エピローグ

 山のふもとへ行く頃には、辺りは真っ暗だった。行く先々を街灯が照らしており、光を求める羽虫が旋回している。山に近づくにつれ、野草が増え続けるもののその頃には太郎は、差ほど気にしていなかった。第一に雪子のことが心配で、雑踏を駆け抜けていくことに気を滅入ることはなかった。

 走っていくうちに傷の痛みが再発し始め、汗がその真上を通り過ぎると染みて痛んだ。それでも、太郎は歯を食いしばり全速力で向かったのだ。


 山頂にまで登る必要はなかった。山の名前が明記されている看板のすぐそこに二人の姿があったからだった。砂利で地面は覆われていて、一人が倒れており、また一人がその倒れている人へと駆け寄っていた。

 その者は太郎を見るなり、愕然とした表情で、太郎君と言った。

 つまり、太郎を呼んだ者は琴美であり、仰向けに倒れて血まみれになっている少女は雪子に違いなかった。

 その様子を見て、太郎は一気に顔を青ざめた。山のふもとであっても街灯が散見され、明るかった。相応に雪子を囲む血だまりには、余計目がくらんでしまった。


「ゆ、雪子ちゃんッ」


 急いで雪子のもとへ太郎は駆け寄ると、そこにはぐったりとした雪子がほくそ笑んだくれた。いつもはもっと温かみのある笑顔を見せるというのに、今は全く生気が感じられない。太郎は気にせず、血だまりの中に膝をつけ、雪子の顔を覗き込んだ。

「雪子はね」

 そう言って涙ぐむ琴美だった。

「私を助けてくれたの。……怖い人たちから守ってくれたの。あの電話の後、私だけ逃げ切ることが出来た。でも、電話も持っていなくて山の中をずっと逃げて回った。暗くなって来てみたら、その人たちはいなくなっていた。でも、雪子がこんなにひどい有様になっていた……」

 顔を涙でくしゃくしゃしながら、経緯を語ってくれた琴美を横目に太郎は後悔した。長い間、無様にしてやられていたからだと、酷く己を非難した。

 太郎も随分と血にまみれてはいたが、雪子はそれ以上だった。制服をあちこち刻まれて、その個所ごとに血が付着していた。顔は土で薄汚れ、涙跡が残っていた。喋ろうとするが、声が出せないように思われた。

 それもそのはずだった。あちこち刻まれていた傷だけでは、こうはならない。

 腹部に包丁が刺されていたのだ。そこを中心に服に赤い染みが円心状に広がっていた。こんなものはドラマでしか、太郎は見た事なかった。

「救急車は呼んだのかッ! 琴美ちゃん、早く、警察にも知らせなきゃ!」

 琴美は頷いた。

「うん、太郎君が来る前に呼んだよ。多分、もうすぐ来るはず……」

 太郎は止まらない涙を抑えようと試みながら、必死に雪子へと謝罪を口にした。

「ごめん……! 雪子ちゃん。僕のせいで、こんな。昨日、僕を助けてくれて……、助けてくれたばかりに……。こんな酷い目に遭うのは僕だけでよかったのに……。仲間を呼ばれて、たくさんの人に乱暴にされて……、本当に僕のせいだ。本当にごめん、雪子ちゃん。僕がいくら謝ろうとどうしようもないだろうけど……、本当にごめん」

 雪子が重々しく口を開いた。いつもの雪子ちゃんじゃない、と太郎は思った。

「……太郎のせいじゃないわ。私が太郎を助けたくて、助けたんだから……。何も責任を負う事なんてないのよ……」

「いや、違う! 僕のせいだ。僕が全て悪いんだ。ちくしょう…………」

 太郎は泣きながら、うずくまった。

 己を何度も責めた。

「……昨日はごめんなさいね。あなたの本気の告白を変な条件で返してしまって。私は嬉しかったわ……。まさか、太郎に告白されると思っていなかったから……」

「え……、それはどういうこと……?」

 息を荒くする雪子を太郎は見つめた。

「照れ隠しのつもりで言ったんだけどね……。明日にでも嘘って言おうとしたんだけど。でも、太郎でももっと考えてくれるかと思った。迷ってくれるかと思ったわ。私の血と汗と涙、そして尿を……飲んでくれると言うと思っていたわ。ついでにそれをきっかけに太郎の潔癖場も治ればいいなと思っていた……」

 太郎は絶望の渦中にいた。雪子のことを全く分かっていない自分を恥じた。

 何度も太郎は首を横に振った。

 こんな中途半端に雪子と別れる前にーーいや、雪子はまだ死ぬはずない。

「ごめん……、ごめんよ。それはまだ雪子ちゃんを本当に好いていない証拠だったんだ。でも、今は心の底から雪子ちゃんを好きだと言える……! 雪子ちゃんの血と汗と波と尿、何でも飲んでやると言える……! だから死なないでくれ!」

