第6話 シアワセな夫婦とひとりの女

 事は、顧客からのクレーム電話から始まった。

 古い保険商品から新しいものに換える際に、古い保険の方の解約が遅くなり、しばらく保険金が二重に引き落とされていたという。

 調べてみるとそれは事実で、代理店勤務のセールスレディのミスであり、さらに彼女からの確認を受けて回答した、香奈枝の部下のミスでもあった。

「アナタ、何年、生保やってんの?」

 思わず声が大きくなってしまったことは、自覚していた。

 周囲の視線――実際に見てはいないが、こちらに関心が集まっていることは、感じられた。

 この時、何と言って部下に注意したか、実はあまり憶えていない。

 孝と連絡が取れなくなった。

 隆とはデートがキャンセルになることが続いている。

 母や大河からは、行く度にお小遣いを要求される。

 そして、相変わらず焼きタラコのおにぎりを買えないでいる。

 そんなこんなで八つ当たりになってしまったことは、否めない。


(でもだからって、コンプライアンス室にチクるかな……)


 コンプライアンス室という部署が、香奈枝の会社にはある。コンプライアンスとは直訳すると、“法令順守”。一社員の犯した法令違反が、企業全体の信頼失墜になりかねない昨今、まず企業活動における法令違反を防ぐ目的で置かれている。

 香奈枝が今回問われたのは、パワーハラスメント。

 大勢の前で数分叱責した。その言葉の中に、人格否定に当てはまるものがあったらしい。

 香奈枝にはその自覚は無かったし、それはコンプライアンス室でも「そこまで?」と疑問視され、結果、香奈枝が厳重注意されるに留まった。

 叱った部下は、それ以来出社してきていない。

(私の方が大変だったのに。顧客に頭を下げに行ったのは、誰だと思っているの?)

 この件については、自分も上司から叱責された。だから未だに暴言は後悔していない。

 しかしこのこと以来、周囲がよそよそしい。

 休憩室に行くと、それまで集まっていた部下たちが何となく散ってゆく。それまで時折お誘いがあった飲み会も、ほとんど無くなった。

(まあ、元々そういうのに参加できる立場じゃないしね……)

 上司である自分が混ざってしまうと、言いたいことも言えないだろう。だから本来はいない方がいい。


「あれっ、来生さんは今日行かないんですか?」

 定時を過ぎて仕事の続きをしようとしていたら、沢村から声を掛けられた。

「今日って?」

「暑気払い。池袋のデパート屋上で、ビアガーデンが始まったっていうんで、田代さんたちと……」

 香奈枝はフッと呆れたように微笑み、

「私はいいわよ。皆さんで行ってください」

 そう言ったが、沢村は心配そうな顔で香奈枝を見た。

「何かお手伝いできることはありませんか?」

「手伝い? 必要ありません」

 自分の仕事――“聖域”に踏み込まれるのは、嫌だった。

「しかし」

「いいですから!」

 きつい言い方になった。空気が凍る。

「――すみません。いいから行ってください」

「はあ……」

 沢村は浮かない顔をして、オフィスから出て行った。これでようやっと“態度を作らなくて済む”と、香奈枝は安堵した。

 スマートフォンを取り出す。孝はもちろん、隆からも着信は無い。

(そういえばお母さん、旅行にはいつ行ったんだっけ?)

 十万を渡した。あれからひと月ほど経つから、もう行って帰ってきているかもしれない。しかし連絡は無い。

(おみやげも無いのかしら)

 母は昔からそうだった。

 世がバブル経済で浮き足立っていた頃、両親は頻繁に旅行に行っていた。香奈枝たち姉弟を置いて。

 みやげは一切無かった。「家族なのに水臭い」というのが理由。だから今回もそうなのだろう。

(無事に帰ってきたかどうかくらいは、知らせてくれてもいいでしょうに)

 香奈枝はスマートフォンを取り出して、母にメールを送ろうとした。が、途中で突然嫌になってやめてしまった。

 ふと周りを見ると、オフィス内にはすでに誰もいなかった。

(まだ七時じゃない)

 残業が深夜に及び、ひとりだったこともあったが、ここまでの孤独を感じたことは無かった。

 香奈枝は手にしたスマートフォンの、通話アプリを立ち上げた。そして記憶していた番号を打つ。連絡先の登録はしていない。けれど憶えてしまっている。

(隆さんに会いたい……)

 こんな感情を持つことは滅多にない。思わないようにしていた。

 けれど、たまにはいいのかもしれない。いつも感情を押し殺しているのだから――。

 電話がかかった。

「もしもし?」

「!」

 思っていたのと違った声がして、香奈枝は慌てて切電した。

 出たのは隆ではなく、女だった。

(奥さん……?)

