あやかしの少女たち ~夕闇短編集~

扇智史

「河童の腕は抜けやすい。」・1

 現世の理をはずれたモノたちの棲まう世界、「夕闇」。

 ヒトならぬ妖と、理を超えたヒトとが、永遠とわの黄昏を過ごすくに

 変わることなき夕空の下、理外のモノたちの日々はゆるやかに、たゆとう。



 ずるっ、と。

 それはもう、見事にすっぽ抜けた。


 夕闇の街の真ん中を横切る「逆流さかながれの川」の下流域。茫々と生えるすすきに覆われた川原では、あたりに棲息する河童や川男かわおとこたちにとっての、恰好の土俵となっている。もちろん相撲に誘うのは河童の方で、普段はおとなしく水辺に座しているだけの川男どもは、河童の腕力に転がされてばかりだ。

 今日も、河童の瀬木塚せぎづかなな瀬は、対戦相手の川男が倒れているのを笑いながら眺めている。後ろで束ねたエメラルド色の髪が、笑い声に合わせて上下に揺れる。


 仰向けに倒れた川男の腕の中には、なな瀬の体からすっぽ抜けた両腕。両肩の付け根から細く伸びる筋のようなもので、2本の腕はぶらぶらとつながっている。


「やー、ごめんごめん」


 川男は、いくぶん不満げな目でなな瀬をにらんでいた。禁じ手だ、反則負けだ、とでも言いたそうな目つきだ。なな瀬の方は、いささかも悪びれた様子もなしに、微笑みながら首をかたむける。


「今のは勝ち負けなしでいいから、大目に見てよ。だからもうひと勝負、ね?」


「そのあたりにしておいたら? 厭がってるじゃない」


 勝負の一部始終を川の真ん中で見物していた恋ヶ窪こいがくぼ涼子りょうこは、あきれてつぶやく。ぱしゃん、と、尾鰭で水を蹴立てて、なな瀬のいる川辺まで泳いでいく。さほど広くない川を横断するのはあっという間だ。涼子たち人魚の一党がこの川の淵に棲んでしばらく経つが、未だにこの手狭さには少々慣れない。

 なな瀬は、両腕のないのを気にしていないそぶりで涼子のほうに歩み寄り、ちょこんとしゃがむ。真っ白で風通しの良さそうなノースリーブは、腕をなくしたなな瀬の姿にも変にしっくり馴染んでいる。

 芒のくさむらに埋もれた、なな瀬の素足の指の間に、うすい水掻きが見える。


「そんなら涼子が相撲してよ」

「駄目に決まってるでしょう」


 これ見よがしに、涼子は尾鰭を跳ね上げて、なな瀬に水をかけてやる。しぶきを避けもせず、なな瀬はニヤニヤ笑うだけ。


「陸に上がったらあたしに絶対かなわないもんねぇ」

「そっちこそ、水中で勝負するのが怖いんでしょう?」


 なな瀬はわずかに唇の隙間から白い歯をのぞかせ、食ってやるとでも言いたげな笑み。涼子もそれに応えて、あごをくいっと捻って挑発する。

 長いつきあいのふたりにとって、こんな諍いは戯れに等しい。こうしてしばしば喧嘩を売り買いしながら、結局、一度として涼子はなな瀬の土俵に立ったことはない。


 夕闇の川辺は、あまねく影に覆われているようで、間近に寄らなければ互いの面差しをしげしげと見つめる機会もない。

 なな瀬のうっすら濡れた瞳や、つやめいた唇や、きめ細やかな首元の肌も、これだけそばに近づくことでようやく鮮明に見えてくる。


 視線を交わし合うのは、幾度めだろうか。


 なな瀬は、身を躱すみたいに肩をすくめ、芒の葉を踏んで立ち上がる。


「腕、返してね~」


 倒れ込んでいた川男に歩み寄り、自分の腕を右肩に器用にさしこむ。とん、とん、と、体をかたむけて飛び跳ねる姿は、耳の中の水を除こうとしているみたいだった。

 肩をぐるぐると回して、左右の腕が本来の場所に収まったのを確かめると、なな瀬は一度大きく伸びをする。

 夕闇の、たそがれ色の空に向けてまっすぐ伸ばされた腕は、なめらかで、うっすらと湿っている。両手の指を、つぼみがはじけるみたいに開き、ゆらゆらと遊ばせる。


 その指先を浚っていこうとするかのように、冷たい風が、川面の上を吹いていく。


「寒っ」


 涼子はちいさく悲鳴を上げて、水に首まで浸かる。風の強くて肌寒い地上より、河水のなかのほうがあたたかい。

 なな瀬は指先を空のてっぺんに向けたまま、左右にちょこちょこと振っている。視線を動かして、まるで風向きを探っているようだ。


「近ごろ寒いんよね。やっぱり結界の罅のせいかな?」

「……かもしれないわね」


 夕闇の表と裏を隔てる結界に、今、罅割れが生じている。そのせいで、雪の女王の領土からこちら側に、わずかずつ吹雪が漏れ出ているらしい。修整屋の御陵みささぎが、新しい助手を連れて街中をうろちょろしている、という話は涼子の耳にも届いている。

