの太ももや膝も痛かった。絶対に血が出ていると確信した。だけど何より痛かったのは、右足首だった。

 「立てるか」と最初に声を掛けてくれた細田(ほそだ)が僕の腕を掴んで引いてくれた。担任も「ほらしっかりしろ」と反対側を支えてくれた。そこでようやく、僕も上手く力の入らない足をそれでも何とか動かして立ち上がった。改めて己を見下ろせば、ずきんずきんとうずく右の膝頭が砂と血でどす黒く染まっていた。怪我をした、そう意識した途端、痛みがさらに強まった気がして、いっぺんに涙が溢れてきた。

 寸前で声を上げて泣くのを堪えられたのは、「大丈夫?」と尋ねる女子の声が唐突に聞こえてきたからだ。勿論、僕に対する心配じゃない。はっとして顔を向ければ、僕と同様に全身を砂で汚し、いや、それどころか両方の膝から血を流した岸村がそこにいた。

 岸村は泣いていなかった。きっと痛いのだろう手や足は小刻みに震えて、その顔も辛そうにしかめていたけれど、その両目ははっきりと開かれて、乾いていた。細田がこっそりと、おそらく僕にだけ聞こえる声で「お前、男なのに泣いてんなよ」と言った。僕はうぐっとしゃっくりの出来損ないみたいな音を漏らし、その代わりに喉元まで上がっていた残りの泣き声を何とか飲み込んだ。

 本当に、心底から自分を格好悪いと思った。あぁ、間違いなく嫌われたと思った。そしてそれ以上に僕のせいだと思った。

 僕は言いたかった、「ごめん」と。僕がもっとしっかりはちまきを結んでいれば、と。でも、ぎりぎりで踏ん張っているだけの喉にそんな余力はなくて、そうこうしている内に担任が「とりあえず二人とも保健室へ行ってこい」と言って保健係の男女を呼んだ。そして僕には野村のむらが、岸村には内村うちむらがそれぞれ付き添って、僕達四人は無言の級友に見送られて授業中の校舎へと戻った。本音を告白すると、単に歩くだけならもう支えなんて必要なかったけれど、とにかく岸村と二人きりにならずに済んだから、保健係の存在はありがたかった。一度タイミングを逸した謝罪は、一転して恐ろしいほどに難しい行為に感じられていた。

 一階奥の保健室に行くと白衣を着た女性教諭がいて、「とりあえず手と足を洗ってきなさい」と言った。そこでまたしても保健係に付き添われ、廊下の端にある水飲み場で言われた通りにし、それから再び保健室に戻った。そこにはすでに消毒薬や絆創膏、包帯が用意されていて、岸村、その後で僕と処置を受けた。女性教諭は顔までびしゃびしゃに濡らした僕に、ほんのかすかに視線を止めたけれど、何も言ってこなかった。僕は痛いのと情けないのと恥ずかしいのとで、ずっと窓の外ばかり見ていた。運動場では級友達が組み体操の練習を始めていた。

 翌日の四時間目は、再び体育だった。そして担任はやはり前日同様に授業内容を決めた。皆がわっと広がる中、僕は動けずに、絆創膏を貼った膝を見下ろしていた。

「大丈夫?」

 急に側でした声に振り向くと、いつの間にか岸村がそこにいた。「今日は、止めとく?」。さらにそう聞かれてようやく、僕は自分が心配されていると気付いた。

 かぁっと顔が熱くなるのを感じた。反射的に「あ、いや」と口ごもりつつも、ちらりと彼女の両膝を見た。そこには昨日と同じ包帯が、ほんの少しだけ下手くそな巻き方で巻かれていた。

 もしかしたら跡になるかも知れない。真っ先にそんな考えが浮かんできて、いよいよ目線を上げられなくなった。自分のせいで女の子に傷を残してしまうなんてと思ったら、申し訳ないを通り越していっそ恐ろしくなった。一晩寝たら膝や足首の痛みなんてほとんどなくなっていたのに、僕はまた泣きそうになった。

