第2話 競争と競走

 その場から立ち去った僕は、川に架かっている橋の下で夜を明かした。

 その川はあまり大きくなく、人工的に川辺をコンクリートで固められてしまっているので、橋の下と言っても濡れることは避けようがなかった。

 今自分がどこにいるのか、正確な時間は何時か、今社会はどんなふうに動いているのか。そのすべてを僕が知る術はなく、出来るだけ人里から離れることしかできなかった。

 といっても僕が住んでいるのは都会である。辺りを囲んでいるのは自然ではなく、コンクリートでできたビルが林立しているだけだ。

 どこへ行けばいいのかとんと見当がつかない。昨夜過ごした橋は住宅街の中にあり、もう少し時間がたてば通勤通学で外へ出る人が増えているだろう。それにしても現在時刻がわからないことには、これからの行動計画の立てようがない。しかし恐らく今は午前五時前後だろう。まだ空は白く霞んでいる程度だ。

 眠て眠れていないような状態なので、足元がふらつき自分がしっかりと地面を踏みしめているのかと言うこと自体が怪しい。

 僕は――生きているのだろうか。


 あてもなく、何もわからず、行き先も決まらず、住宅街を迷走していると、やがて空がだんだんと青くなっていった。この季節の朝方はもう肌寒い。

 比較的大きい通りを走っていると、電光掲示板が目に入った。何気なくそれに目を向けると、すぐに僕は目を向けるべきではなかったと後悔した。だが、後悔しても後の祭り。その電光掲示板には僕の顔写真と共にこう書かれていた。

『この人を探しています』

 体表から汗がにじんできているのに、体の中は無性に寒く、すぐにでも何かで体を温めたくなった。

 それに耐えられず、僕はまた走り出した。

 先ほどまでとは打って変わって、体の感覚がないのにもかかわらず自分の体重をすべて地面に押し付け走っている感覚を味わった。まるで砂漠の中を走っているようだ。コンクリートで自分の身体が沈むわけがないはずなのに、自分の足がとられているようだった。

 僕はもともと体力のある方ではない。と言うより、元々ない。

 血液を足の方へ向け、馬力を挙げなければならないのにもかかわらず、僕の身体は反対に脳に血液を送っているようだった。

 ――誰から逃げているんだろう?

 ――この逃亡に終わりはあるのだろうか?

 ――見方は? 家族はどうなった?

 ――ああ、卓也は元気かな? もう僕の敵になっちゃったかな。

 ――そうだ、美也は。美也はどうした?

 ――そもそもこんなことをして意味があるのか?

 ――無駄なことじゃないのか?

 ――こんな知らない土地で、プランもなしに走っていて大丈夫なのか?

 答えの見つかるはずもない自問自答が繰り返される。

 ――そういえば、持久走の後半の時もいつもこうして自問自答を繰り返していなかったっけ? あの頃、僕は文句を言いながらも平和な時を過ごしていたんだな……。

 しかし僕はあの状況を平和と呼んだかもしれないが、自由はないと思っていた。こうして肉体的苦痛、精神的苦痛を嫌と言うほど味わっているわけだけれども、今でもその自由の定義は変わらない。我ながらあきれたものである。

 持久走……あの時美也が何か言っていなかっただろうか?


    *    *    * 


「輝、そんなんでどうすんの」

 五キロの持久走を終え、息を上げ尻を地面につけている僕に美也は言った。

「そんなこと言ったって仕方ないじゃないか」

「まあ、仕方ないかもね。運動しないじゃない」

「そうだよ。だからだ」

「皆に笑いものにされてどうも思わないの?」

 僕は少し考えた。

 確かに、サーカスの道化師のように笑われるのは良しとしない。そう、良しとはしないが、僕が優先するのは最優先するのは「自分がしたいか否か」である。そうして生きてきた。その根底にあるのは人生は有限であるということだ。

 はじめに言ったこととは異なるが、よく考えると僕は結局――。

「そうだね。どうも思わないよ。だってそれは僕のしたいことじゃないからね」

 美也はそんな僕の答えを聞いて笑った。

「輝らしいね。昔から変わらない」

 そして彼女は少し間をおいてこう言った。

「そんな輝、私、嫌いじゃないよ」

「そう?」

「うん」

 遠くの方で友人が「次の授業始まるぞー!」と叫んでいた。僕はそれに手を挙げて応答し、腰を上げた。

「あのさ」

 頬を少し赤らめた美也はこう続けた。

「私は何があっても輝の味方だからね」

「何だよ」

「ううん、何でもない」

 僕は彼女の言いたいことがよくわからなかった。でも、心と言うものがあるのならそれがほっこりと温まった気がした。


    *    *    * 


 美也は今頃どうしているだろうか。

 走った疲れに耐えきれず、僕は廃墟と思われる家に入った。

 上がった息を落ち着かせているとあの持久走のことが思い出される。そうすると自然に美也のことが思い出される。

 美也が僕のことをどうも思っておらず、指名手配のようになった僕に驚きはするものの大して心配していない可能性は十分あり得る。一方で僕がいなくなったこと、指名手配のようになったことに驚き、心配してくれているかもしれない。それとも、そもそも僕のことなど彼女の視界には入っていないのではないだろうか。


