第3話

 翌日、いつもと違いシャドーボクシングをしながら日課をこなしていた。死んでいるので筋力は増えないが、狙った急所にちゃんとこぶしを当てられるようにはなるだろう。喧嘩けんかに明け暮れるような人生は送らなかったので、へなちょこパンチしかできないが……

「意外と思った場所にパンチできないな~」

 シュッシュッと口から音を出しながらマンション内を歩き回る。完全に不審者だが、問題は無い。幽霊だからね、私。

 いつもより健康的な徘徊はいかい――色々矛盾してるが――を終えて、我が家へ向かう。今日はあの失礼男と出くわさなかったなと思いながら、部屋の前にたどり着いた。

 そこに奴がいた。なにやら紙袋を持ってキョロキョロしている。挙動不審だ。

 もしかして、うちに用があるのかしら? 一応私が住んでいるものの、基本的には空き部屋である。もちろん表札もないわけで、この部屋で合っているのか自身が持てないようだ。そもそも名乗った覚えもないが、表札すら出てないと空き家なんじゃないかと心配になるだろう。

「あの、何か用でしょうか?」

 その男があまりにもおろおろしていたからか、殴りかかる前に声をかけてしまった。周りに人がいないと思っていたのだろう、案の定思いっきり驚いた顔をした。

「あ! ええと、すみません。こちらの部屋の方ですか?」

「ええ、そうですよ。酔っ払いさん」

 う~ん、顔は覚えられていなかったか。

「あ! そうですよね! ええと、昨日は大変失礼しました。これ、つまらない物ですが……」

 そう言って、持っていた紙袋を渡された。おお、一応ある程度は覚えているらしい。たぶん、昨日一階間違えてエレベーターを降りて、そこの住民に迷惑めいわくをかけたとか、そんな感じに記憶してるのだろう。

「いや、本当にすみませんでした。かなり泥酔でいすいしてて、よく覚えていないのですが、部屋まで運んでいただいたり、本当にありがとうございました!」

「いえいえ、お気になさらず」

 ここまで丁寧に対応されてしまうとは思っていなかった。さすがにここで殴るのは気がひけるので、向こうが忘れた頃にしよう。それよりも、つい受け取ってしまったが、もしかしてこの袋の中身は……

「あの、こちらの中身は?」

「ああ、お詫びの品です。どんな人なのか記憶があやふやだったので、お煎餅せんべいにさせていただきました。こんな若い女性だと覚えていたら、洋菓子とかにしたのですが」

 と、その勢いのままに手渡されてしまった。

 う~ん、あやふやだった記憶からどんな私を想像されたのか、お煎餅とは渋いチョイスだな。だがしかし、問題は食べ物だということ。私は幽霊なわけで、当然食べる必要はない。まあ、少しなら食べられるけど、手に持った感じでは数枚では済まない数が入ってそうだ。さてどうしたものか……

「あの、もしかしてお煎餅嫌いでしたか?」

 しかめっ面で黙ってしまった私を見て、誤解させてしまったようだ。

「あ、いえいえ、好きですよ! ただ、私小食ですし一人暮らしでこの量は……湿気しける前に食べきれるか心配で」


「ああ、そうですよね。じゃあ、一緒に食べますか?」


「へ?」

 何を言っているのだこの男は? たしか昨日のことを謝罪にきたはずだが、その謝罪の気持ちを込めたお菓子を、一緒に食べようと誘っている?

「ああ、すみません。ちょっと図々しいですかね? もちろん女性のお宅にお邪魔するつもりじゃなくて、ええと、俺の部屋で良ければですけど……だめ、ですよね?」

「ええと、今日はナンパされにいらっしゃったのでしたっけ?」

「あ、いえ、決してそんな不純な気持ちできたわけじゃないんですが、お恥ずかしい話なのですが、田舎から出てきて以来仕事が手一杯で、この街での友人が一人もいないものでして……その、お暇な時で良いので、少し話し相手といいますか、友達になっていただけないでしょうか?」

 ああ、なんとなく覚えがあるな。私も就職とともに初めて田舎から出てきて、友達もできずに一人寂しい想いをしたっけ。それで、ひょんなことで出会ったあの男と付き合って、それで……

「ああ、まあそういうことならいいですよ。あくまで『お友達』として、ですけどね」

 そう言うと、彼はまさにキョトンとした顔で放心していた。

「え! いいんですか! あ、あの、ありがとうございます!」

 今すぐ踊りだしそうなほど喜んでいる。どうやら相当寂しさをため込んでいたらしい。

 まあ、寂しさを抱えているのは私も一緒か。ある程度仲良くなっても、ご近所さん同士じゃあ三日会えないことは当たり前のように起こる。その度に初対面からのやり直しだった。

 どうしたって寂しくないはずがないじゃないか。

 それに、生身ならともかく幽霊なんだし、襲われてもなんとかなるでしょ! そんな根拠もない自信とちょっとした冒険心から、彼の誘いを受けたのだ。

 ふと、まだ殴っていないことを思いだした。まあ時間はあるし、そのうち忘れられることもあるだろうから、そうなってからでいいや。そう楽観的に流した。

 面倒なことは気にしないで明日に回す。死んでから身に付けたことだ。生前にもそう考えられたら、自殺なんてしないで済んだのだろうか? 生きている時には三日会わなければ忘れられるなんてことは無かったが、生前はとにかくどうしようもないことでも、どうにかしなきゃといつももがいていた気がする。

 もう少し肩の力を抜いて、明日に託したとしてもきっと成る様になったのだろう。

ここ最近は考えなかった、自殺への後悔が沸き上がった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

上の部屋の彼女 村上 茄子吉 @Sakutarou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