Liner notes
11月26日。曇り。
昨晩から明け方に掛け、たおやかな細雨が降ったため、剥き出しになった更地の上にはいくつもの水溜りができている。
朝日は雲間を縫って薄く射し込み、世界をあえかな蜜柑色に染め上げている。ひんやりと澄んだ風はそよそよと吹いて、立ち並ぶ木々の梢をゆるやかに撫でる。
――霧幸かまちは、森のなかに居る。
森と言っても、ごく小さな森だ。農地や住宅地の開発から免れて残った、せいぜい100メートル四方にも満たない小さな森だ。それでも、その存在の意義は霧幸かまちや他の三人にとってあまりにも大き過ぎた。
そして、霧幸かまちはそれを壊した。そこに集った仲間の二人も。誰かが「みんなの森の館」と呼んだ大切な建物も。
霧幸かまちは今、その跡地を前にして佇んでいる。これからの旅に向けて、心をほんの少しでも整理しながら。
†††
たんぼさんからの手紙には、どこか似たもの同士だったぼくへの異性としての想いや、取り返しのつかない罪を犯してしまったぼくへの優しい言葉がたくさん詰め込まれていた。そして、そのなかでたんぼさんは、ぼくが如何に間抜けな勘違いをしていたのかも小気味よく指摘してくれた。
――あのね、かまち。やっぱりあなたってバカね。ほんとバカよ。どうせ、かまちは未だに音楽だけが壊せないものだと思っているんでしょ? 悪魔の誘惑だの、魂を売っただのって? でも、あなたって、本やゲーム・ソフトは壊したことがあるの? どうせないんでしょ? なのに私が貸したゲームだって「たんぼさんから借りた物を壊してしまうのは嫌なんだ」とかなんとか言ってほとんどやってくれなかったし。バカよ、バカ。……まあ、あれはやらないための口実でもあったのでしょうけれど……ちょっと、私もエロゲばかり貸しすぎたかしら、と思っているのよ……まあ、だからエロゲ放置プレイのことはもういいわ……ともかく、あなたがもし、自分の罪を音楽に押しつけるなら、それは大きなお門違いよ。それは悪魔の誘惑でもなんでもなくて、あなたがあなたであるために自分自身で選んだ十字架なのよ。だからお願い、音楽をとめないでね。私は、あなたといっしょに音楽を聴くのが大好きだったわ。それに、あなたの歌う歌も大好きだったの。それを、忘れないで。
ぼくはあっ気に取られた。なぜ、こんな簡単なことを勘違いしていたのだろうか、と。思わず笑いが込み上げたものだった。けれど、たんぼさんの冗談交じりの指摘や、そのあとに続く少し厳しい言葉に、ぼくはにわかに肩の憑き物が落ちるような心地がした。そして都合のいいことだけれど、今はそれでいいと想えた。きっと、たんぼさんや由梨ちゃん、それに鏡子の優しさが今もぼくを包んでくれているからだろう。ぼくはそんなきれいごとで、少しだけ前向きになってみることに対して武装を試みた。それは、あまり悪くない感触だった。
たんぼさんからの便箋には、なんとあの男、霧幸龍司――父からの手紙も同封されていた。
それによると、今考えれば当然のことなのかもしれないが、父もまた、ぼくとおなじ呪いに苦しめられていたみたいだった。ともかく、父はぼくに個人的な感情を一切持たないようにしながらも、強い使命感のままに息子を悪魔の呪いから解き放つための研究を続けていたようだ。そうして体調を崩し、余命幾ばくかになっても、なお最期までやり遂げてくれたのだろう。ぼくはそれを、遅すぎたのだとは思いたくない。父はほんとうによくやってくれた。今さら感謝してもしきれないくらいに。もちろん父のそれは到底愛とは呼べないような、無機質な道徳観念から生じた行動だったのかもしれない。けれど、ぼくはそのニセモノの愛を心底尊いものだと想う。それこそ、自分勝手で盲目な「天然」の愛なんかよりもずっと。
そして、ぼくが今こうして四人のつながりを大切に想っていられるのも、父の遺してくれたその冷たい愛があればこそなのだ。
ぼくは今ようやく、人間になれたのだ。たぶん。
あくまで脳内に埋められたチップによる、いかにもプログラムじみた模造品のニセモノだけれど。
でも、べつにそれでいいのだと、今は想える。
ふと、たんぼさんからの手紙の一節が頭を過ぎった。
――そういえば、かまち。あなたはいつだったか、人間は肉体というアナログな媒体に刻まれたデータ要素の集合――つまりはひとつの「レコード」に過ぎないと嘯いていたけれど、recordという言葉は「
