第9話 みんな泡の中
『あら、アンタ寝てたの?』
部屋は暗く、街や月の灯りがサッシから入ってきていた。時計を見れば、まもなく日付が変わるくらいの時間。
そんな時間に掛けてきておいて、そんな言い方をする。さすが母だと感心した。
香奈枝はずっとベッドに潜り込んでいた。
水を飲みにと、トイレに行く以外は、ベッドの中だった。下はパンツ一枚、上はタンクトップのみ。シャワーすら浴びておらず、髪はボサボサ。顔の手入れもしていないから、鏡を見る勇気が無い。
ただスマートフォンを、枕元に置いていた。
そんな母からの電話に、香奈枝はスライディングする勢いで飛びついた。そんな自分を嘲笑いたくなった。
「ここんところ、会社、休んでいるからね」
『あらやだ。アンタ具合悪いの?』
「まあね」
『そうなの。ところでね、またちょっと融通して欲しいんだけど』
――またお金の話。
香奈枝は「あはは」と声を出して笑った。具合悪いと休んでいる娘に、心配の言葉も無い。
『何よ、何がおかしいの?』
さすがに気に障ったらしい。それまではその反応をされるのが嫌だった。だからいくらでも、ホイホイ金を出してきた。
「ムリよ」
『えっ?』
「私、会社クビになるもの! もうお母さんのためには一銭も出せないのよぅ」
まるで歌っているみたいに話している、と香奈枝は自分で思った。受話器の向こうで母が何かをわめいていたが、すでに香奈枝には言語として届いていなかった。
『それじゃアンタ、この先どうすんの!』
「知らなぁい! じゃあね!」
そう言って、香奈枝は電話を切った。すぐにまた母からかかってきたが、香奈枝はなんとかスマートフォンの操作をして、母の番号を着信拒否した。
「ああっ! せいせいした!」
香奈枝はひとりなのに、わざと大きな声を出した。
が、思ったよりもすっきりしなかった。そこへ今度はメールを着信した。
『おねえさん、どうしたんですか?』
弟の義明の妻、美沙からだった。彼女とメールアドレスを交換していたことを、香奈枝はひどく後悔した。
返事を出さないで放っておくつもりだったが、スマートフォンは次々とメールを着信していた。
『困ります』
『おかあさんの生活費は、これまで通りいただけますよね?』
『大河もこれからお金がかかるんです。またおねえさんに何かあっても、うちに寄りかかることだけは考えないでください』
香奈枝は文面を見て、大笑いした。
義妹からは好かれていないとは思っていたけれど、ここまでとは!
「いっそ清々しいわぁ!」
これもわざと大声で言った。
自宅謹慎になってからというもの、香奈枝はひとり言が増えた。
スマートフォンはまたメールを着信する。今度は違う着信音、甥の大河だった。
『この前頼んだゲームは、買ってくれるよね?』
「バッカじゃないの!」
今度はスマートフォンを、投げようとした。――が、思い止まった。
母の電話と同様、義妹と甥のメールを着信しても反応しないように設定した。
その後数件着信していたが、香奈枝は無視してベッドに潜り込んだ。
スマートフォンの電源を落とすことはしない。しかし。
今日まで誰からも連絡が無かった。
(冷たいわよね)
認めたくない。
認めたくないけれど、これは――。
その日の昼下がりに、会社から電話がかかってきた。
『やあ、渡部だ』
部長からだった。
警察署の前で別れてから、沢村からは一切の連絡が無かった。
(彼が連絡を寄越さなきゃいけない義理も無いんだけど……)
心配してくれていると思っていた。自分でも都合のいい話だと思う。
これまでも、一切、誰からも連絡が無かった。上司や同僚、後輩、部下たち。
そして隆や、孝からも。
ついに翌日から出勤。再出発だというこの日に、やっと部長から電話がかかってきただけだった。
『明日から出社だったね』
「はい」
『さっき、人事異動の内示があったんだよ』
「えっ?」
『来生さんは、来月頭から門司営業所へ転勤になったから』
驚きのあまり、一瞬息ができなかった。
そしてすぐに、(ああ、クビよりマシかもしれない)と思った。