「……ごめんね」

 だからこそ、その言葉をすぐには理解出来なかった。数秒後、ほとんど無意識に彼女を見た僕の目に、大きな黒目が飛び込んできた。

「私、鈍くさいから。ごめんね。痛かったよね」

 この子は何を言っているんだろうと思った。だって、それは本来であればそっくりそのまま僕の口から出て然るべき内容のはずだった。それなのに、おそらく彼女は本気で言っていた。自虐も、謝罪も、心配も、全て何もかも。

 昨日は跳ねた心臓が、きゅうっと縮んだ気がした。叩かれた痛みとも、転んだ痛みともまるで異なる、体の内側から絞られるような痛みが胸を襲った。まん丸の顔に並ぶ目も眉も口もみんな一つ残らず悲しそうで、それを見た途端、僕は考えるより先に言っていた。

「あのさ、今日はちゃんとやるから」

 本当は謝る方が先だったのかも知れない。それよりも男なら傷の具合を案じてやるべきだったのかも知れない。だけど、この時の僕はそう言ったことに対して後悔しなかった。その上、彼女の許可を待たずに体を寄せて、ぐっと足を近づけて、自分のはちまきでぐるぐるに結んだ。

「ごめんね」

 そう言って僕は岸村の方に腕を回した。多分、彼女はその行為自体への言葉だと思っていただろうし、それならそれで構わなかった。むしろ、変に気付かれるよりもさらっと流されていた方が根性無しの男としてはありがたかった。現に、返事をする代わりに彼女が僕の方へと手を回してきて、だけどそれは肩へは少し届かずに形としてはまるで背中を撫でるみたいになって、それでもう僕の心臓は限界に近づいていた。右半身に伝わる熱と華奢で柔らかい感触は母親のそれとも父親のそれとも違っていて、右腕に触れる髪の毛のくすぐったさは漫画やテレビで見るどんなイヤらしい場面よりも生々しく脳を刺激した。全くもって単純な男だと情けなくなるけれど、僕はもうこの時にすでに彼女を好きになっていた。僕はそんな気持ちを悟られたくなくて、昨日よりも大きな声で「よーい」と言った。

 それから、僕達は何度もバランスを崩して転びそうになった。その内、何回かは実際に地面へ手をついたり転んだりした。でも、初日ほどの怪我をしたりすることはなかった。それは単純に速度をゆっくりにしていたからと言う理由もあっただろうけれど、それ以上にやはり密着していたことが大きかったと思う。しっかり体を支え合っていると、どちらかが倒れそうになっても意外ともう片方が踏ん張ってくれて、ぎりぎりでバランスを保てたり、そうでなくても盛大に転ぶ直前に手をつけたりするのだ。

 勿論、テンポがずれて足首にはちまきが食い込むことはあったし、転びこそせずとも勢いよく地面に手をつけばそれはそれで痛い。僕一人であれば、と言うより彼女が横にいなければ、或いは思わず泣いてしまうことだってあったかも知れない。でも、それでも僕は確かにもう泣かなかった。そしてまた、彼女もただの一度として涙をこぼさなかった。本当に、強い子なんだと、そう思っていた。

 こうして僕達はよく練習した。運動会の直前なんかは、授業中だけでなく休み時間に練習することもあった。すると、必然的に僕達は一緒にいることが多くなった。残念ながらと言うか当然ながらと言うか、色っぽい展開になりそうな予感は欠片もなくて、例えば家に帰ってから何をしているかとかそんな友人同士なら自然に交わしそうな会話もほとんどなかったけれど、それでも僕は満足していた。しかも、何かの折に話したウサギの話題に思いの外良好な反応を示してくれた時なんかは、自分個人のペットでもないのに誇らしくなって、「みんなは『スノー』って呼ぶけどあいつは僕だけは『スノ』って呼ぶだけで耳を動かすんだ」なんて偉そうに語った。さらにさらに、昼休みの餌やりと掃除は生き物係でなくクラス全員の当番制なのだけれど、その数日後に彼女に順番が回ってきた直後には、口数こそ少ないものの明らかに上機嫌な様子で体を動かす彼女を見られた。

 相変わらず岸村はクラス内で少し浮いていたけれど、この頃になると僕だけでなく他のみんなも何となく彼女は決して悪い子でないんだろうなと分かっていた。ただ、なかなかきっかけが掴めなかったのだ。何せ、暖簾に腕押しを体現するような性格だから、会話を振ってもろくに続かない。

