第8話 助けを求める女と手を差し伸べる男

 救急車ではなく、沢村が乗ってきたタクシーに乗って、そのまま近隣の救急病院へと向かった。その車中、香奈枝は沢村に促されるまま、質問に答えていた。

 それしか出来なかった。

 後部席にレイを寝かせ、頭を香奈枝が抱きかかえる形になっていた。レイはガタガタと震え、ずっと何かを喋っている様子だったが、声が小さすぎてまったく聞き取れなかった。

「……つまり、来生さんはこの子が未成年だと知っていて、家に帰そうとはしなかったってことですね?」

 助手席に乗っていた沢村は、前を向いたまま尋ねた。

「ご、ごめんなさい。帰そうと思ったんだけど、この子が警察とか親に連絡するのを嫌がったから……」

「そういう問題じゃないでしょう!」

 沢村は、初めて香奈枝に対して声を荒げた。が、途中でそれに自分で気づき、「大声出してすみません」と謝罪した。

「事情はあるでしょうが、ちょっと面倒なことにはなると思いますよ」

「え……まさか、沢村さん、警察に……」

「そりゃ当然でしょう」

「困るわ!」

 香奈枝は取り乱した。レイだって警察沙汰は困ると言っていた。しかし香奈枝のその反応に、沢村はうんざりしたような声を出した。

「もっと困ったことになりますよ?」

「え……」

「どのみち、これから向かう病院から通報されると思います。本来ならこの時間にいるはずの無い子どもが、死にそうな状態で公道に倒れていたというんですから。そうなると、何でも正直に言っておいたほうがラクなんですよ。息をするように嘘をつけるひとならともかく、私たちみたいな凡人は、嘘をつくことに慣れていませんからね」

“私たちみたいな凡人”――ふだんの香奈枝なら、「一緒にしないで!」と激昂している。

 しかし言い返す気力も無いし、思いつきもしなかった。

 とにかくこの状況から逃げたい。

 きっと五分後にはレイは元気を取り戻す。

 そして自分は、何事もなかったかのように、振舞える。

 きっと連絡をすれば隆は会いに来てくれる。孝だって「やっぱ香奈枝さんの方がいい」と言って戻ってくる。不倫も“奥さんの勘違い”ってことで誤魔化せるし、カバンの紛失による個人情報の漏洩も、たいしたことは無いまま収束する――

「いたっ!」

 ふと、左腕に痛みを感じた。

 見ると香奈枝の太腿を枕にしていたレイが、自分の左の手首を掴んでいた。フルフルと震えながら、しかし力強く。

(レイくん……)

 無意識なのだろう。縋るように香奈枝の腕を掴んでいた。

 レイがまだ子どもであった、という当たり前のことの恐ろしさに、香奈枝は初めて気がついた。逃げたいと思った自分が恥ずかしくなった。

 関わった以上、この子を捨てて逃げることは許されない。世間よりも誰よりも、自分が許せない。

「……めんなさ……」

 思わず声が漏れた。レイを抱く手に力が入る。涙が零れた。

「ごめんなさい。レイくん、ごめんなさい」

 助手席に座る沢村は黙って前を向いたまま、行き先の救急病院に電話をかけはじめた。


 *


 タクシーはまもなく救急病院に着いた。

 レイはすぐに治療室に入り、沢村と香奈枝は廊下で待たされた。

(お願い、助かって……!)

 病院の廊下は、それまでいた夜の車道と比べるとただひたすら真っ白だった。

 こんな明るさの中で、香奈枝はレイと会ったことが無い。だからか、ここにレイがいることに現実味を感じなかった。

 ひょっとしたら、明るい中でレイと話す日は二度と来ないかもしれない――そう想像した途端に、体がブルッと震えた。

 廊下には長いベンチが設置されており、沢村と香奈枝は、間を開けて座った。

 治療室の中からする物音と、どこかの病室からのナースコール、誰かがパタパタと廊下を走る音。大きな病院では何かしら音が聞こえてくるが、それでも感じる静けさが香奈枝には恐ろしかった。