三十八歳での就職活動は、容易ではない。幸運にも見つけられたとしても、今と同じ生活は出来ないだろう。
しかし気持ちの半分以上を、ざっくりと抉られた感じがした。
門司営業所は、所長や事務員入れても十人足らずの小さな営業所だと聞いている。昨年の末にできたばかりで、上がって来る売り上げの数字は芳しくない。従業員の入れ替わりも激しく、いつ閉所してもおかしくないと言われている。
実際、「どうせすぐ無くなるんじゃないの?」と、香奈枝も言っていた。
『左遷とかじゃないからな。これまで売り上げが伸び悩んでいるところに、キミに行ってもらって、喝を入れてもらおうって話になってな』
フォローしているようでいて、出来ていない。
きっと自分は笑われる。
自分のことを嫌っている後輩たちに、嘲笑されるだろう。
(私もしてきたことだけど……)
因果応報。あまりの皮肉さに、笑いしか出てこない。
それ以来、体に力が入らない。
レイや沢村に対して真摯な気持ちでいようと、背筋を伸ばしていたのに、崩れてしまった。それから、どれくらいの時間が経ったかわからない。
義理の妹や甥からのメール拒否の設定をしてから、香奈枝はなんとか立ち上がった。それからゆっくりと、部屋を見回した。
こだわって探した、ワンルームマンション。
妻帯者の隆と付き合い出して、結婚には希望を持たなくなった。もう子どもも生まない。なら、住まいくらいはこだわろう――。
(こんな部屋、あっちには無いだろうな)
それでも早急に新しい部屋を探して、出て行かなければならない。出て行きたくないのに。
(……そうだ)
香奈枝は玄関に置いたままにしていた、太字チョークを持ってきた。
そしてリビングに横たわり、自分の周りに線を書き始めた。
まずは上体を起こして、足元を囲う。しかしそれだけでもつらい。体が柔らかくないと、届かない。
(私のいた場所……)
しかし、右側の太腿の横に線を描いただけで、止めてしまった。考えてみれば、自分の人型は、自分で描いたことが無かった。ずっとレイに描いてもらっていた。
(そういえば、レイくん、どうしたろう?)
この日、初めて思い出した。
自分で冷たいと思った。さっきまで沢村たちのことを冷たいと思っていたのに。
その後、まったくどうなったか連絡がない。ニュースになっていないから、死んではいないだろうとは思っていた。
あの翌日は、だから沢村に何度もメールをしようとした。
だが、送信ボタンを押すことが出来なかった。警察から沢村に連絡が来ているとは限らなかったし、仕事中である沢村の邪魔をするわけにはいかなかったから。
仕事が終わった頃の時間だと、同僚たちと飲んでいるかもしれないし、自宅だったら妻に悪い。
隆の妻からも、その後、何もアクションは無かった。何とか誤魔化せたのだろうが、彼女のあの様子から、自分がやってきたことの罪の大きさに、香奈枝は初めて気がついた。
嫉妬心や不信感。沢村の妻に、それを味合わせてはいけない。
(もし沢村さんが独身だったら、恋していたかしら?)
ふと、想像してみた。けれど、どうしても彼の隣には彼の妻が並んでいる。
(レイくんが男の子だったら……)
十六歳だった。だが小学生と思っていたわけで、その時点で考えられなかったし、十六歳でもダメだろう。
どのみちふたりとも、香奈枝のそばに、ずっといられるひとたちではない。
(――あ)
気がついてしまった。
(私は、孤独、なんだ)
ずっとそれは感じていた。
身内からは、金蔓扱いされている。
母は父が死んだあたりからそうだった。
甥も気がついたら同じ。
金を出すから、寄ってくる。
職場の後輩たちは、自分が上司、または先輩だからそばにいただけで、慕ってくれていたわけではない。
隆は結局自分ではなく、妻を選んだだけ。香奈枝が“浮気”相手だ。孝も、物珍しさで年上と付き合ったのだろう。
誰も悪くはない。むしろ、自分からそうなるように、仕向けてきた。
(どうせ、私なんて誰も愛してくれないんでしょう?)