 僕は密かに考えていた。今度の運動会で、もしも僕達のペアが一位になれたなら、そうしたらきっと一気に岸村と皆の距離も縮まるんじゃないだろうかと。だって、僕らが勝つなんて誰も、多分、本人だって思っていない。それなのにもしも本当に勝てたなら、そうしたらみんな驚いて盛り上がってちょっとした気まずさとか取っつきにくさなんてすっかり忘れてしまうに違いない。そうなればどんなに素晴らしいだろうかと、そんな未来を想像してにやにやするのがいつしか僕の癖になっていた。

 そうして遂に運動会、当日。各学年につき四クラス、それぞれ一組から四組まで順に赤・白・青・黄のはちまきを締めた生徒が色別に、はたまた学年別に、観覧席に集まる保護者の声援を受けながら様々な種目で戦って点数を競い合う。二人三脚は後半戦、お昼ご飯を食べてからすぐの予定だった。

 僕の父親は土・日や祝日も仕事という職種だった為、毎年、ほとんどの生徒の両親が揃っている中で僕の家から見学に来るのは母親だけだった。でも、それを理由にからかわれた記憶はなかった。それどころかいつも、運動会のお昼ご飯の時間は僕にとって気恥ずかしくも優越感に浸れる瞬間だった。何故なら、僕の家のお弁当は、明らかに息子の体格やそもそも親子二人きりの事実を綺麗に無視した内容だったからだ。一体どういうつもりだったのか正確な所は知らないが、どう考えてもビニールシート上で僕達が座っている面積より大きい範囲を占めるお弁当箱の充実感は、おそらく母にとっては親としてのプライドだけでなく僕への気遣いや罪滅ぼしの表れみたいな面もあったのだと思う。そして実際、僕達の所へは他の級友達が何人も「すげぇなー」なんて言いながら唐揚げやフルーツをつまみに来たし、母もまた楽しそうに周囲の家族へ割り箸や紙皿を配ってはおかずの交換をしたり世間話に花を咲かせたりしていた。

 そんな母だから、みんなの輪からやや外れた所で一人ぽつんと座っていた岸村にわざわざ自分の方から「良かったらどうぞ」と紙皿を持っていったのも、ある意味では当然の行為だった。遠目に見えた岸村のご弁当は、プラスチック製の水筒とアルミホイルに包まれた数個のおにぎりらしきものだけだった。

 僕は内心はらはらとしつつ両者を見守った。ほとんど押し売りみたいに紙皿に載せたおかずを突き出す母親と、困ったように首を横に振る岸村の会話は、それだけで内容が聞こえてくるみたいだった。恥ずかしいから止めて欲しいという気持ちと、お母さん頑張れという気持ちがちょうど半々だった。

 結果的に、勝ったのはやはり母だった。しかも、あろう事か母は勝利の産物として信じられないものを持ち帰ってきた。「あんた、どうして言わないの。この後、香苗ちゃんと一緒に走るんだってね」。呆れた表情で帰ってきた母の傍らには、小さな両手でアルミホイルの塊と紙皿を抱えるように持った岸村が立っていた。唖然とする僕の前で、彼女は珍しくどうして良いか分からなさそうに顔を俯かせていた。肩から斜めに提げられた水筒には、数年前に流行った少女向けアニメのキャラクターが描かれていた。

「二人三脚なんだから、あんたがしっかりこの子をサポートするんだよ。ほら、香苗ちゃんも、遠慮せずに沢山食べて頑張ってね」

 後年、「あんたってあの子が好きだったでしょ」とふとした拍子に漏らした母の言葉を聞くまで、僕はとても純粋にこの人はきっと馬鹿なんだと思っていた。しかし、改めて「だから私がせっかく連れてきてあげたのに、何も話さないんだからねぇ」などと言われた結果、なるほどこの人は僕が考えていた以上に馬鹿だったんだと思った。

