第2話
「ひいいいいいいいいいいい……いいいいいい」
目を覚まして間髪開けずに、太郎が叫んだのには理由が二つあった。
一つ目は、電車内にいつの間にか居たからである。加えて、二人席の座椅子に豪勢に寝転がって惰眠を貪っているものだから周囲の視線からくる圧力に押しつぶされそうで、そして誰の尻が幾度とまでに乗せられてきたか分からない公共の座椅子に全身を預けていたことから来る嫌悪感に内側から総毛立つ思いにさせられたからだった。
二つ目は自分の置かれている状況を呑み込めたかと思えば、眼前の対になっている座席に雪子が佇んでいたことが原因だった。有無も言わぬ表情に加え、雪子とのこれまでの過程を一切合切記憶してないことに畏怖を抱いたのだ。
もし彼女が太郎を救わなければ今頃たけしに塵ゴミにされていたであろう過去は、気を失っていた彼にはもちろん知る由もない。ただ雪子が太郎の目覚めた瞬間に同伴してなければ、彼の「ひいい」が一拍開け、再開され長続きすることはなかったのだが、どちらが彼にとって僥倖かと問われれば前者に違いなかった。
一旦、太郎が落ち着いたのを雪子は見て車内だからと注意喚起をし、それからここに至る経緯を彼に説明した。太郎は常時情けない面構えをしながら大人しく車内の隅っこで聞いていた。
「ありがとう、雪子ちゃん」
「感謝されるほどでもないわ。何より太郎が無事ならそれでいいもの」
「電車代も明日返すよ。今日はもう徒歩で帰宅しなければならないと思っていたよ」
「それもいつでも大丈夫よ。そんな事より、もっと大事なことがあるんじゃないかしら」
景色が移り変わる窓の外を眺めながら太郎は思いつめた。
「僕が今、つり革をハンカチ越しに握っていることかな」
「それもあるのだけれど」
雪子は嘆息する。
「私が言いたいのは告白についてよ。私が提示した条件を、血と汗と涙、そして尿を飲むつもりはないの?」
太郎は俯いたまま何も言わなかった。
「私の独り言だと思って聞いてて欲しいわ」
次に何を言われるのか、太郎は鼓動を早くさせながら口を何度も開閉させた。
「血液は人によって分量は変わるのだけれど、女性は体重の七パーセントほど含まれているの。血液の成分は約半分が血しょうで、またその半分が赤血球であり、ほんの少しだけ白血球や血小板が混じっているわ」
「そ、それが……?」
「基本的に血液は身体の中を循環するためにあるわ。細胞が必要とする栄養素や酸素を届け、不要になった養分や二酸化炭素を排出するためなど重要な役割を担っているの。そして涙は、人体に不必要な機能かもしれないけど、ストレス緩和や感情表現は大切だと考えられているわ。血も涙もない人と例えられる通り、涙の原材料ーーそれは御幣があるかもしれない、でも大半は血液の要素で、ただ赤血球、白血球、血小板などが含まれていないだけ。赤血球に血を赤く見せるヘモグロビンが含まれているから、それがない涙は透き通って見えるの」
太郎は諦めた。
「やっぱり誰もが透明な方が綺麗だと思うかもしれないわね。でも汗は違う。汚いイメージが定着されているわ。でもね、汗は九十九パーセントがただの水で飲食によって分量が大きく変わることはないの。尿の方にこそ多大な影響をもたらす。血液と涙と同様に、汗と尿は主成分に大差ないわ。どちらも血しょうが大半を占める。でも役割は温度調節と、老廃物を体内から吐き出すためなのだから、そう考えるとやっぱり尿の方が汚いと思うのは自然ね」
雪子は続ける。
「加えてどれもほとんど臭いはなかったりして。血液や涙はもちろん、汗は本来汗自体に臭いはなく、皮膚から排出され、皮膚に付着する細菌によって分解される際に伴うの。尿も健康な人は大して臭わず、それもトイレなどの隅で放置されたものが勝手に強烈な臭いを発しているだけなの」
どこか遠くを見ていた雪子の視線が太郎へと向いた。
「でもね、結局私が言いたいのはどれもこれも私に、そして誰にとっても欠かせない人間の機能だということ。努力をすることを血と汗と涙を流す、と表現するくらいだもの。人の努力にはそれらの三要素が通常より多く流れるのよ」
