第1話

 夕日が沈みかけていた。雲の切れ間から橙色の陽光が太郎の顔を照らしていた。一人虚しく太郎は帰路についている。

 雪子の言葉を何度も頭の中で繰り返し、太郎は弱音を吐き捨てた。


「絶対に汗や血や涙なんて飲めるわけないじゃないか。増してや尿だなんて、絶対に無理だ。それに雪子ちゃんがあんなことを言うなんておかしいよ……」


 噂に聞く限りでは、雪子が告白を断る様は常にはっきりしているそうだ。相手の身分、立場、関係なしに断言するという。全て断りの文句だけらしいが。

 それなのに、太郎に対しての発言は曖昧過ぎる。きっぱりと断るわけではなく、条件を持ち出し、それを乗り越えれば晴れて付き合えるという算段だ。

 ありていに言えば、遠回しに断っていると受け取るべきなのだろうが、潔く太郎は雪子のことは諦めきれない。ならば、それらの雪子から生成される四つの液体を飲めるかとなれば、太郎にとって耐えがたい苦行である。好きな人の排泄物であろうと、喉を通るわけがない。自分のものでも辛いのである。


 太郎は悩むとそれに没頭してしまい、周りが見えなくなる癖があった。そして、その度に苦渋を噛みしめることになるのだが、その癖は治らない。


「いってーな」


 その声がしてから、不意に太郎は後ろに倒れることになる。一瞬、何事かと反動に頭がついてはいけなったが、すぐさま状況を理解する。重い腰を上げようと、太郎が情けない面を上空に向けるとそこには、巨大な体躯を持った男が鎮座していた。

「またお前かよ」

 凄味を利かした眼光に、太く腫れた唇に、吊り上がった太眉を見ると物覚えの悪い太郎でも誰だか即座に判別可能である。先ほどの野太い声も彼の喉から発せられたものだった。

「ひいいいいい、ご、ごめんなさい!」

 嫌な記憶が彼の脳裏に去来し、咄嗟に謝罪の言葉を述べた。

 たった今、ぶつかった男の名は豪放磊落たけし。この風貌からは全くもって想像できないが同学年である。二人の身長差は大人と子供と言っても過言はなく、いじめ、いじめられの関係であった。