 でも、今、落ち着いて当時を振り返ってみると、もしかするとあの人は僕なんかが想像するよりも遙かに賢かったのかも知れないとも、ほんの少しだけだけれど、思う。

 確証を得るにはやや心許ない理由で、そもそも遠い昔の思い出は随所があやふやで抜けている部分も多いのだけれど、あの時、想定外の状況に固まってしまっていた僕の横で、岸村は馴れ馴れしく名前を呼んでくる母の勢いに、確かに困っていたはずだけれど、同時にちゃんと僕の家のお弁当にも手を伸ばしていた。持参したおにぎりに加え、そんな満腹になったら逆に走れなくなるよと心配になるくらい紙皿に盛られた唐揚げやフライドポテトや卵焼きなど、或いは僕が食べた以上の量を岸村はあの小さな体で残さず食べきった。そして最後に一言、「とっても美味しかったです。ごちそうさまでした」と母に言い、それから僕にまで「ありがとう」と言ってきた。僕は、「あぁ、うん」とかそんな気の利かない返事をしながら、少なからず失礼な感想だったけれど、なんだよそんな風にも笑えるんじゃんとどきどきする胸を悟られないようにするので一杯一杯だった。

 残念ながら、このすぐ後の二人三脚で僕と岸村のペアが一番を取ることはなかった。でも、ビリでもなかった。他の三組ともが全員、僕達よりも背の高い生徒ばかりの中で、僕達はただの一度も転ぶことなく走りきった。その結果、僕達は二位と僅差で三位になった。細い棒の先に〈3〉と書かれた三角形の布を付けられたフラグを二人で持ちながら、僕は他の生徒の競走の終わりを待つ間、実は泣きそうだったのだけれど、傍らの少女がかすかに悔しそうな顔をしつつも泣いていなかったから、何とか頑張って涙を堪えていた。来年は、きっともっと練習して、今度こそは一位になろうと、岸村がうんと言ってくれるかも分からないのに勝手に想像して決意した。最終的に、赤組は二人三脚に出場した四年生以上の全部で一位を二つ、二位を二つ、三位と四位を一つずつ取った。その内、一位の一つは僕達のクラスのペアだった。

 それから各色対抗の応援合戦や、運動会の見所である綱引きと、最後に山場でもあるリレーなどが続き、最終結果として総合優勝は青組になった。ちなみに赤組は惜しくも二位で、リレーのアンカーへバトンを渡す直前に転んでしまった大西が砂に汚れた体操服のシャツで何度も何度も顔をぬぐいながら「ちくしょう、ちくしょう」と繰り返している光景が、とてもとても印象的だった。

 運動会が終わり十一月に入ると、朝夕の気温が急に下がって途端に過ごしにくくなった。テレビの天気予報では『今年の冬は例年以上に寒くなる』としつこいくらいに言っていて、どちらかと言えば寒がりな僕は早くも憂鬱になっていた。それでも毎朝のウサギへの餌やりと小屋の掃除をサボることはしなかった。

 そんなある日、どうもスノの様子がおかしいと気付いたのは、十一月の二週目の土曜日だった。

 昨日までなら僕がそれを差し出すとすぐにちょこんと飛び出した前歯でかじりついていたのに、あの朝はどうしてか、スノは僕の持ってきた人参を食べようとしなかった。顔の前までそれを運び、何なら軽く口元に押し当ててみても、一向に口を開こうとせず、かといって逃げもせず、ただじっと土の上で伏せるようにして動かない。

 酷い話だと思うのだが、僕の学校は動物の世話を推奨するくせに、それの専門的知識を有する人間がいなかった。だから僕が駆け込んだのは保健室だった。「ウサギが変なんです」。おそらく言われて保健教諭も困っただろうけれど、それでも彼女は僕の後に付いて来てくれた。それからスノの前に僕と並んでしゃがみ込み、「そうねぇ。ちょっとしんどいみたいねぇ」。

 「どうしたら良いですか」と詰め寄る生徒に、保健教諭はしばらく考えた後で「とりあえず今日は土曜日だし、このことは先生と用務員さんに言っておいて、明日一日だけ様子を見ましょうか。それで月曜日もまだしんどそうなら、教頭先生にお願いして病院へ連れて行ってもらいましょう」。

 正直、僕は不満だった。それなら今すぐに連れて行って欲しかった。土曜日や日曜日に動物病院が開いていないと言うのなら、救急車を呼んでくれれば良いじゃないかと思った。住み込みで校舎の掃除や動植物の世話をしてくれていた用務員のおじさんは、普段に接する機会の少ない子供にしてみれば何となく胡散臭く感じられていて、たった一日とは言えこんなに具合の悪そうなスノを本当に任せて大丈夫なのかと不安になった。

