手
※描写するのは手とその周囲、音のみ。
※「海」、「眠り」、「恋人」という語句を使わずにそれを表現する。
◇
長い時間、ダラリと力なく横たえているのであろう大きな男の体からのびた太くて肌の浅黒い左手が、一度ビクリと跳ね、その後、指と指の間を少し広げたかと思うと間もなく、樹木の根のような力強さをもって指先を地へと沈ませた。
指先の動きに合わせて、地はたやすく盛り上がったり沈んだ。柔らかい砂地だった。その砂はベタベタとした水気を含んでいて、執拗に手に絡みついた。
ザザン……シュワシュワ……。
終始、波の音が辺りを取り巻いていた。
男の手の甲には、小指の付け根辺りから古い傷跡がまっすぐと一本伸びていて、ポコリと盛り上がる青筋を横切って甲の中心にまで至っている。そこだけ皮が突っ張り、日に焼けた肌とは違う、内側の、白い肉の色をしていた。
すでに幾層もの皮が重なり線の輪郭はボヤけていたけれど、月明かりしかないのであろう薄い黒布を被せたような暗闇の中で、その白い一本線はやけに目立って見えた。
掘り起こされたばかりの芋のような手首には腕時計が巻かれていて、水に浸かった様子が見てとれたけれど、その針は全く気にしない素振りで変わりなく時を刻んでいた。
粗野だとか、乱暴だとかいったイメージを抱く男の手の中において、その手首に巻かれた腕時計はまるで場違いな気品を漂わせている。
しかし、不思議と一枚の絵のような一体感もある。腕時計は芋に巻くのが当然だと言わんばかりに、ピッタリと馴染んでいる。
時計は十二時に当たる部分が下を向いていて、逆さまになった盤は不機嫌そうに一時と五十二分を指していた。
砂地に爪を立てるような格好でいた手に、さらに力が込められた。グググと音が聞こえてきそうな程重々しく、少し位置を変えつつ、指だけじゃなく掌も地に沈む。
手の持ち主が身を起こそうとしているのだ。
持ち主の体重を支えるが為に、筋肉と骨とがガッチリと組み合って、手にいくつもの筋が走った。少しずつ体重がのるにつれ、白く浮き出ていた一本線の古傷がポオと朱に染まる。
持ち主が身を起こしきると、一瞬間、ダラリと力が抜けたけれど、すぐさま男の手は前後左右にビョンビョンと、跳ねた。
ひどく慌てた様子で、何かを探しているような気配。
手はまるで暴れ馬のように、狂ったように、砂を撒き散らし駆け回った。
そして周囲の砂地を存分に荒らし回った後、やっと目標を定めたのか、一方向へと、グイッグイッと跳ね進んだ。手の持ち主が四つん這いの体勢で這い歩いているのだ。
手が(持ち主が)進む方向は少し傾斜がついているらしく、グイグイと進む内に、次第に水に浸かるようになった。手についた砂が洗い流され、また新しい砂がついた。
ザザン……。シュワシュワ……。
手の行き先を先導するかのように波が引いたかと思うと、行く手を遮るように手に波が浴びせかけられた。
しかしそれもお構いなしといった調子で、いや、より一層気を奮うようにバシャバシャと手は跳ねた。そして手首に嵌められた不機嫌な腕時計がすっかり水の中に沈んだ頃になってようやく動きを止めた。
辿り着いた場所で、細身の体からのびた白くて小さな手が、持ち主の意思とは関係なくユラユラと揺れ浮かんでいた。
力仕事とは無縁だとわかる、スラリとした綺麗な手。飾りはついていないけれど、チョコンとついた爪は整えられ、淡いピンクに塗られ、けして主張せずかといって無神経でもない、持ち主の清廉な性格をよく表していた。
ハンモックに揺られ安らぐ幼子のような麗しさが感じられたけれど、しかし同時に、力尽き、腹を上にして浮かぶ魚の死骸のような危うさも感じられた。
男の手はわななき、怯え、慎重にすぎるといえるほどゆっくりと女の手を握った。
握り、掴み、そして震えた。
それはまるで浅黒い獣が餌を捕食しているように見えたし、果てしなく我が子を慈しんでいるようにも見えた。
まるで咆哮を吐くかのように、男の手は女の指から離れ、水面に拳を叩きつけた。
ユラユラ動く女の手とは違い、その持ち主はピクリとも動かなかった。
怪奇掌小説集 ~無限のヒト定理~ 甲乙 丙 @kouotuhei
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