 隆の結婚式に出席しているから、顔は知っている。声は知らない。こんな声だっただろうか。確か香奈枝よりも五歳年下のはずだが、その声は随分と老けていたように感じた。

(ダンナの電話に勝手に出るなんて)

 そんなに嫉妬深いから、浮気されるのよ――とまで考えて、虚しくなった。

 自分が“浮気相手”だと、改めて思い知る。

 香奈枝はスマートフォンを、デスクの上に置いた。と同時に、それが震え始めた。

「!」

 電話がかかってきていた。画面には、隆の電話番号。折り返しかけてきたのだろう。彼ではなく、その妻が。

 香奈枝はそのまま固まってしまい、震え続けるスマートフォンを凝視していた。

 やがて向こうが諦めたのか、震えが止まった。

 安堵してそれを仕舞おうと手にしたが、また震え始めた。

「やっ!」

 驚きのあまり、手からスマートフォンが零れ落ちた。それはそのままデスクの端にぶつかり、床に落ちた。それでもしばらく震えており、香奈枝はなかなか拾えないでいた。

 止まるまでの時間が、長く感じた。

「やだ……なんなの、もう」

 拾い上げると、画面にヒビが入っていた。

(ついてない……)

 何かが胸から溢れ出しそうになった。それに驚いて、唇をキュッと噛みしめた。


「来生さん」


「ひっ!」

 体全体が、驚きで跳ねた。

 振り向くと、そこには沢村が立っていた。

「さ、沢村さ……」

「あの、この後、お時間ありませんか?」

「え? あ、でも仕事……」

「今日はノー残業デーですよ」

「……」

 そんなものがあったかどうか思い出せない。ヒビの入ったスマートフォンは、死んだように静かなままだった。


 *


「今日は若いひとたちの集まりになりそうだったんで、遠慮したんですよ」

「……」

 上をTシャツ、下をジーンズに履き替えた沢村は、顔を洗ってきたのか、サッパリした顔で居間に戻ってきた。

(何で私がこんなところに……)

 混乱したまま、連れてこられた。

「いいトコロがあるんですよ」と言いながら、私鉄に乗って数駅。そこそこ大きな駅から歩いて十分ほど。

 公営団地……沢村の自宅だった。市営や都営と違って家賃は若干高めではあるが、それでも香奈枝のマンションよりは安いし、古い。

 香奈枝は、居間の大きなローテーブルに向かって座っていた。テーブルの上には、瓶ビールとコップ、そして小鉢が並ぶ。

 背後には、茶箪笥と本棚。その上に、沢村と彼の妻、娘の写真が飾ってあった。

「すみませんね、散らかっていて」

 沢村はおそらく謙遜でそう言ったのだろうが、実際物が多くて散らかっていた。子どものオモチャが多い。

「あの、奥さまは?」

 2DK。隣の部屋から気配はする。が、一応聞いてみた。

 訪れた時に、一応挨拶はした。沢村よりひと回り以上若いという妻は、美しいとかかわいいとか、そういった表現よりも、“素朴”が似合っていた。

「夫がいつもお世話になっております。たいしたことないものばかりですけど。どうぞごゆっくり」

 お世辞かどうか判断しかねる笑顔で、小鉢やビールを出した後、彼女は隣に引っ込んでしまった。幼く見えるが、おそらくは二十代半ば。その若さに似合わず丁寧な持て成しだった。

