あの時がなければ、僕は。

タチヅキ シホ

第1話

 僕は一度、魔法に救われたことがある。


 あの頃は、ただ死にたかった。中学三年生だった僕は、冴えなくて、いてもいなくてもわからないであろう存在だった。クラスで班分けする時はいつも余って、クラスメイト達が僕を受け入れたがっていないことが、空気を通じてひしひしと感じられた。唯一、属していた社会で受け入れられないことが辛かった。

 そんな中、彼が現れたのだ。魔法のような彼は突然僕の部屋に降りたった。その時僕は、自室で机に向かい、授業の予習をしていた。独りぼっちの人間が、授業で当てられて答えられなかったときのいたたまれなさは想像以上だ。注がれる視線は、実体があるかのように僕に刺さる。忘れ物だってするわけにはいかない。「隣の人に見せてもらいなさい」先生のその言葉は、救いになるどころか余計に僕の居心地を悪くする。きっと隣の人は、最悪、としか思わない。

 そうやって僕は、教室で息を詰めるように過ごしていた。そんな僕の部屋に、勉強机に座った僕の背中側にあるベッドの上に、彼は降りたった。一切音を立てなかったから、気づかずに黙々と勉強していると、彼は話しかけてきたのだ。「ねぇ、いつまで勉強してんの」と。

最初は、独りで過ごしすぎて、誰かの声を求めすぎて、幻聴が聞こえたのかと思った。けれどもし、そこに何かいるのなら……、それは幽霊か何か、その類いのものだ。窓は閉まったままだし、ドアだって一度も開いていないはずだ。振り返るのが怖くて、シャーペンを持ったまま固まる。するとまた、

「なに、無視ししてんの。聞こえてんでしょ」

 後ろから声が聞こえた。頭の中でどうしようという言葉だけが、ぐるぐる回ってる。このまま振り向かず、部屋から出るか。いや、難しい。なんでこんな、ドアから一番遠いところに机を置いてしまったのか、今更後悔する。

「ビビってんのはわかるんだけど、こう、無視され続けるのも虚しいからさ、とりあえずこっち向いてくれない?」

 また聞こえた声に、もう逃げられないことを悟る。覚悟を決めて、少し、ほんの少しだけ振り返った。すると、視界の隅に人間の足らしきものを捉えられた。でも、もしそれより上が、特に顔が妖怪のように恐ろしかったら、と恐怖を覚え、薄目で、もう少しだけ振り返る。そして、姿が完全に視界に入ると同時に目を見開いた。

 茶髪で、イケメン俳優としてテレビで活躍しそうなほど整った顔の男がベッドの上で寝転んでいたのだ。妖怪じゃないことにひとまずほっとするものの、幻覚まで見えるようになっては、もう末期だと思った。そこへ男が続けて口を開く。「言っとくけど俺、幻覚じゃないからね」って。そう言うと男は立ち上がり、こちらへやって来る。僕は恐怖で声が出てこなかった。動くこともできずにいると、間もなく男が横に立ち、そして、僕の肩に触れた。きちんと感触があって、ビクッとなった。肩が、体が縮こまる。

そんな僕に彼は、

「怖がらなくていい、俺はお前を助けに来た」

確かにそう言った。春の日射しのような心地よく温かい声だった。


 それから男と話しをした。はじめは話さざるを得ないという感じだったが、久しぶりに両親以外と会話出来たことが嬉しかった。彼は、高野たかのと言うらしい。高野は、僕のことをほとんど知っていた。名前も、年齢も、通っている学校も、僕が今までどう生きてきたかもすべて。そして、僕が死にたいと思っていることも。

 その日から、高野は気づけば部屋にいた。いない時もあるけれど、大抵はベッドの上にいた。

 高野はよく歌を歌っていた。その歌は、日々に不満を抱いていて、自分を認めてほしくて、自分を愛してほしくて、何より自分自身が自分をそうしたい、そんな歌だった。そして僕は、その歌が好きだった。どうしようもなく僕を苦しめるけど、それは僕の気持ちを代弁しているような歌だったからだ。そうだよ、そんなんだよ、って共感して、そうやって共感できることが嬉しかった。こんな風に思っているのは、僕だけじゃないんだって思えた。

 高野とは、なんでもないような、明日になれば何を話したか忘れてしまうような話をいくつもした。さっき見たテレビの話とか、最近は雨が続いていて過ごしづらいだとか、他愛もない話だ。それでも僕にとっては、数少ない心地よい時間だった。といっても、心地よい時間は全て高野がもたらしてくれていたのだけど。なにもない僕には、たとえ正体がよくわからない相手でも、そこにいて、話してくれることが嬉しかった。そして、高野と話している間はいつの間にか、その気持ちに浸りすぎて独りだということを忘れていた。


 高野が現れてからしばらくして、僕は予習を怠り始めた。予習よりも、高野と話すことが楽しかった。その結果ある日、授業で答えることが出来なかった。本当にいたたまれなかった。「わかりません」と、しんとした教室に僕の声が響くことが苦しかった。息をすることすら憚られた。予習を怠ったことを後悔した。けれどその後、まあいいやって思えたんだ。不思議だった。今までなら、答えられなかったことが頭をぐるぐる回って、他の子達から、独りのくせに勉強もできないのかよ、と思われているんじゃないかと不安だった。でもその日は、そこまでひどくなかった。なにやってんだ、って思われたかな? その程度だった。

 また別の日には、教科書を忘れた。隣の子に見せて、と頼むことが出来た。なぜかは分からなかった。でも、断られたとしてもいいやと思えた。一度、頼んでみようと思えた。その子は僕に話しかけられたことに驚いた様子だったけど、「うん」と言って見せてくれた。その言葉を聞いたとき、僕の胸にふわふわとした温かい気持ちが広がった。

 そんなことがあって、自分が変わってきていることに気づいた。そして、それが高野のおかげだということもなんとなく気づいていた。失敗しても、高野に聞いてもらえばいい。高野は僕の失敗よりも、さらに大きな自分の失敗の話をしてくれて、僕に起きたことがちっぽけなもののように思えた。高野の話が本当かどうかはわからないけれど、それでも僕の支えだった。

 それからどんどん僕は変わっていった。班分けの時だって、人数が足りていなさそうなところに一緒になってくれないかと頼むことができた。そしてなにより、その班員と仲良くなることができた。飛び上がるくらい嬉しかった。学校で、教室で、話す相手がいる。笑い合える仲間がいることはこんなにも、心地よくて嬉しいのものなのかと気づいた。高野に、心の底から感謝した。

 高野が現れてから4ヶ月程が過ぎたとき、高野はもう僕のところには来なくなると言った。

「お前はもう、一人じゃない。生きていける」

高野はそう言った。他にも行かなければ行けないところがあるらしい。どこだよそれ、どこにあんだよ、そう思ったが、そもそも僕のところに現れたのも突然のことだった。一応、行かないでほしいとは伝えたけれど、次の日から高野は二度と現れなかった。

ありがとうって、いい忘れてしまったじゃないか。助けてくれてありがとう。光を与えてくれてありがとうって。


 突然現れた彼は、僕に魔法をかけて去っていった。きっと魔法じゃないことはわかっているけれど、少なくとも僕にはそう感じられた。

 もしかしたら、いや、必ず、高野は今日もどこかで、誰かに魔法をかけ続けているはずだ。どこかで、誰かを救い続けている姿が目に浮かぶ。

 苦しんでいる人の前に、高野が現れますように。高野なら、きっと多くの人を救える。あの頃の僕には真っ暗だった未来が、高野に光を与えてもらったことで見えるようになったから。

――ありがとう、高野。

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