第3話

 太郎はいつにも増して陰鬱な気分で学校へと向かう。

 雲一つない快晴に心地よい風が太郎の周囲に吹いてくれるものの、雑然とした感情が彼の中に渦巻いているのだった。

 理由は明白である。昨日の彼女の応対に対する結論が太郎の中では仕上がりつつあった。己に向けられてない好意と、雪子の行為。何となくだが察しは付いている。


 彼らの住居は近隣に建てられていた。なので事前に示し合わせていなくとも、登下校の際には出会うことがしばしばあった。

 そして、今日も偶然にも雪子と鉢合わせになる寸前だった。雪子が玄関を出る寸前に太郎は身をかがめ、間一髪彼女の目に入らぬよう三段跳びをし、曲がりに隠れた。太郎は吐息の音すらも危惧しながら、雪子を遠目で眺めた。


 どうにかやり過ごしただろう、と太郎は思った。

 が、雪子は当然勘づいている。


 雪子は明らかに太郎らしき人物が目を見開きながら、自分を見るなり曲がり角に隠れる姿を見たのだ。昨日今日の出来事を振り返って、思い当たる節は太郎以外にはいなかった。だが、雪子は太郎の珍妙な行動を追及する気は殊更なく、平静を装いながら学校へと向かった。


「危ない、危ない、ギリギリセーフだぁ」

 そうとも知らない馬鹿な太郎は、こっそりと雪子と距離を保ちながら駅へと向かった。

 これまで一度も雪子とは喋りにくいと露ほど思ったことはなかったが、今日の彼は違う。雪子は自分と今まで通りの関係を保ちたいのだろうと太郎は推測するが、そう甘く行くものではない。と、言うのが太郎の持論である。

 一度告白した身としては、今まで通りの対応を取れるはずがない。増してや雪子の心情を思うと尚更だった。

 見るからにストーカーと思われる行動を取りながら、太郎は雪子の後をついていった。


 その日は太郎にとって途方もなく疲れる一日だった。同じクラスに雪子は属しているため、常に同じ空間に居合わせることになるのだ。幸い授業中は席が一番後ろなので、監視する側につけるのだが体育や実技講習などになれば、限りなく近い間隔で近づくこともしばしばあった。その度に太郎は絶対に雪子とは目を合わせまいと努力し、彼女の視界から逃げかくれした。

 その様子を見て雪子は何を思うかと言えば、特に何も思うことはなかった。ただ、何かしているな、程度である。それよりも今日の放課後の約束に気をかけていた。

 だが、雪子が何も思わなくとも、周囲のクラスメイトには不審がる人もいる。馬鹿な太郎だから、と一蹴する者もいれば、面白がって話を聞くものもいる。

「どうして、太郎君はそんな事をしているの?」

 そう言って興味津々に話しかけてくる佐々木琴美のことが太郎は苦手だった。

「何もしてないよ」

「嘘だあ、見るからに太郎君、怪しい人だよ。どうしてそんなに雪子を避けているのかな」

「さ、避けてないよ」

 本当かなあ、と顔をぐいぐいと近づける琴美の掴めない行動が、太郎は嫌いなのだ。琴美は雪子と学校ではいつも共にしていて、雪子と接しているうちに太郎は彼女と知り合っていた。陸上部に所属しており、浅黒い肌が目立つ。髪も短く、大人しめの雪子とは正反対の人物だった。

「昨日、雪子に告白したんでしょう?」

「うげげっ! どうして知っているんだ!」

 太郎の驚いた顔に琴美も驚いたらしく、

「げげ、本当なのかい、太郎君。ちょっとした冗談のつもりだったんだけどねえ」

 太郎は絶望に打ちひしがれながら琴美に懇願する。

「だ、誰にも言わないでおくれよ」

「ふふふ、そんな事は分かっているよ。大丈夫、安心してちょうだいな」

 更に顔と身体を近づけてくる琴美から距離を太郎は取った。潔癖症の太郎からして距離間隔を詰められ、喋るものほど怖いものはない。

「でもその態度、断られたんでしょう?」

「そりゃそうーー」

 太郎は言い淀んだ。厳密に言えば断言はされてはなかった。しかし、断られているも同然なのは確かだった。それでも、太郎の自尊心、いや、もっと別の何かが太郎の謙遜心よりも上回り、彼自身も言い切ることはなかった。

