第2話 糸屋美波

 糸屋美波は手を振る。


 バスはカーヴを曲がり、舞子の姿が小さくなって戸建て住宅に隠れてしまうと、美波は窓ガラスについた雫を指で触れた。ちょうざめを想像した。テレビで見てことがある気がしたが、曖昧だった。


 水族館で見た鮫とまた違うのだろうか。


 キャビア、と思いついた。キャビアでおなじみのちょうざめだ、と。キャビアなんて食べたことはない。美波は生魚や魚卵は苦手だった。生臭く、ぬるぬるとしているからだが、もっと記号的な象徴的なものとして体の奥からの拒絶を感じる。

 鮫のスープは吐き気がするが、ちょうざめのスープは興味がわいた。


 原舞子が話すとおいしく感じられるのかもしれない。ピロシキはパン屋で見たことはあった。カレーパンの隣にいつもあるのは知っている。

 あれがロシアの食べ物だとは思えなかった。おじさんとおばさんがやっているパン屋とロシアとが結びつかない。

 パン屋のおじさんはロシアで本物のピロシキを食べたことはあるのだろうか、と美波は思った。


 ないだろうな。


 美波がふと気づくと、バスは停車していた。

 赤信号、と美波は思うと、バスは発車しスピードを上げた。次の次で降りる、と美波は心のなかでつぶやき、原舞子のことを考える。


 学校ではいつも大きな声で笑っている。いつも笑顔で男子にも人気があり、気さくな性格で、沈んだ顔をしているのを見たことは一度もなかった。

 授業中にもくだらない冗談で先生と生徒たちを笑わせたりもする。


 付き合っている男子はいないようだが、原舞子のことを好きで告白したけども断られたという話を三度聞いたことがある。男子には興味がないのだろうか、それとも意中の人がいるのだろうか。あまりしゃべったことはないから、美波にはわからない。


 このバスに乗らなければ原舞子と卒業までに会話をしなかったかもしれない。小動物の群れのような友達のグループに原舞子はいて、自分は教室の隅でたいていは一人で窓の外を眺めていた。


 友達はいるけれども、連れだって学食に行ったり、中庭をうろうろしたり、トイレに行くのは好きじゃなかった。

 幼い頃から、他人は自分から一歩下がったところで立っていることが多かった。美波はたぶん顔とか身長とか声とか表情だとか家庭環境とかの総合的に作りこまれた自分自身が他人にそうさせているのだと思っている。

 一人になりたいときは得だなと思うし、大勢で騒ぎたいなというときは損だと思う。


 バスは一つ目の停留所をすぎ、美波は乗車賃を用意する。


 美波は去年、高校一年生の秋に三年生から突然、告白された。

 何度か顔は見たことはあった。学食でたむろしているところを見た覚えがある程度で会話をしたこともないし、名前もどこに住んでいるとかも知らない相手だった。


 もちろん美波は断った。

 男子は苦笑いで美波の前から消えた。

 あっさりしていた。


 まるで罰ゲームかなにかみたいだと思った。心臓がドキドキすることもなかったし、嬉しいことも悲しいことも、なにもなかった。町中でカラオケ屋のティッシュペーパーを渡された後と気分は同じだった。


 美波はバスから降りた。

 バスの運転手は帽子をそっと頭に置いた感じだった。

 よく落ちないものだ、と美波は感心した。


 手帳を広げる。見上げると電信柱に看板があった。

 赤い矢印があり、下に『コダイラ牧場』とあった。

 美波は矢印を辿り、古い雑居ビルの階段を上った。


 四階に『コダイラ牧場』はあった。すりガラスからは緑色が透けていた。美波はノックした。硬い木製の扉だった。応答はなかった。真鍮製のドアノブには細かな傷がたくさんついていた。美波は開けようかどうしようか迷った。


 鍵は開いているのだろうか。

 中に人はいるのだろうか。

 耳をすませてみる。

 静かだった。

 外よりも静かだった。

 美波が扉から顔を遠ざけると、牛の声がした。


 牛?

 まさか。


 でもここは『コダイラ牧場』だ。牧場に牛がいてもおかしくはない。いや、おかしいよ。と美波は思う。ここは四階だし、と美波は階段の壁にある真鍮製の『四』を確かめる。あまりじっくりとは見なかったけれども小さくて古いビルだ。

 牛がいたら床が抜けてしまうし、そもそもこんなところで牛を飼育するわけがないし、聞いたこともない。

 北海道にはいくらでもそのための土地はたくさんあるはずだし、牛にとってものびのびと草を食む権利はあるはず。


 ああどうして、安請け合いなんかしたんだろう。


 美波が後悔しているとまた牛のなき声がした。遠くから。この扉の向こうじゃないのかもしれなくらいに遠いところから。この部屋のもっと向こうに牛をどこからかどこかに運ぶトラックが停まっているんだ。


