第3話
近寄っても逃げず、触っても嫌がらない、そしてだんだん好きになっていった猫を抱きかかえようとしたら、急に顔を引っ掻いて逃げられた。そんな気分だった。
私に親切に東京案内をしてくれていた
今まで一緒に歩いて、さっきまで隣にいた人が、実は指名手配犯だった。
その事実を理解した時、この上ない恐怖感に襲われた。
手足が震え、顔は真っ青になり、とてつもない吐き気がおとずれた。
私は立っていられなくなりベンチに座り直した。
自分も殺しの対象に入っている。殺される。このままだと確実に殺される。
助けを求めようと周りを見た。しかし、どこにも人の姿が見当たらない。きっと彼はなるべく人の少ない道を選んで歩いたのだろう。
絶望感に押し倒され、手足を縛られ無理やり犯されそうになる。いや、やめて。誰か助けて。誰かー。
「はっ!!」
すんでのところで正気に戻った。大量の汗をかいていた。
待てよ、落ち着け、今ならまだ逃げられるんじゃないか?とりあえずどこかに身を隠して彼をやり過ごして…。
すぐに立ち上がった。さっきまで歩いていたのとは逆の方に走り出そうとした、そのとき、
「どうしたんだい?」
そう言って肩に手を置かれた。
間に合わなかった。もう終わりだ。涙が一筋、頬を伝っていくのがわかった。
ついに立てなくなって、その場にしゃがみこんでしまった。
「え、ちょ、どうしたの。大丈夫?」
彼は私の顔を覗き込んだ。彼の顔は先程までと変わらないはずだが、今では人間の顔には見えなくなっていた。
「顔が真っ青じゃないか!具合悪いの?我慢しないで言ってよぉ」
彼はひどく心配している様子だった。しかし、これは演技だ。それ以外ありえない。
「ちょっと吐き気がしてて…路地裏の、方に行こうとしたんですけど、はあっ、もう治まったみたいです」
精一杯声を振り絞った。それでもいつもの半分ほどの大きさも出なかった。
「熱中症かな…。とりあえず美術館すぐそこだから、そこにいって休もう。歩ける?」
手を差し出してきたが、断って自分で立ち上がった。もはや触れるのも怖かった。
彼は私の荷物を全部持って前を歩きだした。今なら逃げ出せるだろうか?いや、危険過ぎる。さすがに少しは警戒し始めているだろう。今の私じゃ逃げ切れる気がしない。
コインランドリーの横を通る時、指名手配書を隠すように彼の横に移動した。もしかしたら逆に怪しまれたかもしれない。
歩きながら必死に逃げる方法を考えた。美術館に行ってしまえば人混みに紛れたり、少しずつ離れていったりできるかもしれない。トイレに行くと言って外に出てしまうこともできるはずだ。今焦って動く必要はない。よし、大丈夫だ。
それから歩いている間はずっと、大丈夫だ、と自分に言い聞かせていた。
実際は五分ほどだったのだろうけど私には二十分くらいに感じたが、なんとかジブリ美術館に辿り着いた。
「最初にどこかで少し休もうか?熱中症なら水分補給した方がいいし」
枉島、いや毒島はそう提案してきたが、一刻も早く逃げ出したかったので先に見て回ると言った。彼は心配そうにしながらもその判断に従ってくれた。
よし、これで逃げられる。
中に入ると冷房で冷やされたひんやりとした空気が体を包んできた。なんだか勇気づけられた気がした。
最初は彼の少し後をついていった。今までと変わらない態度で美術館を楽しむ私を演じた。
所々で彼に声もかけた。我ながらなかなかいい演技だったのではないかと思う。
途中くらいから少しずつ彼から離れるように歩いた。いや、そうしたはずだった。
少しずつ離れてはいるんだが彼はずっと視界に入る位置にいた。
それからもなんとか彼から離れようとした。しかし、常に彼はどこかから見てて、私は焦った。
トイレに行こうとしても入り口付近にいた。
これで普通の人だったら待ってくれていた、ということになるのだろうけど、彼では恐怖にしかならなかった。
結局、一時間半くらいそこにいたが逃げ出す隙はなかった。