「心配しなくて大丈夫だから。さぁ、一時間目が始まる前に教室へ行きなさい」

 保健教諭の言葉は、子供だった僕にとってあまりにも「大人らしい」もので、到底納得なんて出来なかったものの、だからこそ逆らうことも出来なくて……。

 …本当に、どうしてあの時、僕はもっと大騒ぎしてでもあいつを守ろうとしなかったのかと、心の底から後悔している。三時間目が終わってから終礼までの休み時間、スノはやっぱりぐったりとしていた。土曜日のみの集団下校では低学年の子の歩調に合わせなければならないからずっと苛々していた。家に帰るとすでに用意されていたカレーライスを飲むように掻き込んで、自転車にまたがり学校へ舞い戻った。スノはまだ生きていたが、やはり食欲はなく、もしかしたらと持ってきた梨を与えても同じだった。夕方までそこにいたら四年生を担当する先生に見つかって「暗くなる前に帰れ」と校門から追い出された。翌日も朝から学校へ行った。前日に小屋の中に残しておいた野菜や梨がなくなっていたから思わずかすかな希望を抱いたら、昼過ぎに顔を出した用務員から朝早くに彼が掃除したんだと聞かされた。その時もやはり餌を食べようとしなかったらしく、いよいよ絶望感に滅入ってしまったら、心配している子供を気遣っての発言だろうけれど用務員が「大丈夫だよ」と言った。それから彼が持ってきてくれたおにぎりを食べながら、この日も暗くなるまで小屋の前にいた。去り際、恐る恐る撫でた背中から柔らかい毛とこりこりとした背骨の感触が伝わってきた。僕はいつか見た漫画の中でそうされていたように、右手に全身全霊で気持ちを込めて、そこから自身の生命エネルギーみたいなものが出てこいつに伝わってくれと願った。僕の体温かそれともスノのそれなのか、ほんのり温かくなった手の平に、根拠もなく上手くいったんじゃないかと思った。だけど翌朝、集団登校の班からほとんど独立するように率先して歩いて学校へ着いた時、スノはすでに小屋から出されていて、職員室のストーブの前で溶けない氷像みたいになっていた。担任や用務員や他の教師らに囲まれる中、薄い毛糸の手袋を脱いで触れた体はストーブの前にいるくせに冷たくて、僕は堪えきれずに大声で泣いた。担任の手が僕の頭を自身の腹に押し当てて、反射的にしがみついた。煙草臭くて、いつもなら絶対に進んで近寄りたくないはずの体なのに、僕は目も鼻も口も押しつけて泣いた。「後でみんなで埋めてやろうな」と、うるさい泣き声の向こうから落ち着いた声が聞こえてきた。

 その日の一時間目は急遽スノのお葬式をすることになった。数人の男子が小屋の脇の地面に穴を掘り、担任が新聞紙で包んだスノの体をそこに入れた。それから女子が順番に用務員から分けてもらった花や野菜を穴に入れ、やがて再び最初とは別の男子が土をかけた。それから最後にみんなを代表して、僕がその上に墓標を立てた。ベニヤ板の切れ端に黒いペンで〈スノー〉と書いただけのものだったけれど、僕はそれが完璧に垂直に立つよう震える指先に一所懸命力を込めた。

 僕は泣いた。辛うじて幼児さながらに大声を上げこそしなかったものの、どんどんどんどん涙が溢れてきた。他の男子の中にも泣いているやつがいた。そうでなくても暗い表情をしていた。女子に至っては全員が泣いていた。岸村も、俯いた顔を両手で覆っていた。

 僕は、岸村もやっぱり女の子なんだと、どうしようもなく悲しい心の片隅で、だけどそこだけ僅かに救われたみたいな気持ちで思った。彼女も本当にスノのことを好きでいてくれたんだと、転んで擦りむいた膝より何倍も辛い痛みがほんのかすかだけれど和らいだ。

