第4話

 携帯を握っていた手を呆然と太郎は見つめた。これから自分は何をすればいいのか、決断を迫られていたのである。

 この様な場合、すぐにでも警察や学校へと連絡するのが最善策なのだろう。太郎が行っても被害が増えるだけなのは目に見えている。約束通り一人太郎が行っても、必ず彼らが彼女らに危害を加えない保証はない。だがしかし、責任は太郎自身に帰結する。雪子は太郎を想って、たけしの暴行から救ってくれたのだ。事の発端も太郎の注意不足からだ。

 しかも、太郎が行かなければ雪子がどう思うだろうか。彼女は太郎を軽蔑するだろうか。否、雪子は身体を張ってまでも太郎の安否を心配するはずだろう。先ほどの琴美の言葉は彼女自身の言葉であり、雪子の本音でもあったのだ。

 震える手を懸命に太郎は鎮めようとする。片方の手で押さえようとするが、押さえる手も共に揺れてしまう。肩まで震えだし、太郎は怖くなった。

 駅に向かう途中の山は知っている。元より、帰路が大通りから外れている中、更に路地裏へと逸れていく道だった。人通りが少なく、陰気な雰囲気が漂っている。小山とはいうものの、数百メートルは誇っている。しかも、電話の相手は詳細を語っていない。

 山頂となれば山を登らなければならないだろう。季節柄、汗をかくだろうし、昆虫だって多数ひしめき合っているだろう。

 太郎にとって最も避けたい事案だ。

 だが、雪子は己が恋した相手だ。

 それだけで理由は十分だった。

 走りながら無我夢中に考えた結論がそうなったのだ。最初から、雪子と琴美を助けようと走っていたわけではない。そう自分に言い聞かせながら太郎は、何度も踵を返しそうになろうとも、自分の頬を殴って戒めた。


 頭の中が真っ白になりながらも太郎は懸命に走った。


 そこで太郎の悪い癖である。太郎は物事に没頭すると周囲が見えなくなる。昨日も、そして以前もそのせいでたけしに激突し、厄介になった身分だ。その癖して性懲りもなく、いや、本人の意思ではどうもできないのだろう。

