第7話 誤る女と告発する男

 駅前の交番に沢村が入ってきた時まで、香奈枝の頭の中はずっと真っ白だった。自分が呼んだことも忘れて、(何で沢村が来るの?)とまで思うほどに。

 持っていたビジネスバッグをひったくられた香奈枝は、とりあえず駅前の交番へと駆け込んだ。

 警察官に状況を説明するも、うまく言葉が繋がらなかった。

「ひったくりっ、今っ、改札で、ひったくりにか、か、カバン、仕事のカバンをっ」

 こちらが焦っているというのに、そこにいた中年の警察官はのんびりと「はい、落ち着いてくださーい」と書類を書き始めて、それがひどく香奈枝をいらつかせた。

 スーツの上着の中に、交通ICカードの入った定期入れと、スマートフォンがあった。その時点で香奈枝が持っていたのは、それのみ。

 早くクレジットカードやキャッシュカードを止めなければならないのに、頭がなかなか働かない。

「どなたか、ご家族の方を呼んでみてはいかがですか?」

 相手の警察官は、香奈枝が一人暮らしなどとは、少しも思っていないらしかった。困った香奈枝は、何故か沢村の電話番号を探した。最初に思い出したのは、さっきまで一緒にいたから。

 沢村のおかげで、銀行やクレジットカード会社への連絡がスムーズにできた。彼を呼んだ自分の判断は間違っていなかったと、香奈枝はぼんやりと考えていた。

(頼りになるわね……)

 他の若い女とデートしていたり、連絡が取れない恋人たちよりは、ずっと。

 ところが。


「え? 申込書が入っていたんですか?」 

 カバンの中身を思い出しながら書類に書き起こしていると、それを横から見ていた沢村が驚いた。

「ええ。代理店から預かった、お客様の申込書。今日はコピーだけど」

 だから問題無いと思っていた。しかし沢村は天井を仰ぎ、大きなため息をついた。

「そりゃ大変だ……!」

「えっ」

 沢村は自分のポケットから携帯電話を出して、操作し始めた。

「ちょっと、どこへ連絡するの?」

「会社ですよ」

「え?」

「渡部部長へ、ですよ」

「え、なんで? やめてよ!」

 思わず、沢村の手から携帯電話を叩き落としてしまった。彼の携帯電話は床に落ち、部屋の隅の方へ滑っていった。

 彼らの上司でもある渡部は、社の中で設置されている個人情報保護法対策室の室長を務めている。多くの個人情報を扱う企業がそうであるように、香奈枝たちの会社でも個人情報保護管理規程が定められている。

「何するんですか!」

「なんで会社に言うの? たいしたことじゃないじゃない! だってコピーだもの。第一どんな保険に入るかだなんて、引ったくりには関係ないでしょう?」

「しかし、これは個人情報漏洩案件です!」

「!」

 沢村の様子は尋常ではなかった。香奈枝は怯んだが、携帯電話を拾いに行った沢村の背中に向かってつぶやいた。

「そんな大げさな……」

 沢村は携帯電話を拾い上げ、振り返って毅然とした表情で香奈枝を見た。

「これは立派な個人情報漏洩事案で、私にはそれを会社に報告する義務があります」

「沢村さん、やめてよ! そんなことされたら、この間のコンプライアンス室からのこともあって、私の立場が!」

「来生さんの立場なんて、どうでもいいんです!」

「!」

 香奈枝は言葉を失った。

 それはそうだろう。彼女の立場など、沢村にはどうでもいいことだ。

(そんな……)

 だがここまではっきり言われたことは、これまで無い。

「あ、もしもし、渡部部長でいらっしゃいますか? 第一法人営業部の沢村です。あの、個人情報関連の事故が発生しまして……」

 目の前の男を、初めて憎いと思った。

 とはいえ、交番の中では沢村を殴るわけにはいかない。

(これから一体、どうなるんだろう?)

