第2話

 今日もふらふらとマンション内を散歩する。どうやら私が行動できるのは、このマンションの敷地しきち内だけらしい。敷地から一歩出ようとすると、途端とたんに私という存在が薄くなってしまうのだ。きっとここから出たら、私は私という存在を保てないのだろう。

果たしてそれが成仏じょうぶつというものなのか、ただ消えるだけなのかはわからない。ただ、どうにも消えるのは怖い。怖くてたまらないので、今日もずるずると居続けてしまうのだ。

死んでからの日々は、とにかく退屈との戦いだ。食事もなく、睡眠もなく、ただひたすら存在するだけ。そして、驚いたことに壁や物をすり抜けるということはできなかった。もちろん、ふわふわと浮いたりすることもない。

そう、他の家庭をこっそり覗いて、あんなことやこんなことを観察して暇を潰すことすらできないのである。まったく、幽霊なんてほとんど生きてる人間と同じじゃないか!

「あ、こんばんは」

「あら、ええと、こんばんは」

 二つ隣の部屋の女性だ。そうか、もう三日以上経っていたのか……

 なんとこの幽霊という存在、普通に生きてる人にも見えるのである! いや~最初に気付いた時は驚いたのなんの。

 ただ、もちろんいくつか変なところはある。


 一つ目、こちらから話しかけないと気付いてもらえない。ひどい話なのだが、ぶつかっても気付いてもらえないのである。頭の上に?マークを浮かべながらすたすた歩いていくのだ。まあ、ぶつかってから私が一言でも発すれば気付いてもらえる。むしろ、滅茶苦茶めちゃくちゃ驚かれる。きっと向こうからすれば、何かにぶつかったと思ったらいつの間にか人間がそこにいたって感じなのだろう。


 二つ目、私がしたことについての事実が時間とともにぼんやりとするらしい。例えば、私がとある家庭の子供をたんこぶができるくらい殴ったとする。その場では親も私に怒って抗議こうぎをするのだが、翌日に会って謝罪すると、不思議な顔を浮かべて、

「あれ、あなただったかしら? たしかこのたんこぶは友だちとの喧嘩けんかで作ったって聞いたような?……とにかく、気にしなくて良いわよ」

 となるのだ。

 私がしたことのはずなのに、別の誰かがやったことになっていたり、そもそもそんな事実が無かったことになっているのだ。一度ゴミ捨て場を滅茶苦茶に荒らしてみたことがあったのだが、ぎわにふと振り返ってみたら、何事もなかったかのように元通りになっていた。


 三つ目、三日以上会わないと私は忘れられてしまう。さっきの女性のように。

 どれだけ良い隣人として振舞ったとしても、三日会わなければ忘れられてしまうのだ。これは結構辛い……どんなに楽しくおしゃべりしても、悩み相談に乗っても、喧嘩しても、たった三日会わないだけで知らない他人にされてしまう。

 だから、仲良くしたい人とはなるべく毎日少しだけでも顔を合わせるようにしている。だけど、病気で寝込んだり、旅行に行ったり、彼氏に振られて引き籠ったりするだけで忘れられてしまうのだ。彼女のように……


「ちぇっ、今度会ったら元カレとの思い出を話してくれる約束だったのにな」

建物内を二回りほど歩いて、何人かの住民と話してから自分の部屋に戻る。忘れられないようにするための日課だ。誰かと話すことに勝る暇つぶしはない。できれば死ぬ前に気付きたかった。

今日も日課を終えて部屋の前に到着する。

今までは憂鬱ゆううつだったこの空間も、最近はちょっと楽しい思い出にいろどられている。

そう、ここで彼と会ったのだ。私の部屋の玄関前。


あの日も日課を、私の記憶を残す作業をした帰りだった。部屋の扉にもたれかかった状態で寝ている男性がいた。私の部屋の前で……

一応念のため、お隣の部屋番号や表札ひょうさつを確認する。うん、いつも通り。

やはり私の城の前で寝てるらしい。なかなか良い度胸どきょうじゃないか。よし、蹴ろう。

どうせ三日会わなければサッパリ忘れられるんだ。ちょっとくらい過激かげきな起こし方をしても大丈夫だろう。そう思って足を振り上げた時だ。

彼の目が少し開いた。

後から考えればただの偶然だったのだと思う。しかしその時、たしかに目が合ったような気がした。まだ話しかけていないのに気付いてもらえた! そう思って、サッカーのシュートを決めるような体勢で固まってしまった。