 そしてだからこそ、それが「嘘」だったと知った瞬間、僕はもう何も考えられなかった。

 その瞬間は、しばらくして担任が「そろそろ教室へ戻るか」と言った直後に訪れた。

「こいつ嘘泣きだっ」

 悲しみに沈む空気に、いっそ怒声にも似た大声ははっきりと響いた。

 言葉の意味を理解したと言うよりも単に音への反射で視線を向ければ、そこには恐ろしいくらいに険しい顔をした大西がいて、岸村の華奢な両手を思い切り持ち上げていた。必死で顔を俯ける岸村と、それを許すまいと断罪する大西。その光景はあたかも処刑場で十字架に張り付けられた罪人を見ているようだった。

「こいつ嘘泣きだぞっ。ほら見ろよ、涙なんて一個も流れてないぞっ」

 大西はいっそ学校中に聞こえそうな声で再び言った。全員の視線が岸村の前髪の向こうに集中した。

 僕は信じられなかった。こんなに酷い人間がこの世に実在するなんて想像もしなかった。この瞬間の僕にとって岸村はニュースで報じられる人殺しよりもさらに残虐な存在に見えた。

 「止めろ」と担任が言った。大西は聞こえていたはずなのに止めなかった。

「こいつ最低だぜ。スノーが死んでんのに嘘泣きなんて。もしかして、スノーを殺したのってこいつじゃ――」

「止めろと言ってるだろうがっ」

 担任の激声が大西の声をかき消した。それはそれまでに担任が発したものの中で絶対と断言出来るほど荒々しい声で、「下らんことを言ってないで、さっさと教室に入れ」と命じる姿は純粋に怖かった。

 大西は「……何だよ」とふてくされた風に吐き捨てたものの、岸村の手を離した。そして彼は誰よりも早くその場を離れて教室へと走っていった。

 多分、あの行為は大西にとってただの悪ふざけなどの類では決してなかったのだと、今になると分かる。あれはおそらく、もっと切実なもので、勿論褒められた方法ではなかったけれど、言うなれば悲しみを誤魔化す手段だったのだ。そしてまた岸村も、仮に涙の跡こそなかったとしても、間違いなく悲しんでいた。

 でも、未熟な、ましてや突然の不幸で精神的に追い詰められていた僕に、そんな深い所まで考えを巡らすことなんて出来るはずもなく。

 皆がぽつぽつと教室へ戻り始める中、じっとその場から動こうとしなかった岸村に、僕はあろう事か、彼女の前に近づくやいなや「ふざけんなよ」と言ってしまった。

 決して大きな声じゃなかった。だけど、岸村は瞬間的に顔を上げた。間近で確認してもやはり涙の筋はまるで見つけられなかった。僕は対照的に止まらない己の涙と合わせて吐き出すように、再度「ふざけんなよ」と言った。その直後、岸村はさっと俯いた。寸前に彼女の顔に浮かんでいたのは、それこそ矛盾するみたいだけれど今にも泣きそうな表情だった。

「鈴木、止めろ」

 静かながらも有無を言わせぬ迫力を持った担任の声が聞こえてきて、僕はもう一度だけスノの墓を振り返ってから、やがて皆と一緒に教室へ戻った。言葉を発する人間は誰もいなかった。

 それから、岸村に対する教室全体の意識が変わった。一見すれば以前と同じに思えたかも知れないが、その実体は全く違った。

 岸村がウサギを殺したわけでないなんて、冷静になれば全員が理解出来る事実だった。だけど当時の級友達の間には、紛れもなくあたかも彼女がその魂を連れて行った死に神さながらに考える空気が流れていて、それはそれまでにもあった単に地面の上へチョークで引かれただけに過ぎないような境界線を今度こそはっきりと硬質な金網へと、それも有刺鉄線で編まれたものへと変えた。全員が彼女を避けるようになったし、酷い例では意識して存在を無視するだけでなく彼女を遠ざけつつも教室中へ聞こえるように「ウサギ殺し」なんて悪口を放つ者も現れた。さすがに後者に関しては松井さんなど真面目な女生徒から「止めないさいよ」と非難が飛んだが、しかしそれも正義感でなく単なる義務感による行為じみていて、現に彼女達は心ない男子の仕打ちを見とがめて注意こそしたものの、岸村自身へ慰めの言葉を掛けたりはしなかった。そして僕はと言えば、彼女を虐げることも、守ることも出来ず、ただただ好きにも嫌いにも当てはまらない感情をぶつけるように視線を向けることしか出来なかった。

