5

 夢が覚めたようだった。まばたきのあいだに、由布実はひとりぽっちになっていた。両手に握っていたふたつの手は消え、しめった手のひらを風がなで去っていく。何が起こったのかわからない。辺りを見渡すと、ここは確かに祖母の庭で。向日葵は水仙はなく、五月の薔薇とハーブがゆれている。目の前には、二年前よりやや寂れた家。壁には蔦がしがみついている。それでもどこか小綺麗に見えるのは、時折誰かが手入れをしてくれているからだろう。窓硝子は曇っていない。

(おばあちゃんが死んでから二年経ってて。でも、家も庭も、誰かが手入れしてくれてる)

 近隣の親戚だろうか。一抹の安堵と同時に、由布実は自分がこの二年間何もしてこなかったことと、——この家が最早がらんどうであることを、認めた。目をそらしていた現実が、じわじわと由布実を侵食する。

「——っ、臼井由布実」

 低い声に不意に呼ばれ振り向くと、やや色のくすんだ白いガーデンテーブルの傍に、少年がひとり。歩み寄ってきた彼の身の丈は、由布実より頭一つ高い。

「ええと、どちらさまですか」

 いまだ放心ぎみの由布実に、少年は眉をひそめ。

有己ユウキ。臼井有己。あんたのいとこ。あんたの父親の兄の息子」

「はあ……」

 なにゆえ父と不仲な叔父の息子さんがここに。そもそも息子がいたことすら知らなかった。どれだけ仲が悪いのだあの兄弟は、と。どうでもいいことばかりに頭がもっていかれる。仲が悪いのに娘息子の名前が似てるってどうなんだ。——ユウミと、ユウキ。

「ここにいるってことは、あんた、さっきまでおれと会ってたんじゃないの」

 苦笑する少年には、彼の面影があった。

「……ユウくん?」

「そう」

「ちょっとまって頭が追いつかない。どういうこと?」

「あんたとあったのは二年前のおれ」

「いや、待って。よくわからないしたった二年で身長のびすぎ。顔もなんか違う」

「成長期でさ」

 由布実にとってついさっきの出来事が、彼には二年前のことだという。ユウが言っていた「引き込んだ」とはそのことだったのか、と合点しつつ理解しがたい。

「まあ、茶でも飲めば。あのときは淹れ損ねたし」

 ガーデンテーブルに並べられているのは、向日葵のマグカップがふたつ。それを満たす液体は、

「フレッシュハーブティー」

 そうだけど、と有己はなずき「座んなよ」と椅子をすすめる。二人腰掛け、マグカップを手渡され、受け取る。すっとした香り。淡いエメラルドグリーン。懐かしさに息を飲み、そっと口をつける。

「おいしい」

 香りに違わぬ、清涼感のある味。ほのかな甘さとほろりとした苦さ。記憶の味とは雲泥の差だ。

「すごい。五月のハーブってほんとにおいしいんだ」

「それはちがうんだよなあ」

 有己は深くため息をついて。

「藍子ばーちゃんの淹れ方がへたなんだよ。気づいてなかったんだ。料理もへたくそだったじゃん。毎回クッキーもケーキも焦げてるし」

 そんな、と絶句する由布実に有己は吹き出す。

「でも、好きだったよ。クッキーもケーキも。ハーブティーだけはほんと、勘弁って感じだったけど」

 無意識に避けていた祖母の話や記憶が、ふわりと、寂しさをふくんでよみがえり、ふたり、笑いあう。

 ぽつりぽつりと有己が語ってくれたことは。有己の家はここから徒歩五分のところにあること。二年前の家出は、祖母の家を手放すかもしれないと示唆した両親への反抗だったということ——なのに、現実に戻ると数時間と経っていなかったという顛末。そして両親を説得し、自分が家と庭を管理することで落ち着いて今に至るという結末だった。

「どうして私のこと知ってたの」

「葬儀の時見かけた。それに、おれ、毎日のように藍子ばーちゃんに会ってたから、ばーちゃんがなんにも言わなくてもあんたのことはいろいろ知ってた」

 そっか、と由布実はカップに視線を落として。

「ねえ、ユウくんにはアイがどう見えてた?」

「おれと同じくらいの歳の男子」

 ああ、と納得する。だから由布実の見ているアイの視線と、ユウの視線がかち合わなかったのだ。ユウはユウに見えるアイと目を合わせていた。

「アイは『かがみ』みたいなものだったんだね」

 そうかも、と有己はうなずく。

「アイは藍子ばーちゃんの反射で、おれやあんたの反射でもあったんだと、思う。正解はわかんないけど」

「アイは、もういないの?」

「あのときから、もうこの庭にはいないよ。いや、いるんだろうけど、かたちになれないんだと、思う」

 アイは由布実でもあり有己でもあった。けれどやはり、彼女の大半は祖母の意識であり記憶であったのだと思う、と落ち着いた口調で述べる少年に、

「……二年でユウくんはずいぶんしっかりしたんだね」

「あんたより大人かもな」

 生意気な物言いはまったく変わっていない。むう、と眉根を寄せた由布実に、有己はふと、

「そういえば、アイって名前つけたの、あんたなんだろ」

 幼い頃の由布実にとって、彼女はかみさまではなく友人であり相棒だった。だから名前が必要だった。

「そう、だよ。おばあちゃんの名前からとって、アイ」

 単純な名付けだ。けれども、これほど彼女に似つかわしい名前もない。有己も同じことを考えていたのだろう「ぴったりだよな」とつぶやいた。

「お茶、おかわりいる?」

「いる」

 差し出したカップに有己はハーブティーを注いで、

「夏はあんたがきてたから、ここにはこなかった。父さんが気にするし。だから、してよ、夏の話。この二年、夏の庭は見てたけど、ずっとそこが欠けてた」

 風が吹く。ハーブの香りが、ひりひりとした痛みを呼び覚ます。かなしい。さびしい。由布実にとってはまだ目覚めたばかりの感情。有己がこの二年間、抱えていた感情。ずいぶん待たせてしまったな、と思う。

 にぎりしめた拳をほどいてみると、手のひらに目には見えない光明があった。まだ、繋がっている。


「いいよ。そのかわりわたしにも色々きかせてね。——有己くん」


 そして、ここからつなげていく。

 由布実は一度目を伏せて、夏の記憶をたどった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ガーデンインユー 青嶺トウコ @kotokaze

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る