次の瞬間、悲劇が起きた。

盛大に吐いたのである。私の足元に、びしゃ~っと。

思わず飛びのいたのだが、変な体勢だったことがわざわいした。一歩分後ろに下がっただけで、こけてしまったのだ。そして、彼の口から流れ出る物は、その一歩を超えるほどの広がりをみせた。つまり、足にかかったのだ。見知らぬ人の吐瀉物としゃぶつが。

「いぎぃやぁ~!!!」

 死んでからというもの、こんな大声をあげたことはない。良くも悪くも、死んでからの日々は平穏へいおんだったのだ。

 さすがに目を覚ましたらしい彼が、目の前の惨状さんじょうを目にした。まず私の顔を見る。ちょっと顔を赤らめる。次に私の足元に目が行く。少し顔をしかめる。さらに視線は下へ。どうやらこの惨状の原因は自分にあることに気が付き、顔を青くする。

「す、す、すみませんでした!」

 土下座である。いや、そこに手をつかないで! さらに汚れてるから!

「すみません! ちょっと久しぶりに飲み過ぎてしまって、ええと、自分の部屋に戻ったつもりが一つ上の階に降りてしまったみたいで、ええとそれで、たぶん力尽きて、ええと、本当にすみません!」

「わ、わかりましたから! わかりましたから、顔を上げてください」

 たぶんこの時間はお隣さん留守だろうけど、自分の部屋の前で男が土下座してる姿なんて見られたくない。早く顔を上げて欲しいと見つめていたが、俯いたままで動かない。

 どうしたのかと思い横から覗いてみると、さっきより顔を青くして何かを必死に我慢していた。

 ……あ、これはヤバい。

 そのまま第二派が襲ってきた。今度は自分への被害は無かったが、玄関が、玄関が知らない男に汚されていく~!

 とにかくこのまま放置すると、どんどん悲惨なことになりそうだった。どうやら男はまた意識が朦朧もうろうとしてきたようだったので、これさいわいと襟首をつかんでエレベーターまで引っ張り込んだ。

「たしか一つ下の階でしたよね!」

 聞こえているかわからないが、一応口に出しておく。


 おそらく男性のものと思われる部屋の前まで引っ張ってきた。さてどうしたものかと悩むと、男の胸ポケットから鍵が覗いていた。

 このまま放置しても誰かの迷惑になりそうだと思い、渋々しぶしぶ鍵を開けて男を中へ押し込む。

 男の部屋を覗く。間取り自体は私の部屋と同じはずだが、雰囲気が全然違っていた。

 とにかく生活感のとぼしい部屋だった。物が少なく、掃除してあるわけでもないのに散らからない。カップラーメンや弁当のゴミはあるけれど、他に食事をした形跡もなかった。

 この人、まともに生きているのかしら? 死人のくせにそんなことを思ってしまう。

 とりあえずコップに水を注ぎ男に渡す。まだ焦点が曖昧あいまいな目つきだったが、ちゃんと受け取り少しずつ水を飲んだ。

「とりあえずはこれで大丈夫かな」

 そう呟くと、男からの返事があった。

「ありがとうございます。このお礼は必ず……」

 そこで言葉は途切れた。やれやれ、また眠ったらしい。まあ、水も飲めるようだし、あとは放っておいても大丈夫か。

 そのまま男を残して、そっと部屋を後にした。

 なんだか散々な目にあったけど、久しぶりに大声をあげたりしてちょっと楽しかった。まるで生きていたあの頃みたいで……


 自分の部屋の前まできて、すっかり忘れていた惨状が広がっていた。

あれ、ここまで酷いことは勝手に消えるはず。そう思ったが、よくよく考えてみるとこの惨状を作り出したのは、私じゃなくてあの男だ。

 つまり、これって放っておいても消えないってこと……

「のぉーーー!」

 本日二度目の叫びをあげながら、心に決めたのだ。

 次に会ったら絶対殴る。たとえ忘れられていても、全力で殴る!


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