異世界のおっさん

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異世界のおっさん

 今日もぼくは憂鬱な気分でうつむきながらとぼとぼと道を歩いていた。

 放課後、ぼくをいじめている奴らにパシリにされているのだ。気も重くなる。

 ああ、トラックがはねてくれないだろうか。そんなことを考える。

 ぼくをいじめている連中をトラックがはねてほしい、ではなく、いじめられているぼくのほうをトラックがはねてほしい、と思うあたり精神的に大分キてるが、ぼくをはねるトラックとなればそれはふつうのトラックではないのである。

 転生トラックだ。

 なんの罪もないのにトラックにはねられて命を落としたぼくは、その非を神様に謝られ、お詫びとしてチート能力的なものをもらって異世界に転生するのだ。

 異世界に転生したぼくはまず冒険者ギルド的なものの入団テストを受け、チートなのでいきなり特S級になれるけど無闇に力をひけらかすのはかっこわるいのでふつうにF級ぐらいからのスタートで、でもほんとは特S級の実力なので高難度ミッションをバンバンこなして、次第に一目置かれるようになって、その流れでかわいい女の子の冒険者とも知り合ったりして、最終的にはチートでハーレムなのだ。

 そんなことを妄想しながら歩いていると、ふと急に肌寒くなった気がしてぼくは我に返る。

 おかしい。今年の残暑はまだまだきびしい。

 それになんだか暗い。

 おかしい。夕方といってもまだ日があるはずだ。

 うつむいていた視線を上げると、ぼくは森の中にいた。

 おかしい。ふつうの住宅街の、ふつうのアスファルトの道路をぼくは歩いていたはずだ。

 気づけば靴底を通して足の裏に湿った黒土の感触が伝わっている。あたりには樹木が生い茂っている。

 なんでこんなところにいるんだ? 頭の中で「?」マークが飛び交う。

 いくら考え事をしながら歩いていたといっても、うっかりこんな森の中にまで迷い込んでしまうほどぼくは方向音痴じゃない。

 コンビニに向かっていたのだ。コンビニでメロンパンとコーラ(トクホのやつ)とヤキソバパンとコーラ(トクホじゃないやつ)を買わないといけない。

 だが、きょろきょろといくら見回してみてもあたりは鬱蒼と茂った木々ばかりで、それも見上げる枝は奇妙にねじくれた形をしているし、黒々とした葉群の間にのぞく空は紫色だ。

 なんなんだここは? いやな汗が全身からぶわっと噴き出す。頭の中がパニックを起こす。

 でも、混乱した頭の片隅で、これってもしかして、となにか明るいものが閃く。

 これってもしかして、異世界なのではないか?

 いや、でも、ぼくはまだトラックにはねられてもいないし、なんか真っ白な世界でなんか神様的な人(きれいな女神様だとなおいい)に会って、手違いで死なせてしまったことを謝られて、代わりになんかチート的ななんかをもらったりもしていない。

 いろいろすっ飛ばしすぎじゃないだろうか?

 ぼくが困惑していると、前のほうの茂みから突然ガサガサガサガサッ!と音を立ててなにかが飛び出してきて、ぼくはビクッと肩を跳ねさせた。

 飛び出してきた影は背の低いヒトの姿をしていて、緑色の肌と尖った耳に、ぎょろぎょろした眼と大きな口を持っている。

 ゴブリンだ。

 間違いなく、ゴブリンだ。

 やっぱりここは異世界だったんだ!

 ぼくの脳内はどよめきたつ。

 異世界キター!!である。

 しかもよく心得た展開だ。一発目に軽くゴブリンをぼこして、そこからぼくのレジェンドが始まるのだ。

 でも、はたと気づく。この場合どうしたらいいんだろうか?

 ゴブリンの手には粗末な造りだが野太い木の棍棒が握られている。

 対してぼくは剣の一本も持っていない。

 当たり前だ。まだぼくは女神様(このさい駄女神様でもいい)に会ってチート能力のついでにチート武器をもらったりしていないのだ。

 だが、ここは異世界で、ぼくはこの異世界から見て異世界から来たのだから異世界人で、この異世界の人間じゃないけど異世界の異世界人なので、なんらかスペシャルでワンダーでインヴィンシブルなはずなのだ。

 ゴブリンぐらいそのへんの棒で殴ったら倒せるはずだ、とぼくは当たりの茂みに視線を巡らしてなにか武器になりそうなものが落ちていないか探

 GYAGYAGYAGYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!