 つい先日も太郎は貴重な小遣いを巻き上げられた次第である。挙句にきっかけは「またお前かよ」と言われた通り、その際にも太郎が背後から衝突していたのだった。


「お、お願いします! 僕はもう、お金は持ち合わせていないんです」

「嘘つきやがれ! 全く持ってないわけじゃないだろうが!」

 たけしは眉根を寄せ、太郎に指示する。

「ほら、飛んでみやがれ! もし小銭の音が鳴ったら、ぶん殴るからな!」

「ひ、ひいい」

 太郎はそう言うだけで、たけしの要求を呑むことは出来なかった。しかし、眼前に突き上げられる拳に太郎は唇をへの字に曲げながら優しく上下に身体を動かした。

「もっと激しくジャンプしろよ」

「ぼ、僕筋肉がなくてそんなに高く飛べないんです」

「一発殴ったら痛みで高く飛べるかもしれないな」

 太郎は先ほどより強く上下に身体を突き動かす。

 すると金銭が擦れあっただろうと思われしき金属音が鳴り響く。

 たけしはにやりと笑い、太郎の頬を一発殴った。そして、音の発生源であるポケットを探り、五百円硬貨と十円数枚を奪い取った。

「か、返してください……! それは来月の小遣いの前借なんです。そ、それに今日は定期券を忘れて、そのお金がないと家に帰れないんです……」

「知ったことか! お前は先日に続けて俺の背中にぶつかってきやがったんだ。それの迷惑料だと思いやがれ! 今回が一回だけならまだしも今回は二回目だろう?」

「前回も取ったじゃないか……」

 小声で呟く太郎に、たけしは睨みつけた。

「何か文句でもあるのか」

「何でもないです……」

 すっかり腰の引けた太郎にはこれ以上の発言は許されなかった。

 たけしはふん、とはなで笑い踵を返す。

「今度もしっかりお金を用意しとけよ。今回はこれで勘弁してやる」

「で、でも……」

「何だ」

 たけしは動かしていた足を止め、顔だけを太郎へと振り向かす。

 生唾を呑み込み、太郎は声を絞り出した。

「今日の電車代だけはその、やっぱり許して欲しいんです」

 家まで歩いて帰るとなれば数時間かかるのは必至だった。だから普段の彼であれば引き下がる事案であろうとも、今日だけは食い下がったのだ。

「何円だ?」

「五百二十円……」

 その発言を聞き、たけしは自分の手のひらを覗いた。次の瞬間、激高の色で顔を膨れ上がらせたのは言うまでもない。

「お前に返せば十円しか残ろないだろうが」

「で、でも本当なんです……」

 定期券を忘れたことを太郎は悔いた。親から借りた五百円を失うのも酷く憂鬱に思うが、何よりもこれから汗水たらして数時間も徒歩で帰路に就くのが堪らなく嫌だった。

「そうか、お前はそんなに殴られたいのか」

 二メートルに及ぶ巨大な身体をずんずんと太郎に近づけ、たけしは草食動物を前にした肉食動物であった。太郎は縮こまり、この世に遺志を残そうと考えた。辞世の句を述べながら、目を瞑り、未練はたくさんあるなぁ、などと囁きながら死を覚悟した。

 振り下ろされた拳は確かに、太郎の顔面一直線に向かって飛んでいた。


「待ちなさい!」


 しかし、太郎の顔面は、紙一重で拳から放たれる衝撃からまぬがれる。太郎は殴られようが殴られまいが、気を失っていたのでどちらにせよ痛みはなかっただろうし、そして崩れるようにして倒れるのは必然だったわけだが、自分の行為を防がれたたけしはその声に気を留めた。


「ああん?」

「先生を連れてきたわ。それ以上暴行を続けるならやってみなさい」


 声のする方向には、声を絶する愛らしい少女と、そして苦手な対象である体育教師の氷坂が立っていた。氷坂はジャージ姿で手には竹刀を握っている。

 少女の名は言うまでもなく、周囲との関係を隔絶していた豪放磊落たけしの耳にさえも轟いている春風雪子であった。先ほど、太郎の帰る姿を見つけ、たけしから蛮行を働かされようとする様子から雪子は教員を呼びに行っていたのだ。

「たけし! 貴様、部活にも来んで何やっとるか!」

 氷坂を怒号を飛ばすただの白髪交じりの爺さんだと侮ってはならない。氷坂はたけしが所属している柔道部の顧問であり、恐ろしさは身に染みている。現に日中遊んでいて退部目前であるたけしを引き留めているのは彼の手腕のおかげであり、恐怖で部に留まらせていると言っても過言ではない。


 徹頭徹尾、憮然とした態度をひけらかしていたたけしと言えども、これには額に汗を流す。目下の獲物を存外なく扱うなんて事は、氷坂の目の届く範囲では許されないだろう。

 消沈して白目を引ん剝く太郎を横目にたけしは舌打ちをし、一目散に駆け出し姿をくらました。

「待たんか!」

 氷坂は追うわけでもなく、否、気概はあるのだが、部活動にはたけし以外にも抱えている部員は多数存在し、今日日も稽古をつけてやらなければならない。歯がゆく思いながらも、弱者を痛ぶる行為を未然に防げただけでもよしと彼の心の中では諒解したのだった。

「先生、ありがとうございます。後は私が彼を送っていきますので」

 氷坂と数度言葉を交わし、お別れの挨拶を言う。

「また今度たけしを見かけたら、わしに報告してくれ。近頃、あいつの嫌な噂ばかり聞くものだ。暴走族や、変なグループにまで属しているとまでもな。あいつは本気で柔道に取り組めば、それ相応の成績を残せるというのに」

「分かりました。それでは」


 そう言って、小柄な太郎を雪子は軽々と背中に乗せた。これは雪子が常人より力を兼ね備えているわけではなく、太郎の体重があまりにも軽かったからだ。

 肩には手提げかばんをかけつつ、雪子は太郎をおぶっていくのであった。

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