海を眺める
紅蛇
海を見つめる少女
父さんが長年勤めていた仕事を辞めた。
都会の真ん中に建てられたマンションを出て、引っ越し先は海が見える古い家だった。新しいものに溢れたところから、古いものが忘れ去られているところへ。仲のいい友達と別れて、人数の少ない学校に転校する。友達から手紙をもらう約束をしているけど、多分そんなのくれないと思う。
家に着く途中に見た町も、都会とは全然違う。ネオンサインの輝く繁華街は、ほとんどのお店がシャッターを下ろしている商店街になった。本当に、寂れた町。
それでも、海だけは綺麗な場所だった。今の所、良いところはそこだけ。
「おーい! ダンボール持ってくの、手伝ってくれ!」
父さんの呼ぶ声でハッとする。二階のベランダから見える景色を眺めていた私は、ギシッと音の鳴らしながら、降りた。さっき見た白い雲みたいな車から、父さんがダンボールを取り出していた。中を覗くとまだ五つほど残っていて、どれも重そうに見えた。
「どれから運べばいい?」
玄関から戻ってきて、首にかけたタオルで汗を拭いていた父さんに聞く。できるだけ重いのは持ちたくないな。
「重いものは……運ぶのは、できないからな。だから、そうだな——」
吹き出続ける汗を懸命に拭く父さん。私は手前にあった、一番小さいダンボールを右手で持つ。動くたびにゴトゴトという音がした。
「それ、中に壊れやすいもんが入ってるから、気をつけろ」
「わかった。どこに持ってけばいいの?」
「キッチンの近くに置いてくれ」
半開きの玄関を足で開き、入る。玄関外からの明かりしかなく、薄暗い廊下が続いていた。裸の電球が照らす灯りは頼りなくて、家までが寂しい。
廊下を右に曲がり、キッチンにたどり着く。父さんが運んできたのか、ダンボールが冷蔵庫の横に積み重ねられていた。私は一番てっぺんに置いて、また車へと戻った。
「それにしても暑いな」
父さんは空を見上げながら、運転席に座ってた。
「ちょっと海見てくる。いい?」
温くなっているはずの水を飲みながら、間を開け、うなづいた。
車で通った道を戻ることにした。綺麗に整備されていない道に、つまずきそうになる。錆色の屋根をした住宅街。コンクリートの塀は所々、ヒビ割れていて、穴から柴犬がこちらを覗いていた。
「ワァフッ!」
変な鳴き声の犬を一匹発見。もう一度吠えてくれると思ったけど、犬小屋に戻ってしまった。つまらないの。塀の割れ目を指でなぞりながら進んでいくと、海が見えた。
不規則に揺れる波が、浜辺に波打つ。その手前で、茶色よりも白に違い色をしている砂が、目を細めさせる。眩しくて、海をまた見ると、太陽に反射して、海に編模様を浮かび上がらせていた。前にみた、橋に反射する川の模様とおんなじだ。
本当に、海だけが取り柄の町。少し離れると、静かな海の音しかない。
ため息を吐くと、ふと声が聞こえた。
「にいちゃんあの子、腕がないよ」
「しーっ。そんなことは言っちゃダメ」
子供の声がして、急いで辺りを見渡した。私のことを話してる。隠していたはずなのに……。感じたくない感情の波が、潮風と共に押し寄せた。私のこと、なんも知らないくせに。
「ふふふ。僕らは人間じゃないのにね。一生懸命探してる」
「こらっ。なんで言っちゃうんだよ。バカッ」
同じ声。今度はさっきよりも近くなった。
「誰なの。姿を見せないで、卑怯よ」
声が震えたような気がした。それでも、今はどうでも良い。
「ここだよ」
耳元に少年声が響いて、思わず叩いた。やってしまってから、自分が何をしたのか気づく。地面を見ると、砕けた巻貝が転がって、虹色の内側を見せびらかしていた。それだけではなく、その横には赤い甲羅に覆われた生き物と、ヤドカリがいた。いや違う、両方ヤドカリ。
「にいちゃん。どうしよ」
「お前が悪いぞ」
「え……」
私は、思わず怖くなり、逃げ出した。後ろを振り向いたら、あの奇妙な生き物がいると思うと、見てはならないものを見た気持ちになった。もう、都会に帰りたい。
走り続けていたら、足の親指の間がすり減り始めて、痛かった。それでも、今はそれどころじゃない。懸命に運動不足の足を動かす。
やっと父さんのいる家が見えた。
「どうしたんだ? 早いじゃないか」
ダンボールを持ち上げ、元に戻す。父さん……あの時と同じ顔をしてる。ごめんなさい。久しぶりに走って、上手く話せない気がする。
すると、聞こえないはずの海の音がした。
「ううん。なんでもない。海、やっぱり一緒に見たいなって思って」
「そうか、それなら良かった」
「うん。ちょっと休憩したほうがいいよ」
これでいいんだ。さっき見たものを言っても、信じてもらえないし。
「にいちゃん、これでいいのかな?」
「わからない。でも、いいんじゃないか」
二匹の声がした。大丈夫、これでいいんだ。父さんに、微笑んだ。
海を眺める 紅蛇 @sleep_kurenaii
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