現世妖奇譚─頒つ巻─

昼行灯

冬、思案する

 今コンビニのあるあの場所は昔、蜜柑畑だった。日を受けて光る瑞々しい葉の ぱりっ とした感触や、夏の太陽の様な橙色の実がまばらに木に成っているのが好きだった。

 今可愛らしい煉瓦造りの家が建つあの場所は昔、空き地であった。放課後はいつもそこに集まって鬼ごっこや隠れんぼをして遊んでいた。五時の鐘と共に母が迎えに来て手を引かれて帰った。


 私は生まれてから今日までの十二年、ずっとこの町に住んでいる。その十二年の間に少しずつ変わっていくものがあり、その変化の速度は私が歩く速さよりもずっと遅い。だからこそ気がつけば無くなってしまっているものが沢山あって、振り返るともうそれがただの思い出に変わっている。蜜柑畑も空き地もあったことは覚えているが、それらが具体的にいつ無くなってしまったのかは覚えていない。気がつくと無くなっていた。私の知らぬ間に、蜜柑畑と空き地はただの思い出に変わっていた。

 気がつくのならばまだいい。中には変わってしまったこと、あるいは無くなってしまったことにすら気がつかないものもあるだろう。もしそのことに私も、他の人も、そのまた他の人も、誰も気がつかなかったとしたら、それが存在していたという証拠はどこへ行ってしまうのだろう。あったけれどなかったことにされてしまうのだろうか。


 神社へと続く長い階段の中腹に腰を下ろして町を見る。この町に起こる変化に、私はいくつ気が付けるだろうか。

 朝焼けに染まる町は、昨日の朝とは違う色だ。真冬の空、遅い朝日が昇り瓦屋根が白く光る。春の様に色取り取りの花の上を蝶が舞うことも、夏の様に鮮やかな緑の中を木霊する蝉時雨も、秋の様な赤や黄色に染まった木々の間から鳴く虫の声も無い。茶色が視界の大部分を占める景色、音は時折そばを通る車の走る音だけ。しかし、冬独特の澄んだ空気の中で見る朝日は他より一層綺麗に見える。

 頭上の木から朝露が滑り落ちて頬を伝い、その冷たさに思わず肩が跳ねる。街を見下ろす視線はそのままで顎まで伝った雫を拭うと、空気のある一点が動いた。歪む、と言ってもいいかもしれないが、歪むと形容するよりもそれは自然な動きだった。誰かが障子をそっと開けたような空気の動き。僅かな空気の動きをなんとか目に捉えようとする間も無く、 かろん という下駄の音と共に一人の大柄な男が目の前に現れた。


『一丁前に黄昏とるのか』

「出雲」


 三白眼の小さな黒目が此方を見下ろす。黒いカットソーに袴、肩にかけている羽織以外にこれといった防寒具もなく、見るからに寒そうだが、当の本人は冬の冷気などどこ吹く風と澄ましている。曰く「寒暖は感じん。付喪神だから」だそうだ。人を真似て格好を変えることも多いが、基本的にいつも彼の格好はカットソーに羽織を着て、袴を履いた珍妙な格好だった。


「黄昏てなんかないよ」

『当たり前だ、お前さんのようなお子様が黄昏ようなんざ百年早い』


 緊張の糸がすっかり切れてしまった。また再び思案する様な気にもなれず、スカートに着いた枯葉を適当に払って階段を降りる。見下ろしていた景色が徐々に近づき、階段を下りきった頃には町全体どころか目の前の家一軒すら視界に入りきらない。太陽もすっかり昇りきって、空は赤から青に変わっていた。

 大小様々な家の合間を縫って我が家を目指す。街は静かだ。誰の話し声も聞こえない。辺りに響くのはスニーカーがコンクリートを擦る音と、時折跳ねる水の音。小鳥のさえずり、下駄。夜とは違った静けさが辺りを包んで、日は昇っても始まり切らない一日が息を潜めて隠れている。今から朝ごはんらしい何処かの家から焼いた魚の匂いが漂ってきて、見えないがそこに息づく人の存在を感じる。そういえばまだ朝ごはんを食べていなかった。家に帰ったらご飯にしよう。パンよりご飯がいい。お味噌汁にだし巻き卵、匂いにつられて魚が食べたくなったけれど、出てくるのは昨日の晩御飯の残りの肉じゃがだろう。それもまたいい。

 朝ごはんのことを考えながら歩いていると、焼き魚の匂いの中に別の匂いが混じっていることに気がつき足を止めた。


「何の匂いだろう」


 右手には葉を落として裸になった街路樹の立ち並ぶ道路、その向こうに焼き魚の匂いを漂わせる瓦屋根の小さな一軒家。左手にはまだ誰もいない小さな公園、匂いは公園から漂ってきているようだ。公園はそれ程広くなく、ブランコ、小さな滑り台、鉄錆た鉄棒が大中小と並んでおり、中央には”楠公園”という愛称の由来である立派な楠が枝葉を広げている。香りの元はどうやらあそこらしい。


『樟脳の香りだな』

「しょーのー」

『昔の防虫剤の香りだよ』


 そういえば、お婆ちゃんの家で似たような香りを嗅いだことがあるような気がする。鼻を僅かに掠める程にしか感じない匂いを、もっと感じようと更に近づくと、枝の先にいた名もわからない鳥が二羽飛び立った。朝日の向こうに消える鳥を見送ると、風が吹き樟脳の匂いに包まれる。鼻の奥がつんとして思わず鼻を抑えると、今度は先程より弱い風が吹き、焼き魚の匂いを運んだ。途端にぐうとお腹が鳴り、自分がまだ朝ごはんを食べていなかったことを思い出す。


「帰ろう」


 僅かに樟脳の匂いを孕む冷たい微風が私の肩を押し、楠に見送られながら私は我が家へと帰った。まだ、私の一日は始まったばかりである。

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