第5話

彼との生活も、一か月が過ぎた。自宅は時々帰るが、必要なものを取りに行くか掃除に行く以外は、ほとんど行かなくなってしまった。最初は不自由をしたし緊張もしたが、それは一週間もしないうちに慣れ、今ではすっかり、彼の家が自宅になっていた。

 キャンバスの中の私はというと、かなりの進化を遂げていた。私が見るに、これはほとんど私ではないかと思うほど、写真よりも生っぽく、現実の私とは布一枚隔てた向こうにいるだけの距離となった。

 調子が良くなると、彼は食事を忘れる。私が用意しないとまるで口にしない。飲み物すら口にしない事が多かったので無理やり飲ませた。これでは介護だと思ったし、彼もさすがに嫌がるだろうと思ったが、彼の絵画への執着はすべての事を些末な行為にし、気になどまるでしなかった。

「絵は料理に似ています」

「君に料理ができるとは、知らなかった」

「僕を馬鹿にしているでしょう。これでも一応、しますよ。今は描くものがあるからしていないだけです」

 子どものような反論は相変わらずだ。一緒にいるせいか、打ち解けてもっと酷いものになっているような気もするが。

「例えば肌色。人種によってさまざまですが、ペールオレンジが主体だとしますね。欲しい色は朱色、黄色、白、が一応基本です。配分は朱色と黄色が少なめ、白が多めです。これで大体の色ができたら、別の色を加えます。僕の場合だったら、もう少し赤と白を足します」

 彼はパレットの上に朱色と黄色と白を出し、言った通りに混ぜた後、赤と白を足した。

「これを基本の色にし、後は光と影の色を作ります。人間には一応ない色ですよね。光が生み出す色ですから」

「確かに料理だね。女の化粧にも似ている」

「先生、恋人がいるのですか? だとしたら、独占して申し訳ないです」

「今はいないよ」

「そう……ならいいのですが。じゃあ、化粧に例えましょう。女性も隠し味を沢山盛り込んでいますからね」

 ソレイユは苦笑気味に淡いピンクや紫を取り出し、水色まで作り始めた。それをキャンバスに塗る。

「肌色とは思えない」

「思えないでしょう。けれど、僕たちの肌は思った以上にいろんな色が混ざっています。皮膚を通る血管、神経、毛穴のくぼみにも色はあります。皺、筋肉、それらの浮き立ちで色も変わる」

「君はそれすら、描いているね」

「そうです。本当はそこから脱却したいのですが、今は脱却体験中ですね。先生が描き切れていませんから」

 彼は嬉々と続ける。

「声や表情にも色はありますよ。僕たちの間には今、オパールグリーンが漂っているような気がします」

「それも描くのか?」

「描きます。描きたいです」

 隠し味をいくつも盛り込んだ私の姿。完成が楽しみだ。

「絵は料理の天才ですよ。刻んで炒めて煮て炙って盛り付けて。素材そのものを作る事だって出来る」

 くるりとキャンバスを私に向ける。珍しく小さなサイズで描かれたそこには、一つの林檎があった。

「珍しい。美味しそうな林檎じゃないか」

「先生をイメージした色を並べていたら、林檎になっちゃいました。丸くてつやつやしていて鮮やかな赤なのに、剥くとクリームみたいな柔らかい色。でも瑞々しい。ふふ。林檎のような先生、先生のような林檎」

 絵具がたっぷりついた手で口を覆ったため、彼の口は真っ赤に汚れてしまった。

「ああ、ほら……これでは人食いのようだよ」

 私が拭うと、彼は余計に笑った。

「世話好きの林檎ですね」

「こうでもしないと、君は単なる一方的なストーカーに成り果てるからね。世話をする事で私に意味を持たせ、君を成り立たせているんだ」

「もうストーカーを超えましたよ。今では先生のちょっとした変化もわかる。今日の先生は皮膚が一ミリ下がっている」

 なんて、と冗談交じりに彼は言ったが。

 久しぶりに寒いものが走った。なぜかはまだわからなかった。彼の言葉は時々怖い。絵が怖い。

 私は苦く笑ったが、彼はわかってしまっただろう。ソレイユは一瞬固まったが、私と同じように笑うだけだった。



 手紙を読み返しながら、私はあの頃の感情を思い返す。

 私のような林檎を同僚に見せた時、なぜかみんな不気味がった。キャンバスに真っ赤な林檎と真っ赤な枠があるだけの、赤と白だけで構成されただけなのに、誰もが目を合わせようとしない。

 問うてみると、誰かがこう言った。

 羊を目の前で殺して食べるような感覚だ、と。

 不気味であることを強く言いたかったのだろう。それを強く感じたのは、林檎の絵をもらってからしばらくしてからだった。

 風邪を引いた。目蓋を焼き切る残照に苛立ち、毛布を投げ捨てようとしたところで彼が入ってきた。片手にはスケッチブックと鉛筆。指なのか鉛筆なのかわからなくなるほど、同化している。