 ある意味で、僕もまた教室内に居場所を見つけられずにいた。だからなのか、僕は世話すべき動物もいないのに、毎朝、毎昼、空っぽになった小屋へ足を運び、それからスノの墓を参った。ただ、どうやらそんな人間は僕以外にもいたらしかった。

 スノの墓には小さな花瓶が置かれていたが、そこにはいつも僕より先に誰かが来ていて花を供えていた。何度か昼休みや放課後に隠れて待ってみたが、誰も現れず、だとすればやはり朝一番なんだろうと思っていた。

 それらは花と言っても花屋に並んでいるようなものじゃなくて、きっと大人になってから恋人の誕生日にでも渡したら「こんな雑草をよこすなんて」と怒って振られてしまいそうなものだった。でも、その草の先には小さくも可愛らしい花弁が確かに咲いていて、その上にそれが二日続けて同じ色をしていることは一度もなかった。

 一週間が過ぎ、二週間を超え、十二月に入っても花の途切れることはなかった。教室では早くもウサギの死なんてなかったみたいに普段通りの日常が戻っていて、教師の中には三学期になったら新しい動物を…なんて話している人間がいるらしい噂も聞こえてきた。だけど花は毎朝必ずそこにあった。

 僕はもう我慢出来なくなっていた。だから遂に十二月も二週目に入ったその日、前日に集団登校の班長である六年生に「明日は一人で早く行く」と伝えていた僕は、まだ薄暗い早朝に家を出た。両親には、クラスで新しい動物を飼うかも知れないから、早く行って小屋を掃除する為だと言い訳をした。おそらく、嘘だとバレていただろうけれど、二人は何も聞いてこなかった。

 外は寒かった。でも、僕は校舎の陰で手袋代わりの軍手をこすり合わせながら待った。こんな気温で本当に来るやつなんているのかとくじけそうになりつつも、その度に毎日変わる花を思い出してひたすら待った。

 果たして、どれくらい待っていたのか。とりあえず鼻の穴は乾いた鼻水で幕を張られたみたいになっていて、耳は軽く引っ張ればちぎれるんじゃないかと思うほど痛くなっていた。

 ようやく現れたその子は、岸村だった。

 岸村は手に持っていた花を土の上に置くと、花瓶を拾い上げて古い花を抜き、それを水道のある所まで持っていって、躊躇うことなく水で中を洗った。それから最後に少しだけ水を注ぎ、スノの墓へ戻ると新しい花を挿した。そして小さな手を合わせて、その先に額を押しつけるみたいにお祈りをした。小柄な体が、一層に縮んで見えた。

 まさかと驚いた。だって彼女は死に神のはずなのにと、周囲に流されて勝手に思い込んでいた印象との差に言葉も出なかった。

 でも、そこではたと気付いた。彼女は素手だった。気付けば僕は飛び出していた。

 突然の物音に岸村がはっと振り返り、瞳をまん丸にして固まった。そして僕は…やはり何も言えなかった。

 僕は確かに何かを言おうとした。だけど同時に、口を開けばまた酷いことを吐き出してしまいそうで、そのくせ黙って立ち去ることも出来なくて、とにかく彼女の前に立ち塞がるみたいに立ち尽くして奥歯を噛み締めていた。

 小学五年生のあの頃、僕は彼女の強さに惹かれた。初恋だった。でも、彼女の「嘘」に裏切られた気がした。だから嫌いになろうとした。そうしないといけないとさえ思った。

 それなのに、岸村は紛れもなくそこにいた。

 平凡な脳みそなりに分かった、自分はきっと間違っていたと。その途端、自分が情けなくなった。それどころか、自分こそ最も酷い人間だと思った。何よりも誰よりも自分が彼女を傷つけていたと思った。

 どうしようもないくらい情けなくて、悔しくて、恥ずかしくて、許せなくて、僕は涙を堪えきれなくなった。男のくせにそんなにも簡単に泣いてしまう自分がいよいよ本当に惨めだった。