「……来生さん」

「!」

 静かな中、不意に話しかけられ、香奈枝は怯えた。

 話しかけてきたのはもちろん沢村で、しかし彼はまっすぐ前を向いたままだった。

「私が以前勤めていた生保の会社を辞めた理由……話しましたっけ?」

 いきなり何の話だろうと思った。レイの心配をしたいのに、いきなり自分語り。「空気読め、バカ!」と思ったが、そう罵るよりも先に、沢村は続けた。

「日本法人への転勤で帰国して、それからしばらくした頃でしたか。アメリカから一緒に帰国した同僚がいたんですがね、彼が仕事鞄を無くしました」

「無くした?」

「酔っ払った状態で電車に乗って、鞄を網棚に載せていたんです。で、降りる駅で起きて、慌てて降りたら忘れていたと」

 これは、先日自分が鞄をひったくられた話に繋がると、香奈枝は気がついた。

「沢村さん、それは今話すことじゃ」

「聞いてください!」

 少し強い口調に、香奈枝はたじろいだ。

「……ご想像の通り、その鞄にはお客様の申込書が入っていたわけです。ちょっと告知事項の多いお客様で、その告知書も一緒に」

 告知書とはこれまでの病歴について申告するもので、この内容によっては入れない保険もある。この内容に虚偽があれば、申込の撤回は免れないし、担当した外交員にもペナルティがある。

「そのお客様は二十代後半の若い女性でした。十代の頃に卵巣がんを患って、片方の卵巣を摘出していました。その後は転移も無く十年経って何の問題も無かったわけですが――だからたいしたことじゃない。わりとすぐに鞄が駅のゴミ箱に捨ててあったのが見つかって、申込書書類がちゃんと入っていたものだから、だから彼は何の報告もしなかったんです。私も知っていたのに黙っていた。見つかってよかったよかった、くらいにしか考えていませんでした」

「……」

「それから二年経った頃、突然そのお客様の親御さんから、彼のところにお怒りの電話が入りました」

「えっ?」

「そのお客様が自殺なさったとのことで」

 突然、話の中に“死”が織り込まれた。

「えっ……その告知書の入った鞄を無くしたのと、何の関係があるの?」

「それを拾った人物から、嫌がらせを受けたんですよ。書いてあった電話番号に電話を掛けてきて、“卵巣も無いくせに”とつぶやかれる。それも毎日――。あいにくお客様は婚約をしたばかりだった。もちろんご主人になる方には、片方の卵巣を取ったことは話していました。けれどそのことをずっと突いてくる、陰湿ないたずら電話だったそうです」

「そんなことって……」

 香奈枝は信じられずに沢村を見つめたが、彼の横顔はだんだん悲しげになっていくだけだった。

「お客様はそれで精神を病み、ついには自ら命を落とすことになってしまいました。

 同僚は会社から責を問われ、会社を辞めることになりました。彼もまた精神的に病んで病んで……何度も自殺未遂を繰り返して――まあ何とか乗り越えて、今は故郷で親御さんの介護をしているって聞きました」

 香奈枝は、自分の全身の血が引いたのを感じた。自分が持っていた申込書は大丈夫だっただろうか。

「今と違って、当時は個人情報漏洩問題について、体制が整っていない企業が多かったです。けれど事件が発生した時、会社として何か対策できたら――同僚は今もこちらでバリバリ働いていたし、お客様は命を捨てることは無かった……かもしれない」

 沢村は香奈枝の方に顔を向けた。

「一時的な苦境は乗り越えたかもしれない。何事も無ければいい。けれどしでかしたことについては、落とし前をつけなければならないんです。でないと繰り返してしまう」

 だから沢村は、前の会社を辞めたんだ。と、香奈枝は納得した。

 同僚の不始末を見逃したから、その責任を取った――落とし前をつけたのだと。

 できれば報告はしたくない。自分がこれまで積み上げてきたものが、無くなるどころかマイナスになる。

 けれどそれは、同時に自分の首を絞める結果にもなり得る。

(このひとは……)