 呼吸が通常運転に戻ると、廃墟の内部がはっきりと見えてきた。暗闇に慣れてきたというのもあるだろう。部屋内部を全体的に見渡すといかにも廃墟だという印象を持った。部屋の天井の四隅はもちろん、その他のスペースにもびっしりと張られた蜘蛛の巣。置かれているものが何かわからないほど被った埃。少しでも行動を起こすと、床から埃が舞うだろう。

 まず部屋にかけられた写真を順番に見ていった。

 壁所々に貼られたそれは、この家に住んでいた家族の物だろう。前歯のない少女が大きく笑っている写真。彼女の右頬にあるほくろが印象的だった。家族四人で映っている写真。あの少年は弟だろうか。なんとも微笑ましい姿である。

 ここで僕は一つの疑問を持った。

 なぜこの家族は家をこのような状態のままここを去ったのだろうか。

 いくつかある部屋を見ても、埃をかぶっていて汚れていることを除けば、ここに人の生活があったことがうかがえる。掛け布団が少しずれた布団だってそう。子供部屋と思われる部屋の床には猫のぬいぐるみだって落ちている。まるでさっきまで子供が遊んでいたようだ。ただ、汚れや埃から相当な年月がたっていると思われた。

 その要領で廃屋内を徘徊していると、入口の方から誰かが入ってくるのを感じた。

「おーい、誰かいるか?」

「警察だ」

 どうやら警察官二人組の様である。大方、近所の人から通報が入ったのだろう。「さっき隣の廃屋に誰かが入ったようなんですよ。おまわりさん見てくれませんか?」まあ、こんな感じだろう。

 脳内では冷静に解析していた僕だが、実際身体の方は焦っていた。確かにこの部屋内には隠れられるようなところはあった。しかし、もしこれを動かしてしまえば誰かが入ったことの証拠になってしまう。

 足音がだんだん土地が近づいてきた。

 今僕のいる部屋のドアは閉まっていない。だがそれを閉めるわけにもいかない。

 僕はとっさに心の中でつぶやいた。

(消える消える消える消える……)

 突然、警察官の足音は止まり三十代と思われる男の顔がのぞいた。僕は完璧に彼の顔を見てしまった。もうだめだ、そう思った。しかし彼は「ここにもいないぞ」と言って元来た場所へ戻っていった。

 やはり僕は人間じゃないのかもしれない。

 だんだんと「かもしれない」が「に違いない」へと変わっていく気がした。

 ふと、ベッドの下にノートのようなものが落ちているのに気が付いた。

 それを拾うと、それが日記であることがわかった。



*○月○日

 今日は恵美ちゃんと鬼ごっこをしました。楽しかったです。



 あの前歯のない少女の物だろうか。

 書いてあることは他愛もないものばかりだが、平和な幸せな生活がうかがえる。

 ページをめくってもめくっても幸せ溢れる枠には収まりきらないほどの字で、一、二文だが、楽しい一日を過ごしたことが伝わってきた。

 百ページほどのノートが三分の二を超えたあたりでいきなりそれは止まった。これは彼女自身が飽きてやめたものだろうか。それとも……。

 そのままページをめくっていくと、最後のページに『私って魔女だったの? 誰か助けて!』というメッセージが書かれていた。

 魔女だって?!

 と言うことはこの家に住んでいた少女は、何かの拍子に自分が魔女だってことに気が付き逃げたということだろうか……。

 こうしてはいられないと僕は周りに人がいないことを確認し、廃屋を飛出した。

 どこへ行けばいいのかはわからないが、川に沿って行けば上流のほうへ行けるはずだ。上流に人が多くいるというのは考えにくい。そこまで辿り着くことができればひとまず落ち着ける。

 そう思い、僕は一夜を明かした橋が架かっている川の方へ走り出した。

 住宅街から比較的大きい通りに出る角を曲がった瞬間、あろうことか僕はパトカーとぶつかりそうになってしまった。

 最初、パトカーの方は人が飛び出してきたことにイラついていたようだったが、そのうち僕が捕まえるべき対象であることに気が付いたようだった。

「き、君……」

 僕は声をかけられたとたん、何かに弾かれたかのように走り出した。

 頭の中では「走れ走れ走れ……とにかく走れ!」「捕まってしまってはお終いだ!」という言葉が響き渡っており、うるさいほどだった。その自分の声に「わかってる。だから走っているんじゃないか!」とこちらも心の中で答えた。

 しかしパトカーと競争しても勝てるわけがなく、努力もむなしくあっという間に追いつかれてしまった。僕にとってはあっという間ではなかったが、実際の尺度で言えば一分も満たないだろう。

「君、ほら乗りなさい」

 強引に僕はパトカーに乗せられた。

 もう終わりだと思った。

 隣に座る婦人警察官、そして運転する男性警察官が発する張りつめた空気が僕には息苦しく感じた。鼓動が速くなっていき、徐々に大きくなっていった。

 車内から見る風景はみんな霞んで、色あせて見えた。

 こんなに風景が悲しく見えたことがあっただろうか――。

 首を前に向けると、パトカーの前に両腕を精一杯広げて立ちはだかる少女の姿が見えた。

 美也?!

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魔法使いになって思うこと @asamorito

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