 川面に髪をたゆたわせながら、涼子はなな瀬をじっと見つめる。


「すこし泳ぐ?」

「いいね!」


 一声あげるなり、なな瀬が草を蹴った。涼子めがけて空中を躍動する彼女に、一瞬、見とれる。ホットパンツから伸びる健やかに長い脚が、大きく無造作に開かれて、真っ白な弧を描く。


「ひゃっ!」


 涼子は我に返り、とっさに水に潜る。

 その後を追って、ざぶん、となな瀬の体が水に飛び込んできた。


 涼子は振り返る。長い髪を水に引っ張られるような重たい感覚。


「危ないでしょう!」


 抗議する涼子の声が、水の中を伝わる。人魚は口を開けても水を飲んだりしないし、彼女らの声は空気中の音とは違う方法で伝達される。風霊やヤマビコが音を伝えるように、水霊が水中の声を伝えてくれるらしい。そのへんは、海でも川でも同じようで、だから人魚が言葉を伝えるのに不自由したことはない。

 なな瀬は涼子の不満たらたらな表情を見て、愉快そうに笑った。


「そこは涼子が受け止めてよね~」

「あなたの体なんて受け止めたら、ぺしゃんこになっちゃうわ」

「そんなに重くないっての」

「そう言うなら証拠を見せてよ。重たくないなら、泳ぎも早いでしょう?」


 涼子は尾鰭を一振り、勢いよく上流めがけて泳ぎ出す。

 人魚の涼子にとって川はいまいち狭苦しいけれど、水の流れに逆らって進むのは心地いい。迫り来る水の勢いをいなし、重たい塊を乗り越え、あるいは潜る。水の中では自重を感じない。後ろに引っ張られる長い髪さえも、解放感の一助だ。

 黒い水の中には、無数の水霊と、諸々の小さな水のあやかしが群を成している。涼子に驚いて逃げ回るかれらの様子は微笑ましい。

 この瞬間、涼子は川の主だ。


「待ってよー」


 後方から、なな瀬の声がした。水をばた足で蹴りながら、涼子を追って泳いでくる。河童も水は得意なのだが、泳ぎの早さでは人魚にかなわない。結った髪がぱたぱたと、なな瀬の頭で上下している。

 水かきを張った両手を、涼子の方に伸ばしてくるけど、届かない。


「涼子、早いって!」

「髪、縛ってるからじゃない? お皿出したら?」

「やーだ!」


 ぷう、と唇をとがらせて、なな瀬はさらに必死になって涼子を追いかける。涼子はふたたび勢いよく下半身をうねらせて、一気になな瀬を突き放す。

 と思わせて、くるり、と水中で身を翻し、なな瀬の真上に躍り上がる。虚を突かれたなな瀬は勢いのままにしばらく進んでから反転。

 そのときにはもう、涼子はずっと下流にいる。


「とろいわね、なな瀬!」

「むかつくーっ!」


 そんな調子で、上になったり、下になったり、時には並んで泳いだり。

 なな瀬と涼子は、追いつ追われつ、戯れる。ほのあたたかい流れの中を、渦と笑いをともにして。


「ん」


 と、なな瀬がふいに動きを止め、水中でまっすぐに立つ。涼子も、彼女のかたわらで止まって、そろって下流の方に目をやる。


 街の遥か外、海まで続く「逆流れの川」の下流からのぼってくる、水霊の気配。群をなし、水の塊に逆らって進むそれらの圧力は、ずっと遠くからでも感じられる。水の中には、人魚たちの声とはまた違う、独特の響きがあるのだ。

 そして、水霊の”渡り”がやってくる。


 ”渡り”がつかのま、涼子となな瀬を覆い尽くす。

 水霊たちが、涼子の髪や、鰭や、腕を滑り抜けていく。

 笑ったり、はしゃいだり、時には慌てふためいたりしながら、水霊は、すさまじい勢いで上流へと突き進んでいく。それは彼女たちに危害を加えたりはしない。何かを求めているわけでも、恐れているわけでもない。それらは、人魚や河童などには関心がないのだ。

 ”渡り”はただ、衝動に誘われて、のぼっていくだけ。


「あんまり勢いないね」


 なな瀬が目を細める。ずっと「逆流れの川」に棲息し、数え切れないほどの”渡り”を見てきたなな瀬にとっては、それは通り雨のように当たり前の現象だ。


 ただ、涼子は、”渡り”のたびにすこし寂しいような気分になる。

 ”渡り”が通り過ぎた川は、つかのま、いつもよりずっと静かで重たい気配に覆われているように感じられる。しん、と、胸が痛くなるような。


「涼子?」


 無邪気になな瀬が、涼子の横顔をのぞき込んでくる。涼子は無言で首を振るだけだった。水に漂う髪が、ひどく重たかった。

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