「河童の腕は抜けやすい。」・3(終)
かつて、海の真ん中より生じた竜が、海を渡り、川を上り、山の頂を越え、天に達する長い旅をした。
その道行きはとてつもなく騒々しく、たまたま旅程の途中にいた
里のものが山へ、川のものが里へ、そして海のものが川へ。
妖の”渡り”のうちでもひときわ盛大な騒ぎを巻き起こした、その竜の”渡り”を、妖たちはいつしか”
いつかふたたび竜の生じ、”御幸”が起これば、妖たちはまたいずこへかと、見知らぬ国へと連れて行かれることだろう。
裏返した自分の甲羅をさながら舟のようにして、なな瀬は悠々と川面の風を浴びている。そのかたわらの水面に、涼子はぽっかりと顔を出す。
夕闇を吹く風は冷えて、頬を切るような鋭さを帯びていた。おそらく、町中では鎌鼬が刃を振るっていることだろう。
涼子は自分の顔にそっと手を触れてみる。傷ひとつない容は、わずかにざらつく。人魚の肌は、鱗こそ下半身にしかないけれど、魚の表皮のように硬質な皮膚でうすく覆われている。海の妖の特徴だった。
かたや、なな瀬はしなやかな肌を惜しげもなく川面に晒している。丸みを帯びた甲羅に寝そべり、両腕を枕にして水上に浮かぶ様は、まるで気取ったバカンスのようだ。
涼子はそんな河童の様子に、思わず苦笑する。
「あまり様にならないわ」
「そんなこと言って、涼子も羨ましいんじゃない?」
にんまり笑うなな瀬に、涼子は「まさか」と首を振る。
「そんな所にいたら、干上がってしまうわ。それこそ、まな板の上の何かよ」
「恐がりよね、涼子は。水より上にあがったことないんじゃない?」
「当たり前よ」
海のものが陸を恐れるのは本能であり、植え付けられた刷り込みでもある。
陸どころか、船にあげられるだけでも恐ろしい。水より引き上げられた人魚は、いずれ殺され、あとは祟り神となって陸に害をなすというのが筋書きだ。人里にとらわれた人魚の祟りの説話や、神体となった人魚の亡骸のことは、涼子の記憶に刻まれている。
「河童とは違うんだから」
そうつぶやいて、涼子は、そのまま水の底に沈んでいってしまいたくなる。憂いはいつだって、ふいに高波となって胸に襲いかかってくる。
川のものと海のものは、根っから相容れない。涼子たちにとって、ここは、本来の居場所ではない。いつか、人魚たちはこの仮の宿を離れ、もっと安らげる居場所に帰っていく。
それにためらいを感じるのは、なな瀬がいるからだ。
「涼子?」
ふいに、なな瀬が、甲羅から身を乗り出して涼子をのぞきこんでくる。額がぶつかるくらいの距離に、なな瀬のエメラルド色の瞳が光る。透き通って、まっすぐで、自由で、何のてらいもない。
鼻先が触れそうになる。
「……えいっ!」
咄嗟だった。
涼子は、身を翻してなな瀬の横に回り込む。そして、甲羅に載せていたなな瀬の左手を、横からぐっと抱き寄せるようにつかむ。
相撲で言うところの、とったり。もちろんなな瀬と相撲なんて取ったことはなかったけれど、自分でも驚くほど見事な奇襲だった。
「わっ!?」
「それっ!」
そのまま、涼子はなな瀬の腕をむりやり引っ張る。
力ずくで水に引っ張り込むなんて、優雅な人魚らしくない。本当なら、歌や魅惑で陥れるのが人魚の業だ。
でも、涼子はその瞬間、なんだか、たまらなく楽しかった。なな瀬の腕があらがい、涼子はいっそう力を込める。不格好な綱引きは、一瞬。
そして、なな瀬の腕がすっぽ抜けた。
ばしゃん。涼子は背中から、なな瀬の腕を抱えて水の中に倒れ込む。みっともない水しぶきがあがるのを、つかのま、水面越しに見上げる。夕闇の赤い日差しできらめく水面と、はじけるあぶくが、つかのま、海を渡る大嵐を思い出させた。
甲羅の上で転げたなな瀬が立ち上がり、待て、とわめく。涼子は挑発するように、唇の端でことさらえらそうに笑って、水へと潜る。
なな瀬の腕をさらって、彼女は、川底へ。
(バカみたい)
分かっていても、楽しかった。
こんなことで何かが変わるわけではない。なな瀬の腕をさらって、いっそ彼女を川底へ連れ去って、いっしょに海に連れていけたら、なんて、そんな大それたことを考えていたわけでもない。
ただ、一度、やってみたかった。それだけ。
こんな小さないたずらさえ、今まで、どうしても出来なかった。
「待てってば涼子ーっ!」
なな瀬の声が頭上から届く。涼子は、はっと振り仰ぐ。
そこに、一匹の、うつくしい魚がいた。