 不安だらけのこれからを想像するだけで、香奈枝はめまいで足元から崩れ落ちそうになっていた。


 *


 その日は警察に届けてあるということで、沢村から金を借りて、香奈枝は自宅へ帰った。

 途中、レイがいつもいるバス停のあたりをタクシーで通ったが、彼はいなかった。

 その後、夜があけて出勤するまで、ずっと眠れなかった。

 何も考えられない。玄関で、前日と同じスーツを選んだことに気づき、慌てて着替えたほどに。

「どうしだんだね、来生くん」

 出社してからは、まず部長からからかうようにそう言われた。

 客の申込書は代理店にあったから、問題なく申し込みは進めた。しかしこのままには出来ない。顧客に事の次第を伝えておかなければならない。

 さらにひったくられたカバンの中には、代理店数社のオフィスの座席票が入っていた。これも問題だった。該当する代理店に、この件についての報告と謝罪をしなければならない。

 しかし具体的な被害がまだ出ていないこと、警察にはすでに通報済みということで、これ以上こちらでは何も出来ない。

 香奈枝の処遇は、上の判断を待つこととなった。それまでは、通常業務をこなす。

 会議室から出てオフィスに戻った時、部屋の空気が一変したのがわかった。

 誰も自分と目を合わさなかった。

(まるで空気扱いね)

「お疲れさまでーす。ハンコお願いします」

 と言ってはくるものの、目を見て話さない。

「ありがとうございましたー」

 話しかける隙を与えずに、去っていく。

 ただひとり、沢村を除いては。 

「お疲れさまでしたー」

 沢村も聴取を受けていたらしい。香奈枝よりも少し遅く、オフィスに戻ってきた。

「……」

 香奈枝は返事が出来なかった。コイツさえ黙っていてくれていれば、という思いがまだ残っている。

「さ、各社にお詫びの電話をしましょう。それからお客様へ謝罪の電話。気が重いですが、ちゃっちゃとやってしまいましょう!」

 沢村は席につくなり、腕まくりをして受話器を持った。

「沢村さん、いいから」

「え?」

「いいから。私のせいですから、自分でします」

「いや、しかし」

「いいって言ってるんですっ!」

 自分でも思っていなかったほどの大きな声が出てしまった。瞬間、オフィス内が静かになった。

「……すみません。でも本当に自分でやりますから」

(誰のせいでこうなったと思っているの)

 紛れもなく自分のせいだが。

 あの時、沢村に電話をしたことを、香奈枝は後悔していた。

 そこで香奈枝のスマートフォンが震えた。メールを着信したらしい。

 スマートフォンを取り出し、ヒビの入った画面を見た。忘れていた。これの修理もしてもらいに行かなければ――

「!」

 メールは隆からだった。

 文面は、たった一行。

『逃げるなよ』

「えっ……」

(な、何、これ。隆?)

 驚きのあまりに声が出なくなったところで、目の前の内線電話が鳴った。

「は、はい?」

『一階受付です。駒田様がお見えです』

「こまだ?」

 記憶にある苗字。隆の苗字。

(え、なんで彼がうちに?)

 戸惑っていながら立ち上がると、内線の向こうから受付嬢とは別の女の声が聞こえてきた。

『来生さーん。来生香奈枝さーん? 駒田の妻でーす。逃げないでくださいねー。ぜーんぶわかってますからぁーあ、あはははっ』

 受付嬢から受話器を奪ったと見られる女――隆の妻の声は、最後の方は笑っていた。

 その声は受話器越しでも大きく、香奈枝だけでなく、周囲の者にまで十分聞こえていた。

『ウチのダンナがお世話になってまーす。シモの方のお世話もだなんてねー、頼んじゃいないのにねー。出てきてくださーい。逃げんじゃないわよ!』

 逃げるつもりは毛頭ない。逃げても意味が無いから。

 しかし香奈枝は受話器を持ったまま、そこで立ち尽くすしかなかった。

 部下たちや、沢村がどんな目で自分を見ているかなど、考える余裕は無かった。


 *


 いつものコンビニエンスストアに寄った。

(なんて一日だったのかしら……)

 ため息すら出ない。

 この日一日のことを整理するには、呆然としすぎている。

 個人情報の漏洩云々でのことは、まだよかった。カバンはまだ出てきてはいないが、仕方ない。

 まさか隆の妻が乗り込んでくるとは、夢にも思わなかった。

(そういえば、“逢いたいです”なんて、隆は書かないよね……)