「いてーじゃねぇか」

 またしても目の前に立ち塞がるたけしに衝突してしまった。胸と腹の間をたけしは擦りながら、倒れた太郎を見下ろした。

「後ろから誰か来るなと思ったら案の定、またお前じゃないか」

 太郎は二つの意味で驚愕を露わにする。こんな時まで注意散漫な自分への衝撃、更には彼女らに危害を目論む張本人が眼前に平然と立ち尽くしているからである。

 意を決して太郎は立ち上がり、頭を下げた。

「お、お願いします! 雪子ちゃんと琴美ちゃんを助けてやってください! 僕に当たるならまだしも、彼女らに危害を加えるのはどうか、やめてください! お願いします」

 静寂が二人の間を通り過ぎた。

「ああん? そんな事より金を寄こせよ。そうしたら勘弁してやるからよ」

「それが、お金は一切持ち合わせてないんです……」

 実際、手元に持ち合わせていれば太郎は瞬く間に手渡したことだろう。だが、太郎は連日の金銭の巻き上げから、とうの昔に無一文の状態に陥っていた。

「ああ? お前また嘘つくのかよ。ああ、でも昨日本当に少ししか持っていなかったな」

 だとしても、それが事実であろうと、たけしが認めるはずもなかった。

「お願いします。お金はまた今度、用意しますから……その代わり、二人を助けて下さい!」

 たけしは舌打ちをし、

「さっきからグダグダうるさいな、お前。金持ってないなら……、そうだな。一方的に殴るのもつまらないしな……。どうしようか、そうだな……」

 太郎の顔にたけしはぐいっと近づける。

「俺に勝ったらお前のたわ言に付き合ってやるよ。そうしたら二人だろうと、何人だろうと助けて構わない」

「そ、それは…………」

 瞬時に無理だと太郎は悟った。この体格差に加え、何の武道にも励まない運動音痴な太郎が敵う筈がないのだ。

 たけしが両手拳を胸の前に突き出した。太い眉を吊り上がらせ、口元をほころばせる。無意識のうちに後退する太郎を一歩ずつ追い詰める。

 太郎は逃げない。だが、戦意も毛頭ない。雪子は大切だ。琴美も雪子の友人であり、かけがえのない存在である。


 太郎が迷っている間にたけしの拳が頬にめり込んでいた。突発的な衝撃に太郎はガードレールに叩きつけられる。当然、受け身も取らずにだった。

「頑張ってくれよ……」

 続けざまに太郎の下腹部に蹴りが数発見舞われる。たけしの脚部は太郎の腰回りに相当する。蹴られるたびに太郎の口から嗚咽が漏れ、涙が零れた。目元を赤く腫らし、考えることもままならない。

 太郎は地面に這いつくばり、逃げようと試みるがたけしに捕縛される。

「おい、ちゃんと抵抗してくれよ。よく分からんが、助けるんじゃないのか?」

 胸ぐらを掴まれ、路上に投げつけられる。両腕にいくつもの擦過傷を作り、血が垂れる。あちこちが痛んで、熱を帯びていた。太郎にとって耐えがたい苦痛だった。

 歯を食いしばりながら、殴られ続ける拳に耐えた。たけしは延々と憂さ晴らしのように、手を止めなかった。


 太郎の弱弱しい様にたけしは憤りを感じていたのだった。

 まるで昔の自分を見ているようでたけしは嫌になった。


 たけしも小学生時代は散々いじめられてきた。この醜悪な面に、今と違ってまだ体格が小柄だったころである。度々、物を隠され、仲間外れにされ、暴力を振るわれ、安息を得る日は一度もなかった。転ばされ汚されたランドセルをからい、泣きながら親の元へ帰った日々。両親はそのたけしを見て、同情し悲しむことは一度もなかった。両親は手厳しい人柄だった。

 やられたらやり返せ。たけしが生きてきた中で、その言葉は何度言われたことか。

 人には被虐体質というものがある。弱弱しい表情や、反抗しない性格から、他者から無条件に虐げられる人々のことを指す。というが、対になる加虐体質とやらもあるが、どちらも曖昧で不適格に人格を指す意味合いだろう。

 とにかく見た目上、おどおどしていたりしており、攻撃を加えた人は虐めたくなるのだという。


 今の太郎のように、見ているだけで腹が立ってくるのだ。

 たけしは太郎と昔の自分を被せている。


 たけしはその後、中学になると成長期に入り徐々に体格が大きくなっていく。それにならい、虐めていた奴らも離れていった。

 しかし、心に植え付けられたトラウマが今の彼を蝕んでいた。どんなに体格が大きくなろうと心の持ちようは今と昔、微塵たりとも変わりはしなかった。強面で屈強な体格であろうと、他者の視線が痛く、怖く感じる。

 もし、太郎程の華奢な体躯でも、凄んで真正面から立ち向かってこれば少しは怯んでしまうかもしれない。

 そこまでたけしは、他人との関りが怖かった。今もこうやって傍若無人に暴れているのが証拠である。

 今朝だって他校の見知らぬ集団に絡まれた。ここ最近、執拗に何かを誘ってくるのだ。喧嘩をするために、自分の力が必要だとこちらの都合をお構いなしに迫ってくる。そして、断れば彼らは数を増やし脅しにかかってくる算段なのだ。