両腕をなくしたなな瀬は、全身をまっすぐに伸ばし、脚を細かく動かしながら、一直線に涼子を目指して泳ぐ。腕という夾雑物をなくしたせいで、なな瀬の肢体はより完璧な流線型となり、水の中を滑るように進んでくる。
泡ひとつたてないその洗練された泳法に、涼子は目を見張った。
なびく髪も、ひらめくリボンも、うねるおなかも、すべてが、元々そういう姿こそが自然だったかのようにさえ思われた。
なな瀬は、あっという間に涼子に追いついた。腕を抱えたままぽかんとする涼子のそばで、彼女と並んで留まる。その面には怒りはなく、ただ、満面の笑みがあるばかりだ。
ふたりが並ぶと、それは、まるで二匹の魚がむつみ合うかのよう。
なな瀬が、自分の左肩を涼子の肩にぶつけてくる。横腹同士がまともに触れあう新鮮な感覚に、涼子はつかのま、呼吸が止まるような衝撃を感じた。
「もー、びっくりするじゃん。涼子がそんなことするなんて思わなかったよ」
そう言うなな瀬の気安い声が、むしろ、別世界のものみたいだった。
「うん……なな瀬、すごく早かったね。びっくりした」
「だよねー、あたしも驚いちゃった。案外、水の中だと、腕がない方が向いてるのかもしれないね」
「……それが、河童の本来の姿、なのかもしれない」
「だったらオモシロい!」
自分の腕になんてもう執着がないかのように、なな瀬はからからと笑う。
だったらいっそ、この腕だけでも持って、どこか遠くに行ってしまおうか、なんて、涼子はよこしまなことを思う。
ぎゅっ、と、なな瀬の両腕を抱きしめると、それだけで、胸の奥が締め付けられる。
「涼子、なに考えてるの?」
なな瀬は涼子の横顔に、自分の頬をすり寄せてくる。声を上げる間もなく、逃げるゆとりもなく、涼子はなな瀬の行為に、されるがまま。
ざらつく涼子の頬の上を、なな瀬の顔が滑っていく。硬くて険しい自分の肌が、なな瀬のしなやかな肌に撫でられることで、すこしだけ柔らかくなったように錯覚する。
柔らかな唇が、ほんの一瞬、間近に迫る。
「こんなふうに近づけたの、初めてじゃない?」
涼子の唇のすぐ近くで、なな瀬の声がする。涼子は声も出せず、ちょっとうなずくだけ。
「たまにはいいね、これ。涼子と、すごく近づけた気がする」
「……私も」
「ね、もっと泳ご? もったいないもん」
言うなり、なな瀬は身をよじらせて、涼子のそばから飛び出すように川上へ向かって泳ぎ出す。
暗い水の中、腕のないなな瀬の細い体は、あっという間に遠くなっていく。
「待って!」
今度は涼子が引き留める番だった。尾鰭をくねらせ、なな瀬を追って泳ぎ出す。
いつもなら泳ぎで負けたことなんてなかった。しかし流線型のなな瀬はずっと速くて、良子はなかなか追いつけない。
見かねたみたいに、なな瀬がくるりと身を翻し、涼子のもとに戻ってくる。
なな瀬は涼子の周りを上から下に一回りして、からかうように笑う。
「捨てちゃいなよ、そんなの」
「え?」
「あたしの腕。重たいでしょ?」
たしかに、河童の腕2本というのは、ちょっとした重石だった。涼子がなな瀬に追いつけなかったのも、そのせいかもしれない。
「でも」
「大丈夫!」
どん、と、なな瀬が横から肩で涼子をこづく。
不意をつかれて、涼子はなな瀬の腕を取り落とした。なな瀬は、両腕をつなぐ筋を器用に脚でひっかけると、ぐるり、と体をひねって、それを水の上の方へと放り出した。腕はくるくる回って、不規則な動きをしながら流れていってしまう。
「あっ……」
「競争!」
なな瀬が叫んで、しなやかに水の中をはねる。涼子は、今度こそ遅れずに、彼女について泳ぎ出す。
ふたりの速度は互角。なな瀬が前に出れば、涼子が追いすがる。涼子が先行すれば、なな瀬が反攻する。互いの作り出す水の流れを利用して、ふたりはいっしょになって速度を上げる。
涼子のきらめく鱗のそばを、なな瀬の白い脚が躍動する。
なな瀬のくねる胸のとなりで、涼子はめいっぱい腕を伸ばす。
時には、涼子がなな瀬の上を一気に飛び越していく。負けじとなな瀬は、くるりと体を反転させて涼子のおなかの下を背泳ぎで滑り抜ける。
顔を見合わせて、笑いを交わす。
息も出来ない。周りも見えない。何を目指していたのかも忘れている。
ただ、なな瀬と涼子、お互いだけがそこにいて、ひとつの体になって、泳ぎ続けているみたいだった。
ふたりでいれば、どこまでも、永遠に、加速していけるような気がした。
あやかしの少女たち ~夕闇短編集~ 扇智史 @ohgi_
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