 突如ガラスを無理矢理引き裂いているかのような大音響がぼくの耳をつんざいた。

 ゴブリンだった。

 ゴブリンが叫んでいた。

 ゴブリンが耳まで裂けた口をほんとうに耳まで裂くようにして大口を開いて紫色の長い舌を突き出しながら、身の毛もよだつ叫び声を上げている。

「ひいいいい」

 思わずぼくの口からは情けない悲鳴が漏れていた。

 ゴブリンの叫び声を聞いて、それだけでぼくはすっかり肝を潰してしまっていた。

 よく見ればゴブリンはほんとうにおそろしい姿をしていた。

 耳まで裂けた口にはびっしりと黄ばんだ乱杭歯が並び、紫色の長い舌が唾液を撒き散らしながらべつの生きもののようにうねうねと蠢いている。

 眼窩からこぼれ落ちそうなほど大きな目玉は白く膜がかかったようにどろりと濁っていて、だが、憎悪に満ちた視線でしっかりとぼくを捉えているのがわかる。

 丸木から荒々しく削り出された棍棒は一面赤黒く鈍く輝いていて、あれはこれまでに数え切れないほど撲殺してきた哀れな獲物たちの血で厚く塗り固められているのではないだろうか。

「うわあああ」

 ぼくはなさけない悲鳴を漏らしながらゴブリンに背を向け、闇雲に逃げ始める。背後でダッ!とすさまじい勢いでゴブリンが地を蹴る気配がする。

 ぼくは必死で走る。

 だが、それもほんの二三歩で、下草の絡まる地面に足を取られてぼくは無様に転んだ。頭の後ろをブオン!とおそろしい感触が髪を何本か巻き込みながら通り過ぎていく。

「うわあああ」

 起き上がろうと咄嗟に体を捩ると、ぼくの顔の真横の地面にズガン!と棍棒がめり込んだ。さっきまでぼくの頭があったところだった。

 KHISYYYYYYYYYYYYY!!

 忌々しそうな声を漏らしながら、ゴブリンがふたたび棍棒を振り上げる。

「あああああ」

 はやく逃げないと、その思いでなんとか上体を起こすが、できたのはそこまでだった。脚にはふにゃふにゃと力が入らず、なにをどうすれば立ち上がることができるのかぼくにはまったくわからなかった。

 もうだめだ。

 ぼくはここで死ぬんだ。

 そんな考えがふっと自然と浮かぶ。

 異世界にチートはなくて、異世界でもぼくはいじめられっこのままで、雑魚モンスターのゴブリンにあっさり殺されるんだ。

 ぼくの絶望した肥溜めの中で溺れ死ぬネズミのような表情を見て満足したのか、ゴブリンがいびつな笑みを作りながらこれみよがしに棍棒を高く掲げていく。

 それが振り下ろされたとき、ぼくは死ぬ。

 死、という言葉がこれまでの短い人生の中ではじめて圧倒的な現実味を持ってぼくの脳ミソを圧し潰し、それが脳ミソの最後の防御反応なのか目の前の光景は反対にどんどん現実味を失って映画のスクリーンのように感じられてくる。

 その中のゴブリンはクライマックスのスローモーションで、その振り上げる棍棒の運動が頂点に達する。

 その瞬間

「アポイ!」

 謎の奇声を上げながら灰色の影が画面に乱入してきて、画面の真ん中を赤い光の線が上下真っ二つに分断する。

 GYAAAAAAAAAHYEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEE!!

 ゴブリンが体をくの字に折り曲げながらスローモーションで画面外に吹っ飛んでいく。

 ぼくの眼前に、だれかの背中が立ちはだかる。

 突如この場に飛び込んできてぼくのことを助けてくれた影は、灰色の作業着っぽい服を着て同じ色のキャップをかぶった、おじさんだった。

「あー、いま片付けるからちょっとストマリしててねー」

 おじさんがちらっとぼくのほうを振り返って気の抜けた声で言う。

 サンドウィッチマンのボケのほうにちょっと似ている。あれをもうちょっとひょろっとさせた感じの見た目をしている。

 おじさんは吹っ飛んでいったゴブリンのほうに向き直り、手にした交通整理のときに使うピカピカ赤く光る棒みたいなもの――というか、交通整理のときに使うピカピカ赤く光る棒にしか見えない――を構える。さっきもあれでゴブリンをぶっ飛ばしたらしい。すごい交通整理のピカピカ光る棒である。

「アポイ!」

 おじさんはまたも謎の奇声を発しながら交通整理の光る棒を振り上げ、よろよろと立ち上がりかけていたゴブリンに俊敏な動きで襲いかかった。

 交通整理の棒が、ゴブリンの顔面に横薙ぎに叩き込まれる。

 ゴカン、という鈍い打撃音と、ジュウッ、というなにかが焼け焦げるような音がする。

 GHISYAAAAAAAAAAAAAAA!!