 無様な泣き声を除けば、しばらく沈黙が流れた。いっそ僕なんか放っておいて走り去ってくれれば良いのにと、己が彼女の前に立っていることを棚に上げて願った。

 「……私ね」と、彼女がぽつりと言った。

 顔を上げると、岸村は笑っている風に見えた。でもそれは今にも泣き出しそうに顔を歪めている表情にも見えた。

 岸村が一歩、こちらへ近づいた。僕は動けなかった。「私ね、泣けないんだ」と彼女が言った。

「私のお父さん、すぐに殴ったりする人でね。それで、泣いたら、もっと怒られたの。それに、お母さんも私が泣いたら自分まで泣いたから。だから、痛くても我慢したの。絶対に泣かないようにって、どんなに叩かれても泣かないようにって」

 そして彼女は一度だけ深呼吸を挟み、「そしたら、涙、出てこなくなったんだ」と吐き出した。白い息がまん丸の顔の前に溜まって、やがて消えた。

 「ごめんね」と、彼女が吐息の残像をかき消すようにお辞儀をした。再び上げられた顔は、低学年の生徒の泣き顔めいていた。

「私もね、泣きたかったんだ。だって、本当に悲しかったから。それに、あんな時でも泣けないなんて、自分が本当に最低な人間に思えたの。でも、やっぱり駄目だった。どんなに力を込めても、涙、出てこないんだもの。やっぱり、私ってお父さんの子供だし、最低の人間なんだよね」

 …僕は、何も言えなかった。どう考えても、そこは何かを言ってあげなければいけない場面だったのに、喉は嗚咽しか生み出してくれなかった。

 伝えたい想いは沢山あったはずなのに、上手く言葉にまとめられるだけの頭がなくて、何よりそれを声に載せられる強さが足りなくて、ただ必死に歯を食いしばって動物の唸り声じみた泣き声を漏らすだけだった。

 「鈴木くんは、優しいね」。不意に、彼女がそう言って、笑った。動けぬ僕を待つことなく、彼女がこちらへと近づいた。

 岸村の手が、僕の頬に伸びてきて、氷みたいに冷たい指が触れた。そして彼女は僕の涙を一滴ひとしずく、指先で掬ってそれを自らの目尻に載せた。

 それはとても短い時間で乾いて消えた。だけど大きな瞳の縁を濡らしたその顔を見た僕は、生まれて初めて心から女の子を綺麗だと想った。僅かな水分が蒸発するほんの一瞬前、彼女は泣き顔と笑い顔が半分ずつ混ざったような表情を浮かべた。

「ありがとう」

 不意に彼女がそう言った。僕はどうしてお礼を言われたのか分からなくて「え」と返した。すると彼女は答えずにただ「それじゃあ」とだけ言って、もう僕が止める間もなく駆けていった。僕は結局、最後まで一歩も動けず、その姿が完全に校舎の陰へと消えるまで見送った。岸村は一度も立ち止まったり振り返ったりしなかった。

 しばらくしてから顔を洗って教室へ行くと、半分くらいの生徒がそこにいた。けれど岸村はおらず、一日が終わる頃になっても姿を見せてくれなかった。

 それからおよそ二週間後、岸村は冬休みに入ると同時に、誰にも告げずまた違う学校へと転校していった。あの日の翌日に登校してきた彼女を見てからそれまでの間、僕は何度か話しかけようとしたのだけれど、何となく避けられていた上に、冬休みが始まる数日前から学校へ来なくなってしまったこともあり、遂に未熟な僕はきちんと気持ちを伝えられずじまいだった。本当に呆気ない幕切れだが、こうして僕の初恋は散った。

 それ以来、僕は出来る限り泣くのを我慢するようになった。そして代わりに泣いている人がいたらとりあえず声を掛けようと決めた。それは勿論、嘘泣きであったとしても。

 世の中には「嘘泣き」でしか泣けない人間が確かにいる。そして悲しいかな、そんな人間ほど抱えている傷は大きかったり深かったりする。だから僕は、喩えそれが嘘泣きだと分かっていても、声を掛ける。鈴木くんは優しいね、そう言ってくれた彼女の言葉を嘘にしない為に。

 馬鹿な男で結構だ。便利に使われやすい性格で構わない。何なら滑稽な猿真似でも披露して道化を演じてみたって良い。仮にその結果、騙されたとしても、それで笑ってくれたならいっそ本望だ。

〈了〉

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ウサギの瞳 淺羽一 @Kotoba-Asobi_Com

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