「隣で子どもを寝かせてますんで、気にしないでください」

 聞き耳を立てると、小さく歌声が聞こえてきた。子どもを抱き上げたまま、子守唄でも歌っているのだろう。空気が甘ったるく、そしてやさしい。

「さあ、どうぞ」

 沢村がコップを香奈枝に持たせ、ビールを注いできた。

「あ、はい」

 妙な受け答えになってしまった。と思いつつ、ビールを受け入れた。

 部下の自宅に呼ばれたのは初めてで――しかもその配偶者がそばにいる状態に、香奈枝は戸惑いを隠せなかった。

「はい、お疲れさまでした」

「あ、はい、お疲れさま……」

 ムリヤリ、乾杯をされた。

「どうぞどうぞ。カミサンのきんぴらごぼう、うまいんですよ」

 堂々と惚気られた。目の前には、ふだん縁遠い家庭料理。

 思い起こしてみれば、ここ数年は義妹の作るものしか食べていない。それもおいしいのかまずいのか、考えたことはない。彼女は香奈枝が寄るのがおもしろくないのか、冷めたままでも平気で食卓にあげる。味も素っ気もない。

 元々素人の手作りのものが苦手だから、味わうことなく飲み込んでいる。

(食べないわけにはいかないか……)

 ここで食べないで飲んでばかりいたら、ただの嫌なおばさんだ。

 香奈枝は諦めて、目の前の小鉢に入ったきんぴらごぼうに箸をつけた。ごぼう、ニンジン、ゴマだけのシンプルな作り。素材はささがきにしてある。

「ん!」

 それがなんとも美味だった。

 程よく甘く、しょっぱく、辛く、そして香りもよい。勧められるがまま香奈枝は食べ、あっという間に小鉢は空っぽになってしまった。

「おいしいわ」

「ふふ。これに惚れたようなもんです」

(また惚気)

 舌打ちしたい気持ちもあるが、それよりも、もう少しきんぴらが欲しかった。

「あ……」

 他の小鉢にタラモサラダが入っていた。タラコのピンクが美しい。

(そういえば、いつから焼きタラコのおにぎり、食べられないでいるんだっけ?)

 しばらく忘れていた。

 タラモサラダの小鉢を手に取り、箸で口に運んだ。

(おいしい……でも)

 これではない。

「あれ、それはお口に合いませんでしたか?」

「あ、いいえ。おいしいです」

 これはこれで、十分おいしい。

「そういえば、来生さんと私、同じ歳なんですよね」

「そうですね」

 いきなり何の話かと思った。

「私らの世代だと、バブルっていうと小学生から中学生くらいの頃……ですよね」

(バブル……)

 影で言われていたことを思い出した。

「田代さんたちに、“バブルの頃ってどんな感じですかー?”って聞かれましてね。知らんわ!、みたいな。あはは」

「……」

 知っているんだ、と香奈枝は思った。後輩たちが、香奈枝を指して揶揄してそう言っていたことを。

(何、イヤミ?)

 気分が悪くなった、が、それが眉間に出ていたらしい。困ったように、沢村は笑い出した。

「いや、あのくらいの年代の子たちは、バブルって想像も出来んのでしょう。正確にはいつごろを指しているのかも知らない。イメージだけで言っている。それはいけないことだと、言ったんですが」

(フォローになってない)

 そもそも沢村が香奈枝をフォローする必要も無い。

「親の会社がちょっと景気よかったかな、くらいですね。あと年の離れた従兄が、あっさりと大きな会社に就職が決まったとか。それで初任給で、ゲーム機を買ってもらったっけな。そう言う意味では、私もバブルの恩恵に預かった世代ってことですかね」

 香奈枝の記憶にあるバブルは、両親だけの旅行の他には、塾に毎日行かされたこと。食卓に上る料理が豪華だったこと。家族で外食が多かったこと。自分は車に興味が無いからわからないが、弟によると、当時父が乗っていた車が、かなりいいランクのものだったらしい。