 書くなら『会いたい』だ。 

 他人行儀なメールに寂しさすら憶えたが、おそらくあれは妻が装ったものだったのだろう。何も関係が無ければ、『何かあったんですか?』等、もっと無機質に返ってくる。しかし香奈枝は、うっかりと『ダメ』と返してしまった。

『逢いたい』と言われ、『ダメ』と返す。元々何か思うところがあって、夫の電話に出たのだろうから、そのメールのやりとりは、彼女にとっての決定打になったとしてもおかしくはない。

 会社に乗り込んできたのは、妻ひとりだった。

「上司を出しなさい」と言われたから、仕方なく呼んだ。

「夫が白状しました。あなたと不倫してるって」

 彼女はそう堂々と言っていた。

 だが、証拠が無かった。そのメールのやりとりは、前日の話だ。興信所への依頼もできないだろう。

 香奈枝は頑なに違うと言い張った。隆が白状したというのは、きっと妻のハッタリだと思った。だからそれは勘違いだと主張し、結果、彼女を帰すことに成功した。

 しかし、上司に言われた。

「キミ、明日から一週間休んでいなさい」

 個人情報漏洩――本来複写してはいけない書類を複写し、持ち運ぶには許可が必要な個人情報を、許可無く持ち歩いた。先日のコンプライアンス違反疑いのことに加え、さらに“社外の人間に疑いを持たれる行動をし、混乱を招いた”ということのペナルティとのことだった。

(一週間……そんなにゴロゴロしてなきゃいけないの?)

 有休は取れない。自宅謹慎だから、欠勤扱いになる。

(今月、ちょっとお金、まずいかもしれない)

 貯金は無いことはない。しかし潤沢にあるかと言われれば、そうでもない。これまで節約など考えたことは無かったし、しょっちゅう実母に小遣いをねだられて渡し、さらにまもなくマンションの更新もある。

 とはいえ、出勤を禁止されているのだから、仕方ない。次のカードの引き落としがいくらだったかを考えた。

 午前零時になるところだった。

 コンビニエンスストアのおにぎりの棚には、また焼きタラコのおにぎりが無かった。それどころか、値札も消えていた。

(何? もう置かなくなったの?)

 前日から見舞われた出来事の数々よりも、この方がショックだった。

(私はいつになったら、焼きタラコのおにぎりが食べられるんだろう?)

 香奈枝は仕方なく、他のおにぎりを三個買った。そしてペットボトルの日本茶二本と、レジ横に置いてあったドーナッツをふたつ。

「あの」

「は?」

 レジにいたいつものアルバイトの若者は、香奈枝に話しかけられるとは思っていなかったらしく、ポカンとした顔になった。

「おにぎり、あの、焼きタラコのおにぎりがいっつもないんだけど、もう入らなくなったの?」

 声に怒りの調子が篭ってしまい、アルバイトの若者も少々ムッとした顔になった。

「サーセン。わかんねっす」

「わからないって、アンタ」

 そこまて言うと、若者は横を向いてチッと舌を鳴らした。

(はあ?)

 まさか客相手に舌打ち? と想像もしていなかった態度に、香奈枝は何も言えなくなってしまった。

「八百三十五円でぇす」

 香奈枝は千円札を財布から出し、レジ台の上にバシンッと叩き置いた。

「釣りはいらないわよ!」

 商品をぶんどり、香奈枝は店を出て行った。冷静に考えれば、もうこの店のこの時間には来られないと思う。

(いい加減にしてよ!)