 悲鳴を上げながらゴブリンが再度吹っ飛ぶ。

 おじさんが三度襲いかかる。

「アポイ! アポイ! アポイ!」

 おじさんが謎の奇声を発しながら、倒れたゴブリンを棒で殴る、殴る、殴る。

 宙に赤い光の跡が鋭いWの字を何度も何度も描く。

 ゴカン、ゴカン、ゴカン、という鈍い打撃音の合間に、ジュウッ、ジュウッ、ジュウッ、というなにかが焼け焦げるような音がする。

 GYA...GY...G...

 呻き声を上げていたゴブリンの声が、急速にかすれて小さくなっていく。

 むせかえるような血の臭いと肉が焼ける香ばしい匂いが鼻の奥まで漂ってくる。

 すっかりゴブリンをグチャグチャのヘドロの色をした塊に変えてしまうまで、おじさんの動きは続いた。

 ジッ、と音がして、おじさんの持った棒から光が消える。

 おじさんは自身のおぞましい暴力の痕には見向きもせず、棒を腰のホルスターに収めると、肩口のベルトからトランシーバー――長いアンテナのついた、黒くて武骨な古い通信機器――を取り上げた。

 ガピッ、とノイズが走って、おじさんがどこかと通話を始める。

「あー、モソモソ。はい、こちらラサマタです。ラサマタっす。おつかれさまです。すゥー。えー、定期ラエン中にリホウ者一人発見しました。一人。あー、アタブシされてたのでゴブリン一匹だけペケルしましたんで……えっ? はい、一匹だけ。一匹だけです、はい。エッケ?」

 おじさんがちらっとぼくのほうを見る。

「あー、エッケなしです。エッケないみたいです。はい。はい。じゃあ、いつもどおり、えー、いつもどおりプウェイしてもらって、あー、戻ります。はい。はいー」

 ガピッ、とノイズが走って、通話が切れる。

 おじさんが肩のベルトにトランシーバーを戻すと、ぼくのほうに向き直る。改めて正面から見ると、おじさんはNON STYLEのボケのほうをちょっと骨太にした感じだった。

「あー、じゃあプウェイするから、おっさんの言うとおりにしてねー」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

「えー?」

「ここ異世界なんですよね? 異世界ですよね?」

 はあー、とおじさんが露骨にうんざりした顔をする。

 おじさんはよく見るとオードリーのボケのほうを色白にしてちょっとふっくらさせた感じだった。

「あー、言えないの、そういうの。きまりだから。おっさんそういうの言えないの。そういうきまりなのよー」

 シベルベー、となんかよくわからないが申し訳なさそうにおじさんが小声で付け足す。

「えー、でも……そうだ、ゴブリン! ゴブリンとかいたじゃないですか! 異世界ですよね?」

「だから、ね? きまりだから。あー、そういうのリホウ者にメコメコしく言っちゃったりすると、おっさんのこれがこれしちゃうの」

 そう言いながらおじさんが左の手首に右の手刀を当てて、白目を剥く仕草をする。

「ね? わかる?」

 わからなかった。

 ぼくは食い下がる。

「でも、でも、異世界! ぼく、憧れてたんです! ここにいたいんです!」

 さきほどの恐怖を押しのけて、異世界という言葉の持つ魅力がまたぞろぼくの中でむくむくと満開になっていた。

 おっさんの木で鼻をくくったような対応がちょっと気に入らなくて、なんだかむきになっていたというのもある。

 はあー、とおっさんが露骨にうんざりした顔をする。

 よく見るとおっさんはブラックマヨネーズのボケのほうを美肌にした感じだった。

「だめなの。いちゃだめなの。きまりだから。そういうことになってるきまりなの。ね? リホウ者さんにはちゃんとプウェイしてもらわないとだめなの」

「でも、元の世界に戻っても、ぼく、いじめられてて、それなら、異世界のほうが、異世界で、異世界にいたいんです!」

 それにちょっと思ってたのと違うけど、異世界ならこういうのもアリなんじゃないか。

 異世界なら、突然異世界に来て右も左もわからないとこを親切なおっさんに助けられて、親切なおっさんはなにげにチート級な強さで、裏の世界とかにも顔が利いたりして、ぼくはなんやかんやおっさんに目をかけられて鍛えてもらうことになって、おっさんのしごきは厳しいけれど、ぼくは四苦八苦しながらもめきめきと頭角を現して、最終的にはチートでハーレムみたいな、そういうパターンもわりとポピュラーなんじゃないだろうか? そういうパターンのやつですよね?