「……そろそろ行こうか」
ぼくはひとり呟く。
そして風の中を振り返らずに、ぬかるんだ森を抜ける。
しばらく歩くと、みんなで何度も歩いた田んぼ道に差し掛かる。
当然だ。涙が、込み上げてくる。
けれど。ぼくはもう、その身勝手な涙を我慢しない。流れるままに、流してやる。きれいだとか汚いだとか、そういった価値判断をすること自体がすでにして倒錯だったのだ。流れよ、我が涙。ぼくはそれを、もうなんとも想わないからさ。
†††
「ね、ほんとうに止めなくてもいいの?」
「ええ。もう、退学届けも受理されているもの。それに……かまちには、かまちなりの償いが必要だから。それには……私がそばに居ちゃダメなのよ」
「そうなの、かしらね」
「ええ。わたしの都合で、それを邪魔するわけにいかないのよ」
「って、言ってもね。どうせあなたも、しばらくしたらまたべつの任務に移るのでしょ? わざわざふたり揃って出て行かなくても」
「ばかなのよ、かまちは。短絡的で、そのくせ自分は計算高い人間だと思い込んで……」
「あら? プライベートにおいては、あなたもじゃないの? 鏡子」
「――っ。そ……そうかしら?」
「あらあら、そんなに顔を赤らめちゃって。心あたりがいくらでもあるんでしょ?」
「……うん。わたし、自分が恥ずかしいわ。やっぱり、歪んでいるのかなって……」
「仕方ないじゃないの。でも、その勘違いの根底はあなたのせいじゃないのよ。それに、じゃあ、あなたは霧幸かまちのことを歪んでいるから醜いとかって思うかしら?」
「……思わないわね」
「でしょ?」
それからしばらく、吉野さつきと夜月鏡子の間にやわらかい沈黙が下りる。ちょうど、雨上がりの薄明の優しさのような。
「――ねえ、先生。わたし、先生が昔教えてくれた認知の歪みを直すための療法……もう一度真面目にやってみようかしら」
「そうね。それもいいかもしれないわね。――鏡子、なんだったら、先生といっしょに挑戦してみる?」
「え?」
「先生もね、あなたたちに教えたのは知識だけでしょ? あれはね、実践はとても難しいのよ。それだけ、私たちの心は、幼い頃の傷に深くがんじがらめになっているの。頭ではわかっていても、心では……て。けっきょく、そうなっちゃうのよね」
「……そう。やっぱり、難しいのね」
「けれどね、鏡子。あなたは、ようやくひとつ壁を壊せたようだし、これからゆっくり幸せになっていけばいいのよ。霧幸かまちと再会できるのも、きっとずいぶん先のことでしょうしね」
「そう、ね。みんなには……感謝しているの。ほんとうに。二人はわたしのせいで死んでしまったけれど。それでも……わたしにも『家族』ができた気がしたの。それがほんとうに……うれしかったの」
「……いいことよ。それは」
吉野さつきは、夜月鏡子を静かに抱きすくめる。夜月鏡子は恩師の胸元でボロボロと涙を零し始める。
「……ぅう……ぅ……わたし……おとといから……泣いてばかりだよぅ……」
「いいのよ。泣きなさい。こうして涙を流せるうちに。たくさん泣いておきなさい」
「……ぅんっ……ぅんっ――」
夜月鏡子は恩師の胸に顔を激しく押しつけて、小さな子どものように泣きじゃくった。
しばらくしてから、顔を上げた夜月鏡子に、吉野さつきはゆったりと声を掛ける。
「ねぇ、鏡子。そろそろ行かないと、追いつかなくなるんじゃない?」
「――え?」
夜月鏡子はきょとんと首を傾げてみせる。ほんとうに幼子のような仕草で。なんのことだか、まるでわからないという風に。
「ばかね。見送りよ。今後のことも、きちんと話してきなさい」
夜月鏡子は突然、弾かれたように吉野さつきの体から離れて言う。
「あ、ありがとう、先生! い、いますぐ! 行ってくる!!」
夜月鏡子は勢い良く駆け出す。少年のようにがむしゃらに。吉野さつきはその姿を穏やかな眼差しで見守る。いつのまにか陽は徐々に昇り、雲間を縫って射し込む薄日も仄かな暖かみを帯び始めていた。
†††
――駅のすぐ近くまで歩いてきた霧幸かまちは、夜月鏡子のことへ想いを巡らしていた。
鏡子が、初めてだった。ぼくの心を強く揺さぶった人間は。