 何故こんな目に、と思う。これまで堅実に生きてきたのに。

 誰にも負けないように、出し抜けるように、必死だった。

 恨まれたこともあった。

(それでも皆、私の仕事を認めてくれていた)

――しかし、それは本当にそうなのか。

 香奈枝は、ハタと考えた。そういえば、自分についての陰口をトイレで聞いた時から、誰とも目を合わせていない。

(上司ってのは、煙たいものだし)

 部下に媚を売って、愛され上司を演じるつもりは毛頭無い。そんな馴れ合いは嫌いだ。けれど。

(……なんだろう、この感じ)

 胸の奥が、キュウっとした。切ないのではなく、首を絞められたような不快感。

(でも)

 自分にはレイがいる。

 彼はまだ子どもだし、香奈枝とは別に友だちというわけでもない。だが、これからレイと会えるというのは、とても嬉しかった。

(どうせ自宅謹慎だったら、夜中起きていられるし。もっとレイに付き合えるかもしれないね)

 そう思うと、気持ちが明るくなった。“不安”という砂浜に、小さく光る何かを見つけたような、喜び。


 コンビニエンスストアから自宅へ帰る途中、まだレイは来ていなかった。香奈枝はいつものように一旦帰り、午前一時を待った。

(やだ。一時ピッタリにだなんて、ものすごく楽しみにしているみたいじゃない)

 わざと三十分遅くして、香奈枝は自宅を出た。

 あのバス停が見える廊下の端に、足音を立てないようにして行ってみた。そこから覗くと、道路でレイが横たわっている。

(あ、もう描いてる)

 香奈枝はやはり足音を立てないようにだが、急ぎ足でマンションの外に出た。

(今日もお腹を空かせてるのかな)

 だから、ドーナッツまで買った。最近はおにぎりや調理パンだけでなく、菓子も喜ぶ。

 香奈枝はいつもの道を急いで歩いた。事態はよくは無いけれど、レイと会う時くらいは、笑顔でいたい。まるで恋人に逢いに行くような気分で――


「……え?」


 角を曲がって、バス停が見えた。

 レイは横たわったままだった。

(レイくん?)

 身に着けている衣服は確かにレイのもので、チョークを持った右手は、動いていなかった。

 香奈枝の足が止まった。

 眠ってしまっているのかもしれないと瞬時考えたが、有り得ない。いくらなんでも、この状況は交通事故の事故現場だ。

 だが、急ブレーキの音など、聞こえてはいなかった。

「あの……レイくん?」

 目を閉じている。こわごわと声を掛けても、動かない。

(ひ、ひき逃げ?)

 ありえないことではない。あまり車の通る時間帯ではないが、時折スピードを出した車が通る。逃げ遅れて、轢かれてしまうこともあるだろう。

「レイくん? レイくん!」

 横たわる体に触れ、声を掛けながら揺さぶった。

「ふ……」

 息が漏れる声がした。死んではいないらしい。香奈枝は安堵したが、それでも様子がおかしい。

「どうしたの? レイくん? どこか悪いの?」

 矢継ぎ早に質問をするが、答えは返ってこない。しかし表情は苦悶に満ち、額に脂汗をかいている。

「レイくん!」

「……お、おね……さ……」

「なにっ?」

 レイが震える手を、香奈枝に伸ばしてきた。手に持っているのは、いつものチョーク。

「こ……れで、ここ、書い、て」

「ええっ?」

 いつものように、そこにレイの人型を描けと言う。

「オレの、いた、ば、場所……」

「そんなこと言ってる場合じゃ……ひっ!」

 悲鳴が出てしまった。彼の顔の近くに、何か吐いたような黒い液体がある。口の周りも汚れている。

(まさか、血? え? ど、どうしよう!)

 香奈枝はスマートフォンを取り出した。画面にヒビが入って、まだ修理に出していないままの。

(誰か……誰か……)

 通話記録を辿る。そして目に止まった人物に電話を掛けた。

 幸い、数コールで相手が出た。

『はい、沢村です。来生さん? どうしました?』

 香奈枝は沢村に電話をしていた。寝ぼけた声で出た彼にいらっとしたものの、その時点では彼しか頼れないと思った。後悔したばかりだというのに、また頼ってしまう。

「沢村さん! お願い、助けて!」

『来生さん?』

「お願いだから、助けて!」

 香奈枝は震える手でスマートフォンを掴んで、叫んでいた。

 さすがに深夜に響いてしまったのか、近隣の住宅のいくつかの電灯がついた。しかしそんなことには構っていられなかった。

「沢村さん! お願い! レイくんが……!」

『レ、レイくん?』

 ただただうろたえ、香奈枝はひたすら沢村に助けを求めることしかできなかった。

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