 はあー、とおっさんが露骨にうんざりした顔をする。

 よく見るとおっさんはくりぃむしちゅーのボケのほうをしゃくれてない感じにした感じだった。

「あー、最近多いんだよねー、そういうの。そう言われてもほんとレドる。レドるよおー。きまりだから。ね? プウェイしてもらわないとレドるの。おっさんこれが仕事だから。ね?」

「えー、でも……」

 ここはおっさんがぼくを住居に招いたりして、森の中の、慎ましやかな一軒家の、ログハウスで、壁にはなんかヤモリの黒焼きみたいな呪術的なアレとかも吊るしてあって、おっさんはなんか世捨て人みたいな生活をしているけれども、元SSS級のハンターで、壮絶な過去があって、まあ、いろいろあって今は隠棲してるけれども、ぼくにその極意を伝授してくれて、なんか冒険者ギルドみたいなのにも紹介してくれて、その流れでゆくゆくはチートでハーレムみたいな、なんかそういうののはずだ。はずでしょ?

 われながらたどたどしかったが、大意そういうようなことをつっかえつっかえ伝えると、千鳥のボケのほうをちょっと淡白にしたような感情の読めない顔でぼくの話をじっと聞いていたおっさんが

「オドルガショラッテー!?」

 おっさんがきれた。

「オッグラー!? レベテンショッケアー!!」

 謎の怒号をおっさんが上げる。

「ひええええ」

 ぼくは肝を潰す。

「もう、ねー!! きみ、ネメ歳!?」

「ネ、ネメ……!? じ、14です!」

「14にもなってねー!! そういう、ネデルをねー、ムベにするようなこと、してちゃいけないでしょー!? いくらおっさんでもねー、いいかげんに、その、ねー!! スタブるよー!?」

 と、おそらくすでに完全にスタブっているのだろう状態でおっさんがまくしたてる。

「はい! 右足一歩うしろに出す!」

「えっ」

「そのまま四歩下がって90度右向いて前に一回トネックしてそこからパットリしてケランダ!って叫んだらプウェイするから! わかった!?」

「えっ、えっ」

「おっさん忙しいから! あんまり付き合ってられないから! ちゃんとプウェイしてね! アポイ!」

 そう言い捨てると、おっさんはぼくに背を向けてすたすたと歩き始めてしまう。

「ちょ、ちょっと!」

 森の中なんて歩き慣れないぼくにはちょっと信じられないような速度でおっさんの背中は遠ざかっていき、あっという間に木々にまぎれて見えなくなってしまった。

「ちょっと……」

 ぼくは途方に暮れる。

 そうなると、ぼくは急激に心細くなってきた。

 ここは異世界で、見たこともない森の中で、どっちを向いて歩いて行けばいいのかもわからない。しかも恐ろしいモンスターがうろうろしているし、さっきもおっさんに助けてもらわなかったらゴブリンに頭をかち割られていた。

 もう、いやだ。

 家に帰りたい。

 切実にそう思った。

 でも、どうすればいいのかわからずぼくが只々固まっていると、ブブブブブブブ!とズボンのポケットの中身が鳴った。

 スマホの着信だ。

 ぼくは混乱する。

 ここは異世界のはずで、ぼくは異世界でひとり取り残されていて、そこになんで電話がつながるんだろう。

 おそるおそるスマホをポケットから取り出して画面を見ると、そこには見たことのない名前が表示されていた。

 というか、名前なのかどうかもよくわからない。

 二文字、のようだ。

 一文字目は漢字の舌に似ているが、よく見たらカタカナのモがロの上に乗っているような形をしている。

 二文字目は漢字の又という字に見える。

 そういえば、おっさんはトランシーバーで通話するときになんて名乗っていただろう? たしかなんとかマタとか言ってなかっただろうか?

 ぼくは混乱する。

 おっさんと電話番号を交換した覚えはないし、だいたいここは異世界だし、おっさんはトランシーバーだし、なんでおっさんとスマホが繋がるんだろう?

