7 現在の地点から

「捨てたくても、捨てられないんだ……」

 柔らかい風が、大地と男の頬を撫でた。

 こうやって土手の斜面に寝転がっていると、自分という存在がなくなっていくような気がする。この大地に、メリメリと音を立てて、必要以上に重く感じる体が沈み込んでいくような気がするのだ。それでいて、沈み込んだ分だけ軽くなる。存在を失った分だけ、どこか宙にさえ浮く気がする。

 矛盾した、何とも言えない感じだった。

 どうしょうもない重力に押しつけられながら、その反動のように宙に浮くなんて……

「重くなって……重くなりすぎて、軽くなるか……」

 バカじゃないかと自分で思う。いったい、本当に自分はどうしてしまったのだろう。誰に言うともなく呟いた言葉の意味を、一呼吸置いた後にふと考えておかしくなってきた。

 バカなのだ……自分は。知っていることだ。それ以上にバカじゃないかと疑う自分もおかしい。バカじゃなければ、こんな人生を歩まずに済むだろうに……

 男は土手一面を覆い尽くす、短く刈られた草と同化したような気分にひたりながら、頬を撫でる風を心地よく感じた。春先の暖かい風。何度も何度もこの大地をなぞるように吹いていく。これで何度目だろうと、ただただ視界いっぱいに広がった空を見上げてふと思う。

 雲の流れも速かった。

「あの雲が、急速に今とは逆に流れれば、時間は戻るか?」

 戻ったところでどうだというんだ……

 男の中ではすぐに前述の台詞をうち消す言葉が起こる。

 大半は既に捨ててきた。これ以上に捨てられないという程に捨ててきたのだ。それでも、またこんな気分に陥る自分がいる。

 最後の最後に捨てる物とは何だろう。それさえ捨てれば楽になるだろうか。

 男の中で何度も起こる問い。それに対する答えも自分は持ち合わせている。

 男は傍らに脱いで置いたジャケットの内ポケットから小さな薬瓶を取り出した。空にかざしてしばらくそれを眺めていた。楽器のように振って音を鳴らす。瓶の中で白い錠剤が鳴っている。

 全ての人生を捨ててしまうには軽く、どこか楽しげなかわいらしい音だった。この音を、さよならを告げるベルの代わりにするのか……

 男は空にかざした薬瓶を引き寄せると、おもむろに蓋を開け、入っていたほとんど全ての白い錠剤を掌に乗せた。数粒が草の上にこぼれ落ちた。

 男は何の躊躇いもなく、一気にその錠剤を口に放り込む。しばらく口の中で錠剤の表面が溶けるのを待ち、甘い唾液を飲み込んで、残りはバリボリと音を立てて噛み砕いた。

「ああ……本当に、懐かしい味がするよ」

 全ての粒を噛み砕き、飲み込んで男は誰かの言葉に答えるように言った。

 やっと一つ所に留まろうという決意をして、これといったトラブルもなく一年が過ぎた。今の場所にそれほどの魅力がある訳ではない。新たに出会ったわずかな人達にも、それ程感心を持ってはいない。いや、持ちたくはない。その思いは強く男の中に存在する。

 でも、どういう訳か、男は既に自分自身の重みを感じはじめている。存在の重み。自分に関わる人々の重み……それらを重みと感じて、また重くなる自分。重みだと感じないようにしよう……人から与えられる重みなら、それを受け入れないように……でも、その全てがまた重みとして男の中に積み重なる。そして、以前に捨てたはずの重さをも、思い出す。

 存在することの重さが男を襲う。男が感じる重さの全て、生きることの重圧が男を襲う。

 しばらく、喉の奥で味わった懐かしい甘さの余韻に浸った。

 芝居の小道具だと言って渡されたものだった。薬瓶の中にはラムネの粒が入っていた。昨日の芝居で半分近く食べた。台本を一読しただけでは全く訳のわからない芝居だった。でも、二度目に読んだ時には、これは自分の中の言葉だという気になった。この台詞なら多少覚えきれない部分があっても、アドリブでのりきれるとさえ思った。

 それは、一人二役の芝居だった。舞台には、二人の人物がいるように見せかけてある。暗い照明に照らされ、一人の人物が等身大の人形であることは一見しただけでは観客に気づかれないようになっていた。一人の人物が台詞を語るごとに舞台は暗転し、そのわずかな間に、男は聞き手として置かれた人形と入れ替わる。そして、さっきまで語っていた人物を、また等身大の人形に置き換えるのだ。

 既にこの芝居を六回演じていた。

 本来、自分はこんなところで人前に立つことなんてあり得ないし、ましてや演技者には全く向いていない。ひょんなことから舞台に立つことになってしまったが、悪くはないかと男は思う。

 スポットライトを浴びると癖になるとよく言う。でも男の場合は違った。演じる事で、完全に自分ではなくなることがいいのだ。自分じゃないことが要求され、それが許される世界。まるで、ロボットのようだ。インプットされたことをする。ある種、公に嘘をつき、嘘が要求され、嘘でいて、本当なのだ。自分が消える感覚が男には快感で、救いに感じた。

 そして今、開放感に浸れる。でも、開放感に浸れる時間なんてわずかなもので、すぐにまた、自分の重みが戻ってくるのだ。

 それらは、自分の弱さだという……

 台本にあったやり取りの一部が思い出される。まるで、夢の残像のようだった。

 弱さだと自分でわかってるなら捨てろと、自分自身の弱さから言われた。その弱さが、いったい自分自身のどれぐらいを締めているのだろう。弱さや寂しさ……人が忌み嫌う感情の類。自分が陥りたくない精神状態……いらないから、捨てる。

「捨てられないから……悩むのさ」

 男は、空っぽになった薬瓶を眺める。ちっぽけなこの瓶の中が、自分の世界だという気がした。さして広くもないのに、持てあましているのだ。そして、身動きがとれないまま閉じこめられて、何か、自分には計り知れない者の手に握られている。

 男の中で終わらない空想が連続していく。

 こんな小さな薬瓶に閉じこめられた人生なら、生きていけるか……そう思う。

 ゼロになった。自分は、ゼロになったのだ。まだわずかに捨てられない部分を残しながらも、限りなくゼロに近い状態にあると思った。

「これは、最後まで持っていくよ」

 そう言って男は体を起こした。少し、ふっきれたような気がした。また新たに感じ始めていた重さの半分を、この大地が吸収してくれたような気がした。



【完】

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袋小路の扉 十笈ひび @hibi_toi

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