だから、あなたに対してこういう扱いをしてもいいでしょう?
だから、こんな態度でもいいでしょう?
それで友だちも居なくなった。
誰のせいでもなく、香奈枝が自分を対等に扱われることを、拒否してきた結果だった。
孤独に気づいた途端、彼女は身震いした。
(……こわい……)
孤独だということは、この世でたったひとり、だということだった。
それまでしっかりしていたと思い込んでいた足元が、突然弛んだ。
もう立っていられない。
(やだ……もうやだ……)
誰も味方がいない。その絶望感。
(……私の場所は、どこ?)
うずくまって、そう思った時だった。
「!」
突然、玄関で何かがぶつかる音がした。
「……なっ……何?」
香奈枝は身動き出来なかった。
その後、バタバタと誰かが去っていく音がして、その後は静寂が戻ってきた。あとは自分の鼓動のみが聞こえる。バクバク鳴っている。
(ひょっとして……)
隆の妻かと思った。自宅を調べて、嫌がらせに来たのだと。
(もう……やだぁ……)
子どものように、涙が出て来た。怖すぎて、その場から動けない。香奈枝は立ち上がることが出来ず、そのまま床を這いつくばって、部屋の奥に逃げようとした。
そこへ、スマートフォンが鳴った。
「ひゃっ!」
最初は電話が鳴っていたが、隆の妻から掛かってきた時のことを思い出して、スマートフォンを手に取ることすら出来なかった。
やがて電話が鳴り止んだが、今度はメールを着信した。
「ひっ!」
香奈枝は恐る恐るスマートフォンに近づき、震える手で持ち上げて画面を見た。「沢村」と表示が出ていた。
「な……なんなのよ!」
安堵と共に、怒りがこみ上げてきた。
(タイミングが悪すぎる!)
それでも怒りながら、香奈枝はスマートフォンのメールを開けた。
『こんばんは。玄関のドアノブに、差し入れを掛けてあります』
「え?」
香奈枝はメール文面と、すでに音がしなくなった玄関の方を交互に見た。さっきのは、沢村がドアノブに何かを掛けた音だったらしい。
ゆっくり立ち上がり、玄関へ向かった。そんなに広い部屋ではないのに、時間がかかった。
久しぶりにドアノブに手を掛け、ゆっくりと開けた。初夏とはいえ、ドアを開けると少しばかり冷えた夜の風が、部屋に入り込んできた。
「……あっ」
すぐに、外側のドアノブに、白いレジ袋が掛かっているのがわかった。
香奈枝はそれを手に取った。ずっしりと重い。それを部屋の中に持ち込み、すぐに鍵をかけた。
リビングに戻ってきて、レジ袋の中味を見た。中には、見覚えのあるアルミホイルの丸い包みが幾つも――とりあえず五個はすぐに確認できた――入っている。
「ひゃ!」
そこへまたメールが入り、香奈枝は飛び上がった。
『焼きタラコのおにぎりです。来生さんがずっと食べたがっていたと、レイさんから聞きました。うちのカミサンが作ったものですが、うまいですよ』
「え……」
一個を手に取り、開いてみた。中から、艶のある白米が見えた。
(……でも他人が握ったおにぎりなんて……)
そう思ったと同時に、腹が鳴った。
思えばここ数日間、まともに食事を摂っていない。
アルミホイルを完全に剥がすと、海苔が巻かれたきれいな三角形のおにぎりだった。少しだけ、磯の香りがする。
沢村の妻が握っているのを想像した。あの素朴でかわいらしい彼女が、小さな手なのに上手に、ギュッギュと握っている姿を。
不思議と、汚いイメージが無かった。
香奈枝は観念して、おにぎりに口を近づけた。
が、不意にレイの顔を思い出し、一旦止めた。
「い、いただきます」
レイに偉そうに「いただきます」を言えと言ったのは、自分。その自分が言わなくてどうするのか。改めて、おにぎりを口に運んだ。
「ん」
握り方がちょうど良いのか、冷めた白米の塊が口の中で解けた。米の甘さと、塩気のバランスがよく、思わず声が出た。
「おいしい……」
もうひと口食べると、中から大きな焼きタラコが出て来た。ちゃんとグリルで焼いたものらしく、焦げ目がついている。
それからは何も考えずに、香奈枝はおにぎりを頬張った。そんな食べ方は、子どもの頃ですらしなかった。途中喉につかえて水を取りに行ったが、それ以外は一心不乱になって食べていた。
四個目に手を出そうとした時、またスマートフォンがメールを受信した。また沢村だった。
『あのバス停のあたりまで来てください』
「あのバス停って……」
レイと人型を描いていた、あのバス停あたりのことだろう。
何故、沢村があの場所を知っているんだろう?