よく考えれば彼は最初から自分が指名手配犯だということはわかっているのだから、こちらとは意識が違う。人に気づかれないよう、そして獲物を逃さないよう行動する。
焦っているはずだが、心のどこかで東京で自由に楽しんでいる自分という図を幸せなものに感じていた。
それほどに彼は優しく、危なさを感じさせなかった。恐ろしいことだ。
外に出てしまった私は元気がなくなっていた。空はオレンジ色になり、正直家に帰りたいと思った。
いつの間にか横に彼がいた。
「そういえば泊まるところは決まってるの?まだならそろそろホテルとか探した方がいいと思うけど」
ホテルに泊まられたら彼としては厄介なはずだ。ということはいよいよ私を殺そうというのか。
ヤバいヤバい。どこかに逃げなければ。でもどこに…。
走って逃げるとしたらどうすればいいのか。目潰しとかしないと到底無理だろう。あとは迷路のような場所だったらなおいいんだけど。
その瞬間、頭にある場所が浮かんだ。私と毒島が最初に出会った場所。あのような場所ならなんとかいけるかもしれない。
私はホテルを探すと言ってスマホを開いた。美術館の中でコンセントを見つけてちょっとだけ充電器をつけさせてもらっていたのだ。
マップを開き近くに条件に合うような場所を探した。違う。駄目だ。これでもない…。お、これはどうだろうか。いや、これなら…。
「見つかりました。マップ見ながら行くんで」
「じゃあそこまでは送るよ。東京は大分よりも物騒だからね。何があるかわからない」
どの口が言うんだと思ったが表情には出さなかった。礼を言って歩きだす。路地裏は逃げやすいかもしれないけど向こうが襲いやすい場所でもある。腹をくくらねば。
深呼吸を一つし、顔を上げた。自分では見えないがその目は以前とは違っていただろう。
しばらく歩いてソフトクリーム屋を見つけた。なるべく怪しまれないようにその店を見て言った。
「最後にソフトクリーム食べません?今日のお礼に奢りますよ」
「お、本当かい。まあ、ここは遠慮せずにいただこうかな。僕も逆の立場だったら同じ気持ちになるだろうしね」
ソフトクリームを買って彼にも渡した。
ありがとう、と言って彼は笑った。いい笑顔だった。
たわいない事を話しながら歩いた。そろそろこの時間も終わる。彼が一生枉島のままならいいのに、なんて思ってしまった。
ついに目的地に通じる最後の一本道にさしかかった。
すると急に彼の声色が変わった。
「僕ね、本当に女子高生なんてろくなもんじゃないって思ってたんだ。邪魔でしかない害虫と変わらないようなものだと。害虫は駆除しなきゃいけない。でも君は違うね。他人を思いやることができるとでも言うべきか、まあ僕が今まで関わったことのないタイプの人だよ」
なにを言いだすんだ。もう殺されるのか。汗が染み出してきた。足元がふらつく。
路地裏が近いてきた。
「それだけに残念なんだ。君にはあと少し足りないものがあった。それさえあれば完璧に僕の理想だったかもしれない。何かわかるかい?」
目的地の入り口に着いた。歩みを止める。彼も止まった。
「どうしたの?まさかこんなところにホテルがあるのかい?」
「…その私に足りないものを教えてもらえますか。これで会うのは最後だと思うんで」
彼がにっこりと笑う。目は微動だにしなかった。
「やっぱりそうだったのか。いいよ、教えてあげる。君に足りないもの、それは、自我だ。他人に流され、相手に合わせて行動してしまう。自分一人でやってみせようというのがない」
私の両肩に手が置かれる。
「だからこうなる」
彼の羽織っているジャケットの内ポケットに折りたたみナイフが見えた。
瞬間、覚悟を決める。
「触らないで!!」
右手に持ってたソフトクリームを彼の目に突き刺す。
「うわぁ!」
旅行鞄を投げつけ路地裏へ走る。
ただひたすら全力で走る。
路地裏に入るとそこはまさに迷路のようだった。十字路だらけで足を止めてしまいそうになった。