 もうなんだか泣きそうになりながらそれでも通話のアイコンをフリックしてぼくはスマホを耳に当てる。

「も、もしもし……」

 ガピッ、とノイズが走る。

『もおーっ!!』

 おっさんだった。

 おっさんの声だった。

 おっさんはスタブっていた。

『なんでまだプウェイしてないの!! おっさん言ったでしょ!! プウェイしてって!! きまりだって!!』

「え、えぇ……」

 戸惑うぼくにお構いなしにおっさんはまくし立てる。

『はい!! 右足一歩うしろに出して!!』

「えっ」

『出して!! 右足!! うしろ!!』

「はい」

 おっさんに言われるがまま、ぼくは右足を一歩うしろに出す。

『そのまま四歩下がって!!』

「はい」

 おっさんに言われるがまま、ぼくは左、右、左、右、と四歩うしろに下がる。

『右向いて!! 右!! 90度!!』

「はい」

 おっさんに言われるがまま、ぼくは右向け右をする。

『トネック!!』

「はい」

 おっさんに言われるがまま、ぼくは――ちょっと待てトネックってなんだ?

「トネック?」

『トネック!!』

 おっさんの声のスタブり度がさらに上がる。

『メヘェーッ!!』

 と、おっさんは断固として毛刈りに抵抗する羊のような声を上げる。

『あー、バヒョンってとぶの!!』

「えっ」

『バヒョン!!』

 ジャンプしろってことだろうか?

 おそるおそるぼくは立ち幅跳びの要領でぴょーんと前にジャンプした。

 おっさんの指示に従って動いていると、なぜかちょうど木々の合間を摺り抜けているようで、ぼくが障害物にぶつかることはない。

 つい力みすぎて危うく転びかけながらぼくが着地して、なんとか体勢を立て直すと、動作はあっていたようでおっさんから次の指示が飛んでくる。

『そこでパットリ!!』

「パットリ?」

『メヘェーッ!!』

 と、おっさんは死に物ぐるいで毛刈りに抵抗する羊のような声を上げる。

『あー、こう、両手上げて!!』

「こ、こう?」

 ぼくは肩と顔でスマホを挟みながら、なんとか中途半端なバンザイをする。

『それでケランダ!って叫んで!!』

「ケランダ!」

 ガピッ、とノイズが走る。

「……おっさん?」

 スマホを手に取って画面を見ると、ただの見慣れたロック画面だった。

 時計はなぜか零時を回っている。あれ、壊れたのかな?

 ふと辺りを見回すと、ぼくが立っているのはもといたふつうの住宅街の道路だった。

 すでに日はとっぷりと暮れ、街路灯が皓々と光っている。

 ジョギング中のおじいさんランナーがその明かりをタスキの反射材でピカピカ跳ね返しながら、ぼくの前を通り過ぎていく。

 ぼくは異世界から戻ってきていた。

 そうしてみると、もしかして、ぼくはなにか悪い夢を見ていただけなのではないか、というぐらい、異世界も、ゴブリンも、おっさんのことも現実感がなかった。

 コンビニに行かないと。そう思う。

 ただ、転んで泥まみれになった服だけはそのままで、このままだとまずいので、ぼくは一旦うちに戻ることにする。

 家に帰りつくと、親がキッチンに揃って深刻そうな雰囲気で腰掛けていて、ぼくの顔を見るなり泣きながらぼくを叱り飛ばした。

 時計を見るとやはりすでに日付が変わっていた。警察に相談しようかどうしようか悩んでいたところだったという。

 ぼくは、友達と山遊びをしていて夢中になってしまって、服も転んで泥まみれになっちゃったけどそれも気にならないくらい夢中で、気づいたらこんな時間になってしまった、というありえない言い訳をした(ぼくは完全なインドア派だし、そもそもいっしょに遊ぶ友達はいない)。

 遅い風呂を浴びて人心地ついて、ぼくは着信履歴を探してみたが、あのモとロを足したような不思議な文字はどこにも見当たらなかった。

 おっさんはメイプル超合金のボケのほうの髪を黒く染め直して、赤くない服を着せた感じの見た目をしていたというぼんやりとした印象は残っていたが、記憶の中のその顔の部分にはそこだけ色の無い靄のようなものがかかっていて、はっきりと思い出すことはできなかった。

 次の日、学校に行くと、二倍ね、昨日サボったから二倍ね、と言われて、ぼくはコンビニでメロンパンとコーラ(トクホのやつ)とヤキソバパンとコーラ(トクホじゃないやつ)をふたつずつパシった。

 その後、ぼくが異世界に行きたいと思うことはなかった。

 今は公務員試験に受かって、地元の役所のダンネルパ課エゲイ係でリホウ者をプウェイしてます。

 アポイ。

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