「でもあっという間でしたね。“バブル”とはよく言ったもんです。みんな泡の中で溺れて、やがてはじけ飛んでしまった」

 子どもの目から見ても、おかしな時代だったと思う。

 昨日まで羽振りのよかった両親が、突然ケチになった。それまで私立へ行くための勉強をしていた香奈枝たち姉弟は、私立の高校ではなくて公立に行くように言われた。

 家の中だけかと思っていたら、世間全般が暗くなっていた。

 沢村はコップのビールを飲み干し、ひとつゲップをしてからつぶやいた。

「ピーポー・イン・ザ・バボー……か」

「え?……あ、ああっ!」

 頭の中で、沢村の言葉をアルファベットに置き換える。“People in the bubble”。バブルの人々。彼流の英語がおかしくて笑いそうになったが、堪えた。

 そしてレイが描く、あの路面の人型を思い出した。

「自分たちが就職する頃は、氷河期真っ只中でしたよね。私は浪人して、アメリカの大学に入って、そのまま向こうで就職してしまいました。だからまだラクでしたが」

「えっ」

 大学に入るのに一浪していたのは知っていたが、あとは知らなかった。

(違う。知らなかったんじゃない)

 履歴書を、香奈枝も見ていた。興味が無かったから、憶えていなかっただけ。

「沢村さん、それじゃ向こうの生活が長かったんじゃないの」

「そうですね。向こうの生保の会社に入って、就職十年目に転勤で帰国して――十四、五年居ましたか」

 ということは、業界では香奈枝よりも先輩だった。しかしそことは関係ないことを、香奈枝は口走っていた。

「それであの発音なの?」

 言ってしまってから気づいて、慌てて口に手を当てた。が、時すでに遅し。沢村は苦笑いした。

「ひどい発音でしょう? 私はあまり日本人とつるまないようにはしていたんですが、相手にしてくれたのはネイティブのひとたちじゃなくて、移民ばかりだったんですよ。だからじゃないかな」

「でもひどすぎるわ」

 もう言ってしまったのだから、とことん言うことにした。

「それでも伝わるんだから、不思議ですよね」

 沢村は本当に不思議そうに腕を組んで考え始めた。その様子が丸っこくて、“かわいい”という形容も当てはまりそうで、香奈枝は思わず噴き出した。

「伝わらなくて困ったことが、一度も無いんです」

「それは逆にすごいわ」

 勧められるままに、香奈枝はビールを飲んだ。

 途中、彼の妻が子どもを寝かしつけ終え、追加のビールを持って入ってきた。

 妻は“花”という名前で、小柄な沢村をさらに小さくした感じで、一見高校生……下手をすると中学生くらいに見える外見だった。年は二十五歳だという。口が流暢な方ではないようで、何か話題を出そうにも頭が追いつかないらしく、それでも楽しそうな顔をして、黙って夫と香奈枝の会話を聞いていた。

 純朴そうな田舎の娘、といった妻と、不器用そうだがいつもニコニコ微笑んでいるオヤジといった風情の夫。

 ふと、隆とその妻を思い出した。

 細面の美人で、太ることを何よりも罪悪としているらしく、子どもを産んだ後の体型を戻すのに、かなりの金を使ったらしい。頭はよいが、時折感情的になって金切り声を出す。

 しかしふたり並ぶと、かなりスタイリッシュな夫婦だ。ふだん隆が着ている服はブランド物が多いが、すべて妻の見立てだと聞いた。香奈枝も出席した夫婦の結婚式のドレスはとんでもなくすばらしかったし、その後何回も見せられているふたりのツーショット、やがて子どもも挟んでのスリーショット写真は、ミセス向けのファッション雑誌のグラビアのようだ。

 この対照的な夫婦。住まいも公団と高級分譲マンション。隆の部屋には行ったことはないが、沢村家ほど散らかってはいないだろう。

 ふと、自分が納まるならどちらがいいだろうと、妄想した。

 断然、隆の家庭がいい。

――けれど、それは本当にそう?

 沢村の妻の笑顔を見ていて、初めて疑問に思った。

 特別美人というわけではない。むしろその逆だが、魅力的に見える。

 母と同居している義理の妹である美沙は、最近笑ったことがあるだろうか。

 すでに結婚した友人たちはどうだろう?

(――あれ?)