(――レイくん?)
香奈枝は急いでスウェットの上下を着込んだ。顔は洗っていないし、もちろんスッピンのまま。眉も書かなかったし、マスクもしなかった。サングラスもかけずに、突っ掛けサンダルを履いて、家を飛び出した。
深夜を回った住宅街は静かで、車の通りもほとんど無かった。
その中、香奈枝は走った。
本人は走っているつもりだったが、知らないひとからは必死に早歩きをしているつもりの徒歩に見える。しかし久しぶりに出歩くせいか、全身の筋肉がぎこちなくなっているのを感じた。
それでも走った。
そして角を曲がって、その光景を目の当たりにした彼女は、息を呑んだ。
「――はあっ?」
人型が描かれていた。
それもひとり分やふたり分ではなく、無数に。
広めの一車線。そのアスファルトの路面に、たくさんのレイと沢村が描かれていた。
そして今まさに、沢村が描かれ終ったらしく、レイが立ち上がったところだった。
「あっ!」
いち早く、香奈枝に気がついた。
彼――彼女は、Tシャツに半ズボン姿だった。両腕両脚に包帯を巻いており、それが痛々しい。
しかし表情は明るく、香奈枝に向かってとびきりの笑顔を向けている。手もブンブン振っている。
沢村もゆっくりと上体を起こして、香奈枝を見た。そしてニッコリと微笑んで、手を振った。
(やだ……これ、怒られるんじゃないかしら?)
ただでさえ、道路交通法違反。不安になるほどの、人型の数だった。
ふたりで描くのに、どれほど時間がかかっただろう?
黒い路面に、たくさんの白い人型。線がガタガタになっているものは、おそらく沢村が描いたものだろう。
痛快だった。
(泡みたい……)
いつかレイがそう言っていた。
たくさんの、泡、泡、泡。
泡人間。
母も、弟も、義妹も、甥も、同僚も、後輩も、部下も、友人たちも、隆も、孝も、みんな泡の中。
家族も、恋人も、友だちも、泡人間。
繋がりなんかすぐに消えて、目の前からいなくなる。
「……ピーポー、イン、ザ、バボー……」
先日、沢村がつぶやいた言葉を、頭の中で香奈枝もつぶやく。
(ヘンなの)
笑ってしまう。おかしい。沢村の発音も、泡の人々も、自分も。
その中に、ふたりが立って自分を見ている。
レイと沢村が。
ふたりが、香奈枝に向かって微笑んでいる。
(私にはふたりがいるじゃない)
恋人に去られ、家族にも見離され、ひょっとしたら仕事も失うかもしれない。この先どうなるか、さっぱりわからない。
けれど、このふたりが友だちで居てくれるのなら、どこに居ても笑みを自分に向けてくれるのであれば、もうさみしくはない。
(私は、まだ、大丈夫)
泣き出しそうな笑みを浮かべながら、香奈枝はそう思った。
(了)
ピーポー・イン・ザ・バボー ハットリミキ @meishu0430
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