 力ない声で太郎は言った。

「本当に?」

「本当さ。だからお願いだよーー」

「それじゃあ、お願いするわ……」

 すると、琴美の背後から雪子は得体の知れない何かを戦々恐々と取り出した。よく見るとそれは紙コップだと知る。中には薄茶色に混濁している液体が注がれていた。

「ど、どういうこと? 雪子ちゃん……?」

 太郎の顔が表現できない顔へと曇っていく。笑っているような、それでも泣いていて、怒ってはないのだろうけども、無表情に近しい表情。

「……私の血と汗と涙、そして尿よ。太郎、飲んでくれたら、私、生きられるかもしれないわ」

 太郎の脳内が混乱し始める。

「わ、分かったよ。雪子ちゃん」

 太郎は雪子から渡された紙コップを凝視する。赤褐色であり、外側には冷たさも暖かさも浸透していない。臭いは少し覚えがあるような気がした。

 そのまま進められるがままに太郎は呑み込んだ。目をつむりながら、味を堪能したつもりはなかったが、少し塩辛い気がした。気のせいだろうか、鉄の味も染みこんでいた。

 一気に飲み干し、太郎は雪子に視線を移した。

「飲んだよ、雪子ちゃん……。んんっ!」

 太郎は自分の目を疑った。

「雪子ちゃん、大丈夫なの……‼」

 そこには起き上がり、刃が半分欠けている包丁を片手に雪子が正座していた。

「ごめんなさい、太郎。私は実は……、全然大丈夫なの……」

「でも、さっきと違って泣いているじゃないか」

 太郎は生まれて初めて雪子が泣く姿に直面する。先ほども涙跡はあったが、直接見たわけではなかった。今となっては太郎以上に雪子は涙を流し、太郎以上に反省した面持ちでごめんなさい、と謝意を示した。

「ううん、違うの……」

「え、でも……」

「そうなのよ……」


 雪子がそこから口にした内容はこうだった。

「太郎、落ち着いて聞いて。まずそれは、ただの麦茶だから……」

 その言葉から彼女は語った。

 実は琴美と雪子が全て企んだ作戦だった。変な人たちに絡まれたというのも全てが虚構であり、雪子と琴美は何一つ怪我を負っていない。雪子の切り傷などは琴美の姉と、琴美本人が趣味の範疇で模したものだった。包丁も精巧につくられてはいるが、雪子に危害を加えるような代物ではない。

 雪子が告白を受け、本当は近いうちにこの策略は実行する予定だったが、琴美に話したところ急きょ予定が翌日になった。昨日も電話で相談を受け、雪子は明日の放課後、山のふもとに来てくれとしか言われなかった。携帯を新調したらしく、電話番号まで変えていた琴美の連絡に雪子は訝しんだが、確かに次の日確認してみれば彼女だった。そして、一体以前体どういう目論見が待ち伏せているか、雪子は今日一日太郎同様に心配していたわけである。


 予定通り太郎が、放課後やってくるかと思いきや思惑は難航した。太郎がいくら待っても来ないのだ。裏で本物の質の悪い人物に鉢合わせ、取っ組み合っているとは露ほどにも思いはしない。人目につかぬように山のふもとを指定し、警察や学校に通報されまいかと常に気を張っていたのだった。電話では琴美が迫真の演技をし、間抜けな太郎はまんまと騙されていた。

 しかし、まさか血まみれになりながら太郎がやってくるとは思いもしなかった。雪子は演技をしながらも、心底太郎がどうしてそうなったのか、訊きたかった次第である。

 けれど、元凶と言うと、悪く聞こえるが、根本を辿れば雪子の演技中に発した言葉に全ての答えが詰まっていると言えよう。

 照れ隠しで、そして太郎の潔癖症を看破するべく冗談で言った言葉が膨らみ引くに引けない状況に雪子は陥っていたのだ。雪子としては純粋に太郎の告白を嬉しがっていた。正直に最初から「はい」と受け答えれば済んだ話である。

 だから、このような暴挙に出てしまう不器用な少女は、不器用な太郎とこれまでずっと愛し合ってこれたのだろう。

「ごめんなさい、太郎……。こんなに怪我をさせてしまって」

「僕もごめんよう、雪子ちゃん……。今までずっと面倒な性格をしていて」

 お互い血だらけに(一方は血のりで、もう一方は本物だが)なりながらも抱き合って、高校生らしからぬ大声で泣いていた。琴美も横でしんみりとした情緒で二人を暖かい目で見守っていた。

 太郎の潔癖症は完治していた。



 その頃、雪子と琴美に名前を使われ、無残にも太郎に敗北したたけしは教師の氷坂に連行されていた。つい先ほど、気を失っていた彼は喧嘩を目撃した通行人により学校へと連絡が伝わっていたのだ。

 たけしの巨漢を抱えながら、氷坂は言った。

「たけし、お前はあそこでまた太郎君をいじめていたのか」

 頬にいくつもの傷をつくり、怖さに磨きがかかったたけしが答える。

「そうだったんだがな……、いつの間にか返り討ちにあって、気を失っていた」

「まあ、そうだろうな。お前の身体は大きくとも、見せかけだ。太郎君のほうが心持は何倍も強い」

「そうだな、俺の方が弱かった。俺はやっぱり情けない奴だ」

 暗がりの中、たけしは氷坂に支えられながら歩いていた。

「柔道をわしとやっていけば、心身ともにもっと強くなるさ」

 たけしは答えなかった。だが、答えは決まっている。

 太郎にやられたのは正直言って歯がゆいが、あそこで必死の抵抗を見せたことには少しだけ尊敬してしまった。これまでたけしは自分を虐げてきた奴らを真正面から、跳ね返したわけではない。身体つきが大きくなり、自然と彼らは離れていったのである。しかし、太郎は自分より強い者を倒したのだ。明白な力量差は確かにそこにある。

 今度、太郎に会ったら謝ろうと、たけしは思った。

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血と汗と涙、そして尿 @suzumetarou

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