 そういえば、“友人”と呼べるひとたちの、誰の笑顔も思いつかなかった。皆、香奈枝と仲違いした時の、眉間に皺を寄せた表情ばかり。実際にメールなどでのやり取りでも、笑っていない表情しか思い浮かばない。

 そこへひとりだけ思い出した。

(レイくんがいるじゃない)

 レイが自分に笑顔を向ける。彼が友だちかどうかの判断はつきかねるものの、同じ秘密を共有する仲間であることには、変わりない。

 だが、そこにレイを当てはめてしまう自分が、惨めに思えてきた。

 友だちなんか居なくても死なない。それは本当のこと。なのに、わざわざそこへ彼を持ってきてしまった自分が嫌だった。

(ちょっと酔ったかも)

 思考がぐるぐると、よくないところから出られない。目の前では、沢村夫妻がどうでもいいことを喋りながら笑っている。何の話題なのか、頭に入ってこない。

 そこへ、スマートフォンにメールが届いた。見てみると、隆の名前。

『今日これから出てこられますか? 逢いたいです』

(なんで、ですます調?)

 他にメールは来ていない。孝からももちろん来ていない。

『ダメ』

 香奈枝はそれだけ打って、返信した。

「あ、何か御用が入りました?」

「いいえ。でもそろそろお暇するわ」

 少し酔ったみたい、とは言えなかった。

“家族”に酔ったとは。


 *


 駅まで送るという沢村の申し出を断り、香奈枝は沢村宅を出た。

 その後、隆からメールは来なかった。ヒビの入った画面の向こうの、ですます調のメール。そのよそゆきの内容に、思った以上にダメージを受けていた自分を認めたくなかった。

(レイくん、今夜はいるかしら)

 彼とは約束していない。行って始めて、会えるか会えないかがわかる。せっかく食べ物を持っていったのに、来なかった夜もあった。午前二時を過ぎたら、帰ることにしている。

 まだ午後九時を回ったところ。いったん帰って、シャワーを浴びて、少し仮眠を取る。自宅に帰る時に、コンビニエンスストアに寄らなければならない。

(今日こそは焼きタラコのおにぎりがあればいいけれど)

 駅前は賑わっていた。近辺に大学がある駅で、居酒屋からは酔った大学生が出てきて、陽気に騒いでいる。

「たかしー、待ってぇ」

 その中、甘ったるい、若い女の声が耳に入ってきた。

 一瞬耳を疑った。

 別におかしい話ではない。“たかし”という呼び名の男は、珍しくはない。実際、香奈枝のふたりの恋人たちも、“たかし”だ。

「なんだよ」

 しかしこの声は、聞き間違いようが無い。そちらを向くと、ひと組のカップルが歩いていて、ちょうど女性が男性の腕に、自分の腕を絡めた瞬間だった。

「……孝?」

「?」

 思わずつぶやいた名前に、男性がこちらを振り向いた。

「えっ……香奈枝さん?」

「……」

 驚愕のふたりの間で、彼が連れていた小柄で若い女は、不思議そうな顔をしていた。

「孝、知ってるひとぉ?」

 甘いチョコレート菓子のような声。ひらひらとしたワンピースから伸びる、生足。髪はクルクルと、腰の辺りで揺れている。

「あ、ああ、じゅ、塾の先生だった……ひと……」

 孝は香奈枝から目を逸らして言った。

「そっかー、こんばんはぁ」

「こんばんは」

(何、これ)

 なんでそんなことになっているの。

「それじゃ」

「あ、はい」

 軽く会釈したものの、孝は一切目を合わせようとはしなかった。香奈枝も居心地が悪くなり、足早にそこから立ち去った。

(終わりだわ)

 そう思った。いつか必ず来る別れ。

(それなら、私から終わらせたかった……)

 こうなるなら、あの時、引き止めて欲しくなかった。

 あの時離れていればよかったのに。

「塾の先生……か」

 自嘲的な笑みが出て来た。十五歳の年の差を、思い知らされた。

(まいったな)

 とりあえずは帰らなければならない。香奈枝は交通ICカードを取り出して、駅の改札に入ろうとした。その時だった。

「えっ!」

 不意に、持っていたビジネスバッグを取り上げられた。

 隣の改札から、外に出た男に、すれ違いざまに。そいつが知っている人物かどうかを考える前に、改札から出た男は走り出した。

「カバン!」

 香奈枝は入ってしまった改札から出ようとしたが、自動改札に阻まれた。その間に、男はあっという間に人混みに紛れてしまった。

「ど、どろぼう!」

 叫んだが、男の走り去った方向と香奈枝を凝視した者はいたが、誰一人として男を追おうとした者はいなかった。

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