 たけしは昔のように怖くなる。またしても、自分は虐められているかのように思えてくる。

 太郎への暴力は、そう、憂さ晴らしなのだろう。逃避なのだろう。今の自分が昔の自分に戻りそうで、怖くなってくるのだ。


「お前、見ているとイライラするんだよ……」


 泣きじゃくりながら、顔を真っ赤に腫らす太郎をたけしは見下ろす。髪はぼさぼさで、服も所々破けている。何度か人が横を通り過ぎるも、誰も太郎を助けようとはしなかった。

 夕日が沈みかけていた。暗闇が次第に空を支配し始めていた。

「お……、お願いします。二人を……助けてやってください……」

「さっきから言っている意味が分からねぇんだよ。とにかく、俺を倒せば見逃してやるって言っているだろうが」


 たけしの言葉に太郎は身震いする。このまま延々と自分は殴られ続けるのかと思うと怖くて仕方がない。身体中が汗と血で滲んでいて、とてもじゃないがむず痒く、そして痛かった。

 たけしを倒すなど不可能である。

 太郎は思案する。このままたけしの気が済むまで殴られ続けるか。それとも、謝り倒して許しを乞うか。

 絶対に有り得ないだろうが、たけしを倒し自ら助けに行くか。

 太郎には考える暇などなかった。たけしの拳がみぞおちに決まった。同時に血と汗と涙が身体中から滴り落ちた。声にならない声で嗚咽を漏らし、ごめんなさい、と太郎は言った。

「謝っても遅いんだよ。それより、ただ殴らせてくれるだけでいいんだから」

 殴られるたびに太郎のポケットにある携帯の擦れる音が聞こえた。壁に身を寄せており、何度も携帯が叩きつけられているのだ。

 そっと太郎は手を忍ばせ、壊れていないか確認する。たけしは殴る、蹴るに集中しており、太郎の些細な動作に気が向いていなかった。

 携帯は太郎の予想通り、画面がひび割れていた。ガラス片がポケットの底に散乱していて、触ると鋭利な痛みが襲った。

 太郎はそこで、あることを思いついた。無為に終わる可能性の方が高いかもしれないが、危機的状況を脱するには、脆弱な太郎には、武器を使うしかなかった。

 危険度も高かったが、今の太郎にはそこまで頭も回らなかった。


「す、すいません……!」


 太郎は声を振り絞った。これまでで一番大きな声だっただろう。

「なんだ?」

 太郎の改まった態度にたけしは殴っていた手を止めた。

「謝っても無駄だと分からないのか?」

「さっきから電話が鳴っていて……、それで一度連絡したいんです」

「駄目に決まっているだろうが。助けを呼ぶ気だろう」

「多分、母親だと思うんです。心配性でこのままだとずっと鳴らし続けると思うんです。だから、僕は携帯画面を一切触らないので、どうか携帯の画面を弄って、これ以上電話が鳴らないようメールしてくれませんか。遊んでいて少し遅れるとだけ」

 太郎の申し出にたけしは一瞬、怪訝な顔をするが、渋々と了承した。

「画面が割れているので、ちょっと近くで見ないと分からないかもです……」

 たけしは太郎の携帯を貰い、言う通りに液晶画面を目を凝らしながら眺めた。恐らく、相当割れ具合が酷いのだろう。たけしは画面を凝視しながら何度もスクロールしつつ、どう操作するべきか逡巡していた。

 たけしの顔に携帯の反射光が写り、メールの画面と思われた瞬間に太郎は行動に出た。

 勢いよく太郎は立ち上がり、掌を前面に押し出しながら携帯をたけしの顔面に叩きつけた。ガラス片がたけしの顔中に散らばり、二メートルもあるであろう巨体は無様に後頭部から後ろへと倒れ込んだ。

 非力な太郎のパンチといえども、ガラス片も付随すれば効果は絶大のようだ。

 血にまみれたたけしから、うめき声が少しの間聞こえた後、一切何も言わなくなった。この時、たけしは頭の打ちどころが悪く気を失っていたが、太郎が知るわけない。


 太郎の目的は、たけしの討伐ではない。隙を作り、一秒でも早く雪子と琴美を救出することが一番の目的だった。

 それからたけしは起き上がり、太郎を追随することはないのだが、太郎は持っている限りの力を振り絞り、携帯は放置したまま、全力で走っていたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る