どこかから声がする。
「待てえぇぇぇぇ!!」
「きゃあぁぁぁぁ!!」
右、左、右、真っ直ぐ、左に曲がりもう一度左。そして真っ直ぐからの右。
何十回も角を曲がった。どこをどう進んでるのかなんて当然わからずに、とりあえず止まらないように走った。
いつまで走ればいいの?彼はまだ来てる?どこから出られるの?怖い。やだ、死にたくないー。
いきなり周りが真っ白になった。思わず足を止める。
「んん!?」
路地裏を抜けたのだ。やった。
いや、まだだ。もう少し逃げないと。そう思いまた走りだす。
しかし、少し走ったところで私は倒れた。目がチカチカしてやがて真っ暗になった。汗の量が尋常じゃない。頭が痛い。水が飲みたい。
どうやら脱水症状を起こしてるようだった。だめ、逃げないと。
這ってでも進もうとしたが意識が朦朧としてきた。
どうしよう。嫌だよ。涙が溢れてきた。
後ろ、多分後ろから足音が近づいてくる。男の人の声も聞こえる。
ああ、もう駄目だ。
「ごめんなさい」とつぶやいて、そっと目を閉じた。
周りがうす白い。なんだろう。ああ、目が開いてないんだ。
ゆっくりと目を開く。
知らない天井がある。どこだここ。
目だけを動かし周囲を確認する。病院か。
「あら、目を覚ましたの」
気づかなかったけど横に看護師がいた。
「よかった〜、あ、先生呼んでくるわね」
そう言って病室を出て行った。
全身が怠かったけどなんとか体を起こした。窓から外を見ると明るかった。もう朝になったのか。
倒れたことまでは覚えてるがその後どうなったのかは全く覚えない。
するとそこに医者が入ってきて、私がどうなったのか教えてくれた。
医者の話では私は倒れていたところを見つけてくれた人がいて、救急車で運ばれたらしい。重度の熱中症だったそうだ。
そこまで聞いて私は毒島のことを思い出して辺りを見回した。当然彼の姿はなかった。
どうしたのかと尋ねられ、どう言おうかと迷っていると病室に母が入ってきた。
「
母が抱きついてきた。わたしは驚いて声も出せなかった。
「財布の中身確認させてもらって、連絡しておきました」
横から看護師が説明してくれた。母は私を抱いたまま泣き続けた。家出前はあんなに嫌だったはずだが、今は会えて非常に嬉しくて私も泣いた。
母が落ち着いてから私は自分に起きた出来事を全て正直に話した。その後警察が来て同じことを話した。彼の持っていた荷物の場所も教えた。後から聞いた話だがボストンバックの中からは女子高生のバラバラ死体が出てきたらしい。
病院を出てから帰るまでに母とはたくさん話しをした。勉強のことを話したり怒られたりした。
でも最後に母は「本当に心配した」と言ってくれた。
私は毒島の言葉を思い出していた。
それから二年後。私は高校三年生になった。
日々の受験勉強の息抜きに友達とカラオケに行くことにした。
あれから母は私の行動にとやかく言わなくなっていた。おかげで友達も少しは増え、二年前にはあり得なかったカラオケにも行けるようになった。
なかなか楽しい毎日だ。
受付で学割をしてもらう為に学生証を出そうとしたがなかなか見つからない。普段小銭とお札を入れる部分以外いじることはないので失くすわけないはずなんだけど、とうとう見つからなかった。
その代わりに一枚の紙切れが見つかった。
「何かしら、これ」
その紙切れを開いて書いてある文字を読む。
「えっ」
私はその場で座りこんで、泣き出してしまった。
その紙切れにはこう書かれていた。
『なかなかの自我をお持ちではないか。学生証は戴いておくよ。いつか遊びに行くからね。 枉島』
受付に置いていたラジオから女子高生殺人のニュースが流れていた。
彼はまだ捕まっていない。
〈終わり〉
指名手配犯 稲光颯太/ライト @Light_
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