 告げ口したんじゃない。

 自分を守ってくれたんだ。

 それに気づいた香奈枝は、自分を恥じた。

 自分は誰かを守ろうなんて考えたことがなかった。後輩どころか部下もいるのに。

 そして本来なら庇護しなければならない、レイのことすらも――。

「明日、お客様には部長と私がお宅にお邪魔して、事の次第をお話して謝罪してきます。何か起こった時、それがあると無いとでは、大違いですから」

 沢村は久方ぶりにニッコリと微笑んだ。


 そこへ治療室から看護師が出てきて、少し緩んでいた空気が一気に緊張した。

「お入りください」

 部屋に通されると、すぐにレイに気が付いた。ベッドに横たわるレイには、呼吸器が付けられていた。その姿を見て、香奈枝は「ひっ」と小さく叫んだ。

「どうぞ、こちらへ」

 入ったすぐ横にデスクがあり、そこ治療にあたったと思われる医師が座っていた。その前に椅子が二脚用意されており、促されるままふたりはそこに座った。

「腸の一部が、ひどく腫れています。そこから出血しているようです」

 まだ若そうに見える医師がそう言った。

「腸?」

「もう少し調べないとはっきりはしませんが、内臓破裂が疑われます」

「そ、それは車に轢かれたとか?」

 香奈枝が身を乗り出した。

「えっと、おふたりは保護者では無いですね?」

「え、ええ……」

「私は友だちです!」

 毅然と香奈枝がそう言うと、医者も沢村も驚いた顔をした。

「友だちなんです。今、彼がどうなっているのか、教えてください!」

「そういうわけには……まず家族に連絡を取らなければなりません。その連絡先はご存知ですか?」

 そう問われて、香奈枝は悩んでしまった。レイから聞いたことが無い。どのあたりに家があるかは聞いたことがあったが、憶えていない。そもそも苗字すら知らない。

「ご存じない。では警察に連絡をします」

「でも……あの、治療費は私が出しますんで!」

「来生さん!」

 沢村が香奈枝の突拍子も無い申し出を諌めようとしたが、余計な論議をしたくなかったらしい医師が、

「お静かに。そういう問題ではありませんから」

 と、ふたりを止めた。そしてひとつ、深いため息をついてから続けた。

「あの子は、虐待を受けていた形跡があります」

「え?」

 虐待。

 夜中に年端もいかない子どもが家を追い出されている状態は、確かに虐待ではあろう。けれどそれと今の重篤状態とどう繋がるのか、香奈枝にはわからなかった。

「今大量の血を吐いているのは、昨日今日受けた傷からではなく、その前に受けた傷からではないかと思われます。内臓破裂は軽いものであれば、痛みを感じない場合があります。ただし出血が続くと、それが次第に腹膜を圧迫します」

「ということは、あの子が普段から、誰かに殴られたりしていたってことですか?」

 医師は香奈枝の顔をジッと見た。

「あなたは、あの子の体を見たことは無いのですね?」

 思いがけない問いかけに、香奈枝は言葉に詰まった。病院という場でなければ、そんな趣味があるわけないでしょう?と怒鳴ってしまうところだった。

「それは、どういうことですか?」

 耐えかねて沢村が問うた。医師は言っていいのかどうか悩んだようだが、また息を吐きながら言った。

「あの子の体は、痣だらけなんです」

「え……」

 目の前が真っ白になった。

 悲しみか、絶望か、怒りか。

 どれとも判別できないし、そのすべてだったかもしれない。

「あの傷や、日常的に深夜に外に出されていたところを見ると、普段からの家庭での虐待が疑われます。この後は通報して、治療しながら警察へ身柄を預けます。おふたりには警察から事情聴取があるかと思います。どうかご協力ください。本日はお帰りくださって結構ですよ」

 医師はそれ以上もう言うことは無いと、ふたりに背を向けて何やら書類を書き始めた。

 香奈枝は呆然としたまま、そのまま椅子に座り続けていたが、沢村に促されてようやく立ち上がった。部屋を出ようとしたその時、

「お……」

 静かな治療室の中、突然擦れたような声が聞こえた。

 レイの声だった。見ると、治療台の上のレイが、香奈枝たちを見ていた。

「おねえちゃ……」

 香奈枝に向けて、その細い手を伸ばしていた。その時掛けられていたシーツがずれて、レイの肩から胸元が見えた。すぐに看護師によってシーツが掛け直されたが、痛々しく赤紫に変色した肌が見えた。

