「河童の腕は抜けやすい。」・2
なな瀬と別れ、涼子は、自分たちの住処へと向かう。「
元来、人魚は海のものであり、川に棲む妖ではない。「逆流れの川」に彼女らの居場所はないはずであったが、自然と、この淵に居を構えることができた。すべてのモノが、収まるべきところに自然と収まる。それが夕闇の理念であり、必然だ。
涼子は尾鰭をくねらせ、川の淵へと深く深く潜行していく。胸元のリボンが水の流れに翻る。
いつまでたっても河床へはたどり着かない。夕闇の街を囲む山脈を登るのと同じくらいの距離を、涼子は延々と沈んでいく。日差しの届かない川底は暗く、水は凍り付きそうに冷えて、かつて彼女らの棲んでいた深海の溝を思わせる。のしかかるような水の圧力と、しんと冷え切った暗闇が、涼子に懐かしさを感じさせる。
そうして、潜りに潜ったその先に、涼子の住処がある。
そこは、朽ち果てた村の痕跡だった。
人気のない、木造の家々が、水の底に静かにたたずんでいる。遠い昔に遺棄されて、見捨てられたはずの建物は、しかし、かつてと変わらない姿を見せている。板戸に立てかけられた鍬さえも、錆び付きもしないでそこに残されていた。
曲がりくねった村道。ぽつんと立ち尽くす三色の灯火には光がともったことはない。手作りの紙のリボンで装飾された白い建物は、学校というものらしい。
人間から忘れ去られ、闇に閉ざされた場所は、しばしば夕闇と接続する。
開発によって水の底に沈み、遺棄されたこの寒村も、そうした”接点”のひとつだ。もともと別の妖が勝手に住み着いていたのを、人魚たちが譲り受けたのだった。
ふと、涼子は寒気のようなものを感じて、その場に止まる。もとより、この水底は暖かみとはほど遠いが、今日はひときわ、肌に冷たさが刺さってくるようだった。
「あ、涼子」
仲間の人魚に声をかけられ、振り返る。
「ただいま、透子。なんだかずいぶん冷えない?」
「そうなの! ここにも罅ができたらしくって、そこから寒気が入り込んでるみたい」
「罅、って結界の?」
「そうそう」
水の上で、なな瀬と話したことを思い出す。
夕闇に張られた結界の向こう側には、雪の女王の領土がある。やむことのない吹雪と、永遠の凍土に囲まれた孤高の城に棲み、夕闇の霊たちを保存するという使命を自ら帯びているという。
漏れ出す冷気が、この川底までも冷やしているらしかった。
「あ、ほら」
透子が指さす先を、涼子も見やる。
水の中を、髪の先ほどちっぽけなきらきらしたものが流れていく。右に左に、あてどなくさまよいながら、いつしかふっと消えた。
今のは、と、首をかしげた涼子は、すぐにはっと気づく。
「雪なの、あれ?」
「雪って言っていいのか何だか。罅のせいで、水がいくぶんか凍って、それが流れ出てくるらしいのよね。きれいってだけで、今は支障はないようなのだけれど」
透子の言葉を聞きながら、涼子はしばらくの間、さっきのちいさな氷片が消えたあたりを見つめている。淵の底は水の流れが弱いから、真っ黒な水の塊はずっとその場に留まっているかに思える。
けれど、そうではない。
変化は、目に見えなくても確かに生じていて、否応なしに何かを揺り動かしていく。
「修整屋、直しに来てくれるかしら?」
涼子がつぶやくと、透子は遠い目になる。
「さあね。陸の輩がこんな水の底までかまってくれるかどうだか」
透子は自分の長い髪をくるくると指でもてあそぶ。彼女は前から、街の妖とはほとんど交渉がない。そういうことに、たいして興味を抱いていないようだ。
涼子のように、河童や何かと馴染んでいる人魚の方が、少数派だった。
透子は、どこか気のない声で、喋り続ける。
「次の”
彼女はどうやら、今の住処には執着がないようだった。たぶん、他の多くの人魚たちもそうだろう。
しょせん彼女たちは、海から来て、また遠くへ去っていく。ここはあくまで一時の仮住まいに過ぎない。いかに深く広い淵の底であっても、しょせんは川という範囲のこと。
海の水と深みこそが、人魚の居場所だ。
涼子の胸の内にも、その、塩辛いような、切ない感覚はずっと消えずに残っている。
ほんとうの居場所、故郷という言葉ですら足りない、安息の地。
彼女はずっと、それを欲している。
「ねえ、涼子。ちょっと見に行かない? 川底の氷なんて、すこし珍しいしさ」
「……そうね」
透子の誘いにぼんやりうなずき、涼子は水を蹴って泳ぎ出す。流れに沿って水を滑る自分の体は、やっぱりどこか、窮屈に感じられる。ずっと、上から下に流れる川の力を意識させられているような気がして、重苦しい。
ちらちらと、氷の粒が水中を漂っている。涼子たちの勢いにはねとばされて、氷の粒はくるくると漂い、そして消えていった。
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