「こ、琴美ちゃんには関係ないだろう!」

「まあそうだね」

琴美は値踏みするように太郎の全身を眺めた。

「ま、頑張ってくれたまえ。私は色々と応援しているからね」

 軽々と手を振って去っていく琴美を見ながら太郎は嘆息した。

 厄介事がまた増えてしまった。告白の件を琴美が周囲に吹聴しそうだからだ。

 雪子にも伝われば余計気まずくなるだろう。

 嫌な気持ちのまま太郎は学校を過ごすことになる。


 昼休みは雪子と琴美の目から逃れなければならなかったし、授業中も濛々とした感情が晴れることはなかった。

 本日、最も注意するべきことは帰り道である。雪子は部活動に所属しておらず、基本的に放課後になれば足早に校門を出ていく。が、今日は陸上部が休みで琴美と共に彼女は帰路に就くため、いつ頃帰るのか予測がつきにくかった。

 普段ならば警戒を雪子一人に絞れば済む話だが、琴美という変則的な存在が付属するのだ。彼女らが教室に喋って居残る場合も考え得るし、もしくは帰路の途中で飲食をする可能性だって捨てきれないのである。

 太郎は一番の安全策を考え、図書館に居座ることを決め込んだ。彼女らの性格からして図書館を訪れることは断じて有り得なく、そして校門の人の出入りが確認可能なのだ。監視可能な席を確保し、難解な本を片手に太郎は窓の外を眺めた。


 約一時間後に、雪子と琴美はやってきた。遠目ではあるが、雪子の可愛さを見れば彼女だと分かった。

 一応念を入れ、太郎はそれからまた一時間ほど時間を開けた。駅で電車を待っている彼女らと衝突すればここまでの苦労が無駄になる。帰宅準備に取り掛かり、太郎は慎重に学校から出ようとした。

 なるべく周囲を警戒していたはずだったが、太郎は声をかけられるまでその男の存在に気がつかなかった。


「ちょっとすまないが」

「ひぃあゃ」


 昨日、雪子と太郎を助けた氷坂だった。だが、気絶していた太郎は知る由もない。

「山田太郎君だろう? 昨日は大丈夫だったかね?」

「な、何のことでしょうか?」

「ああ、そう言えば君は、まあ元気にこうやって立っているのが大丈夫な証拠だろう。わしは今、たけしを探しているんだがね。知らないか?」

 太郎は氷坂の全身を隈なく眺めた。氷坂は太郎の学年以外を取り持つ体育教師だったために彼は氷坂の存在を完全に把握していなかった。全校集会で見たことはあるはずだったが、その際には真っ赤なジャージを着こみ、竹刀を片手には持っていなかった。

「わ、分かりません。たけし君なら今日はまだ会っていません」

「そうか。もし帰り道で出くわしたのならこっそりと学校に電話で教えてくれないかね。今日も当然ながら学校に来ていないようだが、朝、他校の柄の悪そうな生徒とつるんでいたらしくてな」

 太郎はその話を聞いて、動物園を抜け出したライオンを想起させられた。早く家に帰り、戸締りを直ちにせねばなるまい。

「わ、分かりました」


 その頃にはもう、空は暗くなり始めていた。夕焼けが雲に橙色の輪郭を作り、他を赤黒く染めていた。

 一層、警戒心を強めながら帰る最中だった。

 携帯が鳴った。

「ひっ」

 恐る恐る画面を見ると知らない電話番号だった。間違い電話だろうと無視を決め込むが、終わらないコール音に嫌々ながら太郎は応答する。

「ーーはい」

『もしもし、太郎君?』

 昼間話した佐々木琴美の声だ。だが、彼女の電話番号なら数少ないながらも登録していたはずだ。と、なれば見知らぬ携帯電話から連絡していることになる。更には普段の溌剌とした声色ではなく、少し怯えたような声だった。胸騒ぎが強まった。

「ど、どうしたんですか……?」

『それがね……。今、詳しくは言えないんだけど、ちょっと怖い人たちに絡まれてね。それで、私たち今、逃げたんだけど……捕まっちゃって」

 徐々に琴美の声が弱弱しくなっていく。

「……昨日、雪子が太郎君をあのたけし君から助けた恨みらしいんだって。太郎君が来たら助けてやるって、君の度胸を試すからだって。そうーー、今電話させられているの。雪子じゃ駄目だって。でも、来なくて大丈夫だから。太郎君は今すぐ先生たちに電話をーーきゃあっ……ーー」

 そこで電話は途切れた。琴美の擦れた叫び声が太郎の耳には残った。

 しかし、またすぐに携帯が揺れた。今度も同じ相手からだった。

「はい」

『教師や警察に言えば……彼女たちがどうなるか、考えたほうがいい。場所は駅へ向かう途中に小さな山があるだろう? そこに来い』

 くぐもった声だった。誰のものか分からないその言葉が終わると、今度こそ電話はかかってこなかった。

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