「レイく……!」

 駆け寄りたかったが、沢村に強い力で腕を掴まれ、外に連れ出された。

「来生さん、帰りましょう」

「でも!」

「もう僕らにできることは何もありません。帰りましょう」

「でもあの子、私を呼んで……」

「来生さん! しっかりしてください!」

 沢村の剣幕に香奈枝はビクッと体を震わせた。

 毅然とした表情で、沢村が自分を見ていた。

 それが、とても頼れそうに見えた。ずっと前に死んだ父よりも、隆よりも、孝よりも。

「沢村さん……何でだろう?」

 だから思わず彼に問いかけてしまった。

「えっ?」

「どうして、あんな、年端もいかない子を殴れるんだろう?」

 沢村は眉を顰めて、しかし香奈枝を責めるような顔はしなかった。

「どうしてでしょうね」

「ねえ、どうしてあの子、あんな時間に外に追い出されたんだろう? 親は心配じゃなかったのかな? 殴ることができるくらいだから、心配じゃなかったのかな」

 しかしそれを改善しようとしなかったのが、自分だ。この問いかけを言葉にしているのと同時に、それに気がついた。

「私のせいだ……」

「来生さん?」

「私がもっと早く何とかしていたら、あの子がこんな苦しむことなんて無かったのに」

 沢村は大きく息を吐いて、香奈枝の両肩をバシッと掴んだ。

「来生さん、確かに家を探すとか、通報していれば、何とかなったかもしれない。けれど、それを今言っても仕方ないんです」

「沢村さ……」

「起きてしまったものは、仕方ないんです。あなたのせいかそうじゃないか、今はもう関係ないんですよ」

 内容はまったく慰めていない。正論だ。

 しかし香奈枝には、それにすがるしか立ち上がる術がなかった。

 沢村に頼るしか。

「落とし前をつけましょう」


 *


 その翌日には警察から協力を求められ、香奈枝は沢村と一緒に警察へ赴いた。

 香奈枝は一睡も出来なかったが、体調は悪くなかった。

 いつもの、大きな仕事を取りに行く時に決まって着ている、あるブランドのビジネススーツを着込んで行った。

 レイに対して、誠実でいたいと思ったから。

 警察ではありのままに話した。道に転がって絵を描いて遊んでいたと話したら、「はあ?」とバカにされたような聞き返しをされた。が、背筋を伸ばして、毅然と答えた。

 深夜に徘徊する未成年者を通報しなかった、という点で厳重注意をされたが、それだけだった。逆にあっけないと思った。

 ただやはり、自分がしたこと(しなかったこと)の大きさに、慄いた。

 そして新たな情報に、香奈枝はひどく驚いた。

 レイの身元が判明していた。

 隣町のアパートに住む家庭の子どもだった。

 父親はおらず、母親との二人暮らし。母には恋人がおり、その恋人が自宅にいる時間、外に出されていたのだという。

 何よりも驚いたのは、レイが実は男児ではなく、十六歳の女の子であったことだった。

 しかし驚きと同時に、香奈枝は果てしない罪悪感に囚われた。

 レイは小学校の終わりあたりから、学校へは行っていなかった。義務教育であるはずの中学も、もちろん現在も高校などには通っていない。

 長いことレイは母親からぞんざいな扱いを受けていたが、近所で噂がたつ度に、母子は引っ越した。現在の住所にも、半年前に来たばかりだったらしい。

 誰に助けを求めることもできず、母親にも護ってもらえず、レイはずっとひとりだった。自分の居場所にも、惑うほどに――。

 その孤独を思うと、香奈枝は立っていられなくなるほどに、胸が苦しくなるのを感じた。

(私はどうしたらよかったんだろう?)

 通報するしかなかったとは思う。

 しかし通報したのにそれで終わらず、最悪の結果になったニュースで見て顔を顰めたのは、つい最近だった。レイもそのひとりになっていたかもしれない。

 怒りはある。

 けれど、自分が怒ることができる立場か?と問われれば、言葉に詰まる。

 楽しかった深夜のレイとの時間を逃したくなかったから、見てみぬふりをした。

 でもその頃からすでに、あのダボダボのシャツの下は痣だらけで――。


 警察を出ると、眩しい日差しが肌に痛かった。

 夏が来ていた。

「来生さん、お茶でも飲んでいきますか?」

 振り返ると、おそらくは自分と同じように、ほぼ徹夜で疲れた中年が立っていた。背が低くて、小太りで、頭が薄くなり始めている、冴えない中年男性が。

 しかし、愛おしいと思ってしまった。

 隆のような社会的地位も金も身長も無く、好みの顔でもない。

 孝のように年下のかわいらしさも、若さも無い。

 しかも、ちゃんと奥さんのいるひと。かわいい子どもも。

「――帰ります。沢村さん、仕事に行ってください」

「しかし」

「いいから。お客様への謝罪、ご面倒をおかけしますが、よろしくお願いします」

 丁寧に上体を折ると、沢村が戸惑っているのを感じた。その彼の瞳をしっかり見ながら、続けた。

「沢村さん、ありがとう」

 その時、香奈枝は自分が微笑みを湛えていることがわかった。心から沢村に感謝したい。その気持ちが素直に顔に出ている。彼にそんなふうに気持ちを表したことなど、これまで無かった。

「来生さん」

「沢村さん、この度はありがとうございました」

「……」

 沢村は、それ以上何も言わなかった。そして自分もちゃんと香奈枝に向き、上体をペコリと折った。

 香奈枝は笑顔のまま沢村に背を向けて、歩き出した。

 そうして離れないと、また彼に頼ってしまいそうだったから。

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