第4話
それから、彼との日々が始まった。手紙のほとんどに書いてある私との生活。よっぽど嬉しかったのだろうと、あの時の彼と照らし合わせながら読む。私の癖、言葉、彼はよく覚えていた。彼の事は私も強烈に覚えているが、それでも薄らぐ記憶もある。けれど彼はすべてはっきり覚えていた。夏の水の匂いが強烈に蘇る。
※※※
私が椅子に腰かけている間。食事をしている間。本を読んでいる間。入浴をしている間……は、さすがに困惑したし、トイレまでは付いて来なかった――寝ている間。彼の手は止まる事がない。
一日、一日、いや、一時間後でも彼の腕は速さを増し、精度を上げる。鉛筆もスケッチブックも片時も手放さず、毎日五冊と五本は消費していた。私はそれを見る度、自分の肉が捨てられていくような錯覚を覚えていたが、すぐに振り払う癖を身に付けた。
私が仕事をしている最中は描けないので、彼は悔しそうに、
「教師である先生がヒントかもしれない。ああでも学生の頃描いたけど、それも描けなかったしなぁ。でも今なら描けるのかなぁ」
「四六時中張り付いていたら、ストーカーとして捕まるよ」
「もうすでにストーカーですけど。怖いものはありません、とはいっても、警察に捕まっては描く事ができません」
「だから我慢するんだ」
「はい……わかっています……けど、悔しいです」
話すうちにわかってきたが、彼は私の予想以上に子どもらしい。見た目はすっかり青年なのだが、表情も仕草も子どものそれだ。私が教えている生徒たちよりも幼い。
「この顔つきは今までの中で一番マシかなぁ。どうですか、先生」
いくつか描かれたキャンバスのうち、彼にとっては描きかけでも、私にとっては完成している作品を取り出す。他の作品同様、謎の素材で出来た赤い枠に両手足を突っぱねた私がいる。毛穴一つも取りこぼさず描いた私は私以上に私なのだが、それでも彼は満足していない。
「この私は表情がないね」
ほとんど作品には苦悶があった。けれど私を描いたものはゼロの顔つきをしている。
「とりあえずですが、なしにしたのです。表情一つ取っても表現になり、僕の目指すところとは違う方向へ行ってしまいそうなので、無にしたのです。それがよくないのかなぁ」
彼は私の買ってきたホットドックにかぶりつき、咀嚼しながら筆を回す。私も同じように齧り、紅茶を飲み干す。彼は片手で持てるようなものしか食べないため、ほとんどがホットドックだった。こうして二人で食事を取るのは珍しい。彼は、自分の中の絵画スイッチが切れないと食事をしようとしない。食べる間すら惜しいのだと言い、食事をしている私を凝視して描き続けている。今日は偶然、スイッチが切れた。けれど彼の頭は絵画一色だ。食べ終わる頃には、スケッチブックを取り出していた。
「だんだんですが、先生の外見は把握できました。中身まで見る事はできませんが、それだけでも大きな前進だと、思いたいです。完成形がもっと浮かべば早いですが……」
「絵には設計図がないのか?」
「僕の場合、ありません。頭の中に何度も完成図を描き、それがはっきりとした形になったら描き始めます。今回は完成形がまだ曖昧なので、とりあえず手を動かしている状態です」
「そこまで私は複雑か? 宇宙人よりは簡単だと思うが……」
「宇宙人! 未知なる生き物と同じぐらい、先生は未知ですよ。宇宙人は想像で描けて正解がないけど、僕には先生という答えが予めある。完成が楽しみです。これをクリアすれば、僕は別の道を見る事ができるかもしれない」
「君の表現は今とは違うのか?」
「先生は好奇心旺盛ですね。今の表現……これはどことなくゴールが見えてしまう。描き切ったらおしまいのような気がするのです。他の表現をしたくとも、僕の目が異常なのでなかなか入れません。その境目に先生がいるのです。だから、この壁がなくなった時、もっと違う絵が出来上がる気がして」
ここで笑顔を咲かせるのがソレイユなのだが、今日はふと視線を落とした。
「けれど、僕は信じていた目に裏切られた気分です。あれほど見過ぎていた目なのに、先生となるとまるで役に立たない」
ソレイユの笑顔が戻る。落ち込みを見せた以上にぱっと明るく咲いた。
「それ以上に、楽しい! 描く事がこんなにも楽しい事だなんて、心から実感できたのはいつ以来だろう。やっぱり絵が好きなのだと思えました。描く事とは、こういう事なのだろうと、体中で実感しています」
紅茶を一気に飲み、筆を持つ。ほとんど着色を終えたキャンバスに、赤い絵具を塗りたくり、赤い枠を作る。今度の私はどんな顔になるのだろうか。
「絵画は基本一人です。こうして誰かと一緒に模索するのもいいですね。食事も美味しく感じる」
「それはよかった。食べる事は基本だよ」
彼は口の端で返事をして、絵画に没頭した。
「先生の顎は細め……尖っているようにも見える……体格はそんなに大きくないが、手足は大きい……肩が大きい。着やせするタイプですね。足首は細め……」
そんなことをぶつぶつ言いながらやるから、どうにも恥ずかしい。思うだけでも顔に出てしまうらしく、彼は何も言わずににやりと笑うだけだ。
こんなにも誰かに見られる事も、把握される事もない。彼と同じように、私も誰かといる面白さを感じている。家族や友人、恋人とは違う、別の繋がりを感じる。作者とモチーフではなく、同一の空間を共有している双子のような糸が私たちの間に生まれる。
「先生、何を考えていますか?」
「いや……なんでも。そういえば、君は働いていないようだけど、絵具の資金は大丈夫なのか」
「先生」
珍しく彼の筆が止まった。見れば、彼は拗ねているらしく、口をへの字に曲げた。
「僕、最初に言いましたよね。画家だって」
「あ」
「ちゃんと売っていますよ、絵を。これでもそれなりに売れているのですよ」
これを失言と言う事を、身を持って実感したのだった。
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