じゃあ尿は要らなくない? 太郎はその言葉を喉奥で堪えた。
「太郎はどう思う?」
「どう思うって、それは……」
「まあ、私の独り言だからね。いきなり聞いても意味わからないでしょうね」
雪子は軽く笑い、電車の窓の外を眺めた。太郎もつられて視線を動かした。
「太郎は私を好きじゃないの……?」
「え?」
呆然としていた太郎に雪子の言葉は上手く聞き取れなかった。ここでもし、返答していればこの先の未来は変わったかもしれないというのに。
「やっぱり何でもないわ、太郎。困らせてごめんなさいね」
「あ……、うん」
再び、太郎は外を眺めた。
いつもとほとんど変わらない景色だった。多数の団地が敷き詰められていて、時折民家が数件、顔を出す。違う箇所を挙げるとすれば、今日は帰りが遅くなったことにより、コンビニやスーパーの灯りが目立っていたことである。この地域には街灯が少なく、一段と輝きを放っている。
太郎は部活に属しておらず、帰宅は早い。物珍しく眺める太郎の横で雪子は、変わらない表情で電車の揺れに身を預けていた。きっと彼女にとって珍しさは微塵もないのだろう。
電車から見る景観は太郎が知らないだけで何一つ変わってないのだ。
春帆との関係も変わらずにいる。
告白したところで急激に変わるはずもなかった。
きっと雪子ちゃんはーー、太郎は思った。
この関係を壊したくないのだろう。
恋人への関係にも、他人への関係にも変えたくないのだろう。
今のまま友達として自分とは一緒にいたいんだろう。
太郎としても気まずくなるのは勘弁願いたかったが、どうしても太郎には腑に落ちなかった。
夕食を終え、シャワーを浴びた後、雪子は部屋のベットに寝転がった。携帯を片手に潔癖症に調べるつもりだったのだ。太郎の潔癖症はどこが発端になったのか、雪子は原因を探っていた。
潔癖症は、過度なストレスが原因と考えられていることが多い。本来の病名は強迫性障害、不潔脅迫と言う。
潔癖症の症状を端的に言い表すと言えば、綺麗好きではなくーー、同じことを繰り返すのを好む症状である。
もし、壁に汚れが付着していた場合、潔癖症でない常人であれど触りたくないと思う筈だ。太郎だって自分の部屋でジュースを零されたりしたら、世界の終わりを嘆くかのような表情になるに違いない。
汚れなどある程度落とせば、ほとんどの人々が満足するだろうが、彼の場合汚れが視認できなくなっても拭き続けるのだ。本来の壁より漂白されようとも、納得するまで手を動かし続けるのだ。部屋を綺麗に保っていようと延々と片づけをやめなかったりもする。
繰り返すのだ。自分の中に許しがたい、何かが、汚れが存在しているわけだ。もしくは、掃除を続けることによって没頭し、嫌なことから遠ざけられるからかもしれない。
きっと太郎の部屋も果てしなく清潔感に溢れるているだろう。雪子は一度も立ち入らせてもらえてないので、知る余地もない。
解決策として、徐々に抵抗を無くしていくことが考えられる。これまで触れなかった電車のつり革や、ドアノブを爪の先でも良いので直接触らせることから始め、ゆっくりと彼らの中にある形容しがたい嫌悪感を払拭していかなければならない。
別段、周囲に迷惑をかけるわけではないのだが、雪子としても気を遣ってしまう部分がある。徐々に克服とは言うけれど、太郎には高校卒業までには遅くても、雪子としては直して欲しいものだった。
突然、雪子の携帯が検索画面から電話の呼び出しに切り替わった。発信元は知らない電話番号であり、雪子は気味悪がって一度は躊躇うが、仕方なく出ることにした。
「ーーはい」
電話先の相手の言葉に雪子は、固唾をのんだ。
「明日?」
電話先の相手は春帆の問いに返事をした。
雪子は目を細めながら、
「放課後に……、そう、分かったわ」
そして、電話は切れた。
雪子にしては珍しく身震いした。
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