第3話

泊まる事になるとは思わなかったが、それをわかっていたように次の日は日曜日で休みだ。私は朝早く起こされ、そのままアトリエへ連れて行かれた。

「今日はキャンバスに描きます」

 一メートル近くあるキャンバスをイーゼルに立てかけ、彼は早速描き始めたが、私はまだ寝ぼけ眼だ。

「あ、すみません。そこにコーヒーとパンがありますから、食べながらで大丈夫です」

「動いていてもいいのか?」

「はい。動いてもらったほうが、暖かいものが描けそうな気がします」

 意気揚々とした顔は、しかしすぐに崩れてしまった。

 パンを食べ、コーヒーを飲みほしてまどろんでいると、彼は突然泣き始めてしまった。音もなくほろほろと涙を零し、拭う事も忘れて筆を止める。筆からも茶色い絵具が零れ、床に滴った。

「やっぱり描けない……。先生は何者ですか」

 彼が言うような大層な人間ではない事は確かだ。ただの教師で、独り者で、まだ人生の半分も生きていない。褒められるような人生でも貶されるような人生でもない。どこにでも転がっている石よりも簡単に生きてきた。

「あなたという輪郭も中身もわからない。その目は、鼻は、口は、体は、骨は神経は血管は筋肉は細胞は何で出来ているのですか」

 筆がからん、と落ちた。彼はようやく涙を拭い、鼻をすする。立ち上がろうかと思ったのだが、彼は新しい筆を取り出した。

「僕はなんでも見えてしまう。なんでも見えてしまうから、表現に行き詰ってしまった。驕るわけではありませんが、大抵、数枚スケッチをすれば毛穴まで理解できます。なのに先生はわからない。何枚描いても印象が重ならない。僕の思う先生にも先生自身にもならない! こうして照らし合わせていけばいくほどずれて、最初はほんの数ミリだったはずなのに今では数メートルも違う、まるで別人になってしまう。永遠のずれがあります」

 彼は絶望し、両肩を震わせた。涙は止まらず、青い目のせいで海が零れ落ちているようにも見えた。絵具にまみれた指がキャンバスをなぞり、描いた線を消す。手にべっとりと絵具が付いても、彼は気にしなかった。油の臭いが一層強く鼻を刺す。

「もっと描かなくては。もっと描き続けたい。先生、先生の時間はあとどれくらいありますか。お願いです、僕に時間をください。先生の時間をください。少し把握するだけでいいのです。先生を描く時間をください」

「今日は一日空いているが……」

「一日じゃ足りない。けど、何年もはかかりません。だから……この家に住んでください。先生の一日を僕に見せてください」

「しかし、仕事が」

「学校は、もちろん行ってください。先生は先生ですから、普段通りでお願いします。それに、教師をしている姿は学生の頃に見ていますから見ずとも大丈夫です。もちろん、本当はそれも把握したいのですが……」

「だが、」

「お願いです……。絵画のためにこんな馬鹿げた事を言ってすみません……けど、僕にはこれしかありません。描く事でしか生きていけません。声も頭も耳も体もいりません。描く事だけ残してくれれば、それでいいんです。それだけが僕の人生なのです……」

 懇願というより、彼は命を削って言葉を吐いた。それは赤い枠に似ていた。

「何かになりたいわけじゃないのです。生きていきたい、それだけです。そのために絵画はなくてはならないのです」

 彼が羨ましい。なぜそこまで深く思う事ができるのか。私には何もない。何もなくても生きていける。生きる事は、そういう事だと思っている。思わなくては、何かに躓いてしまう。

 彼は私を描きたいという。私に存在を与えようとしてくれているのかもしれない。何もないから。彼は私の色を作ってくれる、そんな妄想が過った。

「わかった。長くはいれないかもしれないが、とりあえず付き合うよ」

「先生……やっぱり優しい。きっと描いてみせます。先生の事を」

 彼はその辺にある布で顔をごしごし拭い、絵具まみれになりながらようやく笑った。……うまく絆されてしまったが、それもいいだろう。彼のために。私のために。

「先生の優しさすべてを描けるように、もう一枚描きますね。この絵は冷たくなってしまった。石膏像のようです。もっと暖かくしたいのに」

 冷たい私が描かれたキャンバスを壁に置き、新しいキャンバスを取り出す。失敗だというキャンバスには、確かに私がいた。

 怖いぐらい、私じゃないか。十分も経っていないのに、私がここにいるじゃないか! 寝ぼけた顔も食べている仕草も私そのもの。私が持つすべてがそこにいるというのに! それを否定され、じゃあ私はなんなのだろうか。彼の見る私とは。

 途端にぞっとした。急速に生気が奪われる。けれど保たなければならない。持っていかれてしまえば、私はただのモチーフと化してしまう。きっとこれは、私と彼の戦いに違いない。そう、思うようになっていた。

「先生」

 彼は筆を動かしながら、上目で私を見る。まるで犬のような仕草に少し笑ってしまった。

「出来れば、僕の友人になってください。モデルとしてではなく、友達に。今すぐとは言いませんが、少しずつ……歩み寄れたら嬉しいです」

 邪気がない人間というのはややこしい。戦いたいのに戦わせてくれない。

「いいよ、ソレイユ」

「ありがとうございます、先生。こんなにいい人に巡り合えて僕は幸せです」

 恥ずかしい台詞も難なく言い、彼はキャンバスに没頭した。

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