海で転ぶ

小稲荷一照

海で転ぶ

 油断した。

 あまりに見事に素早く転覆、フネ全体がひっくり返っていた。寝返りを打ったのかと思ったがそうではなかった。

 固定を怠っていた防水コンテナがさっきまで天井だった今は床に落ちている。

 色々な警報がなっている。シュノーケルが正常に動作したらしく、エンジンが水を吸う前に停止したと報告している。

 起動用のエアタンクは十分満タン。

 GPSとレーダーはブラックアウト。マストのてっぺんのタライ状のレドームの中にあるアンテナは、壊れていないと機械は言っている。逆さまで操作に苦労したがログは残っていた。

 ラジオはアンテナがキャビンの中を走っているからこの状態でも電波は拾えるはず。

 とりあえず転覆したのは間違いない。キャビンの中には今のところ浸水がない。

 ヨットは一般に復元力には余裕がある作りで、このフネも完沈してもちょっと大きめの波が来れば起き上がるはず。

 とりあえず、海上保安部に転覆を報告してみる。

 デジタル通信特有の絶望的な沈黙がある。

 わずか十秒ほどの間が、決まりきった呼び出し符丁を繰り返す自分の声が、天地逆転の船室に響く。

 幾度かの間を待って、通信はあっさりとつながった。

 だいたいの座標と状態を告げる。

 海上保安部も記録からそう極端に長いこと転覆していたわけではないことを知らせてくれた。

 自力復帰を試み、二時間後に改めて通信をすることを告げて通信を終わる。

 外の天気は晴れらしい。

 いっそ荒れていれば、波に揺られて復元していたかもしれない。

 そんなことを考えながらスキンダイビングの準備をしてスキッパーデッキから夜の海に潜る。わずかに名残惜しく空気を吸いながらキャビンの扉を締めた。

 小さいとはいえキャビンを備えたヨットはそれなりに大きく、暗く海に影を落としている。

 軽くデッキを押し出すように海に出ると、少し少なめのウェイトと水を吸っていないウエットスーツの浮力が体を海面に導いた。

 幸い月明かりがあるらしくフラッシュライトの細い灯りよりも明らかに船腹を照らしていた。

 いちおう這い上がるように気を使ったつもりなのだろう高くも急でもない船腹に、波にもてあそばれるながら苦労してよじ登る。錘のついた網か紐を持ってくればよかった。そう思った矢先、反対舷の艫にはしごがあるのを見つけた。

 鯨の背びれのようにつきだしたセンターボードに寄りかかる。またがったり足をかけてみたりするが、さすがに一人で揺すっただけではなかなか起きない。大きめの波がもう一度来ないと自力での復帰は難しそうだ。

 だが、あまり焦ってはいなかった。

 海の上は、昼よりは夜の方がいい。夜は星が綺麗だとか、そういう理由ではなく、回帰線の内側だから当然なのだけど、昼の海の日差しは痛い。半日も日差しに照らされていたら乾きで倒れてしまう。

 ラッシュガードや日焼け止めとかでは一日二日は凌げても職業的なサイクルには全く役に立たない。もちろんもうじっくり日に焼けて元の肌の色は思い出せない。

 たまに全然日に焼けていない船乗りに合うこともあるのだけど、化粧に気を使う女性のように日ごろどうしているのか、真剣にご教授頂きたくなったりもする。

 優雅な生活と言えないこともない。

 舶来のレジャー用のモーターヨットは故障した時の面倒がなければ実に快適な作りで、いうほど悪いことはなにもない。

 たまにセイルを展張して船足を稼ぐのも楽しい。

 こんな沈なんか手頃なトラブルだ。

 夜の海を眺めているとここが南の絶海であることがわかる。

 四方に人の灯は見えない。

 南の星座が空に混ざっていて、星空も見知って覚えたものとはだいぶ違う。

 ブランコに飽きた子供がそうするように、気も入らず波の音に合わせてセンターボードによりかかり体を揺らす。

 そのまま空がだんだん群青に染まるのをぼんやりと眺めていた。

 遠くの水平線が数瞬、鋭い緑に染まる。

 風が強まり足元が一気に揺らいだ。

 ぼんやりとしていて揺すればよかったと徹夜の頭で考えたところにひときわ大きな三角波が見えた。慌ててセンターボードを掴みなおす。

 足元が滑る。

 息を大きく吸う。

 波で傾いたフネが倒れかかる。

 息を止める。

 一気に海に叩きこまれた。

 月の落ちた明け方の海は深夜に見たそれよりはるかに暗かった。

 まだ昏い空との境界の融けた海に落ちて、なおあまり焦ってはいなかった。

 肩口につけっぱなしだったフラッシュライトが擾乱された海面と辺りの泡を白く照らす。

 こんな沈なんか手頃なトラブルだ。

 首元にかけたままに諦めてマスクを後ろに回す。

 姿勢がどっちを向いているのかも実は怪しい。

 マストやらさまざまに絡まったり叩かれたりしないように身を丸めているから、結構な勢いで回転している。

 それでもウエットスーツの浮力を信じて慌てずに待つと海面に出た。

 薄く青い影に黒くマストが天を指していた。

 スキッパーデッキまで這い上がって一息ついていると、防水パネルの中でGPSとレーダーが現在位置を告げ始めた。

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