 美波は高速道路で何度かトラックの荷台に行儀よく並んで運ばれている牛を見たことがあるのを思い出した。それだ。そしてたまたまここは『コダイラ牧場』なのだ。


 まったく無関係の事実Aと事実Bが隣合わせると虚実Cが明確な輪郭をもって現れることがある。そんなものはそこにはないのに。これだ。でも私は馬鹿だな。


 美波はくすくす笑ってから、はっと気づいて廊下や階段に人がいないかを見渡した。一人で笑っているところなんか見られたくはなかった。


 『コダイラ牧場』は単なる事務所なのだ。

 よくはわからないけれども、北海道とかに牧場があって、牛とか豚とかミルクだとかチーズだとかの販売をするための一部屋を借りているのだろう。

 そんなことはどうでもいいや、それにしても誰かいないと困る。


 美波はまたノックした。連続で三十回ほどノックした。中指がひりひりしてきた。四階は洞窟のようにひんやりとして静かだった。


 誰もいない。

 困った。

 帰るわけにもいかない。


 メモを残そうか。私が訪ねてきたことを書いて扉に貼っておく。いい考えだろうか? 違う。


 私はここの人に会わなくちゃいけないのだ。


 美波はもう一度、扉に耳を近づけ、中の様子を伺った。

 音はしなかった。


 美波は鼻をくんくんとさせ、顔を歪めた。これは近くにある公園の芝生の匂いと同じだ。しかも雨上がりのときのような。


『コダイラ牧場』だから芝生とか土とかのサンプルを置いているのだろうか。


 その草と土とに混じって獣の臭いがした。

 きっと牧場から採取した土を置いているんだ、だから牛とか馬とか豚とか羊とかの家畜の臭がするのだろう。


 さてどうする。美波は真鍮製のドアノブに手をかけた。誰かがいればいたでいい。いなければ、ソファかなにかに座ってしばらく待てばいい。廊下でつっ立っているよりかはましだ。美波はドアノブを回した。開いてほしいというよりも、鍵が閉まっていてほしい、と思った。


 メモに伝言を残して風で落ちないように貼って帰って、また日を改めて訪問すればいい。

 扉が開けば、自分はまた一つ深みに入るような気がする。


 ドアノブはなんの摩擦もなく回り、カチリと音がし、扉が奥に数ミリ開いた。美波は溜息をついた。自分は馬鹿な事をしているんじゃないか、そんな気がして、ここに来るんじゃなかったと後悔し、バスに乗らなければよかった、安請け合いするんじゃなかった、と遡って一つ一つに判を押すように確かめながら後悔していった。


 でももうドアノブは回り、扉が開こうとしている。

 鍵はかかっておらず、中からさらに草と土と獣の臭いの混じった空気が細く吹き出してきている。


 美波はゆっくりと扉を押し開ける。美波は眩しさで目を細めた。驚きで深く息を吸った。叫ぶための準備のために。扉が風に吹かれて開いた。なだらかな芝生の坂が見えた。太陽に照らされて鋭く尖った牧草が輝いていた。


 美波は部屋に一歩だけ足を踏み入れた。革靴の底が硬い牧草と土の弾力が美波の体を押し戻す。美波は視線を坂を這わせて登らせた。坂の頂上から美波を見下ろしている一頭の牛のシルエットに気づく。逆光になっていた。黒い斑点のあるタイプの牛なのか、茶か黒のタイプの牛なのかわからなかった。


 太陽?


 ここは四階で、ビル自体は六階くらいあった。

 四階から六階までぶち抜いてるとか?


 牛が一鳴きし、数歩進んだ。美波と太陽の間から外れた牛はシルエットから立体感と色のある牛になった。


 美波はその牛と視線が合っていることに気づいた。

 牛を見た。

 ホルスタインだ。


 牛はニッと笑った。


 美波は生命の危機を感じたが、逃げ出せなかった。革靴がコンクリートのように重く感じた。牛の口が動いている。赤い唇だ。美波はここに来たことだけを後悔した。バスに乗ったことで原舞子と話せた。もしかすると友達になれたかもしれない。


 明日、会えば、挨拶だけで終わるかもしれないけれど。牛は眉を上げ、美波が驚愕していることに理解を示す素振りをした。美波は原舞子が読んでいたカラマーゾフの兄弟を読もうと思った。学校やバスや学食や廊下や中庭ではない場所で語り合いたいと願った。


 牛はウインクをした。


 美波はドアノブを探した。

 真鍮製で細かな傷がたくさんついた古いドアノブを。

 美波の手が空中をまさぐる。


 美波は牛と視線を外すことができなかった。

 理由はわからない。

 恐ろしいからだろうか。わからない。


 美波の手はドアノブを探し出すことはできなかった。扉も壁も美波の指先や掌は触れることはできなかった。牛は笑った。そんなところにドアノブなんかないよ、と牛は表情で語っていた。ここは牧場だよ、君がつっ立っているところがどこなのかがわかればドアノブがないことくらいわかりそうなものだけれどね。


 美波は牛の考えがわかった。


 心を読んだわけじゃない。

 牛の表情でわかったのだ。難しいことではない。

 毎日、人に対してしていることと変わらない。


 牛ではなかった。牛の形をした人間だった。頭も体も四肢も牛だった。しかしそれは人間なのだ。美波にはわかった。人間が四つん這いになって草を食んでいるわけではなかった。人間が牛になり、牛のように草を食んでいる。


 しかしやはり人間だったから、美波が見れば奇妙なところに気がつく。


 牛を含む動物にはない細かな表情、それは細かな人間の思考があるから表現できることなのだ。顔の筋肉の問題ではないのだ。美波はそんなことを考えながら、ドアノブを探すのをあきらめた。


 原舞子とゆっくり話がしたいと強く願った。

 どうしてそんなことを強く願うのだろう。


 明日、今日と同じように登校すれば会えるのに。そんなことを強く願うなんて馬鹿みたいだ。


 明日になれば叶うのに。

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20s キミナミカイ @kiminamikai

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