それまでは、人間的な感情というもののほとんど一切がよく解らずに、物語や音楽を通して、こういう場合はこういう感情を抱くのが適当なのだろうと、いわゆる人として適切な情動というものを心の浅い部分に植えつけて行った。もちろん、そんなものは感情と呼べるかどうかも怪しい代物で、ほんとうに心を強く揺さぶられるようなことは一度たりともなかった。たとえば、学校のクラスメイトが亡くなったときでさえ。――もちろん、その生徒の名前すらぼくはすぐに忘れた。
それなのに、鏡子をあの鉄階段のふもとに見かけるようになってから、ぼくのなかでなにかが変わった。それはほんとうに、ゆるやかな変化だったのだけれど。
どうしてなんだ? どうしてこの子はこんなに辛そうなんだ? 次第にぼくは、それが気になってならなくなった。それは、ずっと人間性というものに憧れていたぼくにとってあまりに新鮮で、なによりも心地よい感触だった。
そして、やがて安直にも手を差し伸べた。もちろんそれは、あくまで自分の人間性を育てるためのゲームに過ぎなかった。幼いぼくは、鏡子を大切な存在にしてしまわずに済んだ。その時点でぼくはまだ、そこまで人間性というものを育てていなかった。つまり、幼い鏡子はあくまで、ぼくにとって単なるゲームのキャラクターか、あるいはせいぜい人間照明器具みたいなものに過ぎなかった。
それなのに、鏡子は――
「――またあなたは……バカなことを考えているのね」
夜月鏡子が、息を切らしながら霧幸かまちの背後から声を掛ける。
「――えっ?」
「見送りに来たのよ。そしたら、かまちがまたバカなことを考えていたから」
「……ごめん。またよけいなこと考えて」
「……それより、いい? これは、わたしのただの自惚れだと思って聴いて」
「う、うん?」
「それはきっとね。わたしがかまちにとって、初めての大切な存在だったからよ。これからってときに、そんなわたしが居なくなって……かまちはずっとわたしを恋しく想ってくれていたんじゃないの?」
「……ちょっと、違うね。安心してた。鏡子を殺さずに済んで」
「似たようなものよ」
「そうかな?」
「そうよ」
……ならば、そういうことにしておこう。それが欺瞞だと解っているのなら、そんなきれいごとを信じてみるのもいい。いや、信じて生きなければならないのだ。それが自分にとっての罰なのだから。霧幸かまちはそう想う。
「そう、それでいいのよ」
夜月鏡子は、労わるような眼で霧幸かまちを見つめる。
「……鏡子、ごめんね。ほんとは償いなんてさ、けっきょく由梨ちゃんが言っていたみたいに、この罪悪感を呑み込みながら鏡子とずっといっしょに居るのが一番なんだよ」
でも、ぼくには優しすぎるんだ。あれ以来ずっと流れてくる、鏡子のこの暖かさが。たぶん触れすぎれば、ぼくはあまりに早く自分を赦してしまう。それが怖くて堪らない。だってぼくは、そんなぼくを到底受け入れられないだろう。霧幸かまちはそう思ってしまう。
「いいの。無理しなくてもいいのよ。ゆっくり、自分を赦してあげて」
「……ありがと。――そういえば、鏡子はあれから由梨ちゃんの家に行った?」
「うん。手紙……もらったわよ」
「そっか」
「……うん。――ねえ、かまち。せめて10年よ。10年経ったら、連絡をちょうだい」
「……10年か」
「うん。10年よ。それとも、わたしをいつまでも待たせるつもり?」
「……あのさ。あと、半年だけもらってもいいかな? 誕生日を迎えるまで」
「……いいけど……ほんとばかね。その発想」
夜月鏡子は、呆れたように笑った。
――ロックをやっていると27で死ぬ。
そんな迷信を、霧幸かまちはわりと本気で信じている。だから、もしこれから始まる過酷なひとり旅を28歳になるまで生き延びることができたなら……今は手に余るこの幸せも、なんとか受け入れられるようになるはずだ。そう考えてのことだった。
「じゃあ、鏡子。そろそろ行くよ。ここでお別れにしよう」
「……そうね。名残惜しいけれど。――次会うときまで……死なないでね」
「……うん、鏡子こそね」
「うん……じゃあ、いってらっしゃい」
「うん。行ってくるよ」
霧幸かまちは駅の入り口へ向かって歩いて行った。振り向くことはせずに。背中に大きなリュックを背負って。右手に持ったギターとハードケースの重みだけを、ただただその身に噛み締めながら。
天使と悪魔の唄 社宗佑 @yashirosousuke
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