風呂場の黒

キンジョウ

黒いなにか

仕事から帰って、すぐにスーツを脱いで、シャワーを浴びに風呂場へ入った。今日の仕事の緊張やら責任やら人間関係のいざこざやら、苛立ちを混ぜてねって鍋で煮たような、そんなごちゃごちゃねっとりした気持ちの塊から、一日かけてじわじわと滲み出た黒いものが、僕の首、肩や腕の筋肉に入り込んで溜まっているように感じる。その黒いものが僕の頭を押さえつけ、体を重くして、気持ちをどんよりさせている。それを熱いシャワーを浴びて洗い流すんだ。シャワーの蛇口をひねり、頭の上から肩にかけて熱が流れていくのを感じ、同時にその熱で黒いものがどんどん溶けて、体から洗い流されていく。目をつむり、全身が優しい熱に包まれていくのをじっくりと感じる。熱いシャワーで全身にバリアが張られていく。ここは安心だ。「ああ」と一息、やっとの安堵が、腹の底から上がって口から漏れた。次にシャンプーを手に取ろうと、目をあけて手を伸ばす。すると、目の端に何か黒いものを感じだ。... あれ?風呂場に入ってきた時には、それはそこにあっただろうか?風呂場の隅に小さな黒い紐のような影があった。多少気にはなるけれども、シャンプーが先だ。どうせ何かのゴミだろ。僕はこの愉悦の時間を続けたいんだ。シャンプーを手に取り頭を洗い出す。今日の嫌なことが濯がれていく気がする。しかし、黒い不安がギュンと胸のあたりを突き刺す。あれ ... やっぱりおかしい。なぜあんな黒いものが風呂場にある?あれはなんだ?一度押し殺した疑問が再度その蓋を開けて、身体中に広がる。その何かが、こうして頭を洗うために目をつむっている間に、この狭い空間で、どんどん広がっているのではないか。すぐ隣にまで迫ってきているのではないか。急げ。急いで目を開けるんだ。シャンプーを雑に洗い落とし、薄眼を開ける。再び目の端で黒い何かを感じだ。それは先ほどの黒い何かだが、様子が違う。嫌な感じがする。「嘘だろ... なんか ... 少し大きくなってないか?」黒い紐に見えたその何かは、帯状のものへと変わっていた。先ほどからこの空間にあったそれは、何か異形のものだったのか。緊張が体を走る。シャワーの水が、風呂場の床をうるさく叩く。もっとよく見て正体を確かめないと。ゆっくりと、その黒いものへ、はっきりと、焦点を合わせた。これは ...









水で戻すタイプの"ワカメ"がそこにあった。


んんんンン!?

風呂場の隅にワカメがあった。一切れのワカメだ。乾燥して小さくなっていたそれは、風呂場の水気で元の大きさに戻りつつある。キッチンで水で戻すタイプのワカメを使うときに、落としたのか?それが気づかずに、何かの拍子にキッチンから風呂場にきてしまった?何があったかはわからない、しかし今ここに、ワカメがあるのは純然たる事実。「水で戻すタイプのワカメ in 風呂場」だよ!湯気やシャワーの水を吸って、元の大きさに近づいていくワカメ。水を得たワカメ。風呂場の水分で戻っていくワカメと、その横でシャワー浴びてる僕。くそシュールだな!ビビって損した!全国でワカメとシャワーを浴びてる人なんて僕以外にいるのか?いた方がもっとシュールだな!逆にいてほしいな!僕一人で体験するにはシュールすぎるだろ!


一人でワカメ相手にツッコムほかに道はなかった。


えー、でも参ったなー。ワカメだよなー食べるわけにもいかないしな。一応たべれるのかな。排水口に流すわけにもなー。

仕方ないなぁ ... 。僕はワカメと一緒にゆっくりシャワーを浴び、一緒に風呂場を出た。


疲れは吹き飛んだ。

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