「先生……大丈夫ですか」

「大丈夫だよ。君は部屋から出ていた方がいい」

 描きたいのだろう。風邪の私を。それはわかるが、熱による痛みと気だるさは必要以上に私を興奮させ、苛立たせていた。

「……先生。僕、何か食べれそうなものを買ってきます。ゼリーなら食べられますか?」

「いいから、部屋から出ていなさい。うつるよ」

「でも」

「早く描きたい気持ちはわかる。病床の私を描くのもいいだろう。けど、そこまでして今は描いてほしくない」

 ソレイユは怒られた犬のようにしょんぼりと肩を落とした。今まで散々、私の事を優しいと言っていたのだ。裏切られた気持ちでいっぱいだろう。そこまで豹変したわけではないが、彼に声を荒げたのはこれが初めてだ。

「今の私の皮膚はどうなっている? 筋力も衰えているだろう。あまり食べていないから、眼球もどうなっている事か。苛立つ私の顔はどうだ。君が描きたかった私ではないだろう」

 これが、うんざりという気持ちだ。ほとんど初めて、明確に味わう。

 見られる行為に幸福感のようなものを感じた時期が多かった。けれどそれは、ひっくり返してしまうと恐ろしい行為だったのだ。林檎の絵を不気味がる同僚はそれを瞬時に感じた。私は鈍感なのだ。

 女性が老化を恐れるのと同じような恐怖が、私の中に芽生えていた。あの林檎がすべてを物語っている。

「君は結局、優しいと言われる私が描きたかっただけだ。けれど私はさほど優しくない。君に都合のいい人間だっただけだ。君がどうして学生時代に描けなかったのかはわからない。もしかすると、見知らぬ先生に妄想を抱いていたのかもな。実際の人物で虚像を作っていたんだ。信仰する何かを、君は勝手に作り上げていたに過ぎない」

 なぜこんなにも苛立っているのか、次第にわからなくなってきた。彼を傷つけているのかどうかもわからず、私はただ言う。

「君の絵は、君の自己満足だ」

 酷い言葉だ。もし私が画家だったら、答えられず泣いたかもしれない。

 しかし彼は――笑った。ソレイユの笑顔が咲いた。

「そうか……そうですね、先生」

 彼は笑ったが、私には近づかなかった。それが彼の見せる、せめてもの誠意だった。

「僕は結局、自分に都合のいい絵しか描いてこなかった。都合のいい人間を描いて、勝手に閉じ込めていただけだ」

 一呼吸置いたが、笑顔は崩れない。

「自分で言ったはずなのに。僕はおかしい人間だって。何もかも見過ぎている。見過ぎているから、自分の表現が出来ない。僕は僕の都合で何もかも赤い枠の中に押し込めていた……先生、そういう解釈でいいですか」

「ソレイユ……。すまない、変な八つ当たりをしてしまった」

「いいえ、本当の事です。先生の言う事はきっと……僕にとって答えになるはずです。いつまで経っても先生が描けなかったのは、それなのかもしれません。先生って案外と怖いですね。なるほど……。僕は見え過ぎていたから、何も見ていなかった」

 言って、彼は部屋から出て言ってしまった。私は焦った。純粋そのものの青い瞳から涙が零れてしまっていないか。私は慌てて彼を追い、アトリエに入った。

 彼はキャンバスに向かっていた。彼自身がモチーフになったように、静かに筆を滑らせる。薄暗い中、そこだけスポットライトが当たっているように、柔らかな光の輪郭が浮かんでいた。

 話しかけられなかった。彼は目を伏せ、手に筆を任せていた。それでも筆は的確に何かを描く。迷いはなかった。

「今すぐには無理かもしれません。でも、僕はきっと別の道を見る事ができるはずです。先生が教えてくれたから」

「私は、何も」

「やっぱり一人より二人でよかった。そして先生でよかった。みんなは僕の事を画家先生としか呼んでくれないけど。先生だけは、原点であるソレイユの名で呼んでくれる。僕はもっと、この想いも大切にしなくちゃいけなかった」

 先生、と続ける。これが私の聞いた、最後の言葉だった。

「先生。僕はもう、先生がいなくても描けそうです。今までありがとうございました。長い間お世話になりました。先生との生活は人生の中で一番楽しい時でした。だからあと一日。最後の日をください」

 それは手紙の中でもう一度再現される事になる。

 私は何も言えなかった。あの時感じた絆も一体感もどこかへ消え――ピーターパンを信じられなくなった大人のように、見えなくなってしまった――それでもそれは続いていると、勝手に思い込みながら、私は次の日、彼の家を後にした。

 その後、彼からの連絡はなく、時々展示会を開いているという噂だけを聞いた。一度だけ見に行ったが、そこにあった絵画に赤い枠はなかった。ただそれだけの印象しか残っていない。

 私は彼から何かを奪ってしまったのではないかと思った。赤い枠という彼の個性を奪ったのではないか、と。それは違うと、彼は手紙の中で言っている。

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